芳洲書院(東アジア交流ハウス)

雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)
 

 雨森芳洲 Blog↑
 
(1668年〜1755年)
 芳洲が生まれ、幼少のころ、勉学に励まれた生家跡を、古くは「芳洲書院」と呼んで、村人は慣れ親しんでいました。
 薄暗い土間のある草葺屋根の面影がありました。 屋敷を囲う土塁はもっと高くて、冬、雪が積もると、竹を火で炙ってスキー状にし、蚕の糸を紡ぐ四角い巻き取りをその上に固定して、芳洲書院の小高い土手からすべり降りて遊んだものでした。
 春には、田植後の深緑の山々が目に痛いほどでした。 天台宗の己高山鶏足寺の流れで、どの村にも「観音さま」が祀られ、ほのぼのとした長閑な景色が見られ、観音信仰の篤い村人の多い町でした。
 夏になると、付近の高時川では、赤いふんどし一丁で水遊びをしたものです。
 秋になると、稲の刈入れ時は家族そろって大きな籐の弁当を片手に、お手伝いに行ったものです。
 お寺での報恩講には、おじいちゃんやおばあちゃんにつられてお参りをし、みかん、そら豆や楳(ばい)の実を頬張りました。 そんな、のどかな田舎風景は何処へ行ってしまったんでしょう。

 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、1668年(寛文8年)5月17日に近江の国(滋賀県)、伊香郡雨森村(高月町雨森)に生まれました。
7歳にして詩を作りました。

 16の時に、父を失い、翌々年(18歳)に江戸に出て、木下順庵の門に入り儒学の勉強を始めました。
 順庵の門下からは、多くの逸材が世に出たが、芳洲は、白井白石室鳩巣祇園南海・榊原篁州とともに「木門の五先生」と呼ばれ、順庵は芳洲を「後進の領神」とよばれました。

 22歳の(元禄2年)4月、順庵の推挙により対馬藩主宗義真に儒官として仕えることとなりました。

 26歳の時、それまでの江戸勤めから、対馬に赴任することになり、禄二百石で府中馬場筋の屋敷に移住して、文教、政治経済、外交の面で貢献しました。
 この頃の対馬藩は、この外交の窓口として、友好関係の維持・貿易外交問題の折衝・接待などを幕府から任されていたため、優秀な儒官を必要としていた。
 早くから朝鮮語・中国語を勉強していた芳洲は25歳と29歳の2回長崎に出かけ、唐人屋敷の中国人から実際に中国語を習ったのです。

 31歳の時、7月19日に朝鮮往来に関する仕事で、頭役を補佐する朝鮮方佐役という役を命じられ、正式に外交官としての第一歩を踏み出しました。

 36歳と38歳の時、朝鮮語を学ぶため朝鮮に渡り釜山の「草梁倭館」という日本人が常駐した役所に滞在して22ヶ月間学び朝鮮語会話入門表といわれる「交隣須知」を著しています。
 正徳元年(1711)44歳の第八次通信使と享保(1719)52歳の第九次通信使来日のときの二回、対馬藩の真文役として江戸まで同行し、外交の責任を負う地位にあって苦労しながら職を勤めました。

 53歳の時、享保5年9月に、朝鮮佐役を辞任しています。
佐役辞任は認めたものの、対馬藩はいぜんとして芳洲の才能を必要としました。

 57歳の時には、藩主の奥向き一般を見る「御用人」に命じられました。

 62歳の享保14年には藩命により「草梁倭館」の「裁判」として1年半の間釜山に赴任しています。

 63歳の時、正徳元年(1711年)、朝鮮通信使(正式な信使)が日本をおとずれたときは、幕府と朝鮮の間にたってむずかしい問題をまとめあげ、その実力を発揮しました。
 芳洲は、朝鮮語をはじめ中国語にも通じていたので通訳なしで朝鮮語で意見交換ができたのです。

 71歳の時、享保4年(1719年)にも朝鮮通信使が来日し、このときの製述官(書記官)であった申維翰は、『海遊録』の中に、芳洲の優れた識見や学問の深さについてくわしく述べています。
 芳洲は、外交のことだけでなく、他の面でも力をつくしました。
 特に、学問と教育については、対馬にかつてない、さかんな時代を築き上げました。

 72歳の時には、長男顕之允(鵬海)を42歳で失い、その後は、孫のために教育に力を注ぎました。

 81歳の延亨5年に孫連が藩に出任したことから隠居しています。

芳洲は、1755年春、厳原日吉の別荘で88年間の生涯を閉じました。


参考  − 字誌 「ふるさと雨森」 − など

 当院では雨森芳洲先生の位牌をお預かりしています。
 一徳院芳洲誠清居士 霊位 」 宝暦五年正月六日歿


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