姉川古戦場 探訪記

平成23年8月2日
(滋賀県長浜市) 

元亀元年(1570年)6月に、織田信長・徳川家康連合軍と、浅井長政・朝倉義景連合軍との間で行われた姉川の合戦。

今回、夏季休暇を利用して、日帰りでこの姉川古戦場跡へ行ってきました。

←我が愛車と写した一枚。


 

第二京阪を通って滋賀へ抜け、長浜インターを下りると、のどかな田園風景が広がっています。

まずは「あねがわ温泉」にて一服する事に。こちらがその外観で、割と地味な感じです。
自分は小さい子供が大声で喚きながら走り回っているような場所が好きではないので、街中によくある「スーパー銭湯」のような処へ普段行くことは殆どありません。
しかしこの温泉は「小学生以下入場お断り」と、しっかりした方針で商売しているところが気に入ったので訪れてみることに。

平日の昼間という事もあって客も少なく、炭酸浴や露天風呂等でゆっくりとくつろぐことができました。

温泉を出た後、カーナビのガイドに従って姉川古戦場跡へ。
この一帯は、長浜市の一角の旧浅井群なのですが、田圃と畑が広がる以外には本当に何も無い、典型的な「日本の農村風景」のような印象を受けます。

確かに土地そのものは肥沃なのかもしれませんが、周辺を山に囲まれている為、耕作面積自体は広くはありません。
浅井長政の石高も、25〜30万石位(動員可能兵力6千〜8千)と見るのが妥当な解釈だと思われます。国力や動員可能兵力で比べるなら、越前の朝倉義景の方が遥かに上でしょう。

では何故、信長がこれ程浅井を重視したのか?
それはひとえに、この地域の戦略的重要性にあります。

(YAHOO!地図より引用)

このように、岐阜から京都に入るには、東海道と中山道の結節点である関ヶ原を抜け、琵琶湖東岸を南下して瀬田の唐橋を渡って入洛する・・・というルートを通る必要がありました。
一方、北陸(越前)方面から南下して京に向かうにも、賤ヶ岳〜木之本を越えて、湖岸の同じルートを通る必要がありました。

それ故に、琵琶湖東岸というのは必然的に戦略上の重要地となった訳です。
(信長は、長浜城に羽柴秀吉、佐和山城に丹羽長秀を置き、自身安土に城を建設しました。秀吉は佐和山城に腹臣の石田三成を、家康は彦根城に井伊直政をそれぞれ配置しました)

マーカーとカーソルを置いた地点が浅井群の小谷城です。
浅井群はこの関ヶ原〜彦根のラインからはいささか北に寄っていますが、岐阜〜近江〜京のラインを安定させるには、この地域を敵対勢力に組み込まれる事だけは避ける必要がありました。
一見すると地方の一小大名に見えなくもない浅井長政に、信長が妹のお市を嫁がせて義兄弟としたのは、このような地政学的理由によるところが大きかったと言えましょう。

一級河川・姉川。
この川を挟んで、此岸に浅井・朝倉軍、対岸に織田・徳川軍が対峙しました。
両軍の兵力については織田・徳川軍3万4千、浅井・朝倉軍1万8千と言われていますが、諸説あって正確なところは分かっていません(合戦の経緯についても同じ事が言えます)。

通説として、戦力的に優勢な信長は浅井長政を小谷城から引き出し、平野部で撃破しようという目論見がありましたが、長政も自らの兵力的な劣勢はよく分かっており、小谷城から出ようとはしませんでした。
その為、信長は小谷城の支城である横山城を包囲しようと目論みます。
長浜街道の要衝にある横山城が陥落すれば、浅井領南部の支城(特に佐和山城)と小谷城との連絡線が絶たれることになります。
なので、長政としてもこの動きを放置する訳にはいかず、湖北に援軍として到着していた朝倉軍と共に、小谷城の攻囲を解いて姉川の南岸へ移動中であった織田・徳川軍を追撃する形として合戦が開始されたのでした。

言うなれば、長政は信長の目論見通りに平野部に誘致され、兵力的に劣勢な状況下での合戦を強いられてしまった訳です。
司馬遼太郎は、信長の合理性というのをよく引き合いに出しており、「信長が戦力的に劣勢な状況下で合戦に及んだのは桶狭間の時だけであり、それ以後は、まず戦略的に優位な状況を作り上げ、その後に戦端を開いた(=勝利は必然であった)」と述べています。
そうした観点から見るなら、この姉川の合戦や、後の長篠の合戦などはその典型と言えるでしょう。

写真の此岸に浅井・朝倉軍が布陣し(後背が小谷城)、対岸の織田・徳川軍に追撃を仕掛ける形で戦端が開かれました。
この先が横山城の位置する方向です。

この合戦の経過についても諸説あるのですが・・・。
午前6時頃に開始され、当初は浅井軍の猛攻によって織田軍の梯隊陣形の第5段までが突破されるといった事態に陥りますが、遊兵化していた横山城攻囲部隊が戦場に到着し始めた事もあり、織田・徳川軍は時間の経過と共に兵力の優位を生かして浅井・朝倉軍を圧倒し始め、開始から数時間で浅井・朝倉軍は総崩れとなりました。

しかし、この時信長は追撃を行わず(途中で中止させたという説もある)、浅井・朝倉軍主力は温存され、以後3年間にわたっていわゆる信長包囲網の一角として立ちはだかる事になります(もっとも、信長はこの合戦の後に横山城を陥落させ、羽柴秀吉を城主として置いています。これによって浅井氏の勢力を湖北に圧迫し、小谷城攻略の為の橋頭堡を得た訳で、一応の戦略的目的は達したと言えるでしょう)。

何故追撃を行わなかったのかは、はっきりとは分かっていません。
疲弊していてそれどころではなかったという説もありますが、3年後の浅井・朝倉壊滅戦の際に行った徹底的な追撃とは対照的です。

この合戦の死者は、浅井・朝倉軍約1.700人、織田・徳川軍約800人と言われています。前述のように追撃戦に移行しなかった為、浅井・朝倉軍の損害はそれ程多くはなく、またこの合戦で討死した名のある武将は、両軍ともに記録されていません。

写真は、両軍の戦死者を弔った石碑。

 

自分は見ていないのですが、NHKの大河ドラマで浅井三姉妹のお江を主役にした「江〜姫たちの戦国〜」が放映中とのことで、長浜ではそれと歩調を合わせた町興しが行われているようでした。
こちらは、車を走らせていたら偶然目にした「江のドラマ館」。
入館料を取られるようなので中には入りませんでしたが(中に何が展示しているのか詳しく書いてないので・・・)、観光バスツアーで来ている人達もいて盛況のようでした。
こちらが、そのドラマ館の前に置かれていた浅井長政一家の石像?

タイトルは「家族」。
この幸せな家族のその後の悲しい結末を思うと、胸が痛みます・・・。

特に、浅井氏滅亡時に10歳で処刑された嫡男・万福丸(右端)。
一説では串刺しにより処刑されたと言われていますが(『浅井三代記』の記述であるが、この『三代記』自体が史料としての信憑性に欠けるとの指摘も多い。『信長公記』では関ヶ原にて磔刑にされたと記されている)、戦国の世の習いとは言え 哀れなものです。

こちらがその解説文。

典型的な政略結婚であった長政・お市夫妻ですが、夫婦仲睦まじく、子宝に恵まれて幸せであったと伝えられ、それはドラマなどでもよく再現されています。

茶々・初・江の三姉妹のその後の数奇な運命についてはよく知られており、現在大河ドラマでも放映中ですね。

当初の予定にはなかったのですが、ついでということで小谷城跡にも行ってみました。小谷城は典型的な山城で、春日山城などと共に日本五大山城の一つに数えられています。
こちらの城の麓でも、大河ドラマにちなんだ特設会場や、土産物販売所やらが設けられていました。
写真には入っていないのですが、この時もそこそこの人が訪れていまして、休日などはさぞかし賑やかだろうなぁと感じました。
・・・いや、町興しは大いに結構なのですが、何かにつけて金を取りたがるのにはちょっと閉口させられます。
無料で停めて何の問題もないような田圃の真中の空き地が「有料駐車場」ということで300円を取られ、小谷城址行のバスは500円だったかを払って乗らなければならないようで。

徒歩で登る場合は、この登り口がスタートラインとなり、ご覧の通り木の杖を貸してくれます(流石にこれは無料)。
少々見えにくいですが、看板には、
「出丸まで約10分、本丸まで約55分」
と記されています。

(では、取りあえず出丸まで登ってみよう。杖?年寄りじゃないんだし、そんなもんいらないよ)
と、軽い気持ちで登り口へ・・・。

いやはや、山登りなど何年ぶりでしょう・・・。
炎天下の登山がこんなにきついものとは・・・・。

顔中汗まみれになり、肩で息をしつつ、よろめきながらようやく「出丸跡」に到着。
(履いていた安物のスニーカーは破れてしまい、本当に踏んだり蹴ったりでした。道中誰とも会わなかったのが幸いです)。

ここに出丸―最前衛の防御拠点―が置かれていたと推定されています。
ここから本丸まではさらに45分掛かるとの事で・・・・とてもではないですがそんなところまで行けません!なので、即座に撤退を決意!

で、帰り道がこれまた辛く、何度も転びそうになりました。
ほうほうの体でようやく車に辿り着き、エアコンをMAX稼働させつつ、自販機で炭酸飲料を買ってがぶ飲みした時は人生の幸福を感じました(笑)。

峻険・小谷城、恐るべし。

その後、「国友鉄砲の里資料館」を訪ねました。
鉄砲鍛冶で有名な国友村というのは、姉川のすぐ脇にあります。
この資料館は和式家屋が並ぶ住宅街の一角にあるのですが、この周辺一体が当時〜江戸時代に至るまで鍛冶屋町を形成していたそうです。

館内には様々な鉄砲・大筒が展示されていたのですが、館長さんが「個人の旅行記録としてお撮りになるのであれば」という事で写真撮影を許可して下さったという事情もあり、ネット上での公開は差し控えたいと思います。


国友を出た後、帰路に着きました。
とはいえ、まだ時間的に余裕があったので取りあえず行けるところまで行ってみようと、琵琶湖東岸に沿ってオープンでゆっくりと車を走らせることに。
佐和山〜彦根と下った頃に、そういえば昼食をまだ食べていなかった事に気付きました(朝食は、出発前に地元の吉野家で納豆定食を食べました)。

何か地元の名産料理、例えば琵琶湖の湖魚料理か何かがあれば食べたいなぁと思いつつ街道沿いの店舗を眺めていたのですが、どうもそういうものはすぐに見つかりそうになく、そうこうしているうちに随分とお腹も空いてきたので、止む無く「吉野家・彦根店」で牛カレーの大盛を食べることに(笑)。
まぁ、かつては「三食全部松屋」という日を過ごした事もありますので、朝・昼吉野家位はどうということはありません(^^;。

結局、瀬田の唐橋を渡って大津市に入った頃から、ちょうど時刻も夕刻となって仕事帰りの車で徐々に渋滞が始まったようなので、山科へ向かう途中のインターから高速へ上がりました(ちなみに夕食は、高速のサービスエリアで食べた「つけ麺」でした)。


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