アマチュア無線 戻る
出会いのいきさつ
小学校の頃からものづくりがスキであったので
おもちゃは自分で作っていた。
例えば竹とんぼ、コマ、輪ゴム鉄砲、等、
本を見ながらの工作だった。
夏休みの工作の宿題はいつも
伊の一番に出来ていた記憶がある。
他の宿題はギリギリまでほったらかして
日記などはほとんど捏造の世界だった。
小学生の高学年になると模型に興味を持ち
電池で動く模型をよく作った。
中学に入り他小学校から入学してきた友人の
影響を受けUコンの飛行機作りに熱中していた。
夏休みはいつも学校のグランドでUコンで遊んでいた。(中学2年頃)
そのうちラジコンに興味を持ちはじめ
無線というい存在がたまらなく不思議で
無線に関する雑誌を読みあさった。
模型とラジオ、子供の科学、ラジオ技術、CQ誌、
毎月のお小遣いのほとんどは本代で消えていた。
正月のお年玉や親にねだって貯めたお金で
ワイヤレスマイクや0―V―1受信機の製作記事にある
部品表を写し取っては日本橋へ行った。
つい買いすぎて帰りの電車賃が足らなくなり
駅で見知らぬ人(特に優しそうな女性)に
声を掛け10円を恵んでもらった記憶が
今でもハッキリ覚えいる。
成績は落ちる一方であったからか
見るに見兼ねたか父親に大目玉くらった。
いままで大事にしていた趣味の雑誌類の本を
全て自分で焼いてしまえと言われ泣く泣く
その日の風呂の燃料にしたのが強く焼きついている。
アマチュア無線に興味を持ったのもこの頃で
日本橋のウィンドウに飾ってあった
9R59、TX88Aのラインにいつもあこがれていた。
中でもTRH−1と言う
3.5、7MhzのA1,A3、10wトランシーバが
飾ってあるウインドウにはいつも釘付け状態であった。
穴があくほど見ながら
これで世界中と交信ができるんだと
夢を膨らませていた。(昭和38年頃)
家の5球スーパーを改造して3.5Mhzが受信できるようにして
しばらくの間リスナーで明け暮れしていた。
近所にすでに開局していたOMさんの電波をいつも
受信して交信のしかた等を身につけ勉強させてもらった。
開局後もこのOMさんにはたいへんお世話になり
いろいろ教えてもらいました。
完成品を買う金が無かったので受信機は
トリオ9R59のキットと送信機は自作で開局した。
9R59は親から何かのご褒美だったが
なぜかあまり記憶にない。
たぶん成績がいつも水面下の潜水艦だったので
久しぶりに浮上したからだろうと思う。
高校に入っても無線のいじくりで
明け暮れする毎日だった。
学校初めての無線クラブを設立し
部員一人の時もあったが担当の教師がいつも
応援してくれていた。
普通校だったのであまり
無線に興味を持つ人がいなかった。
クラブのコールサインも取得し
一応の活動はしていた。
後半、大学受験のためしばらくの間
無線は休んでしまった。
それでも無線関係の雑誌だけは欠かさず読んでいた。
大学に入ると周りのほとんどの友人は
アマチュア無線の有資格者だった。
工学系の電気と通信関係の大学だから
それがごく普通だったのだろう。
しかも凄いやつがいて送信出力が
数KWの設備で運用しているやつが何人もいた。
中には免許が10wの資格しかないのに
平気で高出力の電波だしているやつもいた。
私の自作5w送信出力では
みじめで話がかみ合いそうになかった。
しかし彼等からの情報はたいへん面白く
興味深く聞き入っていた。
私の出力は彼等のドライバー段の
出力にも満たない状態だったからいつも
くやしい思いをしていた。
上級資格を目指したのはそれからだった。
上級資格の合格とともにアルバイトしながら
FT−DX100(これは私の初めてのメーカー製リグ)、
TS−511、FT−101B、FR−101、
FL−2100B、IC−710と
機器が序所に増えていったた。
大学時代もやはり無線で明け暮れしていた。
この頃からオーディオ関係にも興味を持ち
アンプはLUX38FDとスピーカーは
GoodmanのAXIOM80、
カートリッジはシュアーV15と言う組合せで
音楽を聴いていた。
友人が高校中退までし好きなオーディオショップに就職した、
その彼の影響を多いに受けていた。
私が就職し結婚するまで独身貴族していた頃、
スピーカーはアルテックバレンシア次に
自作BOXにJBLスピーカーユニットで
マルチアンプへと変わっていった。
もちろんアンプやカートリッジも
それに比例し頻繁に取替え引換していた。
アマチュア無線も忘れたわけでなく両方楽しんでいた。
アンテナをモータ式クランクアップタワーにしたのも
この頃だった。
(昭和49年頃)ボーナスや給料のほとんどが
これらにつぎ込んでいたが
今から思えばたいへん贅沢をさせて頂いていたもんだと改めて思う。
(今は亡き親に感謝感謝)