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itsrg8888itsrg88888itsrg888888itsrg8888888 アバカス ポエム itsrg88888888itsrg888888888itsrg8888888888itsrg88888888888itsrg888888888888


    そろばん ~ このすばらしい永遠の道具   № 1  2013-8-6

〈計算法の発達〉

 原始のむかし、人類が社会生活を営み、文化が進むにつれて、ものをかぞえたり、

計算をしたりする必要と機会がしだいに多くなってきました。はじめは手や足の指など

を使っていたものと思われますが、それでは間に合わなくなり、いろいろな方法や

道具を作り、これらを使うようになったと想像されます。

 たとえば、小石や小枝を使ったり、木に傷をつけたり、縄に結び目をつけるなどして、

数をかぞえる用具にするようになったといわれています。小さい石は 「1」 を表わし、

大きい石は 「10」 を表わしていたものが、同じ大きさのもので、置く場所を

変えることで、「1」 となり 「10」 となるというように、考え方が進んできました。

 考えや道具のよし悪しはあったとしても、道具の開発については、世界中の、

どの民族もがやっていた事は確かなようです。

世界中で、もっとも古くから、高度な文化を持っていたといわれている 中国、インド、

エジプトなどにも、それぞれ計算の道具がありましたが、それよりも古い時代から高い

文化をもっていた “ メソポタミア ” には、資料や遺物により 「 砂そろばん、

粘土そろばん、線そろばん 」 などがあった事がわかっています。

 砂そろばんは、盆の少し広い平らな所に、こまかい砂を敷き、その上に数を表わす

記号を書いて計算したようです。

 また、粘土そろばんは、粘土に “ クサビ型 ” のくぼみをつけて数を表わしていた

ようです。これは、二者以上のものが、契約した事柄を粘土板にしるし、神殿に納め、

後日のために備えたりするもので、計算盤ではないようです。

 また、線そろばんは、紀元前から 19世紀ごろまでの約 3,000年ほどの間、もっとも

よく使われていたものらしいです。

 また、そのほかに、溝そろばん ( 別名ローマそろばん ) と言われるものが

ありました。手のひらに乗るほどの大きさの薄い銅板に、いくすじかの溝様の

切り込みを作り、ボタンのようなつまみをさしこみ、裏側で止めて抜けないように

したものです。これは五珠一個・一珠四個のそろばんで、その点現在の日本の

そろばんと変わりないといえるでしょう。

このそろばんで整数や少数を日本のそろばんと同じような方法で計算していたようです。

 ローマ博物館の説明書によりますと、 「 ~最初のアバカス ( そろばん ) は、

東方諸国で作られた。紀元前 6世紀末に、ピタゴラスによって製作されたと伝えられる。

バビロニアでは、縦に並んだ数をもつ “ アバカス ” が使用されていた事が

伝えられている。古代ローマ人は、ギリシャ人から “ アバカス ” を伝えられた~ 」

 この説明文は、ヨーロッパに残されている緒記録をまとめたものと思われます。

ここで紀元前6世紀末に、ピタゴラスの製作とありますが、

2,500年も昔のことになります。


次回予告  中国そろばん




    そろばん ~ このすばらしい永遠の道具   № 2  2013-10-15


〈中国そろばん・3世紀頃から中国ではそろばんが使われていた〉

 古代の中国そろばんの記録は、今のところありません。との事。

もっとも古いもので、3世紀頃の、『数術記遺』 (数学書)の中に出ています。

   〈 A 〉                   〈 B 〉 〈 中国そろばん 〉
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上図〈A〉は、文献から想像して、作ったものですが、

このそろばんは、木の板を上中下の三段に分け、中の段には、縦の溝をつけ、

この中に、五珠や一珠を入れて計算するものです。

図の中段の数は、60384 を表わしています。 ( 黒が五珠・白が一珠 )

 溝そろばんと中国古代そろばんは、あらゆる点でよくにています。

さきにできたものが他方へ伝えられた ( 東洋と西洋を結ぶ シルクロードを通って )

ものか、別々に生かされたものかは、今のところ諸説があって、さだかではありません。

 中国では初め 「 五珠一個・一珠四個 」だったものがいつのころからか、

上図〈B〉 「 五珠二個・一珠五個 」のそろばんになりました。

少なくとも、14世紀頃 ( 元の終わり )には珠の数が変わったようです。

 そして、揚子江流域を中心に産業が発達した、明の時代には、かなりの広い範囲

にわたって、そろばんが使われるようになりました。

この 「 五珠二個・一珠五個」 というのは、一珠が五個入れられると、五珠一個分

五珠二個入ると、十の位にあがるという事を、計算しながら確認する事ができます。


 スピード性よりも確実性を求めるのが、中国人の性格だったのかもしれません。


次回予告  日本へのそろばん伝来




    そろばん ~ このすばらしい永遠の道具   № 3  2013-12-3


〈日本へのそろばん伝来〉

 中国の五珠二つ、一珠五つの“スアンパン”(算盤)は日本へ伝来して、“そろばん”

と呼ばれるようになりました。ですから、“そろばん”は外来語ということになります。

“そろばん”と読む,あて字には、「十露盤」、「揃盤」など約20種類ほどあります。

いちばんなのは、中国と同じ“算盤”の字です。

 そろばんが、日本へ伝来した時代は明らかではありませんが、二つの時代が

考えられます。

 その一つは、京都嵯峨(さが)にある天竜寺建立において、元との貿易の為に、

天竜寺船という貿易船を仕立てて、さかんに元との間を往来した時期 (1338年

天竜寺建立) または、それから少し下がって、足利義満が新生の“明国”と修交を

成立させ(1401年)、日本から頻繁に貿易船を派遣させていた時期。

 もう一つは、商業活動も盛んになり、戦国大名が領内の農作物の収納、

戦略物資の調達などに計算の頻度が高まるなどの要因が生まれてきたこの時代に、

平戸や、堺を根拠として、商人が南方貿易を盛んにしていました。この機会に“明国”

から、“そろばん”が持ち帰られ、計算を必要とした分野に用いられたものとも

考えられています。


次回予告  日本へのそろばん伝来と、その後



   平成26年 新春 はじき初め大会 30回記念  特別号  2014-1-6


 大阪府珠算教育連合会 主催の、はじき初め大会が、“大阪天満宮”にて、

平成 26年 1月 3日 ( 金 ) 実施されました。

早くから、多くの親子連れの皆さんが、行列をつくるほどの賑わいを見せ、

1,000名を超す参加者の皆様が、境内に設置した長机で、

神主さんから、お祓いを受けた後、 “なが~い なが~い そろばん”を使って、

読上げ算を計算して、そろばんの上達・学問の向上 を願いました。

そして、天満宮のお守りや、記念品を手に、元気いっぱいの笑顔で、

帰って頂きました。




   天満宮の歴史

 学問の神様として名高い、大阪天満宮は、菅原道真公を祭神として、その

お祭りの天神祭は日本三大祭りの一つとして全国的にも有名です。

 大阪天満宮の創始(御鎮座)は、1,100年前の平安時代にさかのぼります。

菅原道真公は、延喜元年(901年)1月25日、政治の上で敵対していた

藤原時平の策略により、九州大宰府の大宰権師に左遷されることになりました。

菅原道真公は、摂津中島の大将軍社に参拝した後、大宰府へ向かいましが、

その2年後(903年2月25日)にわずか59歳で、その生涯をとじました。

 その約50年後、天歴3年(949年)のある夜、大将軍社の前に、突然

七本の松が生え、夜毎にその梢が金色の霊光を放ったそうです。

この不思議な出来事に、村上天皇は、これは菅原道真公に縁の奇端として、

同地に、勅命を以て鎮座されました。

 大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、大阪天満宮では、

現在も元旦の歳旦祭の前に大将軍社にて「払暁祭」という祭りを行い、


神事の中で「祖」という借地料納める習わしになっています。

 現在の御本殿は、天保14年(1843年)に再建されたものです。

江戸時代の記録に残るだけでも七度も火災に遭いました。中でも大阪市内を

焼き尽くした享保9年(1724年)と大塩平八郎の乱による天保8年(1837年)の

大火では全焼しましたが、その6年後に、大阪市内の氏子や崇拝者の手により

現在の御本殿が再建されました。






   【 はじき初め スナップ写真 】
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次回予告  日本へのそろばん伝来と、その後




    そろばん ~ このすばらしい永遠の道具   № 4  2014-2-16


〈日本へのそろばん伝来とねその後〉

 そろばんが日本へでんらいしたのは、室町初期から室町末期 (600~400年前)

頃だと思われます。そして、織田・豊臣の時代をへて徳川政権が確立し国内が

平定されて、城下町の成長、交通の発達、貨幣経済の発達によって商業が

盛んになってきますと、商人は勘定できることが第一の条件ですから、計算の

ためにそろばんは欠かせないものとなってきました。これについて井原西鶴は

「町人は算用こまかに」 「朝夕十露盤に油断する事なかれ」 と言っております。

武士もまた治水工事や検地、年貢などの計算をするために、やはりそろばんを

必要としました。

こうしてそろばんは江戸時代になって急速にひろまっていったのです。

 中国のそろばんは珠が丸みをおびていましたが、日本に伝わってから、

中国のまるみをおびた珠はだんだんと角ばった形に変わってきました。

また、江戸時代は五珠二個のそろばんが比較的多く使われたようですが、

しだいに五珠一個のものも作られるようになりました。

 明治になってからも、五珠二個のそろばんは初心者によいとか、乗除や

開平の計算には五珠が二個あった方が便利だとかという理由で用いた人も

ありましたが、明治15年頃からは五珠二個のそろばんを使う人は

少なくなってきました。

 また、江戸時代には、 “はり” に石斗升合 ( こくとしょうごう ) とか

貫百十匁 ( かんひゃくじゅうもんめ ) とかの文字が記されていましたが、

明治になってからは、これらの文字のかわりに四桁ごとに定位点を

つけたそろばんが出てきました。

 四桁ごとに定位点をつけたのは、一の位、万の位、億の位にあうように

したからです。

 明治の中頃を過ぎると、西洋との関係から、帳簿などには三桁ごとに

“コンマ” をつける習慣が出てきました。

 昭和10年頃には、再び四桁ごとに定位点をつけたそろばんが

でてきましたが、第二次世界大戦後は、またもとにもどって、三桁ごとに

定位点をつけた “ そろばん ” になりました。


次回予告  四珠そろばんの登場




    そろばん ~ このすばらしい永遠の道具   № 5  2014-4-8


〈四珠そろばんの登場〉

 一珠が四個のそろばん、これを“四珠そろばん”と言いますが、このそろばんは、

昭和10年に小学校の教科書が改訂になったとき “計算ハ 暗算、筆算、珠算ヲ

用フ” と改まり、この時にそろばんは、17桁、はり下の珠が四個、四桁区切りの

定位点のついた “そろばん” がよいと指示されました。

 この時代は、ほとんど五珠一個、一珠五個のそろばん (五珠そろばん) が

使われていましたから、四珠そろばんを買ってもらえなかった児童は、

五珠そろばんのいちばん下の珠を、ひもでくくって、動かないようにして学校で

そろばんを習いました。

 四珠そろばんを採用した理由は、数字は、 “0~9” まであり、

その数は、五珠一個、一珠四個あれば、表わすことができて、

記数法と一致する。 下の “一珠” は必要がない。 という事でした。



〈四珠そろばんのその後〉

 その後、四珠そろばんが小学生に使われ始めると、年がたつにつれて

四珠そろばんで習った者がふえてきますから、自然と “五珠そろばん”

を使用する人がへってきて、今では “五珠そろばん”を見る機会も少なくなり、

“五珠そろばん”は珍しいそろばんの部類に、はいるようになってしまいました。

 さて、このように “五珠そろばん” から “四珠そろばん”へと移り変わって

きたのですが、 

『そろばんに一珠が五個ついていると、2と3、1と4 のように“5”に対する補数関係

 3と7、4と6 のように “10”に対する補数関係が、はっきりあらわれるので

初心者にはわかりやすいし、また、かけ算や、わり算の時に都合の良い時もある

 (昔のわり算は “二・一天作の五” というようなわり算をするための特別な

九々割算を使いました) 

 と言う事で、なかなか、実現はむずかしかったそうです。』



次回予告  『二・一天作の五』 とは?




    そろばん ~ このすばらしい永遠の道具   № 6  2014-7-11


〈『二・一天作の五』 とは?〉

 1622年、に数学の本を出版した毛利重能 (もうりしげよし) は、京都で

“ 天下一割算指南 ” という看板をかけて、この時代に流行し始めた

“ そろばん ” の計算法を教えました。割算と、わざわざことわってあるのは、

たし算やかけ算に比べて、わり算は難しく、またその難しい わり算ができないと、

数学を学ぶことができなかったのです。

 そして、その難しい わり算を、するのに欠かせなかったのが、

下記表に示す、“割算の九々”であったのです。

   1  2  3  4  5  6  7  8  9
 1  1進の10  2進の20   3進の30   4進の40   5進の50   6進の60   7進の70   8進の80   9進の90 
 2  2・1天作の5  2進の10    4進の20     6進の30     8進の40   
 3  3・1 31  3・2 62  3進の10      6進の20      9進の30
 4  4・1 22  4・2天作の5  4・3 72  4進の10        8進の20  
 5  5・1 加 1  5・2 加 2  5・3 加 3 5・4 加 4  5進の10        
 6  6・1 下加 4  6・2 32  6・3天作の5  6・4 64  6・5 82  6進の10      
 7  7・1 下加 3  7・2 下加 6  7・3 42  7・4 55  7・5 71  7・6 84  7進の10    
 8  8・1 下加 2  8・2 下加 4  8・3 下加 6  8・4天作の5  8・5 62   8・6 74  8・7 86  8進の10  
 9  9・1 下加 1  9・2 下加 2  9・3 下加 3  9・4 下加 4  9・5 下加 5  9・16 下加 6  9・7 下加 7  9・8 下加 8  9進の10



次回予告  未定




 二月三日 もうすぐ、“節分” ですよね     7  2015-1-4


 では、節分とは? 

『季節を分ける』という事で、『季節の変わり目』


つまり、『春夏秋冬』と、どの季節にもある事になります。

では、どうして、『二月三日』なのでしょうか?

また、どうして、年に一度なのでしょうか?

一年の最初、『これから始まる、新しい一年が、不幸や災いが

ない年になりますように』、との願いを込めて、

一年に一度『節分』を、この時期、『立春の前日』に、

行うようになったようです。では、なぜ『豆まき』

なのでしょうか?

昔、京都に鬼が出て、皆を困らせていました。

その時に、神様からのお告げで、豆を鬼の目に投げて、

退治したというお話があります。

『鬼=魔』『魔()を滅()する』という言葉から、

その年が『無病息災』で、過ごせるようにと、

『豆』を撒くようになったようです。

また、『豆』は「煎った大豆」でなければなりません。

何故かというと、生の豆は、そこから芽がでてきます。

「魔」から目が出てくるという事で、

縁起が悪いとされています。

 『おには、そと』『ふくは、うち』

 不幸や災いは、こないで

 喜びや、しやわせ、は、きて

ということですが、

でも、かわいらしい“おに”を見ると、

そとは、さむいから、あったかい所に、

おいで、と言いたくなりますよね。


 次回予告 未定



三月三日は、『お雛祭り』女の子のいるご家庭なら、

パーティを開いたり、みんなでお祝いしたりするでしょうか。

男の子しかいない ご家庭でも、町でひな人形をみて

「これは何?」なんて子どもに聞かれたりすることも

あるかもしれません。


 ◎ ひな祭りの由来

ひな祭り=桃の節句の起源は、平安時代までさかのぼります。

昔の日本には五つの節句があったのです。

 人日(じんじつ)  ⇒ 1月7日「七草がゆ」

 上巳(じょうし)  ⇒ 3月3日「桃の節句」

 端午(たんご)   ⇒ 5月5日「端午の節句」

 七夕(たなばた)  ⇒ 7月7日「七夕祭り」

 重陽(ちょうよう) ⇒ 9月9日「菊の節句」

  (※「菊の節句」は現在はないようです)


この節句という行事が、貴族の間では季節の節目の

身の汚れを祓う(はらう)大切なものでした。

さて、日にちからみてもわかるように

上巳(じょうし)の節句が、現在の『ひな祭り』に

なっています。

平安時代、上巳の節句の日は薬草を摘んで、

その薬草で体のけがれを祓って、健康・厄除けを

願ったのです。そして、この節句の行事と宮中の

「紙の着せ替え人形」で遊ぶ「せいな遊び」と

融合 ! 自分の災厄を引き受けてくれたその紙人形を

川に流す「流し雛」へと発展するのです。

室町時代になると、この節句が3月3日に定着。

そして、紙の雛が豪華なおひな様を飾って

宮中で盛大にお祝いをするようになったのです。

それが宮中から、武家社会・裕福な家庭や名主の

家庭へと広がっていき、今のひな祭りの原型が

完成したとの事です。

 ~PC、雛祭の由来・豆知識 より引用


 次回予告 未定



新春 はじき初め大会

  日時 平成 29年 1月 3日 ( 火 )

  会場 大阪天満宮境内


 学問の神様として名高い大阪天満宮のご協力のもと

長~い『そろばん』を使って、平成 29年の新年を祝い

「新春はじき初めた大会」が、開かれました。

菅原道真公を祭神として、そのお祭りの“天神祭”

は日本三大祭りの一つとして全国的にも有名で

皆さんもよくご存じだと思います。

 当日は、天候にも恵まれ、絶好の日のもと

長机に三人の方が座られ、

学業成就と珠算検定・進学の合格祈願もあわせて

行ない、長~い『そろばん』を使って読上算にて

はじき初めをされました。

 はじかれた方々の、とってもいい表情が

印象的で、感銘でした。

  


 


 





 


 


 



 次回予告 未定



新春 はじき初め大会

  日時 平成 30年 1月 3日 ( 水 )

  会場 大阪天満宮境内


  大阪天満宮の由来

 白雉元年 ( 650年 ) 、孝徳天皇が長柄豊碕宮を

造営されたとき、皇城鎮護の神として、都の西北

にあたる当地に大将軍社を奉斎されました。

 当時のこの地は、都への道筋にあたるとともに、

近くまで大阪湾が深く入り込んだ水陸交通の

要衛だったのです。延喜元年 ( 901年 ) 菅原道真公は

大宰府へ向かう船待ちの間に、この大将軍社に参拝

されています。

 それから約半世紀後の天暦 3年 ( 949年 ) のある夜、

大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、

夜な夜な梢が光り輝いたと伝えられます。

これ以後、大将軍社は当宮の境内社となりました。

 平安末期には、文章博士藤原敦基・藤原敦光の兄弟が

当宮を訪れ、漢詩を詠んでいますが、これは当宮最古

の文献とされています。室町時代になると、天満宮は

連歌の神様として人びとの崇敬を集めました。

当宮の連歌会には、著名な連歌師の飯尾宗祗や

牡丹花肖柏、前内大臣の三条西実隆、幕府の

菅領細川政元などの諍諍たる公卿・武人が参加

しています。また当宮の社叢は、蹴鞠や狩の場としても

人びとの集うところとなりました。

 しかし、戦国の世を迎えると当宮は度々の戦火に

見舞われ、特に慶長 20年 ( 1615年 ) の大阪夏の陣に

際しては、吹田へ避難を余儀なくされました。

 寛永 21年 ( 1644年 ) に現在地に還御して以後は、

次第に大阪町人の信仰と遊興の中心地として発展し、

天神祭の盛況は日本三大祭の一つと賞される

ようになったのです。


 この学問の神様として名高い大阪天満宮の

ご協力のもと長~い『そろばん』を使って、

平成 30年の新年を祝い

「新春はじき初めた大会」が、開かれました。

当日は、朝 準備前に少し雨が降り

心配されましたが、なんとか天候も回復し、

無事、とどこおりなく、行事を終えることが、

出来ました。

 長机に座った三人の方は、宮司の方より、

学業成就と珠算検定・進学の合格祈願もあわせて

行なってもらい、長~い『そろばん』を使って

読上算にて、はじき初めをされました。

 毎回そうですが、はじかれた方々の、

とってもいい表情が印象的で、感銘でした。