ふとしたことだった。
いつもならまだぎりぎりまで寝ていて、新聞なんて読まなかった。
けれど今日に限って早く目が醒めて。
ご飯できてないから新聞でも読んで待っていて、と遊子に促されたから、読んだだけだった。
捲ったその場から、目が離せなくなった。
小さな、ほんの数行の欄。
自分に、そんな思いがあるとは、思わなかった。




 
トロイメライ




見た欄は、有名人、著名人の訃報。
かなり有名であれば顔写真が載るが、人数の多さもあり、めったにない。
にもかかわらず、いつもなら素通りするその欄に目がいったのは、天啓としか思えない。
そこにあったのは、いつぞやに見た名前。
ほんの少し、彼との関わりを増やしてくれた小説家の名前だった。

その作家との出会いは本当に些細なもので、あいつが「読んでみるかい?」と、
貸してくれなければ、自分は会わなかった存在だ。
たまたまあいつが手に持っていた本がそれでなかったら、会わなかった。
そんな些細なものなのに、自分の中に残っているのは…あいつが読んでいたから、と言うに他ならない。

同じ本を読んだ、その本の感想を言い合った、ただそれだけ。
なのに残るのは、読みながらあいつに思いを馳せていたからかもしれない。
本の中にある孤独に同調しそうなあいつの、傍らにありたいと願ったから。

あれから自分はその作家の本を読んではいないが、あいつのことだ、きっと網羅しているだろう。
……もう、その物語は綴られることはない、と知ったら、どうするのだろう。
今あるだけで、彼の軌跡は終わりだ、と。

そう、といつもどおり返すのか、人は死ぬものだから、当たり前だろと、言うのか。
何となく言葉は浮かんでくるのに、それをいうだろう表情が、浮かばない。
浮かんでも、それは酷くぎこちなくて、らしくないと感じてしまう。
あいつが、物に心を残すなんて事が少ないと知っているから。

―――また、ひとりで。
抱え込んで、立ち向かうのだろうか。

「………」
携帯をいじりながら、確かこんな漢字だったと検索をし、引っかかったニュースを見る。
―――それは真実で、嘘ではなかった。

(まるで夢見心地だ)

紙の上の、ネット上のことで、真実ではないと思いそうだ。
ひょっこり、起き上がってきて、なんて、考えて。
苦笑を浮かべた自分がいた。

これは、あのときの感覚に似ている。
まだ癒されてないだろう―――あのときの。

自分の人生に関わった人ではないのに、あいつと一緒に見た記憶の中にいる人だったから。
誰かと、分かち合えた人だから。


「…………」

新聞も、ネットも見ない相手だから(たまに図書館でネットはするらしいが)
情報は、遅れている。
今日、知らせるか、なんて思って、その欄を静かに破りとって、勢いのまま、ポケットに突っ込んだ。


「石田」
「何?」
きっかけが掴めず、ずるずると昼まで延びてしまった。
朝からこんな話もなんだしと逡巡しているうちに、時間が経った。
色々思いつつも、相手のうろんげな視線に、あぁ、ホント俺の霊力駄々漏れなんだなーと感じた。
静かな教室に響く、雨竜の声。
水色が何処からか見つけてくる空の教室に、今、二人だけ。
「いったいどうしたっていうんだい? 今朝から君、集中力を欠いてるよ」
頬杖を付いて、見てくる。
机の上には弁当と、いつも何かしら持っている文庫本。
「何か言いたいことがあれば、はっきり言ったらどうだい?」
「………」
購買に行った啓吾と水色は、まだ戻らない。
水色が場所指定したのだから、迷うはずはないので、混んでいるのだろう。
話すなら今のうちだと、ポケットからくしゃくしゃになった紙を、一護は取り出した。
「…これ」
「?」
くしゃくしゃの紙を受け取って、雨竜は広げて見た。

「………」
「…その」
「………そう」
それを丁寧に畳んで、雨竜は一護に返した。

「…よく、作家の名前覚えてたね」
「そりゃ…お前に借りた本だし」
「あんまり興味なさそうだったけど?」
「よくわかんねーから。でも」
「でも…?」
「……あの文章は、好きだ」

ふと、思い出した一文があった。
けれどそれは曖昧で、実は他の文章だったのかもしれない。
一度しか目を通していない文章だったけれど、読みやすく、人柄が現われるような、ものだった。

あの物語だけに留まらず、他のものも読んでみれば良かったのかもしれない。
そうすれば、また違ったふうに、彼と、関われたのかもしれないのに。

「…そう」
瞳を細めて、雨竜は笑う。

「僕も、好きなんだ…」

その呟きは、酷く優しかった。



「君と、こんな話をするとはね」
帰り道、どうしても気になって付いていくと、寄ればいいよと、昇降口で言われた。
「…気まぐれだったのにね」
僕は読んでも、君には興味のない話だったのに、と、その本を手にして、パラパラと捲る。
横で上がる湯気は、一護が淹れたミルクティーだ。
「本で繋がる縁、て言うのかな」
「…それ以前に、繋がってんだけどな」
「そう?」
くすりと笑う。その笑みは…儚い、と言っていいかもしれない。

「同じものを共有って言うのかな……知っていたりすると、こんなこともあるんだ」
改めて見る新聞の記事は、簡潔すぎて逆に真実だと言うことを浮き彫りにさせる。
「俺より、お前のほうが、この作家のこと、好きだろ」
文庫本を指すと、そうかなぁと、見つめる。

「…なんだろう…ぽっかり、空いたような気分なんだ…」
「だから、それは」
「…一人で、味わうものだと、思ってたんだ…」
「え…?」
「メジャーな作家では、ないから。ひっそりこっそり、忘れ去られていくんだろうって、思ったんだ。
僕一人が悲しんで…って。でも、君も、悲しんでくれるから」

 一人ではないって、思った。

それこそ、雨竜が表現した『ひっそり』に近い声で、言葉だった。
テーブルに置いたカップを手にして、静かに啜る。
ふー…と付く息は……その感情を消化するためなのか。
隣で、一護も何も言わず、同じものを啜る。

ポツリとテーブルに乗る、一冊の本。
同じように好きだった誰かも、今、誰かと、もしかしたら一人で、この感情を何とかしようとしているのだろうか。
そんなふうに思う人がいるのなら…どんな縁でもいい、一人で、なければいい。

―――同じ痛みを、感じられなくても。
ただ、語るだけでも。

「…誰かと分かち合えるってことは……ありがたいことだね」
「……あぁ」
カップを離し抱き寄せると、抵抗なく腕の中に納まった。
さらりとした黒髪が、頬に触れる。

「そうだな」

ただじっと、そのままでいた。


 泣きたいのなら、泣けばいい。

そう言えたら、いいけれど、言ってもきっと、泣きはしないのだろう。
そして、一人になっても、泣かないのだろう。
何が起きても、追い詰められても、きっと―――一人、立ち上がるのだろう。
あの小説の、主人公のように。

手慰みのように髪を掻きやっていると、君のほうが泣きそうだよと、逆に腕の中で笑う。
それが――――雨竜らしくて、また、あぁ、似ているのだと、思ってしまう。
―――そばにいるのに孤独に寄り添われるのは、嬉しくない。

「泣くかよ、ばーか」
こめかみに口唇を当てて言うと、どうだか、と、瞼を伏せる。

「君は結構、涙脆そうだから」

薄く柔らかな口唇が、呪文のように呟いた。



時は冬。
空は、夕暮れの橙から、藍色へ移っていく。
窓から見える景色が、だんだん、蒼に染まっていく。

静かな静かなその空間は、深く蒼い、水底のようだった。




「…もう、帰りなよ、黒崎」
ぽんぽんと、抱きしめていた腕を叩かれる。
「…もうちょっと」
「門限を守れ」
「…ケチ」
しぶしぶ離れると、雨竜の白い指先が、一護の前髪を調えた。

「………」
「礼は言わない。これは君のお節介だから。だけど…」

 教えてくれて、ありがとう。

引き寄せられて、耳元で囁かれた言葉は、温かかった。


「…素直じゃねーの」
「死神が死者のお知らせに来るってのが、悪趣味なんだよ」
するりと離れて、雨竜は、一護のコートを手にする。
「…俺だって好きで…」
「―――冗談だよ」
言って、雨竜は一護にコートを渡した。


「じゃぁ、気をつけて」
「―――あぁ」

そしていつもどおり、玄関で別れた。





―――本当に、僕一人で落ち込む予定だったのに。
予定というのも、おかしいか。

でも、君の顔を見たら、へこんでもいられなくなった。
ぶっきらぼうで、粗雑で、でも、優しくて、繊細な。

僕と違う、でも、僕と同じ悲しみを、感じてくれた人。

僕は、うまく言えないし、伝えられないから、こんなだけど。

本当に、嬉しかったんだ。

君がそばにいてくれて、よかった。

「――――黒崎」

 ありがとう。