関ヶ原古戦場紀行 〜岐阜県不破郡関ケ原町

平成24年5月4日

5月の大型連休を利用して、早朝出発・深夜帰宅の強行日程にて日帰りで関ヶ原へ行ってきました。


9月15日朝、次第に霧が薄くなりつつあった早朝の関ヶ原で、井伊直政・松平忠吉隊との先陣争いを制した東軍・福島正則隊と、西軍・宇喜多秀家隊との交戦により合戦の戦端が開かれたとされる、天満山の麓に位置する「開戦の地」。


早朝に車で出発し、名神高速の関ヶ原ICを下りるとそこは岐阜県不破郡関ケ原町。
人口約8.000人のこじんまりとした町という事で、実際そんな感じの印象を受けました。

この地は、大阪〜京都を結ぶ山崎と似た、砂時計のボトルネックのような交通の要衝であり、中山道〜北国街道・伊勢街道へ繋がる街道の結節点となっています。
現在でも名神高速・東海道新幹線・東海道本線が狭い山間を通っており(こういうところも山崎と同じですね)、特に冬場はよく一面雪景色となりますので、新幹線の車窓から眺められた方も多いのではないかと思います。

朝は何も摂らずに出発していたので、まずは吉野家なり松屋なりで朝定食を、と思ったのですが、その手の店は見当たりません。
なので、道路沿いの喫茶店兼食堂でモーニングを食べ、その先にある笹尾山の石田三成陣跡に向かいました。

笹尾山は、写真のような感じで竹矢来・馬防柵や旗差物が並べられ、当時の様子が再現されています。

寄せ手の視点から見た、笹尾山の遠景。

三成の本陣は山頂に置かれ、島左近・蒲生郷舎が前衛部隊の指揮を執りました(上の2枚の写真はその島・蒲生両部隊の陣地跡で、ちょうど両翼のように配置されています)。
合戦当日は、黒田長政や細川忠興を始めとする多くの東軍部隊がこの笹尾山を攻撃したのですが、全く進捗せず、逆に押し戻される事度々でした。

それもそもはずで、石田隊は高所を占めており、攻め手は地形的な制約によって低地の狭い正面からの前進を余儀なくされる訳ですから。
こうして実際に見てみるとその事実が良く分かりました。

ちょうどこれ位の距離が、当時の火縄銃の実質有効射程距離(100〜150m)のギリギリの所だと推定されます。
ここから前進しようとすると、高密度の銃撃を浴びる羽目となる訳ですね。

 

笹尾山の三成陣跡からは、このように合戦場の一大パノラマを見ることができ、壮観です。

こちらが、南宮山〜家康本陣方面。
正面やや左を通っているのは旧中山道ではなく、近年開通した関ヶ原バイパスです。

ちょうどこの正面の平野部に、黒田隊・細川隊を始めとする東軍諸隊が殺到したのでした。

一方、こちらが小早川秀秋隊が布陣した松尾山方面。

気がつくと、霧はすでに晴れている。
視界が、山麓までひろがっていた。あらゆる丘陵に旗と幟が群立し、野には甲冑・旗指物などの色彩がうずを巻いてうごいている。
戦勢は、有利であった。
天満山の山麓では、宇喜多隊が余裕をもって福島隊以下をあしらっているし、この石田隊の前面の敵は何度も撃退されている。
(しかし、南宮山も松尾山もまだうごかぬ)
いま山を駈けおりれば、味方の勝利はたれの目にも確実ではないか。
三成は絶叫したくなり、それらの陣にむかって何度めかの狼煙をあげさせた

――司馬遼太郎『関ヶ原』「人の和」より

目論見通りに東軍を高所からの巨大な鶴翼陣に誘い込み、実際に戦端が開かれると戦局は自軍優位に推移し、後は事前の取り決め通りに両翼を延伸させ、東軍を巨大な包囲網の中で殲滅するのみ。
しかし、南宮山の諸隊と小早川隊はいくら催促すれども動かず。
そして訪れる破局の刻――この高台より戦場を望んだ合戦当日の三成の心中には、いかなる想いが去来した事でしょう。

 

笹尾山から道路を渡って田畑の中の道を歩くと、西軍崩壊後の敵中突破退却で有名な島津隊の当主である島津義弘陣跡が残っています(左)。


そこからさらに10分程歩くと、朝鮮出兵の際に活躍し、またキリシタン大名としても有名な小西行長の陣跡があります(右)。

 

天満山にある宇喜多秀家の陣跡まではかなり距離がありそうだったので、いったん笹尾山へ戻り、車で田中の道を辿って向かう事に。

山林脇の狭い道に車を停め、案内板を頼りにこんな感じの山道を5分程掛けて歩きました。

こちらが備前中納言・宇喜多秀家の陣跡。

日和見や内応者が多かった西軍の中にあって、秀家とその部隊は終始高い戦意を持ち、合戦当日においても1万7千の宇喜多隊は西軍主力として活躍しました(関ヶ原合戦を扱ったボードゲームやコンピューターSLGをプレイすると、「宇喜多隊あっての西軍」だという事が嫌という程実感できます)。

しかしながら、場所が悪いのか、はたまた父親とは対照的な”擦れてないええとこのボンボン”的な秀家のキャラが少々地味なのか、ここには自分以外誰一人訪問者がおらず、終始シーンとした静寂に包まれていました。

こちらが秀家陣跡から臨む東軍方向。
山林が鬱蒼と繁っていて、見晴らしは非常に悪いです。

勿論、400年前と今とではまた違うのでしょうが、こういう場所では大部隊の展開自体が困難なように見えます。

 

その後は、町の中心部(町役場のすぐ向かい)にある歴史民俗資料館を見学した後、付近の東軍諸将の陣跡を見て回る事に。

こちらは民家の裏手にひっそりと置かれている本多忠勝陣跡。
名将として知られる忠勝ですが、合戦では東軍の軍監としての立場にあり、率いた兵数も約500程に過ぎませんでした(それでも島津隊などを相手にかなりの活躍を見せているのですが)。

忠勝の陣は前線の東軍諸将よりもかなり後方に位置しており、彼が正面の西軍主力と同時に、背後の南宮山にも目を配っていた事が伺えます。

(左) 上の本多隊と共に、「徳川家部隊」として参戦した、井伊直政・松平忠吉の陣跡。


(右) 近江出身で、合戦後三成を捕縛した事でも知られる、田中吉政の陣跡。

 

続いて、笹尾山と反対方向の高台に位置する岡山烽火場跡へ。
ここは東軍勝利の功労者である黒田長政と、関ヶ原近郊の領主であった竹中重門(竹中半兵衛重治の子息)が陣を構えた所です。
家康の桃配山を別にすると、東軍の中で高所に陣を構えたのはこの黒田・竹中両隊のみで、逆に言うとそれ以外の主要な高地は全て西軍が押さえていた訳ですね。

この黒田長政の陣も見晴らしが良いのですが、こんな感じで正面に松尾山が位置しています。
対小早川・対吉川工作を一手に引き受けた、父・黒田官兵衛孝高の血を引く策士・長政ですが、合戦当日は手筈通りに動かぬ松尾山の小早川勢をこの地より見て、その胸中は穏やかではなかった事でしょう。

「郷」
家康は、かたわらの使番をよんだ。山上郷右衛門である。
「甲州(黒田長政)の陣へ駈け、甲州を責めよ。あれほど甲斐が請けおうたにもかかわらず、金吾めはまだ山をくだらぬではないか」
「かしこまって候」
郷右衛門にも家康のいらだちが感染っていたのであろう、馬に飛び乗るなり、土塊を蹴って駈けだした(中略)。
「甲州々々、筑前中納言(秀秋)の裏切り、相違なきや」
と、敬語もつかわず、馬上のまま長政を目の下に見おろしていきなりわめいた。家康の焦燥がそのままに憑っている。
「なにを言う」
長政も自隊の敗勢や、秀秋への疑惑などで逆上せんばかりにいらだっているところだった。
「金吾が裏切るかどうか、おれもそのほう同様、知るよしもない。いまさらおれのほうに念を押しに来られてもどうにもならぬわ」
「それでは返答にならぬ」
と、山上郷右衛門は、身分の差はともあれ、使番の権威をもっていった。長政はいよいよ目を怒らせ、
「金吾がたとえ人質を捨ててわれをあざむき石田・宇喜多に方人するとも、なにをうろたえるほどのことがあろう。いましばらく待て。眼下の石田を突き崩したあと松尾山に駈けのぼって金吾めを討ち果たすにわけはなし。この期にいたってはこの甲斐守の分別は調略にはなし。槍先にのみあるわ」
とわめき散らした。
――司馬遼太郎『関ヶ原』「爪を噛む」より

司馬の『関ヶ原』における長政は、父官兵衛のような「帷幄の謀将」的な人物としてではなく、どちらかというと「機を見るに敏であるが、同時に血気盛んでもある若手武将」として描かれています。
この場面も、「見てきたような嘘を言う」司馬の講釈師的文才(←褒め言葉ですよ)が如何なく発揮された、緊迫感溢れる描写となっています。

 

東軍先鋒として活躍した、福島正則の陣跡。
正則については様々な評価がありますが、正直あまり人気のある武将のようには思えません。

「秀吉子飼いの武将でありながら、家康に都合良く利用されて図らずもその覇権確立の一番槍となり、豊臣家滅亡時には秀頼の救援要請を黙殺し、最終的には改易されて失意のうちに世を去った」
というのが一般的な彼のイメージなのかな、と思います。

時代の波に翻弄された悲運の武将、という見方もできるでしょうし、全ては自分の身から出た錆、自業自得だ、という解釈も可能でしょう。

しかしよく考えると、正則らの武断派と三成との対立というのは、特段何らかの政治的な背景がある訳ではなく、要は「朝鮮出兵の際の讒言」といったレベルの個人感情的なものなのですよね。
”ボタンの掛け違え”から発生して、双方の不信により雪だるまのように肥大していく人間の憎悪の情というのは真に恐ろしいものです。

(左) 福島正則陣跡より、愛車の記念撮影も兼ねて、西軍・宇喜多隊方向を臨んで撮った1枚。


(右) 関ヶ原は流石に「古戦場の町」ということで、写真のような案内板や無料駐車場が各旧跡ごとに設置されており、非常に助かりました(この福島正則陣跡も住宅地の中の入り組んだ場所にあり、案内板無しで辿り着く事は困難だったでしょう)。

 

(左) 家康が最初に陣を構えた桃配山の陣跡。
ちょうどこの背面に南宮山が位置しており、家康も気が気でなかったことでしょう。


(右) 桃配山より西軍主力の布陣した近江方面を望む。眼下を走るのが旧中山道(現・国道21号)です。
その少し東には、山内一豊の陣跡があります。
大河ドラマ化もされた司馬作品『功名が辻』の主人公(いや、主人公は妻の千代なのかな?)として知られていますね。

特段何の傑出した才能も持たなかったうだつの上がらぬ一人の武士が、聡明な妻の内助の功を得て最終的に一国一城の主になる、というなかなか日本人好みの話ではあります。
信長の馬揃えに際し、千代が貯めていた大金を一豊に渡して名馬を買わせるエピソードは、かつては修身教科書に掲載され、広く国民の間に知られていました。

合戦当日の一豊は、南宮山への備えとして配置されたまま、戦闘に参加する事はありませんでしたが、自身の居城であった掛川城を率先して家康に提供した功績が評価されて戦後に土佐一国を領有し、幕末まで存続する事となったのでした。


その後、笹尾山の三成陣跡から程近くにある、”ヘンテコ名所”として一部で有名な「関ヶ原ウォーランド」へ寄ってみる事に。
てっきり、うらさびれたアングラスポットだと思っていたのですが、行ってみてびっくり。駐車場には観光バスが並び、停める場所を探すのに苦労する位車で溢れかえっているではありませんか。

というのも、この「ウォーランド」は関ヶ原観光鰍フ経営する施設で、施設前は観光バスの停留所となっており、休憩所兼土産物店が軒先を構えているのですね。

例えて言うなら、下呂温泉バスツアーの一行が途中休憩でこの停留所に寄り、
「皆様これより1時間の休憩を取りますので、お土産をご覧いただくか、またご興味がお有りの方は向かいの「関ヶ原ウォーランド」をご覧いただきまして、ご自由にお寛ぎ下さいませ」
てな感じではないかと推測します。

800円の料金を払って、いざ入場。

 

こんな感じで、人形を使って合戦の様子が再現されています。 南宮山を再現した一角。
正面で腕を組んでいるのが吉川広家。
その右後ろが毛利秀元です(弁当は食べていませんでした)。

 

こちらは戦勝後、首実験をする徳川家康。置かれている首は大谷義継家臣・湯浅五助のもの。 その傍らには、後の「天下のご意見番」大久保彦左衛門が槍を手に侍立しています。この彦左衛門、関ヶ原合戦には家康本隊の槍奉行として参加しているのですね。
こういうところは意外と芸が細かいです。

 

徳川鉄砲隊。その銃口の先には・・・ 去就に迷う小早川秀秋の陣が。
こうして見ると、意外とまともな展示内容なのかと思うのですが・・・

 

笹尾山の一角にて。
原哲夫漫画の主人公にもなった猛将・島左近がこんな姿で
転がっています。
こういう「何とも味のある展示」が一部マニアの人気を呼んで
いるのではないかと。
有名な?武田信玄公の亡霊。
「ノーモア関ヶ原合戦」というのはこの施設の標語になっているようで、
外の垂幕にも書かれていました。

最後に訪れたのは、大谷義継の陣跡と墓所。

これは町内中心部から完全に外れた深い山中にあり、地図を片手に山道を走って何とかその入口へ辿りつけました(ここから10分程のちょっとした登山コースになります)。

が、やはり「義の人・大谷義継」の人気は高いようで、このように他府県ナンバーの車が沢山停まっていました。

 


← DVDも発売されているので未見の方は是非。 

皆さんは、司馬『関ヶ原』を原作にしたTBSドラマ『関ヶ原』をご存じでしょうか?
TBS創立30周年記念番組として、昭和56年新春に三夜連続で放送され、今日においても評価の高い作品です。
この全三話で放送されたうちの第二話「さらば友よ」のラストシーンが、三成(加藤剛)と義継(高橋幸治)との友誼を巡るエピソードとなっています。

上杉討伐に出陣する旧友・義継に、三成は挙兵計画を打ち明け、共に起って欲しいと語る。
だが、義継は、「三成、お主、目が見えなくなったのか?」と諭し、家康の力は余りに強大であり、「自滅するぞ」と警告して、いったん断ります。

しかし、佐和山を出た義継の脳裏に、かつての茶会の様子が浮かぶ――業病に侵されていた義継が口にした茶碗を、居並ぶ大名達は気味悪がって口を付けない。だが、三成だけは何の躊躇もせずに美味しそうに飲み干すのでした。

義継は引き返す事を命じます。
「三成、わしもお主も、もう目が見えぬ。目が見えぬ者同士の誼みじゃ、この命、お主にくれてやる。受け取れ!」

この場面自体はドラマのオリジナル(原作をパッチワーク的にアレンジした物)なのですが、第二話のラストを締めくくるに相応しい屈指の名場面となっています。

家康とも友好関係にあった義継ですが、友誼によって三成に味方する事を決め、そしていったんそうと決めれば、ひたすら西軍の為に粉骨砕身する訳ですね。
実際、三成や宇喜多秀家らが大垣城に進出した後も、義継は関ヶ原に留まり、地形を利用した陣地の構築に務めたとされています。

こちらが、山中に立つ義継の墓。その傍らには最後まで義継に従い、介錯を行った家臣・湯浅五助隆貞の墓があります。

(左) 墓所から10分程歩いた山中にある、義継の陣跡。


(右) 義継陣跡より撮影。
こんな感じで四方が深い山林となっており、もはやどの方角が松尾山なのか定かではありまんでした。

朝の8時〜14時の約6時間をかけて、これだけ見て回る事ができました。
1日で見て回るのは無理かな、と場合によっては車中泊も考えていただけに、意外とあっさり終わったな、という感じでしたね。
松尾山の小早川秀秋陣跡や、壬申の乱関連の史跡を見る事ができなかったのは少し残念ではありますが、おおむね満足しつつ帰路に着いたのでした。


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