五輪塔について


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五輪塔は日本独自の石塔として平安時代末期から今に伝わる石塔の横綱であります。

この石塔の形は、仏教で説く万物の構成要素である、地・水・火・風・空 の五大をかたどったもので、真言密教の中から生まれたものとされ、それは人間も死ねば森羅万象(宇宙に存在するすべてのもの)、大日如来と同じ、地・水・火・風・空 の五大に帰一されるべきものという考え方によるものと言われています。

それでは真言密教の考え方から生まれれたこの五輪塔は、誰によって考えられたものなのでしょうか?
それは真言宗の開祖「弘法大師空海」ではなく、空海から300年後に登場した真言宗の中興の祖といわれた覚鑁かくばん上人」であります。

覚鑁上人は高野山の最高位である金剛峰寺の座主にまでなったことが有りますが、元は「「高野聖こうやひじりだったことが覚鑁の思想と行動に決定的な影響を与えたと言われています。
また高野聖であったことを思想のバックボーンとして真言と浄土の同一性を唱え、五輪塔に死後の即身成仏の意味を込め、五輪塔が生まれる原理・理論となった五輪九字明秘密釈ごりんくじみょうひみつしゃくを作りました。その中の「五輪塔図」(下記の図)がこの塔の原型になったと言われています。また五輪塔とは密教の即身成仏を完成した姿で「三密」(身密・口密・意密)を実践している姿であります。

高野聖・・・下級僧で高野山に隠棲しながら念仏修行し、後に諸国を遊行し積極的に勧進を行った僧。


五輪九字明秘密釈の五輪塔図
真言宗と言えば浄土思想と関係ないと思いがちですが、そうではないようです。少なくとも覚鑁が一連の著述を書いたことで、真言念仏が集大成され、教義の表舞台に現れたということができます。これは開祖空海が強調しなかった部分で、それだけに覚鑁によって真言密教に新しい展開が開けたと言われています。この事が重要なのは、「日本人のお墓」の意味・考え方・建墓の仕方・供養など「五輪塔」というお墓を通じて高野聖たちが全国に広め、これがお墓の基準となったと考えられるからです。

現存する平安時代の在銘石造五輪塔としては、平泉中尊寺釈尊院墓地の仁安4年(1169年)の塔、豊後臼杵中尾の嘉応2年(1170年)と承安2年(1172年)の塔、磐城泉の五輪坊墓地の治承5年(1181年)の塔の4基が知られています。





五輪塔の図
五輪塔に刻む文字は、宗派によって違いますが、実際のところ一般的に、右の図のように下から「ア・バ・ラ・カ・キャ」の梵字が使用されています。

なぜ上から読まずに下からなのか?それは、大日如来を示す「ア」の梵字が入る地輪が主となる部分だからです。

また、下記のような四方梵字を入れる場合は少なく、ほとんどの場合「東の発心門」の梵字だけを正面に刻みます。

浄土宗・浄土真宗では南無阿弥陀佛、日蓮宗では南無妙法蓮華経と刻む場合もあります。

浄土真宗では供養等は建てないという考え方がありますが、五輪塔も一つのお墓の形と考えれば(五輪塔=供養塔という考え方は墓相家の思想です)別に建立しても問題無いと思われます。実際、親鸞聖人のお墓は五輪塔が建立されています。


五輪四方梵字の図
四方梵字は字のごとく、五輪塔の四方に梵字を刻みます。

正面から時計回りに「発心・修行・菩提・涅槃」と刻み、全ての面で祈祷します。そのため四方梵字を刻んだ五輪塔は周りに行道拝石を設けるのが、本来の形です。




五輪塔の歴史や思想など、この石塔は奥が深く少し難しいように思いますが、平安時代から日本人のお墓として現在に至るまで愛され続けているものであり 高野山に行けば無数の五輪塔が建立されています。現在は石の加工技術も進み、昔の手加工で造っていた時代から見ると、普通の角柱墓との価格差が無くなって います。現在主流は角柱墓ですが、歴史のある奥の深い五輪塔がもっと見直されても良いと思います。
< 下記の写真は供養塔としてではなく、普通の○○家の墓として建立した施工例です >
五輪塔の施工例