関ヶ原古戦場紀行 〜岐阜県不破郡関ケ原町
平成24年5月4日
5月の大型連休を利用して、早朝出発・深夜帰宅の強行日程にて日帰りで関ヶ原へ行ってきました。 ← |
早朝に車で出発し、名神高速の関ヶ原ICを下りるとそこは岐阜県不破郡関ケ原町。 人口約8.000人のこじんまりとした町という事で、実際そんな感じの印象を受けました。 この地は、大阪〜京都を結ぶ山崎と似た、砂時計のボトルネックのような交通の要衝であり、中山道〜北国街道・伊勢街道へ繋がる街道の結節点となっています。 朝は何も摂らずに出発していたので、まずは吉野家なり松屋なりで朝定食を、と思ったのですが、その手の店は見当たりません。 笹尾山は、写真のような感じで竹矢来・馬防柵や旗差物が並べられ、当時の様子が再現されています。 |
寄せ手の視点から見た、笹尾山の遠景。 三成の本陣は山頂に置かれ、島左近・蒲生郷舎が前衛部隊の指揮を執りました(上の2枚の写真はその島・蒲生両部隊の陣地跡で、ちょうど両翼のように配置されています)。 それもそもはずで、石田隊は高所を占めており、攻め手は地形的な制約によって低地の狭い正面からの前進を余儀なくされる訳ですから。 ちょうどこれ位の距離が、当時の火縄銃の実質有効射程距離(100〜150m)のギリギリの所だと推定されます。 |
笹尾山の三成陣跡からは、このように合戦場の一大パノラマを見ることができ、壮観です。 こちらが、南宮山〜家康本陣方面。 ちょうどこの正面の平野部に、黒田隊・細川隊を始めとする東軍諸隊が殺到したのでした。 |
一方、こちらが小早川秀秋隊が布陣した松尾山方面。 気がつくと、霧はすでに晴れている。 目論見通りに東軍を高所からの巨大な鶴翼陣に誘い込み、実際に戦端が開かれると戦局は自軍優位に推移し、後は事前の取り決め通りに両翼を延伸させ、東軍を巨大な包囲網の中で殲滅するのみ。 |
笹尾山から道路を渡って田畑の中の道を歩くと、西軍崩壊後の敵中突破退却で有名な島津隊の当主である島津義弘陣跡が残っています(左)。 そこからさらに10分程歩くと、朝鮮出兵の際に活躍し、またキリシタン大名としても有名な小西行長の陣跡があります(右)。 |
天満山にある宇喜多秀家の陣跡まではかなり距離がありそうだったので、いったん笹尾山へ戻り、車で田中の道を辿って向かう事に。 山林脇の狭い道に車を停め、案内板を頼りにこんな感じの山道を5分程掛けて歩きました。 |
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こちらが備前中納言・宇喜多秀家の陣跡。 日和見や内応者が多かった西軍の中にあって、秀家とその部隊は終始高い戦意を持ち、合戦当日においても1万7千の宇喜多隊は西軍主力として活躍しました(関ヶ原合戦を扱ったボードゲームやコンピューターSLGをプレイすると、「宇喜多隊あっての西軍」だという事が嫌という程実感できます)。 しかしながら、場所が悪いのか、はたまた父親とは対照的な”擦れてないええとこのボンボン”的な秀家のキャラが少々地味なのか、ここには自分以外誰一人訪問者がおらず、終始シーンとした静寂に包まれていました。 |
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こちらが秀家陣跡から臨む東軍方向。 山林が鬱蒼と繁っていて、見晴らしは非常に悪いです。 勿論、400年前と今とではまた違うのでしょうが、こういう場所では大部隊の展開自体が困難なように見えます。 |
その後は、町の中心部(町役場のすぐ向かい)にある歴史民俗資料館を見学した後、付近の東軍諸将の陣跡を見て回る事に。 こちらは民家の裏手にひっそりと置かれている本多忠勝陣跡。 忠勝の陣は前線の東軍諸将よりもかなり後方に位置しており、彼が正面の西軍主力と同時に、背後の南宮山にも目を配っていた事が伺えます。 |
(左) 上の本多隊と共に、「徳川家部隊」として参戦した、井伊直政・松平忠吉の陣跡。 (右) 近江出身で、合戦後三成を捕縛した事でも知られる、田中吉政の陣跡。 |
続いて、笹尾山と反対方向の高台に位置する岡山烽火場跡へ。 ここは東軍勝利の功労者である黒田長政と、関ヶ原近郊の領主であった竹中重門(竹中半兵衛重治の子息)が陣を構えた所です。 家康の桃配山を別にすると、東軍の中で高所に陣を構えたのはこの黒田・竹中両隊のみで、逆に言うとそれ以外の主要な高地は全て西軍が押さえていた訳ですね。 この黒田長政の陣も見晴らしが良いのですが、こんな感じで正面に松尾山が位置しています。 「郷」 司馬の『関ヶ原』における長政は、父官兵衛のような「帷幄の謀将」的な人物としてではなく、どちらかというと「機を見るに敏であるが、同時に血気盛んでもある若手武将」として描かれています。 |
東軍先鋒として活躍した、福島正則の陣跡。 正則については様々な評価がありますが、正直あまり人気のある武将のようには思えません。 「秀吉子飼いの武将でありながら、家康に都合良く利用されて図らずもその覇権確立の一番槍となり、豊臣家滅亡時には秀頼の救援要請を黙殺し、最終的には改易されて失意のうちに世を去った」 時代の波に翻弄された悲運の武将、という見方もできるでしょうし、全ては自分の身から出た錆、自業自得だ、という解釈も可能でしょう。 しかしよく考えると、正則らの武断派と三成との対立というのは、特段何らかの政治的な背景がある訳ではなく、要は「朝鮮出兵の際の讒言」といったレベルの個人感情的なものなのですよね。 |
(左)
福島正則陣跡より、愛車の記念撮影も兼ねて、西軍・宇喜多隊方向を臨んで撮った1枚。 (右) 関ヶ原は流石に「古戦場の町」ということで、写真のような案内板や無料駐車場が各旧跡ごとに設置されており、非常に助かりました(この福島正則陣跡も住宅地の中の入り組んだ場所にあり、案内板無しで辿り着く事は困難だったでしょう)。 |
(左) 家康が最初に陣を構えた桃配山の陣跡。 ちょうどこの背面に南宮山が位置しており、家康も気が気でなかったことでしょう。 (右) 桃配山より西軍主力の布陣した近江方面を望む。眼下を走るのが旧中山道(現・国道21号)です。 |
その少し東には、山内一豊の陣跡があります。 大河ドラマ化もされた司馬作品『功名が辻』の主人公(いや、主人公は妻の千代なのかな?)として知られていますね。 特段何の傑出した才能も持たなかったうだつの上がらぬ一人の武士が、聡明な妻の内助の功を得て最終的に一国一城の主になる、というなかなか日本人好みの話ではあります。 合戦当日の一豊は、南宮山への備えとして配置されたまま、戦闘に参加する事はありませんでしたが、自身の居城であった掛川城を率先して家康に提供した功績が評価されて戦後に土佐一国を領有し、幕末まで存続する事となったのでした。 |
その後、笹尾山の三成陣跡から程近くにある、”ヘンテコ名所”として一部で有名な「関ヶ原ウォーランド」へ寄ってみる事に。 | |
てっきり、うらさびれたアングラスポットだと思っていたのですが、行ってみてびっくり。駐車場には観光バスが並び、停める場所を探すのに苦労する位車で溢れかえっているではありませんか。 というのも、この「ウォーランド」は関ヶ原観光鰍フ経営する施設で、施設前は観光バスの停留所となっており、休憩所兼土産物店が軒先を構えているのですね。 例えて言うなら、下呂温泉バスツアーの一行が途中休憩でこの停留所に寄り、 800円の料金を払って、いざ入場。 |
こんな感じで、人形を使って合戦の様子が再現されています。 | 南宮山を再現した一角。 正面で腕を組んでいるのが吉川広家。 その右後ろが毛利秀元です(弁当は食べていませんでした)。 |
こちらは戦勝後、首実験をする徳川家康。置かれている首は大谷義継家臣・湯浅五助のもの。 | その傍らには、後の「天下のご意見番」大久保彦左衛門が槍を手に侍立しています。この彦左衛門、関ヶ原合戦には家康本隊の槍奉行として参加しているのですね。 こういうところは意外と芸が細かいです。 |
徳川鉄砲隊。その銃口の先には・・・ | 去就に迷う小早川秀秋の陣が。 こうして見ると、意外とまともな展示内容なのかと思うのですが・・・ |
笹尾山の一角にて。 原哲夫漫画の主人公にもなった猛将・島左近がこんな姿で 転がっています。 こういう「何とも味のある展示」が一部マニアの人気を呼んで いるのではないかと。 |
有名な?武田信玄公の亡霊。 「ノーモア関ヶ原合戦」というのはこの施設の標語になっているようで、 外の垂幕にも書かれていました。 |
最後に訪れたのは、大谷義継の陣跡と墓所。 これは町内中心部から完全に外れた深い山中にあり、地図を片手に山道を走って何とかその入口へ辿りつけました(ここから10分程のちょっとした登山コースになります)。 が、やはり「義の人・大谷義継」の人気は高いようで、このように他府県ナンバーの車が沢山停まっていました。 |
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← DVDも発売されているので未見の方は是非。 皆さんは、司馬『関ヶ原』を原作にしたTBSドラマ『関ヶ原』をご存じでしょうか? 上杉討伐に出陣する旧友・義継に、三成は挙兵計画を打ち明け、共に起って欲しいと語る。 |
しかし、佐和山を出た義継の脳裏に、かつての茶会の様子が浮かぶ――業病に侵されていた義継が口にした茶碗を、居並ぶ大名達は気味悪がって口を付けない。だが、三成だけは何の躊躇もせずに美味しそうに飲み干すのでした。 義継は引き返す事を命じます。 この場面自体はドラマのオリジナル(原作をパッチワーク的にアレンジした物)なのですが、第二話のラストを締めくくるに相応しい屈指の名場面となっています。 家康とも友好関係にあった義継ですが、友誼によって三成に味方する事を決め、そしていったんそうと決めれば、ひたすら西軍の為に粉骨砕身する訳ですね。 こちらが、山中に立つ義継の墓。その傍らには最後まで義継に従い、介錯を行った家臣・湯浅五助隆貞の墓があります。 |
(左) 墓所から10分程歩いた山中にある、義継の陣跡。 (右) 義継陣跡より撮影。 こんな感じで四方が深い山林となっており、もはやどの方角が松尾山なのか定かではありまんでした。 |
朝の8時〜14時の約6時間をかけて、これだけ見て回る事ができました。
1日で見て回るのは無理かな、と場合によっては車中泊も考えていただけに、意外とあっさり終わったな、という感じでしたね。
松尾山の小早川秀秋陣跡や、壬申の乱関連の史跡を見る事ができなかったのは少し残念ではありますが、おおむね満足しつつ帰路に着いたのでした。