紫電改探訪記

平成18年10月某日
(愛媛県南宇和郡愛南町 紫電改展示館) 

日本海軍局地戦闘機、紫電21型(N1K2-J)――通称「紫電改」。
2.000馬力の「誉」発動機を装備し、自動空戦フラップに代表される斬新な設計をもって、大東亜戦争末期に少数生産されつつ、松山の海軍第343航空隊(343空)に集中配備されて数多の戦果を上げた名機。

ちばてつや氏の漫画『紫電改のタカ』や、三船敏郎主演の東宝映画『太平洋の翼』も、紫電改と343空の活躍を描いており、自分にとっても思い入れの深い作品です。

この紫電改を実際に見てみたい!――これは年少時代からの自分の夢でした。
日本の現存する紫電改は、愛媛県の南にある愛南町「紫電改展示館」に展示されている一機のみ。

当時仕事の関係で山口県に在住していた自分は、仲の良かった職場の後輩を誘って積年の夢を実現するべく、日帰りでこの企画を実行に移したのでした。


山口県柳井市〜愛媛県松山市を結ぶ定期便「オレンジフェリー」に揺られて、松山へ到着。

「紫電改展示館」のある愛南町は松山からは遥か遠く離れた南方に位置する為、車以外で行くのはほぼ不可能。
自家用車をフェリーに乗せて行く案もあったのですが、最終的に現地でレンタカーを借りることになり、「どうせ借りるなら、普段乗る機会の少ない車にしよう」ということで、オープンカーを借りることに。

で、これが松山のマツダレンタカーで借りた、マツダ・ロードスターNC。
10月の少し肌寒い時期ではありましたが、四国に渡ってみると、好天に恵まれた南国愛媛は暖かく、オープン走行には最適でした。

バックより。
2本出しマフラーが格好良いですね。

当時の自分の愛車はテンロクのホンダ・インテグラDB6)だったので、2リッターのこの新型ロードスターは軽量化された車体と相まってストレートでも十二分に速く感じられ、またFRの軽快なハンドリングは申し分なし。
3ナンバーだけど取り回しも良くて、乗っていて全く嫌味の無い、本当に扱い易くて気持ち良く運転できる車でした。

そして、初めて運転した2シーター車。
これは、例えばコーナーを曲がる時などは「自分=ドライバーを中心に車が旋回している」という感覚がダイレクトに伝わってきて、実に素晴らしかった。

これから数年の後、長年連れ立ったインテグラの老朽化が著しくなり、愛車を買い替えることとなりました。
自分には最初から2シーターという選択肢しかなく、フェアレディZ(Z33)とロードスターNCとで迷った末、このロードスターに決めたのですが、それは、この日の思い出に依るところが大きかったです。

車関係の話題はさておき・・・・。

長い道程を経て、遂に目的地に到着。
ようやく紫電改に会えるのか、と胸が高鳴ります。

ドーム型の記念館に足を踏み入れると、そこに紫電改の姿がありました。
いやはや、この時の感慨を何と表現して良いものか・・・。

発動機下に6人の搭乗員の写真が展示されています。
これは、この機体が大戦末期の昭和20年7月24日に、343空が呉軍港空襲を目論んだ米軍編隊に対し、豊後水道上空で行った迎戦戦の際に出した6機の未帰還機(いずれも搭乗員は戦死)のうちの1機であるからです。

6柱の搭乗員のうちの、誰の機体なのかは現在も不明ではありますが、この中には日中戦争〜ラバウル以来の歴戦搭乗員で「空の宮本武蔵」の異名をとった武藤金義少尉や、戦記作家・豊田穣氏の『蒼空の器』で知られる鴛淵孝大尉(豊田氏は鴛淵大尉と海兵同期)が含まれています。

重厚な「誉」発動機、そして両翼から突起しているのが4挺の20o機銃。
こうして見ると、紫電改は重武装の迎撃戦闘機なのだということが改めて実感できます。

『太平洋の翼』で三船敏郎が演じた343空司令・源田実大佐(映画では千田大佐となっていますが)は、戦後、航空自衛隊航空幕僚長を経て参議院議員となり、この紫電改の引き揚げにも助力されました。

着水時の衝撃の所為で、湾曲したプロペラが目を引きます。

343空は、よく大戦末期のドイツ空軍第44戦闘団(JV44)と対比されて語られることがあります。
JV44は、自身も100機以上の撃墜スコアを記録したアドルフ・ガーランド中将が、生き残りのエースパイロットを集めて編成し、新鋭のジェット戦闘機・Me262をもって連合軍を迎撃した精鋭部隊。
その中には、エーリッヒ・ハルトマンと並ぶ撃墜数300機超のゲルハルト・バルクホルンや戦後西ドイツ空軍の重職を歴任したヨハネス・シュタインホフを始め、錚々たる顔ぶれが揃っていました。

343空も、前述の鴛淵大尉や武藤少尉の他、『大空のサムライ』で世界的に有名となった坂井三郎少尉を始め、日中戦争以来の歴戦搭乗員である志賀淑雄少佐、『最後の撃墜王』菅野直大尉、名作戦記『六機の護衛戦闘機』で描かれた日本海軍第2位の撃墜数を誇る杉田庄一上飛曹など、さながら「撃墜王倶楽部」の如き様相を呈していました。

343空と紫電改の名を世に示したのは、松山上空で行われた「昭和20年3月19日の邀撃戦」でしょう。
この日、343空は54機の紫電改をもって、100機を超す米軍艦載機群を迎撃し、撃墜57機(対空砲火による戦果を含む)を報じます。343空の被撃墜は16機。

この空戦については紫電改を扱った戦記物では必ずと言って良い程取り上げられてきました。
敗色濃厚だった当時の戦況下においてこの戦果は異例であり、343空と源田司令は喝采を浴び、聯合艦隊司令長官からの感状が送られました。

もっとも、戦後になって、当時の米軍の戦闘詳報等と照合した結果、これは過大戦果であり、実際の損害は343空の方が多かった、という説もあります(この辺りの事情に関しては、ヘンリー境田・高木晃治共著『源田の剣 米軍が見た「紫電改」戦闘機隊』(ネコパブシッシング、2003年刊)に詳しい)。

その事を知った時には、今まで刷り込まれてきた常識が覆されたかのような衝撃を受けたものですが、冷静に考えてみると、圧倒的な彼我の戦力差の中では致し方の無い結果と言えるのかもしれません。

ただ、一方的な劣勢に追い込まれていた当時の戦況下にあって、343空と紫電改が他の部隊には成し得なかった戦果を上げ、日本海軍航空隊の最後の輝きを示したことはまぎれもない事実です。

一緒に展示されていた、海軍艦上攻撃機「天山」のプロペラ。
これも愛媛の海底から引き揚げられた物。
九七艦攻の後継機として期待された「天山」ですが、実戦配備された頃には肝心の空母機動部隊が壊滅状態に陥っており、残念ながら活躍の場を得る事は殆どありませんでした。

米国のスミソニアン博物館に実機が現存するらしいのですが、国内には唯一このプロペラが残るのみです。

「紫電改」を搭乗席斜め後方より写した1枚。
近くに寄って見ると、より一層その傷跡の生々しさが見て取れます。

帰りの時間の関係上、あまり長居もできないので、紫電改に対面するという積年の夢を実現できた喜びを噛み締め、同時に散華された搭乗員の冥福を祈りつつ、後ろ髪を引かれる思いで展示館を後にしました。
(・・・とは言うものの、何だかんだで結局松山へ戻る予定時刻が大幅に遅れ、レンタカーの延滞料金を請求されたというオチが付くのですが・・・・)。

 

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