高田 蝶衣(たかたちょうい)

蝶衣・高田四十平は明治19年1月25日に兵庫県津名郡釜口村字里に高田貞四郎のニ
男として生まれた。釜口の属する津名郡東浦町(淡路市)は 現在 ”花と魚と夢のある
町"をキャッチフレーズとする豊かな自然に恵まれた温暖な土地である。蝶衣は自分の
生家についてこう語っている。−我の生家は東の軒すれすれに疎竹連なり、西の方は鍛
冶谷のたか藪目にせまりて、翠めでたく、其竹外に散在せる痩梅のさびしく咲くもなか
なかに趣きあれば....と。

明治40年の夏、蝶衣宅を訪れた子規門下の俳人・安田木母庵も、その訪問記の中で
「一段高い池の縁に出る。高低になった道が青田の中へうねって走る。棚田の向ふが山
になって、山の中腹にはまばらに建った家が十戸許も見える。一番高い城のようなのが
蝶衣君の宅だな、と思う」と 記している。

門前に立てば、野も山も海も一目で見渡される。

     海を出る日を見て下ろす青簾

     名月に瀬戸のなごろの高さかな

     門田植ゑて紀の水戸に水つづきけり

「由良や苫ケ島(友ケ島)は縁に寝転んでをっても見える]「由良を吹いて来る薫風を僕
が独り領するんだ」と自慢した家である。そして海に落ち込む山の斜面には、今日、カ
ーネーションやスイトピ−、金盞花など彩りあざやかな切花を栽培する温室が立ち並ん
でいる。生家の少し西、ほぼ同じ高さにある足利尊氏ゆかりの御太刀山妙勝寺の前庭
に、昭和55年5月、蝶衣の句

            海のある国うれしさよ初日の出

を刻んだ句碑が建てられた。
 
 



<蝶衣の俳句>

鵯鳴いて淋しき杉の木立かな 明治35年 立琴にはねを磨る白き蝶々かな 明治38年
初鶏や火を得し太古あらたふと 明治39年 風吹かば皆蝶になれ連翹花 明治39年
窓あけて見ゆるかぎりの春惜しむ 明治39年 咸陽の炎とび来て牡丹かな 明治40年
石を煮て雲つくらんか今年竹 明治40年 橿鳥や彼の早口の法師来る 明治40年
ひっくくりつっ立てば早案山子かな 明治40年 ある時は壁の中より秋の声 明治40年
花人を泊めて衣桁をつらねけり 明治41年 ころがりて居れば日暮る田螺かな 明治41年
皿にふるる手首の数珠や心太 明治41年 海鼠にも命あるこそ哀れなれ 明治41年
日盛りや走る草履に火のつかん 明治43年 鉄工の頬を焼く冬の爛火 大正 2年
玉筋魚のいり場寝ぬ燈や海朧 大正 5年 舟は帆をまいて艪押せり昼寝 大正 6年
秋立つや無風圏内の潮の色 大正 6年 伐る竹の真鉄撃つ如し霜雫 大正 6年
森どよむはやて氷雨をさそひけり 大正 8年 山神をすずしむ桜咲きにけり 大正 9年
雀の子早う帰りゃれ燈がともる 大正 9年 凍空や尾越しなやめる雲のさま 大正10年
寒行僧早め来つるよ夕しまき 大正11年 雛うつる夜の鏡を覆ひけり 大正12年
行者登りし足跡よりぞ雪解くる 大正13年 夕べ寂しや茅花茅花の明り持つ 大正13年
心澄みゆけば落葉の香もそぞろ 大正13年 夜半過ぎてな波折聞えず雪となり 大正14年
声出して見たり独居の秋のくれ 大正14年 持仏より人の煤けて冬山家 大正15年
山鴫の崖おりてくる寒日和 昭和 2年 月にうかるる我があわれさを省る 昭和 2年
まじなひに箕であふがれつうそき 昭和 2年 草中に石の眠れる冬日かな 昭和 2年
一足の足袋も破らず冬篭 昭和 3年 ためらへば此処に又暮る蝸牛 昭和 3年
だまり鵙来て夕冴えの梢揺る 昭和 5年
 
参考資料「俳人・高田 蝶衣」 小早川 健 著   翰林書房