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2006/12/27「カウントダウン」 生活
カウントダウンが異常に早く数えられているような気がする。もう、残すところ4日だけ。あとの二日で何をしなくてはならないのだろうと考えれば考える程、大したことではないような気がして来る。今日も朝から目まぐるしい。母を病院へ送って行くことになってるのに、電話が繋がらない。案の定寝坊したようだ。耳がだいぶ遠くて目覚ましにはならない。いつも側においておくようにと言ってる携帯電話は不通。案の定、「寝坊してしもた」とだいぶしてから電話があった。しょうがないので、送って行ってそのまま約束の方に回ることにした。公民館で前から頼まれて取り掛かっていた小冊子の印刷だ。ある人の、手作りの自分史だ。自分のことを何かの形で残したいというのは、私のHPの山の記録と共通しているのかもしれない。
人は、思い出だけでは生きられないが、時々振り返ることで新たなエネルギーを得ることもある。人からの評価はいらないが、自分のことを理解してほしいと願っているのかもしれない。
とにかく、忙しい。
2006/12/18「久しぶりで楽しいクライミング」 クライミング
とうとう寒波到来。金剛山に初雪とテレビニュースが墨絵のような映像を映し出していた。いよいよこれからは、フリークライミングに不適切な季節になって来る。最近通ってる蝙蝠はもう先週は諦めて、烏帽子岩にいった。この時期みんなお日様を求めてクライマーは大移動し、噂によると不動岩の正面はかなりの人だそうだ。烏帽子も然りで、土曜日はかなり混んでいた。そんななかで、久しぶりの烏帽子で空いているルートから取り付く。「熊カンテ」「ゴールドフィンガー」「タイムトンネル/上部まで」10a「サピエンス」10c「おじいちゃんのドタドタ落ち」11aの計5本登る。相変わらず、ゴールドフィンガーではテンションと叫び、サピエンスでは核心のムーブが出来なくて、ちっとも進歩していない自分を確認したようなものだ。
しかし、この日の烏帽子は楽しかった。それは、最近の蝙蝠での厳しいクライミングから解放されたからだろう。烏帽子はホッとする岩場だ。何だかふるさとに帰ったように和む。たまには、やっぱりこういうクライミングもいいものだとも思った。
次の日曜日は、ホシダへ。やっぱりハングは痛めている肘に応える。前に登れているルートが簡単に登れない。悲しい。
やっぱり、登れても登れなくてもクライミングは楽しいと思う。上手くなりたいのはやまやまだが、最近ではしょうがないと思う。上手くなっても私の場合はたぶん大したことはないのだから、楽しまなくては損だ。
烏帽子には、私の知らないルートが3−4本程で来てる。この日もMさんが新ルート2本デビューさせた。いずれも10aだという。
しばらく、烏帽子もいいかも…。
2006/12/9「やっと赤岳主稜」 クライミング
三度目の正直でやっと赤岳の主稜が登れた。最近はもう「お気楽な、わがまま山行」に慣れてしまい、冬山というだけで行く前は億劫で、Fさんにはあまり積極的な返事は出来なかった。というよりは、雪の中を歩くことすら、「もうしんどいなぁ〜」と思っていたのだが、熱いお誘いにほだされて行った。Fさんの「どこへ行く?』の返事に、二度行っても登れていない赤岳主稜にやはり未練が残っていたのか「行くんやったら、赤岳主稜やなぁ〜」と即答してしまった。Fさんはもう何度目かの登攀だという。八ヶ岳には何回か行っている(取り付きも二回目)せいか、何だか風景に新鮮さもあまりない。それでも、赤岳鉱泉から見た赤岳から硫黄岳の雪の被った稜線を見て「美しいなぁ〜」と思った。
今年はこの時期なのに赤岳鉱泉まで雪は全く無く、プラブーツでの歩きは辛かった。入山の日の6日は快晴だったが、7日の登攀日は天気は曇りで下り傾向にあった。それでも、取り付きではまだ大丈夫だったが、途中から風が強くなって来て最後のピッチではもう立ってるのも辛い程風は強まって来た。そうなると、風景を眺める余裕も無く、ただひたすら前進があるのみ。
横殴りの冷たい風に吹き飛ばされそうになりながら、やっぱり冬の登攀は大変だなぁ〜と思った。
山は、天気次第だとも改めて思った。
2006/12/5「今年ももう終わり」 生活
ほんとうに、一年が早い。毎年加速度が増して来ているように思う。そんななかでも、週末は3日連続のフル活動。金曜日は武奈ケ岳へハイキング。土曜日は蝙蝠谷へ。日曜日はホシダへと大忙し。その間に、日常生活の雑多なものが挟まってる。9月から、住んでいるマンションの改修工事が始まり、すっぽりベールに包まれた中で、「トンテン! ガリガリ! ボンボン!」という騒音の中で過ごして来た。ベランダには洗濯物は干せないし、窓を開けると工事中の人とバッタリ顔をあわしてバツの悪い思いをしたりと、何かと不自由でストレスの溜まる日々が続いて来た。
洗濯物が干せないという言い訳で、洗濯機はドラム式の乾燥付きに買い替え快適になった。これはもう癖になってしまうほど便利。洗濯物と洗剤を入れてスイッチを入れるだけで、たたんでなおすだけ。
今日は、ベンダ側の足場が解体されている音が、コンコンと響いている。もう終盤だ。だいぶ綺麗になって来た。外が綺麗になると、家の中の汚いのが目につく。昨日は、襖の張り替えと飾りについているような障子を張り替えに出した。洗面台をリフームし、切りなく家の中の補修もしたくなって来る。
忙しいのにも加速がつく。何とかこの最終月の12月が終われば、少しは落ちついた2007年が迎えられるだろう。
ゆっくりとおいしいコーヒーを飲みながら、本を読んだりぼーっとして一日を過ごす。今の、私の夢である。それにしても、落ちつかないなぁ〜。外ではまたドリルの音がしてきた。ガマン! ガマン!
2006/11/28「『日本奥地紀行』を読み終えて」 読書
『日本奥地紀行』イザベラ・バード著/高梨健吉訳(平凡社)を読み終えた。明治十一年、47歳のイギリス人女性が、日本人の青年伊藤を伴って東北から北海道へ三ヶ月にわたって旅行したときの紀行文である。まさに、日本が近代文明へと突き進もうとしている時代でのこと、イザベラの旅した東北の農村の姿は、美しい田園風景の影に人々の貧困があった。そんな中でも、都市の近代化は進んでいたりと、農村との格差が驚く程あり、その様子がリアルに描かれている。それは、私の遠い記憶のなかでの農家の姿と生々しく繋がり、よりいっそうリアル感が増した。私の子ども頃は、ほんとうに貧しかった。シラミ、ノミ、ネズミは日常的にいたような記憶もある。読んでいるうちに、オーバーラップして来ることが多い。
なかでも北海道のアイヌの描写は克明で、私のアイヌに対する知識の無さを暴露した。この本から、いろんなことを初めて知った。
見せ物的な好奇心の目に遭いながらも、イザベラ・バードから見た日本人はとても好意的に描いている。貧乏でも、人々は思いやりがあり礼儀正しい。現在の日本人には欠けていってるように思う。文明が人々から、奪って行ったものだろう。反面、このころの農村の人々が、いかに閉塞した中で生きていたかよくわかる。
イザベラ・バードのスケッチもどこかで見たことがあるような記憶を呼び起こす。この本を読んでいるとこの時代にタイムスリップして、あたかも自分が旅行をしているような錯覚すら覚えた。
もっと興味津々だったのが、この本にしょっちゅう出て来る伊藤という通訳の青年。この人物は、いったいその後はどうしたのだろうという疑問からネット検索をしたら、中島京子著『イトウの恋』という本が出ているということだ。この本は、この日本奥地紀行を題材にして、イトウが母親程も年齢の違うイザベラ・バードに恋をしていたという設定の恋愛小説らしい。面白そう!
話しはそれたが、『日本奥地紀行』は久しぶりに面白い本だった。
2006/11/24「灰谷健次郎の本」 読書
ホシダから帰って食事をしていたら、テレビから「灰谷健次郎が死去」というニュースが流れて来た。72歳食道がんということだ。灰谷健次郎と林竹二は、私の子育て(教育)のバイブルだった。灰谷健次郎の絵本はほとんど小さいときから年齢に応じて買い与えて来た。小さいときには、絵本の読み聞かせをしてから寝るという毎夜の習慣があり、灰谷健次郎の本の中でも子どものお気に入りは『ろくべえまってろよ』だった。穴に落ちたろくべえという犬を子供たちが心配して助け出すという話だ。ヘタウマの長新太の絵もほのぼのとしてとてもいい。
小学校に入った頃には『兎の目』を毎晩連載で読み聞かせた。次は『太陽の子』と…。内容が分かっていたのかは不明だったが、毎晩楽しみにしていたのを今でも覚えている。今は主のいないかつての子ども部屋に残されていた本箱の中の、たくさんの子どもの本に混じって灰谷健次郎の本も残っていた。この『兎の目』のカバー表紙の開けたところに「子どもたちの優しさが、すべての人々の足もとを照らし、未来に向けて歩もうとする太陽のような希望を、どのような不幸な人でも持てるような物語を、いつか、私は書きたかった。灰谷健次郎」と書かれている。この言葉に、灰谷健次郎の本のテーマーが要約されていると私は思う。
私が感動的に読んだのは、『わたしの出会った子どもたち』だった。実際、親になって(なってしまって)子どもの世界に関わるようになって、いろんな子どもを見た。悪い子と烙印を教師にまで押されてしまった子どもは、大人から見放された存在になり行き場を失いますます荒れる。だれも、その子の心の叫びまでは気づかず、生きる希望まで無くして行く。現在では、悪い子だけではない。人とは少し違ってるととか、変わり者とかちょっとしたことで、人はいじめたり排斥したりする。悲しいことだと思う。
灰谷健次郎の著作は、人としてどうあるべきかが、一貫したテーマーで繰り返し書かれている。一言で言えば「思いやり、優しさ」だ。他者を思いやるという簡単そうなことが難しい時代だ。だからこそ、林竹二や灰谷健次郎の本を教育現場の人に関わらす、読んでほしいと思う。
2006/11/20「週末はまた雨」 生活
土曜日は天気予報では雨は持ちそうだったが、蝙蝠谷でクライミング中にポツポツ来た。蝙蝠谷は被ってるので登れるルートが多いのだが、モチベーションが無くなってしまい、結局復活1本で帰って来た。先週あたりからか肘の辺りが痛み、重いものを持つと響く。不思議なものでクライミング中はほとんど忘れている。日常生活での方が痛みが堪える。アイシングをしたり湿布をしているが、簡単には治らない。そんな状態なので、復活はテンションだらけで休みながら何とか抜ける。保持力が弱い。しかし、ムーブは着実に繋がって来ている。
蝙蝠谷も、着実に秋色に染まって来ている。紅葉のグラデーションが美しかった。もう今月一杯で、蝙蝠谷も終わりかもしれない。また、復活は来年への課題となりそうだ。イレブン台はそう甘くはない。いつものことだ。
蝙蝠から帰ってから、夕食後は背中に悪寒が走りそのまま寝込んでしまった。風邪をひいたのか…。
幸いにも、日曜日は雨だったので久しぶりにのんびりと本を読んだりして過ごした。今読んでいるのは、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』。この本は、明治十一年イギリス人の女性が東北から北海道へ旅行をした紀行文である。日本が近代文明へと向かい始めたこの時代に、まだまだ文明とは縁遠かった農村の姿が、イギリスの中年女性の目で克明に描かれていてとても興味深い。百年という歳月の流れは、何もかも変えてしまっている。
本を読んでいても、いつの間にかうつらうつらとしてしまう。少し疲れているのかな? 毎年年末には、一年の疲れがどっと出るのか体調を崩すことが多い。私生活でも慌ただしい時期になる、自己管理が必要だ。
2006/11/14「母と携帯電話」 雑感
私の母は83歳。一人暮らしで頑張っている。私の家から実家まで車で15分位なので時々は見に行ったり、色々用事を頼まれたりしているが、最近電話に出なくて困る。もしかしたら倒れているのではと、慌てて飛んで行くこともしばしばだ。しかし、駆けつけても、今まで何でもないことが多い。「何で、電話に出ないんや! 心配するやんか」と私がいっても、「電話なんか、鳴ってへんで!」という。母の目の前で、私の携帯で電話をすると、けたたましい音楽とともに電話の音がする。「ほら、鳴ってるやんか」と私。しばらく沈黙。「ほんに、鳴ってるは…」と母。「こんな大きな音が何で聞こえへんねん」(電話機も年寄りのための機種で、けたたましい音楽が聞こえる)。このごろ、こんな会話ばかり。
田舎の家で広いので、台所や寝室に入ると耳の遠くなった母には、茶の間の電話の音が全く聞こえなくなっていたようだ。
それと、病院や買い物に送って行って、「用事が終わったら、電話してね」といって置いて来たりするのだが、最近町から公衆電話が消え、電話をするところもなくなってしまい。人に頼んで、電話を私に掛けて来たりする。私は、知らないおっちゃんからの、電話に無愛想な応対となる。「娘さんですか。お母さんに頼まれまして…」という電話口の声で、いっぺんに事情が飲み込め、平身低頭する。
そんな事情で、母に「かんたん! かんたん!」とテレビコマーシャルで連呼している機種を購入した。昨日、母の元に届けて使い方を説明し、何種類かの短縮ダイヤルも覚えてもらい。何度も電話の出方と掛け方を練習して帰って来た。
夜になって、家事を終わらせ落ちついてから試しに電話してみた。「この電話は、電波がとど来ないか、電源が…」のアナウンスが何度掛けても流れる。しょうがないから、家の電話に掛けると、どうも慌てふためいている様子。「電気がついたり、消えたりするねん。どないしょ」とパニック状態だった。いろいろ、説明してその場は収まった。
今日も、試しに携帯に電話してみた。やっぱり出ない。家の電話で「どないしたん」と言うと寝室に置きっぱなしだという。知り合いに電話番号をもう教えたらしく、「◯◯さんにも、携帯掛らないと言われたわ」という。がっかりする私に「おいおい、分かるようになるわ」と母の返事。
「かんたん! かんたん!」はいったいどういう基準で言うのだろか、と疲れた私はふと思ってしまった。先が思いやられる。
2006/11/13「日曜日はまた蝙蝠谷へ」 クライミング
土曜の雨の名残が行くときにはパラリとして心配していたが、その後の少しの雨にも蝙蝠は大丈夫だった。蝙蝠谷は、もう紅葉が始まりかけていて、この日は寒かった。このぶんだと、冬はダメだろうなぁ〜と思った。
しかし、蝙蝠谷はS労山の方たちといつものメンバーで賑わっていた。とはいっても烏帽子駒形の混みようからいったら空いている。
「コーナー」と「もういいでしょう」でアップ後、いよいよ本命の復活にトライ。一本目、初めて終了点まで行けた。テンションかけまくりだったが、とても嬉しかった。2本目はあと最後のガバを掴んで乗っ越すだけだったが、力がつき果て体が重くて持ち上がらなかった。ムーブはだいぶ出来て来たようだ。あと課題はつなげることとヌンチャクを核心でかけること。核心のムーブはまだ確信を持てていない。しかしながら、少しは希望がでて来たかな。
今回は、多分回数が掛るだろうなぁ〜と思う。今までイレブン代は、10回前後で登れている。記録をつけていなかったのでよくわからないが、駒形のサイレンとフギアはもう少しかかっていたと思うが、歳の数からは三分の一前後か…。今回は、回数を記録してみることにした。歳の数ほどは覚悟してるといっても、クライミングは大変な道のりだとおもう。
2006/11/13「土曜日の雨の日に」 雑感
土曜日は一日雨だった。娘が車を買うというのでお付き合い。3年前にマツダからホンダに乗り換えたときに、さよならした営業マンMさん。このひとなかなかの人で、「人情に厚い」と私は思っている。最近、ホンダの営業所に愛想をつかしていたので、このマツダのMさんに久しぶりに電話した。やっぱり、感じがよくてテキパキと対応。娘へのメールに「T家に振られて3年あまり、老体にむち打ってほそぼそとやっております。思い出して下さってとても嬉しかったです。……」と言うようなことが書かれていて、「思わず笑ってしまったわぁ〜」と娘が言う。そして、とうとう車を買ってしまった。
若い女性が、最近頼もしくなって来ている。私の若かった頃とは、全く違うと思う。ゆとりをもって自活出来ている女性が増えている。そういう意味では、社会的な男女差がなくなって来ているということで羨ましい。結婚しない若い人(男女とも)が多いのが納得出来る気もする。反面、これで良いのかなぁ〜とも思う。
以前、ある人がなぜ今の若い人が結婚しないのかということを、教育のお陰で女性は賢くなったのに男性は以前のままだということと、男性の性欲(動物的な本能)の低下を挙げていた。
男性がもっと賢くなったら上手く結婚(形はともかく)出来るのかもしれないとふと思った。
2006/11/8「平日ホシダへ」 クライミング
今朝は、めっきり寒かった。母を病院に送って行くため外に出たとたん身震いしてしまった。車に乗ったとたん、今年初めてヒーターを入れてしまった。そして、久しぶりのホシダへ出かけた。この日も常連で賑わっていたいつものホシダの光景にほっとする。いつも、昼過ぎに来るMさんに「お久しぶりやねぇ〜」と言うと「あんたが、こ〜へんさかいや」と言われた。そうか、ホシダはいつもの光景が、私が来ていなかったこの一ヶ月弱の間も変わりなく続いていたんや、と改めて思った。
そして、久しぶりに来た私もその中の一員としてちゃんとおさまっていて、みんなのなかにとけ込んでいる。世間では「いじめ」が問題になってるのに、ホシダでは田舎の共同体のような和気藹々とした雰囲気でみんな仲がいい。楽しく一日が過ぎた。
2006/11/7「「サバイバル登山家」を読んで」 読書
『サバイバル登山家』(服部 文祥著 みすず書房)をやっと読み終えた。最初この本の表紙の写真(目を輝かせて、生の魚にむしゃぶりついているように見えた)を見たときには、これは『サバイバル登山家』というタイトルと併せて、野性的な人というイメージで見てしまっていた。実際は、この写真は本文で説明されているが、岩魚の皮を上手に剥く方法の実演だった。実際この写真のインパクトは大きく、登山中に凄いものを生で食しているんだろうと、読む前の私は思ってしまった。蛇やカエルを食するだけでも私にしては考えられないのだが、しいていえばこういう内容が大部分を占めているとかってに思い込んでいた。最後の方では、厳冬期の黒部の山行報告で、サバイバルという言葉の意味が、今ひとつ分からなくなってしまった。それも含めてサバイバルということだろう、と理解した。
そこでマックのDashborodの国語辞典で検索してみた。「異常な事態の下で、生き延びること。また、そのための技術」と書かれている。山の関係の報告や本を読むと、もともと登山自体がサバイバル的な要素が強い。過酷な状況に遭遇することは、山ではどんな形態での登山でもその人の技術や自然条件によって確率は高くなる。
「肉屋」という項に、パキスタンで牛を目の前で殺して肉を売るという肉屋の話しが出てくる。たしかに今スーパーで売られている肉は生きているときのあの牛だと知ってはいるが、それをいちいちイメージして購入して食べている人はまずいないだろう。ただの食品としてしか見ていないに違いない。
しかし、昔の日本(少なくとも私がこどもの頃)そんな光景は目の前で見ていた。農家である私の家では鶏を飼っていて、その鶏に子供である私は、ハコベを刻んで卵の殻や貝を細かく砕いて米糠に混ぜて餌を作り、鶏にやるのを日課としていた。また朝起きたら、鶏小屋に入って生みたての卵も頂戴して、温かいご飯にかけて「卵ご飯」にしてたべて学校に行っていた。卵には、鶏の羽とか糞がついていたりして妙に生々しかった記憶がある。
そのように、かわいがっていた(?)鶏もいずれめぼしいもの(どういう基準か、今は覚えていないが卵を産まなくなったとか、何らかの基準があったようだ)から「つぶされる」(解体されるのを確かいつもこのように言っていた)。首を包丁で切り落とされ、柿の木に吊るされ血を抜き、いろんな部位に区分けされた。必ず、祖父がやっていてそのうち父に役目は変わった。
母の実家でも、母や叔母が子供を連れて里帰りすると、かならず、祖父が子供の前で同じ光景を見せていた。その日の、餌食になる泣き叫ぶ鶏を子供たちで無邪気に追いかけ回していたのを覚えている。
今でも印象に残っているのはそれまで走り回っていた鶏の肉をそがれたあわれな肋骨を、まるまる鍋にいれ煮出してスープをとり、そのあと残骸の骨をみんなでしゃぶるのだ。今の人が見れば、おぞましい光景だろう。私が思い出してもおぞましい。今、私は鶏肉が大好きだが、子供のころ鶏肉は食べられなかったのを思い出す。ちなみに、鶏をつぶすときはお祭りとか来客があったときだった。決まって、すき焼きにしていた。何にも箸をつけない私に叔母が「いっこちゃん、せめて野菜だけでも食べや!」といって皿に入れてくれるのだが、気分が悪くなったのを覚えている。私は、いつごろから鶏肉が食べられるようになったかは覚えていないが、多分鶏を飼わなくなってからだろう。
話しは本に戻るが、山野井泰史氏が「この本を読むと、人間もあくまで動物の一員であるという当たり前の真実を、思い知らされるに違いない」と序文に寄せている。この本を読んで本来人間はもっと原始的な生活をしていてより動物的だったことを、私も思い出した。
この本の、前の方は結構興味津々で読んでいたが、徐々に中弛みしてしまい、最後の方では他の本に心移りしてほっておいてしまっていた。昨日、中途半端なので一気に最後の50ページ程を読み終えた。
最後まで一気に読んでしまえなかったのは、この本の内容がサバイバル登山というにはちょっと半端なところがあるからかなと、ふと思った。
大自然に入るということ自体サバイバル的な行為だとしたら、より文明の装備にたより身を危険から守るというのが普通の行為だ。この本の著者のテントを持たず、食料や燃料を現地調達というのはよりサバイバル度を増し危険度増すことになる。しかしそれ以上のことをすると、無謀としかとれないギリギリの線を意識した上だと思う。そして、その体験を通してより「生きる」意味を問うのも著者が文明の人だからかもしれない。所詮、ターザンのような生活は出来ないのだから…。自分の山での力量が前提としてあるのは否めない。
もうひとつ、「山小屋も登山道も近代装備も登山者にとっては堕落と妥協の産物でしかない」という言葉、この人がこういいきれるのは自分に自信があるからなのだろうか。家の娘は一人は山に行っているが、もう一人は、人の寝た布団で寝られない、風呂に何日も入らない生活は考えられない。だから山には登りたいが、山小屋ですら行けないという。山小屋や登山道のお陰で山に入っていけ、美しい風景を楽しめる人に対しては、この言葉は傲慢な言葉のような気がする。一部のスペシャリストの登山家にだけ、山や大自然は存在していていいのだろうか? 山が全くの原始に戻ったなら、ほんの一部の人以外は、やはり人は山には向かわなくなるだろう。
この中高年の登山ブームは、中高年こそ大自然への郷愁がまだ自分の魂のどこかに残っているからではないだろうか。この中高年が、たとえ登山道と山小屋の恩恵にどっぷり浸かった登山であっても、その人にとってはサバイバルなのかもしれないとも、ふと思った。私が、最初に北アルプスに行ったときには、登山道であっても命がけであった。
「サバイバル」と「登山」いう言葉に嵌ってしまった。
2006/11/6「城山へ」 クライミング
3日、3時20分城山に出発した。なぜこんなに早いかというと、高速の夜間割引を利用するためだった。ちなみに、帰りは渋滞だったのでついでに途中で仮眠して、深夜1時に帰宅してまた割引を利用させてもらった。3割引は大きい。大仁駅に10時に待ち合わせだったが、9時には着いていた。城山は、関西からは遠いのだがこれで今年は4回目で通算7回行っている。もう何だか故郷に帰って来たような懐かしさを感じる。いつもは修善寺ユースに泊まっていたが、今回は「IZU JOYAMA Free Climbing Guide 400」(國分誠著 2006.6.7発行)に書いてあったアピタ近くの河川敷でテントを設営した。ここは快適な寝ぐらとなった。テント生活で、もっと疲労感が残るかと思ったが、毎日入った伊豆長岡温泉とアピタで買い出した栄養満点の食料のお陰か、帰宅後も疲れは残っていない。もしかしたら、2、3日後に来るのかな?
そして、クライミングはと言えば今回の成果はテン台のみ。私の実力が、暴露された結果となった。イレブン台はことごとく、登れない。今年のお正月には1本でも良いから集中してイレブン台を登りたいと、帰ってから思った次第である。いつもながら、私はエンジンが掛るのが遅れる。これは、もう中古品(中年)だから仕方がないのか気質なのかは不明だ。こんな調子で、ずいぶん長い間フリーも続いて来たものだ。「あんたはイレブンは年1本か2本だね」とTに良くからかわれる。「人それぞれ、クライミングは自己満足や!」と言い返しているが、ほんとうにそうだと思う。こんな調子でも、積み重なった成果は残るのだから「これで、楽しく続けられたらいい」とこのごろは思う。
しかし、今回の城山はとくに力が入らなかったなぁ〜。それは、蝙蝠谷の復活があるからかもしれない。とにかく先に復活に取り付いたから気持ちがそちらに行っているようだ。蝙蝠はしばらく通えるので少しずつでも登れるようになってくるだろう。この復活に50回以上取り付いてRPしたという女性をしっているが、私はそこまでの根性を一つのルートに持ったことはない。けっこう諦めてしまっていることが多い。今回は諦めないで、せめて自分の年齢分ぐらいは根性で頑張ってみよう。
河川敷のテン場から見た城山全景
ポンポコランド(ポコ)転勤前5.10b
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2006/10/28「クライミング三昧」 クライミング
27日金曜日はやっと念願の大台中の滝にN山岳会のFおとうちゃんに案内して頂いた。かなり前から行きたいコールをしていたが、約束の日の天気が悪かったり機会を逃していた。それが、今回は紅葉を愛でながらの登攀となった。平日なので貸し切り。最高のクライミングだった。
サマーコレクションと同じ千石?にある中の滝は250メートルありスケールの大きな滝だ。左となりの西の滝と合わせて、美しい景観をなしている。サマコレは関西では、かなり名前の知れた有名ルートだが、この中の滝はあまり知られていないようだ。
このルートは、ボルトや終了点は全くと言っていいほど何も無い。そのために、ピッチの切り方もルートのとり方も自由だ。その分ルートファインディングは難しい。じっさい、今回の登攀は正規のルートだったとは思えない。前に2回登ってるFさんの記憶もあてにはならないような気がする。今回のとったルートもクライミング自体は簡単だ。ルートよりも、ほんとうの核心は終了後のブッシュ帯だった。まだ続くクライミングと木登りで千石尾根に出たときにはホッとした。
しかし、サマコレとは対照的なこのルートは、本来の山でのクライミングの本質をついているのでないかと思った。滝の横の岩を攀じ登ったという感じで、今までボルトを求めてルートを辿っていたのとは全く違った魅力を感じた。こどもの頃、裏山の道のないところに踏み込んで行ったときと同じような冒険心と似たような感覚だった。もう一度行くと、また違うルートを登るような気がする。そして廻りのロケーションと併せて、それがこのルートの醍醐味だろう。
そして、次の日である今日は蝙蝠谷へ。最初にもういでしょうでアップ。このルートは来るたびに登っているのでもう十回近く登っているのに、毎回核心でテンションを掛けてしまっていた。今日はテンションが掛らなかった。登ってみて気がついたのだが、初RPだった。ナインなのに、なんでこんなに掛ったんやと、不思議な気がした。そのあと、復活にトライした。今日は最後のハングを越えた上のガバを掴んで足を挙げたとたん、恐怖心が起きてかたまって登れなくなってしまった。そして思いっきり、フォール! これで、踏ん切りはついた。次回からは怖がらず、思い切り行けることでしょう。前回よりは上まで行け、ムーブも少しづつ楽になって来た。なのに、もう一回登ろうとしたらもう腕は持ちこたえることが出来なかった。昨日との連ちゃんの疲れがどっと出たようだった。しかし、このルート、かなりのパワールートだと思う。恐怖心もだいぶ取れて来たので、次回はもう少しパワフルにチャレンジしたい。
2006/10/25「前向きと後ろ向き」 雑感
私は朗読をやってる関係上、視覚障害者の方とのお付き合いが多少ある。最近は、障害者とか健常者とかいうことを意識しないで人と付き合うことが多い。それは、視覚障害があると出来ないことが多いが、全く私が忘れてしまう程、いろんなことが出来る人が多いからだ。日常生活ではかなり不便なことがあるでしょうが、それなりにこなしていらっしゃる。ただ、外に出たときにはかなりの危険が伴うのは事実で、特に車は凶器だ。外出のときには、ガイドヘルパーなどのボランティアの助けで外出する人もいるが、出来るだけ人の手を借りないで出かけている人もいる。
私はわりと人が好きだが、苦手な人もいる。人として魅力のあるのは、やっぱり前向きに生きている人だとこのごろ思う。それに反して、後ろ向きということになるが、そういう人は自分の不幸を呪ってるかのように愚痴る。話題が人の悪口も苦手だ。どちらも聞いていて楽しくない。健常者でどうしてこんなに恵まれているのにと思う人でも愚痴しか話さないという、そんな人もいる。
その点、何かに夢中でそのことを一生懸命話す人は、たとえ自慢話だとしても私はおもしろがって聞いてしまう。往々にして、そういうときには自慢しているようにとる人も多いが、自分が夢中になってるときには、楽しくて仕方がないようで話さずにはいられないようだ。そういうときには多少自慢になっても良いのではいかとも思う。しかし自慢するために人に話すのは、言語道断でもあるし鼻持ちならないことだ。
昨日、ピアノを買いに行くSさんにお付き合いして来た。Sさんはほとんど目が見えていない。しかし、子供の頃から憧れていたピアノをしたいとずっと思いながら、なかなかきっかけが掴めなかったらしい。それが迷ったあげくに、「ボケ防止に」などとおっしゃいながら意を決してされることになったのである。もうすでに、点字のバイエルと併用の曲を注文されてる。
ピアノは、近所迷惑にならないようにと電子ピアノ(クラビノーバ)にされたが、夕方電話で嬉しそうに弾んだ声でピアノが来たと報告があった。何だか自分のことのように嬉しくなってくる。
Sさんにとっては、これから(私とほぼ同年齢)ピアノを買い、練習を始めるということは一大決心であったに違いない。「これから頑張って練習して、90歳コンビでコンサート開いて連弾しょう! みんな、あっと驚くで〜」となにげなく私が言ったのが、やろうと決心させたと言うのだ。責任重大な発言を私もしたものだ。長生きすることと、ピアノの練習を私にも課せられたようなもので頑張らないといけない。
彼女は因みに、パソコンも出来る。パソコンを自由に使えるようになるには、健常者にでも計り知れない苦労があるのが私には分かる。驚いたのは、キーボードの位置は最初は丸暗記から始めたそうだ。未だにブラインドタッチが出来ない私にしたら、これも驚きだった。
彼女にはボランティアをしているつもりで、いろんなことを教えてもらってるとこのごろ思う。まずは、前向きに生きることが人生を楽しくさせるということだ。そして、何にでも好奇心を持つこと。出来ないことでもやりたいことは、とにかくやってみることなど…。
もっと重大なことは、人は障害者だから健常者だからということはお付き合いする上で重要な問題点ではないということだ。人として魅力的かどうか、ということが物差しになるようだ。
2006/10/23「蝙蝠谷」 クライミング
土日続けての蝙蝠谷にくたくた。復活は私にとっては厳しいルートである。昨日は、テンションだらけでリードでトライしてみた。しかし、最後まで抜けられず、シリコン状のもので貼付けられた岩を掴んだ状態で今回は終了。トップロープで登っていたときとは、ムーブがかなり違っていた。今回やっと、ムーブが分かった。やっぱり、恐いからとトップロープに逃げていたら、あかんなぁ〜と思った次第だ。いつものことである。
そして、クライミングはいつまでたっても、弱い自分との戦いだと思った。これはやっている限り続く私の葛藤だ。
蝙蝠谷で最初にこの壁を見たときはスケールに驚き、まずはお呼びじゃないなぁ〜と怖じ気づいた。一番簡単な「もういいでしょう」5.9でぼたぼた落ちる。最初の頃、「オンサイト、狙うわ」と偉そうに言って取り付いていきなり落ちた思い出深いルートだ。「これがナインというのはおかしいわ〜」と毒づいていたら、なんとルート作成者が横にいた。「ここを登れないんなら、蝙蝠は来る資格がないということや〜」とこのHさんに言われてしまった。
だが、そんな言葉にはめげずにもう何回か来ている。そして、いまだに落ちてしまい、アップにはならないルートだ。
「いつかは、復活登りたいなぁ〜」と秘めたる決意はあったが、ここでは10台もまともに登れなかったので尻込みしていた。それに、復活のある壁は上の方へ行くと被っている、長〜いルート。見るからに恐ろしそう。しばらくは、近寄ることが出来ず眺めるだけだった。まして混んでいたりすると、気持ちも萎えて取り付けないでいた。
しかし、ここのところの蝙蝠谷は幸いにも空いていた。遠慮なくトップロープが出来た。トップロープでも最後のハングは乗っ越せていない。そして、昨日の初リードであるが、一回にしてヘロヘロになってしまった。2回目は指先が痛くなり、持ちこたえず3ピン目を掛けて下りて来てしまった。
先は長い気がするが、とにかく勇気を持って取り付いて行くことにした。「1手、1手上へ」その繰り返しで時間が掛ってもしばらくは、頑張ってみたいと思った。
復活を登るTさん
2006/10/18「比叡山とは?!」 ハイキング
比叡山のピークは、大比叡(おおびえい)という。通称は比叡山で標高848.3m。長い間京都にいて、な〜んにも知らんかった。私が、中学のときも行ってる。我が家の子供が小さいときにも、雲母坂から登ったことがあるし、根本中堂にも行ってる。それで比叡山に行ったとウン十年言っていた。昨日、夫が出張の代休で休みなので蝙蝠谷にクライミングに行くつもりだったが、京都で午前中に用事が出来てしまったので、急遽「比叡山にでも登ろうか」ということになった。
のんびり、京都の街の路地裏を通りながら昼頃から出町柳に向かった。西陣を通ると、昨年の暮れに鶏肉の水炊きを食べた「鳥岩楼」の前に来た。ここは、昼は親子丼で名前が知られている。「親子丼ぶり食べよか」ということで寄り道し、古い町家の二階に上がり込んで名物の親子丼を食べる。比叡山のことはちょっと頭をかすめたが、誘惑には負けてしまった。特に美味しいとは思わないがまずくもない。おつゆでヒタヒタなのと、小さな真っ白の蓋付きの丼の器は、京都らしいなぁ〜と思った。テーブルも座布団も小振りでお上品だが、お尻がはみ出して座り心地は今ひとつだ。
腹ごしらえをして、さてバスにでも乗ろうかと思ったらもう時間が1時を過ぎている。バスと叡電を乗り継いで行くと、頂上で日が暮れてしまう。これは大変だと慌ててタクシーを拾う。お陰で、2時前には雲母坂の登り口まで到着。タクシーを降りてから1時間半ほどで、ケーブルの頂上の駅へ。今はもう潰れてしまっている人工スキー場を通り、比叡山のピークを探し求める。地図で見ると、この人工スキー場からも行けるのではと思ったが、これはダメだった。立ち入り禁止の札がある。もう少し行ってから、バスターミナルへ出る。ピークへの道標は全くない。
駐車場にいたガードマンに聞いてみると、「ガードレールを登って行くとピークはあるが、何にもないし、何も見えない」という。せっかく来たから、ピークを踏むことにして舗装道路を行く。突き当たりから右にまわって登るとテレビの中継塔などがあり、その奥の上で探していた三角点が見つかった。大比叡と書かれてはいるが、さっぱり魅力には欠けたピークだった。天下の比叡山がこんなだったとは、京都で育った私としては悲しかった。今は廃虚のケーブルの駅舎と寂れた清滝を思い出しながら、今の愛宕山が俗化を拒んでいるのは偉いと思った。比良も、もうロープウェイやリフトは撤去されたのだろうか?
下りてくると、ちょうど4時20分のバスが発車したところ。次は5時だが、バスに乗りたい誘惑に打ち勝って来た道を下った。ケーブルの駅から見た、京都の黄昏は綺麗だった。下りたときにはもう、真っ暗になっていた。
慌ただしいハイキングとなったが、近くなのになかなか行けなかった比叡山のピークを踏めたことはよかった。昔少し歩いた東山トレイルをまた歩いてみたいと「東山トレイル」の道標を見ながら思った。
「人は自分の歩いた道しか知らない」のだ、ということを自覚した。
バスターミナルから見た大比叡
大比叡の三角点
2006/10/15「従姉妹」 レジャー
私には父方の従姉妹が、女性は4名で近くに住んでいる。子供の頃には姉妹のような関係だった時期もある。別々では出会ったりするのだが、大人になってからはそれぞれ生活環境も違っていたりで、疎遠になってしまっている。少し前に従姉妹の一人と出会ったときに、今度お昼でもみんなで食べにいかないかという話になり、みんなの都合で急に今日に決まった。
ずいぶん久しぶりなのに、親戚っていうだけで何となく近親感を抱くのか、最初から打ち解けてしまう。子供のときも、みんなこんな感じで話したりしていたような錯覚を起こしてしまう。長い間の時の経過も、それぞれの生活も感じさせない不思議な数時間だった。
みんなに共通の人が祖母(おばあちゃん)だというのも、当たり前なのだが今日初めて私は認識した。
食事の後、近くのコスモス畑に行った。そこには私が子供の頃のような、また懐かしい風景。コスモスは10本100円で切り取ってもよい。畑の、竹筒の中にお金を入れる。それも、私が子供の頃に柱に掛っていた貯金箱と同じだった。時々、子供だった弟が小銭を一生懸命出そうとしていたのを思い出す。
コスモス畑の中で無心にコスモスを摘んで、コスモスを抱えて子供のような笑顔だった。
また、このような機会を持つ約束をして別れた。
枚方市穂谷のコスモス畑
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2006/10/9「クライミングの秋か?」 クライミング
この連休は、小川山に予定していたが雨模様なので中止して星田と蝙蝠谷でお茶を濁すことになった。どちらも空いていたのは、やはり備中や鳳来へ出かけた人が多かったのか…。蝙蝠はまだ何回かしか行ってないが、とても空いている。昨日も私たち4人の他は、男女2人だけだった。澄み切った空気と爽やかな風に秋を感じる。
いよいよ、やる気も少しは出て来たようだ。私はこの間哲学の道がRP(10c)で来たので、今度は復活(11c)に取り掛かりたいと思っていた。TRで登られせてもらったが、ワングレードの差はかなり大きい。2回登って少しムーブが分かって来たようだ。しかし、まだハングの下までしか行けていない。
1回目に持てなかったホールドが2回目に体の振りで持てたりすると、何となく可能性を感じる。しばらく、通って登り込みたいと思った。
これから、しばらくはまたクライミングの季節かもしれない。ぼちぼち、また楽しみたいものだ。蝙蝠谷は空いているので、下手な私も取り付きやすい。
最初に取り付いたときに尖ったホルドを持って落ちてしまい、指の皮がむけてしまった。というわけで今日は、祭日だが久しぶりに家でのんびりと過ごしている。
2006/10/6「御嶽山と開田高原」 レジャー
夏の御嶽山の高山植物もいいが、八合目の紅葉がとても綺麗らしい。関西からは比較的近いので、母の温泉旅行付きでの山行には持ってこいだ。最近、母も一人で温泉に残置しておくのも少し心配だと思って躊躇していたら、山には行っていないもう一人の娘が「おばあちゃんに付き合ったげる」といってくれたので、心置きなく御嶽山に登ることが出来た。
温泉は開田高原の「風里」という宿を二泊予約し、私は一泊目は五の池小屋で二泊目に二人に合流。(御岳ロープウェイから八合目〜三の池〜四の池〜継子岳〜五尾の池小屋(泊)〜お鉢巡り〜五の池〜八合目〜ロープウェイ〜開田高原(泊))
この御嶽山のルートも最初にしては、とてもいいコース選択だったと思う。御嶽山をぐるっと周遊したことになった。
ロープウェイに迎えに来てくれた娘に、「開田高原てどんなところ?」と聞いたら「何にもないところ」という。私は「何も無いって…、???」と問い返すと、「何にも無いんや!」と返事。こんな禅問答のような会話をしながら着いてみて意味が飲み込めた。
夕方、娘と散歩していて「なんにも無いって言うけれど、大自然があるやんか!」というと、「たまに来るからええけれど、私にとったら退屈やわ。ここでは暮らせへんわ〜」と娘はいう。
そうか〜、都会派の娘にとっては田舎は退屈なものなのだ。そういえば私も若かった頃には、やらなければならないことが沢山あり、こんな風景にのんびり浸っている余裕は無かったことを思い出した。
「そうやねぇ〜、たまに来るからこういうところも感動するのかもしれへんねぇ〜」という私の言葉に、やっと彼女も同意した。山も、たまに来るから感動的な出会いがあるのかもしれない。
しかし、開田高原は何も無くても良いところだったことも事実だった。私たちが泊った「風里」は温泉も料理も良かった。何よりも部屋からの風景も良かった。母も、とても喜んでくれた。
我ながら、良い企画だった。
http://www.kiso-tutaya.com/kazari.html (風里HP)
http://www.asahi-net.or.jp/〜hv4n-ickw/index.htm (五の池小屋HP)
http://happy.ap.teacup.com/tamachanno/ (tamaのブログ)
開田高原の風景
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妻籠宿にて
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2006/10/1「髪を切る」 雑感
一週間が早い。何だか慌ただしく過ぎてしまった。ハイキングに行ったことも、朗読の会の会合も、昨日の蝙蝠谷のクライミングもずっと前のことのような錯覚を起こしそう。今日は星田の予定だったが、あいにくの雨なので、私はもうやる気が失せ、夫を送っていってすぐに帰って来た。久しぶりに、家でのんびりしようと思っていたが、髪の毛がもう限界に来ていたので帰りに従姉妹が美容師をしている行きつけの美容院に寄った。
美容院にも病院と同じでカルテがあって、私が何時髪を切ったかが記録されている。一番近い間隔で、三ヶ月位。間が空くと6ヶ月ということもある。化粧もほとんどしない。いつも、毎月切りに来ないとダメと従姉妹に叱られる。
昔知っていた人に、化粧をしないで外に出られない人がいた。早朝ゴミを出しにいくときにすでに、化粧している。ある日、彼女がスカーフを深々と被りサングラス姿でゴミを出しに出ていたところに出くわした。声をかけると、寝坊して化粧していないからという理由でそそくさと顔を伏せて足早に行ってしまった。
私が化粧をしない理由で思いつくのは、毎日が慌ただしく暇がない。たいして代わり映えがしないなどいろいろ浮かぶ。やっぱり、人工の美は美しいとは思えないのだろうか。というよりは、興味が全くないのだろう。
それよりも、日々やらなくてはならないことが次から次へとあり忙しい。そんな暇に、用事の一つも片付く。今の私の廻りで、山やクライミングをやってる女性は、化粧はしていない。化粧したり着飾ったりとは関係のない世界なのだろう。山で厚化粧の女性に出会ったら、やっぱり私は気持ちが悪い。
これは、価値観の問題だ。人はみんな興味の持つものも価値観も違っている。その中にどっぷり浸かるとそれが当たり前の世界になる。少なくとも、いろんな人がいることは認め合わなくては。
そういえば従姉妹も、最近私に美白化粧品を薦めなくなった。儲からない、客だ。
22006/9/26「紅葉の季節に思うこと」 雑感
帰って来た夫に、「今日はおばあちゃん(母)に振り回されて、一日終わってしまったわ」と愚痴ると「おばあちゃん、えらい力だなぁ〜」とのたまう。昨日は、定期的に行ってる病院のハシゴと買い物に付き合わされた。よく年寄りは赤ちゃんに返る、などと言われるが、母もほんとうに手がかかるようになって来たと思う。しかし、手伝ってあげなくてはならないことがどんどん増えて来るのは赤ちゃんとは反対だ。赤ちゃんは、どんどん子供に成長していき手が掛らなくなっていく。
それでも、まだ一人で出来ることは自分でやろうと頑張っている母を見ると、出来るだけ頼まれたことしかしないようにしている。
前日、掃除をして座布団を夏用から冬用に変えて、草引きをしたらくたびれてしまい首の廻りが凝って痛くなったので、また針治療院がこの日眼科に加えて増えたという訳だ。「無理せんときや〜」と言いながらも、私は手伝わない。仕事を見つけてやる気のあるときは、元気な証拠。
高校時代の友人が一年半の看護の末、お母様を看取られた。家を明けられないというので、時々お邪魔していたのでその間の大変さが身にしみて分かる。未だに、老人看護は家族(特に女性)に大きな負担を強いられる。電話で「これからは、どんどん誘ってね」と言われた。
私の母は、なんだかんだと手がかかるようにはなってはいるが、まだまだ自分で出来ることはやる気があるので助かってる。しかしいずれは…、という覚悟は出来ている。そのときまで、出来るだけ自分のやりたいことをやっておかなくては…。その次は、自分たちの番が巡って来るんだろうなぁ〜。
そんなことを、今から考えても仕方が無い。来週は、御嶽山へ紅葉を見に行こうと思ってる。また90歳の母屋のおばあさんと83歳の母も一緒に行って、開田高原の温泉で私が下山するまで過ごしてもらうことにした。今回は娘も一緒で、年寄り組に同伴してくれるというので心強い。何だか、もうこのような機会は最後のような気もしてくる。
この時期御嶽山で唯一開いている五の池小屋に問い合わせたところ、来週は紅葉が一番いいのではないかということだった。写真で見ると御岳ロープウェイからの8合目からが素晴らしい。今から楽しみにしている。どうか晴れますよ〜に!
2006/9/21「平日クライミング」 クライミング
久しぶりの平日のホシダだった。いよいよ秋到来かな、と思って長袖で行ったが、今日のホシダはまだ暑かった。一本登ると汗が落ちるが、夏と違うのは肌がべたべたしない。すぐに乾いてしまう。今日は9人と平日にしては多かったが、それでも週末とは大違いの静かなホシダだった。
新しいルートにチャレンジしている。チャレンジする気持ちが、やっと少し湧いて来たようだ。
緑(5.10cぐらい?)と黒のテープ(5.10dぐらい?)は高校生の大会の予選ルート。競技のために作られたルートは、下からだんだん難しくなり、最後の終了の下でかなり難しくしてある。登らせるためのものではなくて、落とすためのルートだと思う。終了点を参加者の多くが掴めたら、競技にはならないから当然のこと。
しかしホシダのグレードから見れば簡単だと思う。どうも世間グレードとホシダグレードはズレを感じる。緑も取り付いたときから最後だけでテンションが掛ってしまっていたが、先週の土曜日に登れた。黒は未だに最後のハングの一手が行けず終了のホールドが掴めない。このルートもそこだけなんだけどなぁ〜。
今日は、ホシダの正面の新しいホシダ純正(?)ルートの黄色テープも登ってみた。これも5.10dということだが、前者の緑と黒と比べると最初から最後まで5.10dといった感じで非常に難しい。これぞホシダルート! まったく手も足もでない状態でドタバタ登りで見てはいられないものだっただろうが、登った後の後味は充実していてよかった。これが、不思議な感じがする。尻尾まであんこの入ったたいやきを食したときと同じような、登れないのに不思議な満足感と充実感があった。
人は、より困難なものに挑戦していること自体に、充実感が得られるのだろうか。意欲がないときには、自分に取って簡単なところでお茶を濁し時間をつぶしてしまうのだが、そんなときには充実感も湧いてこない。
今日は、せっかく来たから登っておこうというのではなくて、登りたいと自発的な気持ちになっていたような気がする。
やっぱり、秋だなぁ〜。
2006/9/17「結局ホシダ三昧となる」 クライミング
今週末は、台風と秋雨前線の影響で天気は大幅に崩れるという予想で、せっかくの3連休なのに予定が立たず、結局ホシダに通うという結果になってしまった。(実は明日も予約済み)しかし、台風は九州地方では大荒れで被害がかなりのものだったが、関西はそれて行くようだ。昨日も今日もパラパラとは来たが登れた。今日は、駐車場もハイカーも多く満杯だったし、クライミングもキャンセルがあってやっと昼頃から登れることになった。
だいぶ涼しくなったせいか、ホールドの掛りも良くなって来たようだ。先週ワンテンで登れなかったルート5.10cもやっと登れた。これから、また少しずつイレブン台にもチャレンジして行こうという意欲もちょっと湧いて来たようだ。
しかし、山はそろそろ紅葉の季節。こちらも気になる。
2006/9/11「今日は久しぶりに星田」 クライミング
日曜日、愛車は帰宅。早速二日分の欲求不満解消のためにホシダに向かい「蝶になる」、と言いたいが、飛べなかった。にわかにふ化したところで、まだスイスイとはいかないようだ。ヨタヨタクライミングだ。ホシダは、もうハギが咲き、秋風が心地よくなって来ていた。そろそろ、活動開始しなくては、ほんとうに登れなくなってしまうだろう。
さぁ〜、やるぞ〜、と意気込みだけは、エネルギッシュなFさんを見て湧いて来た。
しかし、今日来ていた男性は3回目だそうだが、スイスイ登る。なんでこんなに個人差があるのだろうと思うと、悲しい。
悲しすぎるのでもう考えないで寝ることにする。
2006/9/9「車が無いということは…」 生活
車が無いということは…。羽をもがれた蝶のよう。今日は、一人でホシダに行こうと思っていたが、とうとう行かなかった。大きな理由は、いつもの足である車を夫が乗って行ってしまったから。電車だと私市駅(きさいちえき)まで行って40分程歩く。今日はまた蒸し暑かった。やらなければならないこともあったし、夕方からは用事があった。……。行かない理由は、やる気の無さを表す言い訳に過ぎないのかもしれない。というわけで、今日は家で充実した一日を過ごした。週末に家にいることは珍しい。夫のクロスバイクで、外に出る。久しぶりの自転車に、ハンドルがぐらつく。前に乗っていたママチャリとは勝手が違う。どうもおばさんの乗る自転車というものではなさそう。買い物かごも無く、不便。ママチャリとおおいに違うのは、またいでから走らねばならないこと。しかし、すぐに慣れてしまいスピードが出て快適だった。このままどこまでも走って行きたい気分だが、肩から荷物を下げた状態では不適切。あきらめて、近くを一周して帰った。
私は車の免許を取ったのが、50になる歳だった。恐がりなので、車を運転する自分が考えられなかった。免許を取った頃は、試練だと思って頑張って乗るようにした。そのうちに、当たり前のように車でしか出かけないようになってしまっていた。買い物も、重たいものもじゃんじゃん買え、車に放り込むだけでいい。時間もかなり短縮出来る。山も車で気軽に出かけられるようになり、行動範囲も広くなる。ただ、大阪だけは行きたくない。ドライバーの気質が合わないのと地理がよく分かっていないのと車線が多いのが気に入らない。大阪人の気質は、車の運転でもよくわかる。
それにしても、車が無い生活はもう私には出来そうにも無いなぁ〜。
006/8/31「もう秋〜、早いなぁ〜」 雑感
朝晩がだいぶ涼しくなっている。昼間も汗がダラダラということも無くなってきた。秋雨前線が停滞していて、大台の中の滝の登攀予定が2回も流れてしまった。楽しみにしていただけに残念。もう今日で8月は終わり。梅雨が長かったせいで短い夏だった。この8月に夏が凝縮していたように思う。とはいえ、いきなり明日から秋ということも無いだろう。まだまだ残暑は、残りそうだ。
短かった夏だったけれど、私には充実した夏だった。暑いのにアクティブに過ごせた。それは、山も十分歩いたし日常生活も充実していたということだ。夏バテという言葉は、私には当てはまらなかった。
新しいこともまたやり始めた。新しいことといっても全く初めてということではなくて、いままでやってきたことの線上にあることだ。この歳になると、全く新しいことに取り掛かるのは大変なこと。
しかし長い間生きてきた分、いろんなことが細々ながら続いてきている。そんな中にも、マンネリ化していてこんなことやっていて何になるのかなぁ、ということもある。しかし悩みながらも取り敢えずは続けていたら、いつかはやっていてよかったと思うこともある。
わたしはやりだしたときに、何をやっても自分には才能が無いのではと失望することが多い。しかし天才的な才能があるように思える人でも、長い間努力して成果というものが出ている。凡人であれば、なおさらすぐに出来るはずは無い。凡人だからこそ、続けていなければ出来るようにならないのだと最近悟った。悟るのも遅い。この歳にならないと、分からないことが多いのも超凡人だと思う。誰でも生活をするだけで日々煩雑なことに追われ、なかなかやりたいことを継続して行くのは難しいこと。そんななかでも、自分に出来る範囲でやって行くしかないのだろう。
クライミングでの私の「継続こそ力」というキャッチコピーも自分を励ますためのもの。クライミングこそ、いつまでやって行けるのだろうとこのごろ思う。山やクライミングの過激なことは、そろそろ「ぼちぼち」やっていくようになるだろう。
しかし、雑多な生活の中で出来るだけ続けて行きたいと改めて思った夏だった。
2006/8/27「真面目な生活?」 生活
毎日忙しい。こんなに出かけていたら当たり前か…。八ヶ岳の記録もなかなか進まない。そんななか山と関係のないやらなければいけにことも溜まってくる。それでも、昨日の土曜日は志津川という宇治の岩場に行ってしまった。岩場としては、マイナーな岩場だが家から車で3-40分で、近いということもありつい行ってしまう。ここはこの時期は蚊に悩まされる。虫除けスプレーと蚊取り線香必携である。それでも、蚊にとって私は美味なのか集中的に刺される。アブまで足にまとわりつかれて、参ってしまった。
暑いのに、5本も頑張って登った。最近難しいと思うと、またトップロープの癖がついてしまった。いけないなぁ〜と思うが、その方が楽しく登れる。これはたえず葛藤してること。今度こそは…、と。それでも、どこでも簡単には登らせてくれない。
帰りに、我が家の近くのスーパー銭湯「極楽湯」に入って、湯上がりのビールを一口(?)飲み、食事もそこで済ませ、帰ったとたんに7時半なのにそのままバッタングーと深い眠りに。ほんとうにゴクラク、ゴクラク…。
しかし、熟睡したら目覚めてしまい、いまごろパソコンに向かってる。
こんな生活、していていいのかなぁ〜。そういえば、大昔の若い頃も夜中にゴソゴソしていたっけ。
02006/8/23「汗ダラダラのホシダ」 クライミング
小川山での不完全燃焼解消のために、昼頃からホシダに行った。涼しいところから帰ったあとだけに、暑さが応える。ホシダは一ヶ月振りくらいになる。やっぱり登れない。しかし5本は、暑さをこらえて汗びっしょりになりながら登ってきた。これですっきりした感じになった。久しぶりのホシダでは平日に拘らず、大阪の高校生のグループといつもの常連シルバー隊、そしてFさん夫妻とMさん、Oさんと15名程で賑わっていた。みんな暑さにもめげず、果敢に登ってる。久しぶりだと、やっぱり手にマメができてきて痛い。
やっぱり、私にとってホシダは山やクライミングの基本。登れなくても、暇を見つけて続けていなくてはならないと改めて感じた。間が空くと、持久力は全くなくなってしまってる。右のハングの簡単なルート。やっぱりテンションだらけでしか終了まで行けなかった。悲しい!
汗を流したあとは気持ちがいい。近場の「極楽湯」に入りに行き、そのあとのビールの美味しかったこと。
2006/8/22「小川山」 クライミング
久しぶりのクライミングだった気がする。日曜日の昼過ぎに廻り目平に着いたときはけっこう駐車場に車が停まっていたが、クライミングを終えて夕方帰ってくるとほとんどの車は帰ってガラガラだった。テントも数える程しか無く静かな夜だった。ただ、天気には恵まれず、次の日も雨がぱらつき、夜になると本格的に降り出した。朝になってもまだ降っていたので、撤収して帰ることにした。クライミングに来て、雨の中テントをたたむのは何となく悲しい。
帰りは時間も早いので、増富ラジウム温泉で入浴して帰ることになり、ついでに近くにあるカサメリ沢の岩場に偵察に行こうと言うことになって行ってきた。駐車場には車は三台あったが、私たちが駐車したときに一台二人が帰って行った。私はそこまで行っていないのだが、コロッセオの被ったところで二人登っていたらしい。残りの車は、その人たちのものだったに違いない。
この日の、カサメリ沢もやはりとても登れる状態ではない。初めて来たが、緑と苔むした岩と水流の豊かな沢が行く筋も流れ込んでいて、とても美しいところだった。
ぜひ、今度はクライミングをしに来てみたいものだ。
小川山(1階のおばさん/天空の戦い10aでみごと敗れる)
小川山/駐車場もテン場もがら空き
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カサメリ沢偵察
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帰りに立ち寄った/日影のトチノキ
2006/8/17「八ヶ岳の縦走」 登山
13日に家を出発し、恒例の小川山へ向かう夫たちに観音平でおろしてもらい、一人で昼頃から八ヶ岳縦走に向かった。編笠山(青年小屋泊)、権現岳、赤岳、横岳、硫黄岳(硫黄山荘泊)、東天狗岳、(麦草ヒュッテ泊)茶臼山、縞枯山、北横岳までまさに登ったり下りたりの連続の3泊4日間だった。単独でお気楽ということもあって、写真を撮りながらまた展望をゆっくり楽しみながらののんびりした山行だった。
八ヶ岳は、北の方は初めてだった。いったいどんな山が待ち受けているのか興味津々だったが、こうして縦走してみると、硫黄岳と天狗岳を境に何もかも違っていたのには驚いてしまった。
山が違うと、人まで違ってる。天狗岳に登る人が、南からと北からでは違ったタイプの人が入ってくるのがよくわかる。南からは、やっぱりザックも大きめのもので装備もちゃんとしている人が入山してくるが、北からはサブザックにスニカーというハイカーが入ってきている。
中山から少し行った下りでの途中で登ってきた少年3人に「天狗岳までどのくらい時間がかかりますか?」と声をかけられた。3人で地図とにらめっこしていたが、A4ぐらいの観光地図を見ていた。さすがに、南ではそういう人は見かけなかった。
ほんとうに、面白い山域だと思う。南の赤岳までの岩稜も天狗岳からの樹林帯も魅力的だった。
そしてついでに、横岳への登山道はロープウェーのさんちょう駅の坪庭を観光客に混じってあるき、和食も洋食も中華も美味しいごちそうをお腹いっぱい食べたような満足感を味わった。
ただ食傷気味だったのは、繰り返すアップダウンだった。これは、歳とともに応える。とはいっても、観光客に混じってこのロープウェーの列に並ぶことは今後はないだろう。
2006/8/10「お盆はどこも人だらけ」 登山
長い間、ホシダはご無沙汰している。こう暑いと、意欲喪失である。常連の人は相変わらず、行ったはるのかなぁ〜と考えるが、毎日忙しいこともあり行こうという気にはなかなかなれない。もう、今週末はお盆である。今日は家にいたので、お盆の計画を練ってみた。毎年小川山が恒例となっているが、今年はパスすることにした。その代わりに途中まで一緒に行って、八ヶ岳のお花でもぶらりと見に行こうかなと思っている。ガイドブックを見ていたら、白馬の次ぐらいに高山植物の宝庫らしい。お花を愛でながらののんびり歩きはいいものだ。クライミングに意欲喪失の状態では、こちらの方が良いのかもしれない。
例年、お盆の小川山の混雑振りも意欲喪失に繋がってもいる。混雑と言えば、山もお盆は凄い人なんだろうなぁ〜。ずっと昔、この時期に裏銀座で笠ケ岳まで行ったときに、三俣山荘は満杯で8時頃まで外で待ったことを思い出した。食堂や廊下で座っていなくてはならない人もいたのを覚えている。その後はテント泊ばかりで、すっかりそのときのことを忘れてしまっていた。今回は小屋泊りの計画だが、そのときのことを思うと意欲が萎えてもくる。
さて、どうしたものか思案に暮れる。観音平からの縦走で行けるところまで行こうと思うのだが、心配なのは一度泊ってみたいと前から思っていた赤岳頂上小屋だ。富士山の展望とおまけに雲海と御来光がみられればラッキーなんだが、ここは多分いっぱいだろうなぁ〜。だからといって、テント泊はしんどいし…。
などと、地図を見ながら思案に明け暮れた一日だったが、楽しいひとときでもあった。
今朝キッチンのかたづけをしていたら、立てかけてあったまな板が落下して足の甲を直撃。そそっかしい。内出血していて、今も痛い。大丈夫かな?! こちらも心配。
006/8/7「現実は忙しい」 生活
のんびり、別天地の穂高を歩いていたのは夢のよう。帰ってからは目の回るような、現実が待ちかまえていた。
土曜日は、親戚の娘結婚式。もう私の世代の子供はどんどん結婚して行き最近は周りでとくに多い気がする。不思議に思うのは、みんな教会だと言うことだ。京都でも、何となくそれらしい結婚式用の教会が目立ってる。こういう教会を何というのだろう。最近のファッションなんだろうか。
しかし、昔ながらの神式の結婚式にしても一つの儀式であって、信仰とは全く関係なく行われていたのだからとやかく言う程の問題でもなさそうだ。しかし個性が感じられないなぁ〜。必要ないのかもしれないが…。
次の日の日曜日は、東京で仕事をしていた頃の同僚だった人物が、甲子園へ高校野球を見に来たで、ついでに京都駅で会って食事をした。年賀状では近況を少し知っていたが、30年以上会っていなかった。
東京で仕事をしていた頃のことを、ついこの間のことのように思い出した。年月はかなり経ているのに、何だか時間を越えてしまったようで不思議な感じがした。
実際、一緒に仕事をしていた期間は短いのだが、何となく彼とはウマが合い、一緒に昼ご飯を食べたりお茶を飲んだりしていた。学生結婚をしていて、いつものろけられていた奥さんも一緒で、相変わらず仲がよい。昔と変わらない、といよりはどんどん昔に逆戻りして行く不思議な体験だった。人は、そう簡単には変わらないんだなぁ〜と思った。
一度会いたいなぁ〜と、思っていたのがやっと叶えられた。
この日のために従姉妹が、手作りした熊のカップル。
2006/8/4「穂高は別天地」 登山
山から下りてくるといつも、下界の空気にウンザリするが、今回程地上との違いを感じたことは少なくない。昨年は大騒ぎをして尾瀬に行った古くからの友人たちが、今年涸沢に行きたいというので計画し、奥穂高岳に登ってきた。いきなり初めての高山が穂高というのは、小屋で出会った他の登山者たちの顰蹙を買い、肩身の狭い思いをした。考えてみれば無謀だったかもしれないが、友人たちなればこそあの雄大な風景を見せてあげたいと強く思った。中高年の事故が多発しているので、かなりの神経を使った登山でもあった。
今年は涸沢までもが雪渓が残り、カールの側のテン場やお花畑も雪に覆われ、いつもの咲き乱れたお花畑は雪の下だった。この世の天国と、誇大広告を友人たちにしていた私は、なんだか申し訳なく思ってしまった。しかし下界での五月頃の新緑の季節と同じくらいで、爽やかな風が吹き、小鳥がさえずり、気持ちのいい山行だった。
ところが、帰ったとたん猛暑との戦いだ。急いで山に帰りたい思いを我慢して、日常の用事を機械的にこなす。久しぶりに車に乗ったときに何気なく外気温度計を見ると、40度になっていたのには驚いた。そして、炎天下での洗車は地獄のようだった。
愛宕山では次の日から筋肉痛に悩まされたが、今回は3日も歩き続けたが何ともない。2ー3日遅れて出る歳でもあるのだが、CWXの効果かもしれない。最近手放せなくなっている。
2006/7/30「懐かしい千石岩」 クライミング
昨日は、本当に久しぶりに千石岩へ行ってきた。千石に行こうとTにいわれたとき、本当に久しぶりだなぁ〜、いつから行っていないのだろうと思い私のHPを調べてみた。記録を見ると1997年に始めて行って最後は2002年8月だった。4年振りだった。こういうときには、便利なHPである。
久しぶりに、再会した千石岩は懐かしい感じがした。それは、初めてのフリーらしい体験をした場だったから。ノーマルルートを登って、そのときのことが浮かんできた。そうだった、最初にここをトップロープで登ったのだ。終了まで行けたのが初めての達成感をフリーで味わった最初の経験でもあった。そうか、もう十年になるんだ。このルートは、私のフリークライミングへの原点ともいえるんだなぁ〜。そしてまだこんなことを飽きもせずやっているんだと、感慨に浸りながら登っていた。
最近では暑さと上達があまりしないこともあり、難しいところを登る意欲も萎えている。クライミングに行くのもマンネリ化していたようだ。簡単なところを、気持ちよく登るのは楽しいことなんだ。だからこんなに長い間やって来れたのだとも登りながら思った。
いつもモチベーションを維持するのは難しい。モチベーションが湧いて来るまで、楽しいクライミングに徹していた方が良いのかもしれないとも思った。
そして、このあとミシガンにTRで取り付きだしたら急に雨が降り出した。通り雨だったが結構降って濡れてきたので私は登らす回収してもらう。びしょ濡れで、駐車場に戻りながら一本しか登れす残念だと思った。また、来てみたい。
このあと時間があったので、湖西道路を琵琶湖を眺めながらドライブした。のんびりとしたいい風景だった。「マキノ高原」の看板を見て、行ってみた。冬はスキー場になっているが、今は緑が美しいキャンプ場になっていて、もう夏休みに入っているせいか、家族連れで賑わっていた。「マキノ高原温泉さらさ」というのがあるので入ってさっぱりした。ここは本物の温泉ではないらしい。
ここは赤坂山への登山口になってるということなので、今度は登りに来てみたい。
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2006/7/28「愛宕山」 ハイキング
昨日は暑いのに愛宕山へ登ってきた。愛宕山というと京都の人には親しまれてきたが、私も愛宕山へは子供が小学生の頃、友人とその子供たちで登ったのが最初だった。昨日、一緒に行ったのはそのときに行った一人だった。あれからもう20年程が過ぎてしまい、その友人はもう愛宕神社もそのときのことも、行ったということのみですっかり忘れているということだった。私は、もう数えられない程登ってる。そして、そのあとも山に登り続けている。
その最初に愛宕山に登ったメンバー4人で、20年後に穂高に登ることになるとは誰も予想はできなかったことだった。そういう私も、今回は久しぶりの愛宕山だった。今回も、ケーブルの駅の廃虚を見てきた。緑に被われてまた雰囲気が違っていたがまだ朽ちずにあった。
今は比良の八雲ヶ原のヒュッテやスキー場のリフトも解体されたそうだ。次はロープゥェイなどに取りかかるということだ。ここは、朽ち果てた建物が残されることなく、自然が取り戻されるようだ。かつて、長いリフトやロープゥェイに乗って、そこから武奈ケ岳に登った風景はもう思い出の中に残るのみ。
全て撤去されてからがどのようになってるか見たいと思うが、下からのアプローチだとそうとう遠くなってしまった。しかし、行かんとあかんなぁ〜。秋の紅葉時にでも行ってみよう。
今回の駅舎の廃虚
2003年12月駅舎の廃虚
2006/7/24「交野市のハイキング」 ハイキング
日曜日は、京都山の子会の例会ハイキングの予定が雨のために流れてしまい。なかなか歩く機会もないので、一人で歩いてきた。雨はパラパラ程度だったが蒸し暑く、立ち止まるとかの襲撃に遭い。今もポリポリと掻きながらパソコンの前に座ってる。
ハイキングコースとしては、けっこう面白かった。いつもホシダに行ってるが、近場にけっこう楽しめるところがあるのが分かった。
私が子供の頃(小学生)、私市からくろんど池までハイキングに連れて行ってもらった記憶がある。くろんど池では、ボートにも乗せてもらった。
そのときのことは断片的にしか覚えていないが、ハイキングということ自体が何だか特別なことをしているような気がしていた。ハイキングという言葉も使っていなかったと思う。
何しろ、学校の遠足が凄く楽しいことだった時代だ。そのときは、グリコのキャラメルや酢昆布(都こんぶ)を買ってもらえ、なぜかゆで卵とバナナも定番。バナナも当時は普段はあまり食べさせてもらえない高級品だった。
私の子供の頃は学校に給食がなく、普段もお弁当だったが、遠足のときのお弁当はのり巻きかおむすびの特別なものだった。
家の娘の時の遠足は、おやつが300円以内でという決まりがあり、300円を握りしめてスーパーにおやつを買いに行き品定めをするのが、普段させてもらえないことなので嬉しいことだったようだ。
何でも満たされすぎると、ありがた味は薄れてしまう。
ハイキングのまとめは(報告)
http://www.eonet.ne.jp/~iku-san/12kitayama/12katano1.html
2006/7/23「いつまで梅雨が…」 クライミング
昨日は、朝から蝉が鳴いていた。今年初めてのような…。それも真夏の蝉の声とはだいぶおとなしい。そして、今朝は聞こえない。毎朝、やかましい蝉の声に起こされるようになると、うるさいなぁ、と思うのだが…。いつになったら、やかましい蝉の声が聞けるのだろうか。
昨日一日だけの晴れ間だったようだ。今日はまた午後から雨らしい。山の子会のハイキングは延期になり、今日も昨日に引き続いてホシダに行ってこようかなと思ってるが、どんよりとした空と昨日の暑さを思うと意欲は萎えてくる。登れないからよけいに意欲は萎える。
ちなみに、梅雨明けの時期がネットに載っていた。2000年(7/18)2001年(7/19)2002年(7/20)2003年(8/1)2004年(7/13)2005年(7/18)で平均7/19だと言うことだ。
今年はやっぱり遅いようだ。2003年が8月1日と異常に遅いが、神様遅い梅雨明け新記録を作らないで下さいな。8月の初めは、穂高が待つているのだから…。
22006/7/19「PCへの思い」 朗読
今年の梅雨明けは、例年より遅いそうだ。今日もよく降ってる。いろいろ被害が出ているようだ。今週中は、まだ梅雨は明けないようだ。8月の初めに穂高に行くので、いくら何でもそのときには明けているだろう。涸沢の青空の下でのお花畑が楽しみだ。金曜日には、その足慣らしに京都愛宕山に予定しているが、天気はあやしい。
最近の私は、他のことでも少し忙しくなってきた。それは、また朗読の方にも気持ちが向いてきたことだ。それは、自分で手探りで作成したデイジー図書が朗読へ舞い戻るきっかけとなった。そして私のマックの隣にはウインドウズが鎮座するようになった。慣れない機種なので、最初はいろいろ手間取ったが漸く慣れてきた。本当の所有者は夫なのだが、昼間いないことを良いことにお借りしてる。
私はもう十年来のマック党なので、ウインドウズには拒否反応を起こしていたが、今は少し愛情も出てきた。ファイルも共有でき、こんなにもすんなり仲良しになれると思わなかった。最初の頃は全く互換性がなく、文字化けするしファルは開けなかったのに…。
しかし、私はやっぱりマックが好き。何が好きかというと言うと、すっきりとしてるところだろうか。ウインドウズは田舎っぽい感じで、マックは都会的で垢抜けしているように思う。これは、私のひいき目と慣れもあるだろう。
これからは、私のデイジー図書作りに一役買ってくれるウインドウズに悪口は言えない。仲良くやって行きたい。
パソコンは、いろんな意味でもう私には手放せないものとなっている。
2006/7/17「祇園祭の巡行日に思う」 雑感
今日は大雨だった。お陰で一日中家の中。久しぶりの寝坊。10時間程も眠ったか。よほど疲れていたのだろう。金曜日は烏帽子、土曜日は京都金比羅、日曜日はホシダと炎天下でのクライミングだった。熱中症にならなかったのが不思議な程の暑さだった。疲れるのも無理はない。
関西は天気は概ね良かったのだが、三日とも夕立があった。烏帽子はパラパラ程度だったが、金比羅とホシダではかなりの降りようだった。北の方は天気が崩れていたのでまだクライミングが出来てよかったのだが。
こんな暑いときのクライミングは、成果はさっぱり。しかし毎年同じことを言っているようだが、この時期に暑いからといって、辞めているといざ涼しくなったときが恐ろしい。
しかし、こう暑いと意欲も湧かないし登れないなぁ〜。山のお花畑も気になるのだが、雨だと行く気がしない。
今日は祇園祭。雨の中の巡行をテレビニュースで見ていた。昨年より雨のために十一万人少ないらしいがそれでも十三万人の人出だったそうだ。こんなときでも、見に行く人がいる。昨日の宵山の、四条通りも同じく、人、人、人、、、、。わざわざ、出かける気にはなれない。
最近の山も人が多い。特にこれから、夏休みやお盆になると観光地並みの賑わいだ。お盆の小川山も然り。
どこかに、この時期の穴場はないだろうか。
2006/7/12「梅雨の真っただ中」 映画
じっとしていても汗がしたたるほど蒸し暑い。こんな時期の、クライミングはしんどい。かといって、雨の中山を歩く気力も失せている。一応、先週末も、金、土曜日はホシダへ暑いのに登りに行く。日曜日は、ホシダは講習の日なので久しぶりの宇治の志津川へいった。
半ば義務感で今日の水曜日も、ホシダに行かなくちゃと思いながらも、出そびれて昼前になってしまった。すると雨が降ってきたので、もうクライミングへの意欲は萎え、さっさと中止してしまった。最近は、クライミングを止める理由ばかり探している気がする。そして急遽、映画ダ ・ヴィンチ ・コードを見にいってしまった。
この映画、キリスト教を冒涜しているとか信者から批判されて、TVニュースになっていたが、私には知識があまり無いのでその点は深く理解出来ない。私の印象に残ってるのは、「キリストは神ではなくて、人間である」という前提で、これが大きな問題となるのだろう。信者にとっては、ありえないことなのだろう。「キリストが人間であった」としても、信者でない私には「そりゃ、そうかもしれななぁ〜」というぐらいのものである。
ダヴィンチの最後の晩餐からの分析から展開されるサスペンス風のストーリー展開は、どうもとってつけたようでしっくり来なかったのは、私がキリスト教に対して無知だからという理由だけでもなさそうだ。しょせん、無関係な話なんだろう。
高校生の頃、宗教に興味を持ったが、そのとき宗教家に欺瞞的なものを見て、拒否反応を示してしまった。自分では宗教にのめり込むタイプではないと思う。子供の頃には「宗教心を持った人=善人」と信じていたが、それは今では嘘だということも分かってる。だからといって、宗教心を否定する訳ではない。極楽の話や悪いことをしたら地獄に落ちるとか、嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるとか、子供の頃にさんざんおばあさんに聞かされながら育ったので、今でもその教育は生きていると思うことがある。
「いわしの頭も信心から」という諺もある通り、盲信すると本質が見えなくなるのは宗教だけではないとおもう。なんでも一方的に見て決めつけてしまうのはよくないと思った。
そういう意味では、こんな捉え方もあるのかと面白くこの映画を観た。
2006/7/5「京都金比羅」 クライミング
何年振りの金比羅だろう。とくにYケン尾根を登って頭へというのは本当に久しぶりのことだった。ホシダに1回とこの日で2回目のクライミング体験の二人にとっては、とても新鮮な体験だったようで、喜んでもらえた。私も、山岳会に入って初めてのクライミング体験がここだった。こんな世界が、山にあるというのがそのときの私も新鮮だった。そして私のクライミングのスタートでもあった。それから、10年もたったのを感慨深く思った1日だった。
平日で梅雨時なので誰もいないかと思っていたら、いたいた。女性4名のグループとソロの男性が…。だが、久しぶりの梅雨の晴れ間のなかでの暑い日であったが、静寂を破るのは私たちだけで、静かな金比羅だった。Yケンの頭から見下ろす大原も緑の水田が美しく、まるで箱庭のようだった。遠くに見える、京都の山々も穏やかで、やっぱり「京都やなぁ〜」と思わせる風景だった。
帰りには、金比羅の祠のある頂上まで行ってみた。ここもそのままだった。幸い京都の町も遠望出来、目を凝らすと京都タワーも微かに見えた。彼女たちの住処で、私の故郷でもある岩清水八幡宮の所在地「男山」もかすかに見える。一瞬、信じられなかった。南の端の家を出てから、2時間弱で、見下ろした町の中を突き抜けて来られる。こうして見ると、ぐるりと山に囲まれた京都の町は本当に小さいと思う。そしてけして都会とはいえないこの京都の町の眺めは、昔からの私の記憶と全く変わってはいないと感じた。
また下山道の「京都東山トレイル」の道標を見て、もっと遡って「山と高原地図」の北山を網の目のように歩いた、山歩きを始めたころを思い出した。この20年近くの山への原点は、ここ京都北山にある。懐かしい。久しぶりの金比羅で、やっぱり私はこの穏やかな京都が好きだと確認した。
そして、かつては見えていなかったホールドはガバになり、ホールドもいっぱいあり、階段状であることも確認してきた。たまには、こういうクライミングも楽しいものだ。
写真は金比羅からの京都の町/肉眼では、もっとはっきりと見えたのだが…
2006/7/2「洗濯機」 生活
83歳の母親から、「洗濯機が壊れた〜」という電話が来た。何しろ今まで、35年使ってるというのが自慢の二層式の洗濯機である。歳をとって大変だから買い替えたらという私の忠告には、全く貸す耳が無く、相変わらず自慢し使い続けていた洗濯機である。やっと「新しい洗濯機を買いに連れてって〜」と言われ、電気屋さんに一緒に行ってきた。あれやこれやと迷ったようだが、私が勧めるまま乾燥まで出来るドラム式のを購入した。本人が、その機能を理解出来ているとはそのときも思えなかったが…。
そして取り付けてもらい、その日に電話で「使い方教えたげよか〜」と電話すると「かまへん、取り付けの人が教えてくれたから分かる」と返事。なのに昨日の夜遅く、「洗濯でけへん! 洗濯物がいっぱいたまっている」とまた電話。
今日の朝、行って講習をしてきた。洗濯物を入れ、電源スイッチを入れ、スタートボタンを押すのみ。どう考えても迷うことはないと思うのだが…。なんで、分からないのかが分からない。
歳をとってきたので、出来るだけ楽をさせたやりたいと思うのだが、新しい物に対するアレルギーは相当の物だ。
今日も洗濯機の回るのを見ながら(外から見える)、「あと少ししか生きていないんだから、何でも新しい物を知らんと損するよ〜、チャレンジ精神やで〜」と言って帰ってきた。
先ほど「出来たか〜?」と電話をしたら、嬉しそうな声で「乾いていたんで、たたんでなおしたわ〜。偉いもんやな〜、ありがとう」と返事が返ってきた。
「楽してや〜」というと「ほんまは、竿に洗濯物干すのん辛かってん。助かるわ。」という。
やれやれ、世話が焼ける母である。
2006/6/28「烏帽子岩」 クライミング久しぶりの烏帽子岩。晴れていたのは嬉しかったが、蒸し暑さは凄まじい日だった。一本登っても汗が滴り落ちる。こんな平日なのに結構人が来ていた。久しぶりの烏帽子は、全く登れない。こんな暑い日に登れないのは当たり前かと思ったりするが、やっぱり岩場離れが大きな要因だろう。もっと、重大な原因は体重増加にあることは、否めない。これは書きたくない、というか認めたくない。何とかしないと、このまま登れなくなるとクライミングから離れてしまうような気がする。やっぱり、何でもありの生活や山をやってるとクライミングも上達しない。所詮は遊びなんだから好きなようにやれば良いようなものだけれど…。
「毎回(15年以上)思うことですが高地に行き、なおかつ日本で困難なクライミングに挑戦することは、なかなか両立もできず難しいです。しかしどちらも好きなので仕方ありません。フリークライミングは1から出直しです」
「下手なクライマーでも挑戦する権利はあるわけですから。とりあえず頑張ってみます」
(山野井通信より)
何と謙虚な…。
私が上達しないのは、当たり前。とりあえずは頑張って続けて行こう。
2006/6/27「みんぱく」 レジャー
「みんぱく」に行ってきた。大阪の万博で私の記憶に残っているのは、今では岡本太郎の「太陽の塔」と三波春夫の「今日は〜、今日は〜、世界の国から…」という歌のみ。1970年ということだから、私は20歳。その当時は、行こうと思えば簡単に行けるところに住んでいたが、全く興味がなく行っていない。その頃から、人の沢山集まるところはいやだったようだ。
烏帽子や不動などのクライミングに行くときに、エクスポランドの観覧車や太陽の塔はいつも見ていておなじみの風景でもある。なのに、一度も行っていなかった。考えてみても理由は分からないが、立ち寄ってみようとも思っていなかった。
それが、この民族博物館「みんぱく」で触る展示物が特別展であるから、行ってみようと言うことに朗読関係の友人に誘われた。内容はあまり理解していなかったが、時間があれば誘われたらとにかく断らないのが私の主義でもある。
その特別展は、視覚障害者のための教育教材の展示だった。現在の点字になるまで、視覚障害者の人たちに文字や情報を伝える手段がいろいろ世界中で試行錯誤されてきた歴史がよくわかった。日本でも、明治の頃の点字教材が展示されていた。文字を和紙で浮かび上がらせて触らせるようになっていたり。針で文字の通りに穴があけてあったりしてる物が初期の物だったようだ。
ゴッホの絵や地図も触っても分かるように立体的に出来ていたりしたが、私たち健常者の情報に比べたら、なんとお粗末な情報なんだろうと思える。
私たちの細々とやってる朗読も、その一助にはなっている。少しぐらいは、役に立っているんだなぁ〜と思えた。
2006/6/25「今日は雨だから」 音楽
朝から雨。ホシダの予約はキャンセルして、一日中パソコンに向かっていた。何をしているかと言えば、カセットテープのCD化をしていた。子供が小さかった頃に録音した声や歌、ピアノの発表会で録音したものもCDにしてみた。そしてレコードから録音した童謡やピアノ曲など、今ではほとんど聴かないようなものだが、それぞれの音楽には思い出がいっぱい詰まってる。CDには、綺麗な印刷もした。立派な保存版CDが出来上がった(写真は一例)。
長い間生活してくると、いろんな物がたまってしまう。整理してすっきり暮らしたいと思うのだが、なかなか出来ない。特に、本やレコード、写真などは思い出がそれぞれにあって捨てられない。今やネットで何でも調べられ、すぐに手に入る時代なのに…。考え込んでしまう。
特に、処分出来ないものは今までの思い出に繋がるもの。
何とかしなくてはとも思う。しかし、捨てるしか片付かないのだが、それが難しい。
捨てられないなら、せめて整理整頓してすっきりしたいものだ。
2006/6/22「お花の匂いから」
昨日は早くから寝てしまい、夜中に目が覚めてしまった。何だか年寄りっぽい。天気予報の晴れマークは、どうも昨日で終わるようだ。今週末はいよいよ本格的な梅雨空になるのか…。最後の梅雨の晴れ間をじっとしていられなくて、ホシダへ久しぶりの平日クライミング。駐車場を出たところで小さなアザミとこの間のハイキングでハギと間違っていたコマツナギにまた出会い、「しまった、カメラを持ってくればよかった」と一瞬思った。
私の家の中では、実家の庭から切ってきたユリが匂っている。ユリは母が好きな花で、この季節は庭に沢山咲いている。そして、毎年一輪「持って帰り〜」と行って切ってくれる。しかし、私はやっぱり野や山に咲く花に惹かれる。
奈良の「あじさい寺」で有名な矢田寺へいってきたという視覚障害者のSさんから「アジサイも種類が多いのですよ。人が沢山来ていました。お寺で食べた精進料理が美味しかったです。アジサイの匂いをかいだことがありますか? 甘茶の匂いがしますよ。紅茶に似た匂いのするのと2種類ありました。春はお花が多いから楽しみが沢山あります。」というメールが来た。
「おはようございます。といっても、今は午前3時。早すぎますね。昨日は夫が出張でいなかったので、ホシダの疲れも手伝ってあまりに早く寝てしまい、2時半に目が覚めてしまいました。まるで、年寄りですね。(笑)
私はSさんにお会いするまで、あまり匂いは意識しませんでした。不快な匂いはすぐに気になりますが、いい匂いはほんとに大雑把でした。花は目で見るもので匂いはその次でした。
それにしても、紅茶や甘茶の匂いがあじさいにあるのは知りませんでした。そもそも、日頃紅茶と甘茶の匂いすら区別もできず、どちらを飲んでも一瞬意識はしてもすぐに忘れてしまっていたのでしょう。それに、日頃思い出すこともなく、私があじさいの匂いを嗅いで、紅茶や甘茶の匂いが蘇るなんてありませんでしょうね。今度、あじさいの匂いを嗅いでみます。見えるということは、見えないものも作っているのかもしれませんね。
先日の、ハイキングでも自分一人では気がつかず通り過ぎてしまうことも、いろんな人と一緒だったらいろんなことを学ぶことが出来ます。人間って、ほんとうに奥が深い動物ですね。生きているうちに自分の知る知識はほんの僅かですが、いつも好奇心いっぱいでいろんなことに目を向けていたいですね。
感性豊かなSさんにも、いろんなことを教わりました。そして、これからも…。」
さっそく、返信を書きました。
2006/6/19「無知を知る」 ハイキング
日曜日、朝起きたらまだ雨が…。今日の山の子会のハイキングはあるのかな、と思いながらもホシダは近いので行くだけ行ってみようと朝早くから家事も済ませ、とりあえず用意をしていた。Sさんからはキャンセルのメールが入っていた。Tさんには途中の星ヶ丘駅で乗ってきてもらうことに電話でお願いして出発。今回の、ハイキングは私たちの地元の星田園地だった。クライミングに通い続けている私には、自分の家のようなもの。駅で電車に乗るとちょうど山の子会のメンバーと同じ電車に乗れた。この天気なのに総勢31名、といつもながら大人数となった。こんなに沢山の人と歩くと、星田園地も違って見える。クライミングウォールは、いつもの顔見知りがクライミングに興じていた。
この会では、植物の名前に詳しい人が多いのでいろいろ教えてもらった。いつも、駐車場を出たところで咲いている花は、長い間「ハギ」だと思っていたが、これが大違い「コマツナギ(駒繋ぎ)」だという。道理で夏前から咲いているはずだ。馬を繋いでも折れないくらい丈夫だからこのような名前が付いたという。(残念ながら、写真は撮っていない)
ピトン小屋で少し休憩してから、星のブランコ(吊り橋)を通り過ぎると真っ黄色の花が咲いていた。これは外来の園芸種でキンケイギクというらしい。その横に、見慣れた白い花。これはヒメジョオン(姫女苑)。
やまびこ広場で昼食。ここから少し下ったところの八つ橋と言うところに、ササユリが咲いているとピトン小屋のペイさんに聞いていたので、一人で探しに行ったが残念ながら見つけられなかった。
そこから、少し戻り星田駅の方に下ると、ハナイカダという植物があり教えてもたった。葉っぱの真ん中に花を咲かせる。こんな珍しい植物はいままで全く知らなかった。葉っぱを筏にたとえて花を人に見た立ているらしい。生きているうちに知ることはほんの僅かなんだなぁ〜、と改めて思った。知らないことが多すぎる。
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2006/6/17「梅雨真っ最中」 クライミング
今週末は、二転三転して天気は晴れになっていた。久しぶりに娘とクライミングの約束をしていた。3ヶ月の療養生活から復帰してやっと医者からクライミングのお許しがでた夫と三人そろってホシダへ行った。最初は烏帽子に行こうかなと思っていたが、夫はリハビリクライミングなので岩場は敬遠した。朝から蒸し暑く、一本登っても汗が滴り落ちる。今日は降らないと思っていたのに、お昼過ぎから降り出し、かなり強い雨になってしまった。やっぱり梅雨だなぁ〜、と改めて自覚した。
今日のホシダは、比較的空いていた。明日はもうすでに、定員オーバーになっているらしい。こんな季節なので、ついホシダに足が向くのだろう。そういえば最近のホシダは高校生が多い。それも、何故か男の子ばかり。
明日は、私はホシダに行くのだが、京都山の子会(視覚障害者の山の会)のハイキングでだ。晴れてくれればいいのだが…。
2006/6/15「トマト」 生活
ここのところ、いろいろ用事があって慌ただしく過ごしていたが、今日は何もすることが無い。先ほど、ちょっと出かけて帰りに家のそばの農協によってきた。ここでは、近隣の農家がいろんな野菜を競うように売っている。もぎたて野菜だ。先日、Sさんがスパーのトマトは青いうちに収穫してスーパーに並ぶ頃に赤くなるようにしている。だから、見た目は赤くても裏側をひっくり返すと半分位青くて、固くてまずい、と言っていたのを思い出し、真っ赤なトマトの裏を返してみた。裏までちゃんと真っ赤だった。大きなトマト4個入りで、300円は安い。そして完熟トマトは、見た目にも美味しそう!
さっそく、帰ってからお砂糖をかけて食べてみた。やっぱり、期待は裏切られななかった。昔のような、トマト臭さはないが、スーパーのとは格段に違っている。
これを、読んだ人の中には「え〜、トマトに砂糖!」と驚くかもしれない。私の子供の頃は、家業が農業だったので、トマトとかキュウリとか茄子は夏になると、毎日毎日食べていた。他の野菜もしかり。旬の野菜も毎日続くとウンザリしてくる。
特に、トマトはおやつもおかずもである。私の家では、おやつでのトマトは砂糖で食べ、おかずでのトマトはソースをかけて食べていた。この話を、東京育ちの夫に言うと、砂糖もソースも気持ち悪いという。そういえば思い出したが、結婚当初は目玉焼きも私はソースで夫は醤油だった。最近は慣らされてしまい、私も醤油をかけているのだが…。この他にも、いろいろある。今では、たいがいのものは素直な私が折れて、夫の流派に嵌ってしまっている。
それで、話はトマトに戻るが久しぶりに食べた、砂糖をおかけたトマトはとても美味しかった。素材も良いからだろうが、皆さん一度お試しあれ。
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2006/6/10「高野山」 レジャー
この一週間、また忙しくあっというまに過ぎてしまった。ゆとりがないなぁ〜。そんな中でも、木曜日はホシダ、金曜日は世界遺産「高野山」へ京阪電車の高野山1dayチケットを購入して友人と行ってきた。晴れるかと思っていたが、1日霧雨のような雨が降り続けていた。いい息抜きになった。高野山も奥が深く、いろいろハイキングのルートもあるようだが、今回は奥の院と金剛峰寺(こんごうぶじ)、霊宝館へ行った。お昼は決まりの精進料理。お土産は、ごま豆腐と高野山初めてのモデルコースだった。
南海電車で、難波から極楽橋駅まで行きそこからケーブルで高野山駅へ。そこから霊気が漂って来るように思うのは気のせいか、はたまた天気のせいか…。バスで一橋まで行く。車窓から眺めていると、田舎町という感じだが民家はあまり見当たらず、お寺ばかりが目につく。当たり前か〜。
バスを降りると、奥の院へ歴史上の人物のお墓を通り奥の院まで。奥の院は弘法大師の廟。撮影の禁止。ちょうど、お昼時で弘法大師のお食事時間だったようで、小さな木の箱を担いだ二人の坊さんをお年寄りのお坊さんが先導して、みな一応にマスクをして奥の方から歩いてこられた。どんなものを、弘法大師は召し上がるのか、箱の中を覗きたくなった。
バスで中心街の千手院橋まで戻り、お決まりの精進料理定食を食べ、金剛峰寺と霊宝館を拝観してとうとう霧で視界がなくなった幻想的な中をケーブルに乗って帰路についた。
一度は行ってみたかった高野山が、やっと行けた。
今度は、ハイキングのルートを歩いてみたいと思った。
弘法大師伝説(引用)
日本各地を回り、驚くような伝説をいくつも残している弘法大師ですが、62歳の時に死期を悟り、高野山の廟(びょう)に籠りました。86年後、とある事情で、絶対に開けない廟の扉を開けてみると、なんと驚いたことに、そこにはまるで生きているかのごとく座禅をくんでいる空海の姿があり、しかも、顔が見えないくらいに髪の毛が伸びていたとか…。
高野山では、今でも弘法大師は廟のなかで座禅姿のまま生き続けていると信じられています。そのため、毎日の食事が変わりなく供えられ、廟に籠ったときに灯されたという火は、1000年以上の歳月を経ても一度も絶やされることなく廟を守り続けているのだそうです。
以下、1dayチケット:高野山のバスも乗り放題の格安だった。
http://www.keihan.co.jp/traffic/otoku/kouya1day06/index.html
2006/6/5「久しぶりの岩といった感じだった」 クライミング
蝙蝠谷に、誘ってもらい引く気持ちをむりやり高揚させ行ってきた。いつもながらのことなんだが、行ってしまえば登れる登れないに拘らず、楽しい。しかし、相変わらず哲学の道5.10cは3回チャレンジしたがだめだったが、次は登れそうな気がする。凝灰岩は手が痛くなり、私は苦手だ。昨日も1回登っただけで、指先の皮が捲れ、血豆が出来た。2回目でその血豆も破れ痛い。もう少し、岩に指先もなじませる程岩場に通わなくてはいけないようだ。
この日の蝙蝠谷は私たち3人だけだった。私は3回目だったが、前に行ったときも誰もいなかった。最近は、いつもこんな状態なのだろうか? それだったら、少し難し目のルートに取り付くチャンスだが…。
蝙蝠谷は昼前から日陰になり、夏でも登れる壁だと聞いている。しかし、この日は1本登っただけでも汗が吹き出る暑い日だった。
やっぱり、フリークライミングは毎週通わないとだめだなぁ〜、とつくづくと思った。
2006/6/1「薊岳」 登山
以前に薊岳はいい山だと聞いていた。奈良の山に知識があまりない私はそのときに、どんな山だろうかとガイドブックと地図を広げて見ていた。3月の藤原岳に行こうと言っていた、友人との約束が壊れていたので、夏の穂高までに予行演習をかねてどこかの山への計画を練っていた。それでこの薊岳を、私も一度は行ってみたくて今回の計画となった。このコースは、1000メールの標高差を登り続けなくてはならないので、みんなには最初から大変だろうなぁ〜、と思っていた。おまけに、薊岳への最後の登りは気の根っこと岩稜になる。山慣れしていない人には、少し大変だったようで時間もかかった。しかし、心配する程の危なっかしさもなく、それぞれ自信も持てたようで、次の穂高へのいいステップアップになったと思う。
今回は、頂上への登りと頂上でのシャクナゲが満開で美しかったのと、明神平への道のブナの新緑とバイケイソウの緑が何とも綺麗だった。
平日だということもあって会う人も少なく、静かだった。小鳥のさえずりも聞こえ、なんとも気持ちがいい。登りは汗びっしょりだったが、じっとしていたら肌寒くなってくる。
もう6月。そろそろ梅雨入り。この時期は山も深さを増して行き生命力を感じる。梅雨の晴れ間にふらりと、登りに行きたいと思う。奈良の山は、いろんな意味で私にはお手軽だ。
2006/5/27「今日もクライミングは流れてしまった」 生活
早朝、母からの電話。「昨日の夜から,目が痛いねん。病院連れて行って。」しかたがなく、ホシダの約束をしていたのを昼過ぎになると電話をして、この辺では人気の某病院へ母を連れて行く。まだ受け付け時間に30分もあるのに長い行列ができている。病院の前で待ってる人に「いつもこんなんですか?」と聞くとそうですという。もう,悪い予感はしてきた。今日はホシダに行かれるだろうかと。いろんな検査が終わって、診察の順番が来たのがもうすでに昼になっている。気持ちはあせるがどうにもならない。
検査の結果は、網膜に穴があいていて周りは剥離しかけている。おまけに、白内障で視力はガタ落ち、緑内障で4分の一程視野障害。すぐに,網膜剥離はレーザー手術をしないともっと剥離が進んで失明するからこれから手術をするという。とうとう,今日のホシダは諦める決心がついた。
目が痛いと言っていたのは,単なる逆まつげだった。笑ってしまう。しかし逆まつげにならなければ、ずっと眼科には来ていなくて、病気は発見されず手遅れになっていたかもしれない。そう思うと、逆まつげになって良かった。
今までも病院は車で送り迎えはしているが、診察は母一人で受けていた。今日は私も一緒に説明を受けていて、もう一人では無理だなと思った。耳が遠くなっているので、半分ぐらいしか聞き取れていない。私も母自身も、まだしっかりしていると思っていた。しかし、認知症はないが老化はしてきている。
昨日,京都に行く用事があったので、ついでにお茶でも飲もうかと電話した中学生のときからの友人は、「母親から目が離せないから家に来て」と言われたので家に行くことにした。彼女は子育ても終わり、第二の人生を悠々自適にマンション暮らしでと京都の町の中心に引っ越したとたんに、一人暮らしの母親を引き取って面倒を見なくてはならなくなった。
私が中学生の頃から知っている彼女のお母さんは、昔の面影は残っているが、もう今は子供のよう。彼女がお母さんのよう。優しく接している。見ていて偉いなぁ〜、と感心して見ていた。また、私には無理だなぁ〜とも。
しかし,今日は私の母ももう一人では無理なのかなぁ〜、とつくづく見ていて思った。検査や手術をしてる間、待合室であれこれ今後のことも考えてしまった。親はいつまでも元気でいてほしいと思うのだが…。
これからは、もう少し母の方も向かねばならなくなるだろう。人は一人で生きているのではないのだから。
2006/5/25「ラジオ体操」 生活
今週は用事でとうとう平日のホシダへは行けなかった。なんだか、一週間行かなかっただけで,クライミングから遠ざかったようで寂しい。おまけに、今週末はまた雨と来ている。なんだか、やる気のなさがどんどんお腹の周りに脂肪となって付いてくるような気がして恐怖を感じる。小川山でSさんが朝起きたらラジオ体操をしていたので、影響されやすい私は実は帰ってから毎日やってる。朝の6時半からNHKテレビ12チャンネルで体操をしている。それである。ラジオ体操も取り入れてるが、正式にはテレビ体操である。まだ、かれこれ3週間であるが,毎日やることはあまり続かない私なので、だいぶ続いている方だ。朝起きたてなので、最初のころは体が硬直状態だったが,最近やっと柔らかくなってきた。
某クライマーに「私、毎日ラジオ体操してんねん」と自慢げに言ったら、『そんなん,年寄りのするもんや。クライマーのする体操とちゃうで!」と即座におっしゃる。家に帰ってこのことを夫に告げると。「年寄りがやっているんだから,何の問題もないだろう」とまたまた言われる。その通りか、と思って納得してしまうが、複雑。いったい,何歳から年寄りの定義に当てはまるんや、はっきりして。
先日、視覚障害者の70歳の登山をしてる男性に「凍」の朗読CDをプレゼントしたらお礼の電話が掛ってきた。「最近山へは行ったはるんですか?」という私の質問に『山だけではなくて,毎日走ってますよ!」という返事。100キロマラソンにも参加したが50キロ過ぎでリタイヤした、と何気なくおっしゃる。「すごい!」と私が言うと、「90歳代でマラソンしてる人知ってますよ」と言われる。何という過激な!
そういわれると、やはりテレビ体操は軟弱だなぁ。しかし,しないよりはましでしょうが、していてもお腹の周りの脂肪は増えるということは、やっぱり問題有りのようだ。
本当に,年寄りの定義が分からなくなってしまった。
2006/5/22「一週間分」 生活
先週は、梅雨を思わせる雨ばかりの日々だった。ここ最近と違うのは,週末天気が回復したことだ。日曜日は、もう夏を思わせる程暑かった。
雨の平日は,引きこもり状態。私は、家の中で過ごすのも好き。それは,やりたいことがいっぱいあるから。
先週の平日は、雨でひきこもり時間が出来たので、読んだ朗読CD「凍」の校正をしてみた。これは個人的に頼まれたものなので,大変な作業を思うと、そこまでしなくても良いのではと葛藤していたが、すでに校正しないで渡してしまっていた。すると、完璧とは思ってもいなかったが、読み違いが出てきた。ひどいのは、最初に出ていたときにルビが振ってあるのに、その後はそれを無視してしまうというものだ。自分の読み方の癖が出てしまう。読むときに迷うことも沢山ある。あとで聞くと自分の無知を暴露していることに気がつく。この歳まで長いこと生きているのに知らんこともいっぱいある。とても,簡単な漢字なのに違った読み方を長年していたことにも気がついたりする。恥ずかしい〜。
人間は、「アホや」と人に思われたくないという動物だと思う。反対に、賢い,偉い、強い、綺麗、金持ちなどと見せたがる人が多い。私もたぶんそうだろう。だから、居直らないと人にいろんなことを公開出来ない。それは、恥をさらすということになる。
朗読を習っているときに,先生がよく「ヌードになりなさい」と言われた。自分を良く見せようと思うと,上達しない。素のままで思いっきり表現出来るようになることが何事もスタート地点。ありのままの,自分をさらけ出す。これは出来るか出来ないかがその人の成長に繋がる,というようなことを良く言われていた。
ほんとうに、そうだと思うなぁ〜。朗読も人のためにしているボランティアだと思うと、お礼を言ってほしいとか,人のためになっているとか、いいことをしてるという自己満足に落ちいいってしまうが、自分を賢くさせてもらっていると思うと成長出来る。そういう私も、褒めてもらったり、喜んでもらうのは嬉しいのだが…。
今回も、最初視覚障害者のSさんに日頃熱心に、テープのCD化をしてほしいと頼まれていた。そして,個人的に読みたい本の朗読もCDでとも。私は忙しいからとか、難しいからとか断り続けていた。ほんとに忙しいということもあったが,面倒なことだとも思っていたし,自分では技術的に大変な作業だろうとも。ほんとは,朗読専用のウイン用のソフトがあるのだが,高額のために私には買えない。私の所属しているグループも、未だにテープ録音だ。
それから、自分のところのマックをいじりまわしての模索が始まった。パソコンに平日は座るという日課が始まり、苦戦の数ヶ月。マックにおまけについていた、iLifeというソフトに入っているGarageBandとiTunesを駆使して出来上がった訳だが、とにかくまだ完璧ではない。視覚障害者専用のCD読書機「プレストークポータブルレコーダー」一応全部聞けたが,不都合が生じているというメールをもらった。原因究明のために、ファイルの仕方を変えてみた。今日は,それでちゃんと聞けるか、Sさんのところにいって試聴してみようと思っている。Mp3の聞けるデッキとPCでは問題はなかったのだが。
そしてやっと週末天気も晴れ、クライミングに出かけた。日曜日の烏帽子も駒形も久しぶりの晴天で,凄い人でルートはザイルの簾でなかなか空かない。しかしながら、いい気晴らしになった。引きこもりで体重増加のせいが、体を動かさなかったせいか、土曜日のホシダでも日曜日の烏帽子でも体が重い。ホシダでは先日のコンペのビギナー予選ルートを、テンションだらけだし。烏帽子では,前にRPした、おじいちゃん…とサイレントはテンションだらけ。そして関西最難の5.10dと言われているタフはお呼びじゃなかった。下手だなぁ〜。
何を、やっても難しいし奥が深い。これからも、恥とも思わず自分をさらけ出してヌード(脱ぎませんが)でやって行こう。そして一歩でも成長したい、と思ったこの頃だった。
2006/5/15「葵祭」 レジャー
今日は,京都で用事があり丸太町通を車で昼前に走っていたら、沿道に凄い人だかり。おまわりさんも、いっぱい。道路も規制されている。これは、皇室の人でも御所に来るのかなと思って、窓を開け沿道のおじさんに聞いてみたら、葵祭だという。
これは見逃す手はないと、車を近くに置きに行き急いで御所に行ってみた。いやはや凄い人だ。御所の中では、全く見えない。報道のカメラは櫓の上で待機している。しょうがないので、走って先回りすることにした。しかし、道路沿いでは見えないので、地方裁判所の塀の上に登って見学することにした。やっと、見えた。
平安絵巻の、行列だ。この行列も凄い人数だ。ずっと昔に一度見たことがあるのだが、あまり記憶に残っていなかった。この凄い人は、ほとんどが観光客のようだ。京都の人は、あまり、京都の観光地やお祭りには出かけないようだ。この人手を思ったら、私も無理には出たくない。これからもわざわざ見には行かないだろう。今日は偶然とは言え、楽しませてもらった。
最近の京都は観光ブームらしい。これだけのものを、維持するのは大変なことだと思う。大勢の人だかりを見ながら、やっぱり京都はこうでなくては、と人の多さにはうんざりしながらも思った。
他の写真/http://homepage.mac.com/iku_tsuku/PhotoAlbum20.html
2006/5/14「ホシダカップ’06観戦」 クライミング
今日は,午前中は用事があったので午後からホシダカップを見学に行った。ちょうど、決勝が始まるところに着いた。昨年は雨だったが,今回は天気もよかった。
昨年から始まって2回目のことだ。昨年は私も出場したが,今回は見学に回った。今年の出場者は,若い人ばかりで辞めておいてよかった、と思った。マスターの優勝は,13歳の少年だった。
コンペは見ている方が気楽でいい。しかし、ホシダのメンバーがほとんど出ていなかったのは少し残念だった。平日の常連のシルバー隊も気兼ねなく出られるように、シルバーの部とかあったらもう少し和やかになっていいかもしれないなぁ〜、と思った。
しかし参加はしなかったが、ルートは残っているのでこれからしばらくは楽しませてもらえる。さっそく今週にでも行きたいと思っている。
写真/http://homepage.mac.com/iku_tsuku/PhotoAlbum19.html
2006/5/14「昨日はパンプ」 クライミング
昨日は雨だったので,急遽パンプに誘われて登ってきた。10本ノルマをMさんから課され苦しいながらも楽しく11本簡単なルートを選んで登れた。
やっぱり,ホシダから見るとかなり登りやすい。ただ、あまりにホールドの数とルートの数が多く,私にはルートを読むのが難しい。瞬時に色を見てムーブを組み立て判断する能力がないということで、これは老化現象かもしれない。自分にとって難しいルートを登るときには,同じテープの色を探しているうちに腕が張って落ちてしまう。パンプの色とりどりの壁を見ていたら奇麗だが、まるでトランプの神経衰弱をするような気持ちも持ってしまった。
その意味では,ホシダは地味だ。ただすっくと突っ立っているだけだ。パンプが都会の女性としたら、ホシダは田舎の男性かな?
パンプには、顔見知りの人が集まってきていた。
久しぶりの人にも会えた。
2006/5/12「凍(とう)」 朗読
今日、 沢木 耕太郎 著「凍」を朗読し終えた。
紆余曲折の結果だが、Macのお陰で完璧に一枚のCDに収録出来た。
時間にして8時間半になった。録音するときには,この時間の何倍もかかっていることになる。
そして,必然的に何度も読んだことになるし、聞いてもいる。
朗読していて苦痛なのは、あまり好きでない本を読むときだ。
この本が,比較的早く出来上がったのは、やっぱり内容が良いからだろう。
いや私には興味の持てる内容だったからだ。けっこう楽しんで読んでいた。
改めて、山野井泰史と妙子夫妻の凄まじさが迫力で迫ってきた。
何度読んでも,聞いても不思議と飽きない本だった。
かえって,リアル感が増してくる。
しかし私の場合の山やクライミングは,辛い苦しいとは無縁でいたいものだ。
あくまでも、楽しいものでありたいと思った。
2006/5/8「久しぶりのコンサート」 音楽
昨日は雨の中、ピアノの恩師Pak先生のご招待でコンサートに行ってきた。
ピアノのレッスンをやめてしまってから十数年。生演奏からは遠ざかってしまっていたが、久しぶりのコンサートは心洗われる気持ちだった。最近は、何かにつけてかなり鈍感になってしまっていると思っていた。自分で演奏する能力はどんどん退化して行くし限界もあるが、美しいものを感動を持って感じられる感性が残っていたのは嬉しいことだった。
そして、ピアノのレッスンを受けていた頃の夢中になってピアノに向かっていたことやPaK先生のことがいろいろ思い出されて懐かしかった。子供と一緒にピアノを習っていた。先生は、3人程変わったが結構長い間続けていた。その中でも、Pak先生は楽典を本格的に教えて下さったり、私の苦手なバッハのインベンション2声を暗譜で弾けるまでみっちりレッスンして下さったりと、音楽的にも出来の悪い生徒の私に根気よくお付き合い下さった。
それに,何よりも私の知らなかった在日朝鮮,韓国人の歴史や文化など知らない世界も先生を通じて学び、自分の無知を恥じた。
今回、先生が新作発表された曲「チョロプ〜3.23〜」はその当時(1987年)先生やご家族の苦悩をそばで見ていた私にも、大きな感動を呼び起こされた。人はなぜ,いろんな人(民族、考え方、個性、性別、思想、宗教、などなど)を認め合うことが出来ないのだろう。いつも私の中にくすぶり続けている疑問。認め合うことが出来なくても,理解しようと努力することで少しは世の中も変わって行くと思うのだが…。
Pak先生は,音楽だけではなくいろんなことに目を向けさせて下さったという意味合いにおいても、いろんな意味で今でも恩師であると思ってる。
私にとっても、この曲はまた思い出のアルバムに追加されることになった。
2006/5/7「我が家は花盛り」 生活
今年の家の花は,今までにない美しさで咲き誇っている。
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2006/5/7「シンデレラになり損ねた私」 クライミング
連休は、やっぱり小川山に行ってきた。
楽しく過ごせたが、結果はさっぱりだった。
敗因を書くと、また言い訳になるので今回はよそう。
しかしながら水曜日のシンデレラ5.11aも触ることが出来、とりあえずムーブは繋がったので良かった。
いつものこの時期,小川山の人気ルートは空かないので何回も登れないのが残念。
まさに,シンデレラのように時間切れで帰ってしまった。
この後,お話では素敵な王子様が…なんだが、もうそんな夢見る年頃は過ぎてしまっている。
そして現代は、女性も王子様を待たなくなり、また王子様もいなくなっているようだ。
自力で、シンデレラにならなくてはならない時代。
このルート、ヌンチャクを回収するのは至難の技だ。
ホシダの左右のハングも回収は大変だがそれ以上に大変。
今回はずっといっしょに登ってくれたHさんが回収してくれた。
次回も登りたいと思っているのだが自力での回収を思うと憂鬱になるルートだ。
本来クライミングは自分でヌンチャクを掛け,自分で回収出来なくてはならないのだが自己最高グレードを登るときにはこれが至難の業だ。
この前のホシダでの講習のときに、東講師が『相棒は自分より少し上手い人がベスト」とおっしゃっていたが、納得した。
2006/5/1「桐の花」 クライミング
また,ホシダへ。
連休に入っているので,星田園地は超満員。
ハイカーもクライマーもハヤブサを撮ろうとするカメラマンも…。
前に写真を撮ったのが4月8日で3週間が経ってしまった。
咲いているお花が違い,緑も濃くなってる。
半袖でも、一本登ると汗が吹き出る。
桐の花が見たくて、私市駅まで帰りは歩いた。
まだ少ししか咲いていなくて,残念だった。
最初にホシダに通いだしたときにはいつも駅から歩いていた。
そのハイキングコースで,桐の花に初めて出会ったときは感動的だった。
桐の花(高樹のぶ子著)という小説をテープに録音したときに、こんな色っぽい話に出てくる桐の花とはどんな花なんだろうと思っていた矢先での出会だった。
天の川に一面に浮かぶ紫の花びらを見て、「なるほど」と頷いたものだ。
しかし,昨日の桐の花は全く違っていた。
その時々の想いも重ねて見ているのだなぁ〜、とつくづく思った。
私市駅まで来ると、採れたてのはちみつを売っていた。
試食で蜂の巣に蜜がしみ込んでいるものを貰い食べてみる。
ガムのようにしがんで残骸を捨てる。
初めての食べ方だった。
朝食のパンに、買ってきた採れたての蜂蜜(これは液体)をつけて食べてみた。
レンゲの味がした。
ホシダの春爛漫の写真
http://homepage.mac.com/iku_tsuku/PhotoAlbum18.html
2006/4/29「首が…」 健康
朝起きたら首が右に回らない。寝違いだろうか?? 肩と首がかなり張っている。そういえば子供の頃にもよく寝違いをしたっけ。画鋲のような形をした貼る鍼を「円皮鍼(エンピシン)」というのを以前に貰い肩こりに貼ってみたところ、カチンコチンになってるのが柔らかくなってけっこう効いているような気がした。あまり長い間(1週間ぐらい)貼りっぱなしなので、昨夜風呂に入ったときに剥がしてしまった。
それがいけないのかと思ったりして,朝また肩と首に貼り,ホシダに向かった。ホシダでは,ビレーをすると上を向けない。仕方がないので,「今日は首が曲がらへんねん」と言いながら、上体を後ろに反らして見上げながらビレーをしていた。すると、常連クライマーのMさんが治療をしてくれた。Mさんは整骨師。クライミングをしていると,あちらこちらを痛めている人が多い。そうすると,彼がその場で治療してくれたりする。
私も、治療してもらった。そうすると,首が上にも右にも曲がるようになった。ほんとうに、いつも感心してしまう。そしてMさんの気さくな人柄に甘えて、重宝にお願いしてしまう。仕事外なので,良いのかなとも思ったりするが、私以外にもホシダでは患者が後をたたない。
それだけ、クライミングを続けていると体への負担が大きいのだろう。そのMさんもよくあちこち痛めている。しかし、自分では治せないらしい。自分を治療出来ないなんて,可愛そ〜っ。
私が,貰って貼った鍼(けっこう効いたと思う)「円皮鍼(エンピシン)」
2006/4/27「昨日のホシダでは」 クライミング
昨日は友人に頼まれていて、全く初めての同世代の女性二人とホシダへ行ってきた。新緑は日増しに美しくなって気持ちがいい。家の前の公園の桜も葉桜になり、藤棚の藤は白色と藤色のコンビネーションで競うように咲いている。いったい,何人の人をいや何十人の人をこの間にホシダに連れて行ったことだろう。最初の頃は,ビレーヤーが欲しくて誰彼かまわず無理矢理連れて行ったが、目的は達せなかった。一度っきりという人がほとんどだった。いつしか、もう期待することはやめてしまっていた。しかし、時々友人に頼まれる。見ていたら簡単なことだと思うらしい。私も最初はそう思っていたと思う。私だったらスイスイだろうと…。凄い,うぬぼれ。しかし、ホシダに行った初日の一本目で,そのうぬぼれは木っ端微塵に粉砕され、自分を知るはめになった。
昨日の彼女たちも同じだったようだ。しかしひとりは、面白い!面白い!と言いながら4本も登った。私が最初はひとつも越えられず挫折したハングも,2個までクリア。やっぱり個人差はあるものだ。
しかし,彼女が次ぎに来るのかどうかは解らない。私はきっかけを作ってあげただけだから、あとは本人次第だ。もう私も、ビレーヤーは無理矢理いらない。してもらっても安心してビレーを任せられないのも、もう解ってる。
同世代、同性の仲間が欲しいとは思うがなかなか難しいものだ。
一人でも,続けてくれれば嬉しいのだが…。
2006/4/22「駒形岩」 クライミング
3月5日以来の岩だった。久しぶりなので、今日はグレードよりも楽しく遊ぼうと思って行った。簡単なルートを、試しに登ってみる。意外とすんなり、体が動いた。いい感じだった。もっと恐いかなと思ったが,そうでもなかった。簡単なルートばかりなので、あたりまえか!5.93本、5.10bと前にRPしたサイレントティアーズ5.11aの計5本。サイレントはホールドも忘れていて,テンションだらけで何とか終了まで行った。今度はもう少しましな登りをしたいものだ。
斜陽の終了から烏帽子岩の方を見ると、淡い緑の中にミッパツツジのピンクが点在していて美しかった。
岩を攀じているときは,何もかも忘れている。そして快い疲労感で酔う。
気持ちのいい,一日だったなぁ〜。
また,新たな目標のルートにチャレンジしたくなってきた。
2006/4/18「日曜日のホシダ」 クライミング
日曜日は,午後から用事があったので午前中だけホシダで登る。短時間に立て続けに登ったせいでか、いまだに背中が筋肉痛だ。この日は,最近まれに見る定員(40名)一杯の満員御礼だった。天気予報が良くなかったので,岩場の人たちが流れてきたようだ。先週は,雨ばかりだった。ホシダのルートは,他で登れている人でもたまに来たのでは登れない。一緒だったYさんも「ほしだは嫌い!」と呟かれた。気持ちは解る。ほんと、なかなか登らせてくれないホシダに私も言いたいところ。しかし,私は好き!
ホシダは噛めば噛む程味の出るスルメのようなもの。行けば行く程面白くなってくる。登れなくても面白い。簡単に登らせてくれないので、苦労して登れると嬉しさも倍増。私はもう8年も通ってるのに登れたルートはあまりに少ないのだが、それはそれで最初の頃に登れなかったハングのワンムーブが登れているという成果が解るから嬉しい。とても地味だと感じる。
パンプにはたまに行くが、確かにホシダグレードより簡単。短い分簡単なルートだったら沢山登れる。しかし,パンプだったら8年も行っていないように思う。
ホシダのルートは壁が大いに活用する。その分岩的である。その分,ムーブが人によって違ってきたりする。私は最近やっと壁もホールドの一部と思えるようになったのだが…。何しろ,クライミングの進歩が遅い分、気がつくことも遅い(ちなみに、それを鈍感ともいう)。それが、まず私は面白いとこのごろ思う。パンプやクラックスでやっている人は、まずはホールドを探してそれに頼っているように思う。それで、思うように行かないのではないだろうか。
次に,ホシダが好きなのは人間関係。みんな和気藹々としてる。昔から続いている人も結構いる。しばらく振りに会うと安心したりする。
次は自然の中にあるという立地条件。今は桜が散りツツジと新緑が美しい。春夏秋冬それぞれ味わいがある。
そして,一番の魅力は無料。
私のうちから近い(40分位)のはラッキー。
以上ホシダの宣伝になってしまった。
2006/4/15「デイジー図書って?」 読書
ここのところ,雨ばかり。まるで梅雨のようだ。桜は急に冷え込んだせいかまだ保ってる。しかしこの雨では,毎年近くの川沿いでの恒例の花見をする人もいない。あたりまえかぁ。私はクライミングへの意欲も喪失。今日もホシダへでも行こうかなと思ったが、約束していたJ子さんからのキャンセルの電話に私も萎えてしまう。だいぶ岩場に行っていないけれど、登れるのかしらと不安になる。
家にいることが多いと,どうしてもマックの前に座ることが多くなる。GarageBand(ガレージバンド)という音楽ソフトで遊んでもらっていた。
私は,今までテープで録音して視覚障害者の人のためのテープを作っていた。この世界も最近は,CD化されてきていてテープ録音が少なくなってきている。しかし、私の所属している朗読のグループ(私は今は休会中)では、まだそのシステムが導入出来ずにいる。それは、専用のパソコンとソフトが高額なのと、会のメンバーが高年齢なのでついていけないのが現状のようだ。
友人でもある視覚障害者のSさんからは、CDで本やテープ雑誌を欲しいといわれているが、私はいま朗読すらさぼっているので、いつもつれない返事ばかりしていた。その専用の録音用のソフトも調べたらマック用はない。みんなウイン用。この世は,ウインがのさばっている。
この一週間の雨続きで、この際いろんなマックのおまけのソフトを駆使してみたのだ。うちのiMacG5君は見事期待に応えてくれた。本物のデイジー図書と比べるといろいろ難点はあるが、とりあえずは内蔵マイクで声を入れ、GarageBandに録音出来た。iTunesにに取り込み、CDを作成して出来上がり。私の声によるオリジナルのデイジー図書が出来た。感動ものだった。
あと、カセットデッキとマックを接続してテープ録音された朗読もCD化することが出来た。これもSさんからの前からの要望だった。
視覚障害者の人とお付き合いするようになって、障害者の人はいろんなことに我慢しなくてはならない生活を強いられているのが分かった。ベストセラーの本や読みたい本がすぐに読めない。私たち健常者は、本屋に行けばすぐに読みたい本は読める。しかし,視覚障害者の人は録音や点字になるまで待たなければならない。それも何でも音訳されるというものではない。それぞれの人が必要な情報は違ってるので、特殊なものは音訳すらされない。
図書館でも,音訳やデイジー図書の作成などかなり活発になってきているが、まだまだ私たち健常者の情報から見れば、視覚障害者の情報は少ない。そんななかでも、好奇心おう盛なSさんの意欲には私も触発されることが多い。そして、私自身が学んでいることに気がつくのである。
彼女の注文は、沢木 耕太郎 (著)「凍(とう)」の朗読のCDである。
こりゃ,大変だ。
2006/4/10「ホシダの春」 クライミング
土曜日は珍しく朝からサンドイッチのお弁当を作り、コーヒーをポットに入れホシダに向かった。ホシダに咲いているお花を探しながら、岩船神社の駐車場からクライミングウォールまで往復歩いた。駐車場に付くと、私の車の横に高級車が横付けされた。車から降りたスーツを着たおじさんが、黒のゴミ袋と金挟みで、せっせとゴミをひろっていた。その姿が何とも場違いな感じがする。この周辺はいつもゴミが捨てられていて前から気になっていた。人目がないからだろうか、モラルが低下しているなぁ〜と不愉快な思いをしながらも横目で通り過ぎてしまっている。しかし,この人はいったい何者なんだろうと、一瞬思った。
さっそく,カメラを出して歩き始めると道路脇にはオオイヌノフグリ、ハコベ、ホトケノザが咲いている。いつもの通りゲートから急登を喘ぎながら登る。スミレが道ばたに可憐に咲いている。鼻歌を歌いながら進んで行くと、やまびこ広場の手前の左側にショウジョウバカマを見つけた。嬉しくなって写真を取っていたら,結構沢山咲いているのに気がついた。こんなに長い間通っているのに、ホシダに咲いているのは知らなかった。
この日はハイキングの団体が多く、数組固まって食事をしていた。やまびこ広場の東屋も占拠されていた。私は,そのまま通り過ぎて星のブランコの方へ進む。すると正面に大きな山桜。山桜は茶色の葉っぱが、花と一緒に出ているのでとても地味な感じがする。しかし,それがまた山には相応しいと思うのは私だけだろうか。
ふと左の方を見ると白い桜が咲いている。この桜は珍しい。あとでピトン小屋のKさんにきいたところウスズミザクラという名前らしい。星のブランコからの風景はまだ冬の名残の方が目立ち、新緑には少し早い。桜もこの辺りはまだ見頃は先になりそうだ。
ピトン小屋周辺の桜は,見事に満開だった。昼食後、クライミングを楽しむ。気心が知れた人たちばかりなので、夕方まで楽しく過ごす。今日の雨で,この辺りの桜は散っているのだろう。
帰りは,さえずりの道から帰ることにした。少しでも違った花に出会えるように、違う道にした。この道は、ミツバツツジがとても多い。しかし,残念ながらまだ蕾だった。これが咲いたら奇麗だろう。この道はやまびこ広場に出て、星田園地では一番の急登だと思う。
もう、この時間になるとやまびこ広場には誰もいない。恒例の星のブランコと駐車場がしまったというアナウンスを聞いた。5時を過ぎてしまったが、まだ明るい。あんなに沢山いた広場には誰もいない。急な下りをおりきると、線香の香りが漂ってきた。下に目をやると、滝修行場に珍しく灯明が灯っていた。石段を下りて見に行ってみる。驚いたのは、お供えだった。卵(10個入り2パック)、餅、みかん、リンゴなどなど食べきれないぐらい(誰が食べる?)並んでいる。カップ酒もある。我が家の2週間以上分の食料はある。贅沢な仏(神?)さまだなぁ〜、と主婦でもある私は思った。これを供えた人は後でお下がりを取りにきて食べるのかなぁ〜、と不謹慎なことを思ってしまった。
このごろ、忙しくてなかなか遠出出来ないので,近場で春を楽しんできた。行きなれたホシダだが、まだまだいろんな楽しみ方があるものだ。
写真を公開 http://homepage.mac.com/iku_tsuku/PhotoAlbum17.html
2006/4/7「あぁ〜、予定が…」 登山
最近、予定通り行かないことが多い。毎日が慌ただしい。今週末は八ヶ岳に予定していたが,都合でキャンセル。日常が忙しいと山どころではないし、意欲も萎えてくる。結局,ホシダあたりでお茶を濁すことになる。そのホシダでさえ行けなくなると寂しいし、ストレスもたまってくる。今回の八ヶ岳はいつものFさんとYさん女3人での予定だった。これでこのメンバー、八ヶ岳3度目の計画だったが、どうもいけない。前回2回も天気が悪くて,敗退だった。12月は寒くてよくないからということで,この時期になったのだが,3度目の正直とは行かなかった。せっかく、体調は良くなったのに残念だ。
本当に最近は、まともに山にもいけていない。約束していても,仕方がないこととはいえこんなことになると心苦しい。早く,落ちついてほしいものだ。
あぁ〜、せっかくの満開の桜さえ,ゆっくりと見られない。
明日は、せめてホシダにでも行ければなぁ〜。
006/4/6「桜満開」 生活
私はこの季節が一年中で一番美しいと思う。どこもかしこも桜だらけ。たった一週間の桜の花の命だが、寒い冬の季節の後だけに潤いを与えてくれる。今日は、たまたま京都に出る用事があって、鴨川沿いの川端通りを北へと車で走った。『奇麗やなぁ〜」の繰り返し、感嘆の言葉の連続だが,どんな言葉も空しい。こんなところで一日ぼ〜っと出来たらいいなぁ〜、と思いながらも最近の慌ただしさを恨めしく思った。山のことしか考えなくてもいい生活は、幸せなことなんだと思う。桜が最高に奇麗だと思うのはやっぱり吉野だ。山に行き始めた頃は毎年ハイキングに行っていた。山一面の桜…。今年は久しぶりに見てみたいなぁ〜。しかし、ここは人が多いのが難点。
京都はこのごろ観光ブームらしく、車が停滞するので困る。静かな京都が京都には相応しいのだが、仕方がない。人が来やすいところは,人が多いのは仕方がない。山も最近は人が多い。
家の前の公園は、いつも閑散としてる。最近は子供が遊んでいるのをあまり見ない。子供の殺害事件など多いからかもしれない。今日は満開の桜の下で子供が数名遊んでいた。いい風景だなぁ〜と思った。こんな平和な風景を、いつも見ていたいものだ。
2006/4/4「山岳会を退いた」 登山
この年度替わりで,一大決心をして所属山岳会を退くことにした。ここ数年はいろいろ考えることが多くなっていたので,十年を区切りと考えて行動に移した。それまでの七年と、山岳会所属の間と併せて、山に行き始めてから知らない間に十七年が過ぎてしまった。ホシダでフリークライミングを初めて8年。HP作って5年近く。山に関することはまだ進行形なので、山岳会を辞めても山を止める訳ではない。私自身、こんなにも長い間山に行き続けることになるとは、夢にも思っても見なかった。私はこれからも,行けるかぎり山には行っていたい。クライミングもやっていたい。山岳会を辞めても私は変わらない。
変わるとしたら、もっと自由にやりたいように山に向かうということだろう。背伸びもせず,気もつかわず、心の赴くままに大自然にとけ込みたい。言葉では表しにくいが、今の心境はそんな感じ。
山岳会では、いろんなことを経験させてもらった。御陰さまで、自分の山への向かい方も見えてきた。
2006/4/3「ホシダステップアップ講習会」 クライミング
昨日の日曜日は,雨の中「ホシダステップ講習会」が行われた。講師は東秀磯氏。10時から昼頃まではピトン小屋のボルダーの前で、どうしたら上手く登れるかという内容で実演を交えての講演だった。昼食を挟んで午後からは,クライミングウオールでの講習だった。講師の言うことはいちいち納得出来ることばかり。「いくさん! これで2グレードアップ間違いないやろ〜」とビレーなど手伝いにきていた昔からのホシダの常連が言うが、教えてもらって簡単に出来るものなら、とっくに上手くなってるはず。上手い人は,教えられなくても自然と出来ている人だ。教えてもらってすぐに出来るようなら苦労はしない、と私も毒づいてしまう。(これだから、おばさんは可愛くないとホシダの叔父樣方に言われてしまいそう)
しかし、いままで意識していなかったことはいっぱいあったことに改めて気がついた。本などを読んでいたら書かれていることなのだが,普段は何となくホールドを取ることばかりに気持ちがいっていて,遠いとか届かないとか文句ばかりいっていたような気がする。遠いホールドを取るためのムーブを考えて(工夫して)はいなかったようだ。下手な人は特にムーブを組み立てていないようだ。登れない人はこういうことが出来ていないからだ、ということを教えてもらった。いつも、どうして登れないのだろうと自問してばかりいたが、出来ていないことが多かったことに気がついた。
自分を見直すいい機会になった。これから登るときに、ホールドが遠いから届かないんだという言い訳は止めよう。なぜ届かないかをムーブを工夫することで解決して行こうと思った。そうすると、きっともっと楽しくクライミングを出来ると思う。登りたくなってきた。
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2006/4/2「桜」 生活
ベランダから見える公園の桜が、雨の中健気に桜が咲き始めた。今年の開花は,全国的に早いということだが、こちらはまだこれからといった感じ。数日前からの,寒の戻りのせいだろうか。私がここに十八年前に引っ越してきたときからここの桜は,心和ませてくれている。散るときには部屋の中まで花びらが舞ってくる。そのころは、もう窓を開け放っても気持ちがいい。部屋の中で花見が出来るという訳だ。それにしても、知らない間にずいぶん大きくなったものだ。
2006/4/2「腰痛完治」 クライミング
土曜日はホシダへいった。今回は平日が忙しくていけなかったので,一週間ぶりのクライミングだった。嬉しいことに腰が治っていた。一週間前までは,フラットソールを履くときにも腰が直角以上に曲がらず大変だった。登っていても,腰をひねったムーブになると,腰に「来るぞ〜」という予感を感じていたので登りに集中出来なかった。昨日は全くそういう感じが無くて,腰が気にならなくなっていた。やったぁ〜!!かれこれ一ヶ月だった。怪我や病気をするとほんとうに、クライミングは後退してしまう。体力や持久力も低下してしまう。「三歩進んで二歩下がる」という水前寺清子の歌ならいいのだが、私の場合は「一歩進んで三歩下がる」になってしまうので情けない。
取りかかってたルート緑/赤5.10bcもやっと昨日2回目でRP出来た。このグレードにしては本当に長いことやっていたなぁ〜。持久力もまだ元通りとは行かないが、だいぶ出てきたようだ。自分でも,根気がいいと思ってしまった。
しかし,この間も楽しくクライミングが出来ていたので、私としては良しとしよう。
次回からは,もう少しグレードアップして楽しむことにしよう。
今日はこれから、ホシダグレードアップ講習会に参加してくる。
果たして、効果は???
2006/3/30「何気ない風景」 生活
ここのところ,野暮用で忙しい。27日に京都へ電車で出かけた。歩いてみると、町のいろんなところで春を感じる。いつもは車のことが多いので,日頃見過ごしていたことがたくさんあることに気づく。自宅から駅への道で車道と舗装の間にけなげに咲いているスミレ。排気ガスを吸いながらも、アスファルトの隙間から精一杯可憐な花を咲かせている姿に感動した。ずっとまえに、舗装された道路から大根が生えている画面をテレビのニュースに流れていたのを思い出した。自然界の生命力の強さは、すごいなぁ〜と思ってみていた。
この日モクレンは咲いていたが、桜は一輪だけ開花していた。ついつい写真を撮りながら暢気に歩いてしまった。今朝,前の公園の桜を見てみたら、ちらほらともう少し咲き始めている。
そういえば、子供の頃から学校帰りに道草が大好きだった私は、よく帰りが遅いと叱られていたのを思い出した。山も道草をしながら登ると,いろんな発見がある。コースタイムを気にして歩いたら,何も目に入っていないことが多い。足下ばかり見ながらハーハー、ゼーゼー言いながらの山は最近特に苦手だ。
日頃買い物も歩いてみると、いっぱいいろんなことが発見出来るのかもしれない。時間に追われていろんなものを失い、そして、また自然を求めて山に向かう。なんだか、矛盾する行為である。
昔寺山修司の著書に『書を捨てよ,町へでよう」という本があったが「車を捨てよ、町にでよう!」だなぁ〜、と思った。
健気に道路に咲くスミレ
モクレンの花
タネツケバナ(普通は水田に種をまく頃に咲く花らしく,この名前が付いたそうだ)
鴨川沿いには、のんびりとひとときを過ごす人々が
鹿ヶ谷通りの銀閣寺の近くの喫茶店で休憩(女の子が好きそうなお店)
006/3/27「リハビリ・クライミング」 クライミング
腰を痛めてから、まだ完治しないのでホシダにばかり通ってる。だんだん、登りも元に戻り昨日は5本登った。まだ登っていても腰に意識が向くので、伸びて届くホールドもお尻が落ちてしまったりする。もう一つ、また体重が増えたのも体を重くしている要因でもある。ハーネスの位置がいつも体型のバロメーター。昨日はいつもの位置まで引っ張ると、おもわず苦しい〜。つい緩めてしまった。何で、私はこんなにもすぐに体重が増えるんだろう。最近、ホシダでよく一緒のMさんは、ガリガリ。背中をつまませてもらったが、皮だけ。彼女の足は、私の腕と同じ位の太さ。お昼を一緒に食べていて観察していると、凄く食べる。『こういうものを食べて、いっぱい出したらいいんや」ともずくのスープや昆布類を食べながらおっしゃる。その点では、いろいろダイエット食品は試しているんだけど…。寒天はかれこれ、一年近く続けている。黒酢は一年半。どこに、問題点があるんだろう。そういえば、寒天も黒酢も最近は食傷気味。
クライミングも、食傷気味かな。ここのところ続けてホシダに通っているが、ほんとうに進歩しない。「楽しければいいじゃん」も限度がある。「腰のリハビリや!」という言い訳もいつまでもしている訳には行かない。毎年、春になるといろいろ焦りが出てくるようだ。春はそういう季節なのかもしれない。何かにつけて、背中を押されているような…。じっとしていられないような…。
そういえば、骨折したときも3月と4月とホシダ、ホシダ…と並んでいた。ホシダでリハビリだった。そして次にやったのが、歩くこと。そのときに比べれば、今回の腰痛はたいしたことは無いが。
それにしても、ホシダは便利だなぁ〜。体調のバロメーターにもなってる。ホシダに通う回数が少なくなると、モチベーションが回復して岩場や山に行ってることになる。
ホシダは、近くて無料でお手軽。ほんとうに、助かるなぁ〜、と改めて思った次第である。
2006/3/25「春一番のお花」 登山
いつも鈴鹿のお花の写真を送って下さるSさんから、久しぶりに春の花福寿草と節分草、ミスミソウの写真を届けて下さった。29日に予定していた藤原岳が急用で行けなくなり、がっかりしていたところへの写真だったので嬉しかった。しかし、自分の目で見たいという欲望はますます膨らむ。今年は、平日にもっと気軽にお花に会いに行きたくなった。やりたいことがいくらでも湧き出てくる私は、ちょっと欲張りかな? 忙しかったり、いろんなことがあるとよけいに山に行きたくなってくる。山や花は心を和ませてくれる。山に行くことは、浄化すること。奇麗なものに感動して、自分をリフレッシュする。
日頃いろんな雑多なことがある現実、山はそこから逃げる場所ではないと思う。
雑多な現実に、正面から向かうために必要不可欠なものでもある。
福寿草や節分草…、いくら見ても可愛いいと思う。
今年はもっともっと知らないお花に出会いたいものだ。
2006/3/23「ホシダへ」 クライミング
久しぶりの平日のホシダは空いていた。相変わらず、ハヤブサの写真を撮る人たちは大勢いた。登っていてもまだ少し腰が気になる。落ちると腰に来るのではと思うと、どうしてもかばいながらの登りになる。気になるうちは、まだ回復していないのだろう。早く、忘れていられるようになってほしいと思う。こんなときは、岩場にいっても登れないだろう。その点ホシダはてきとうに遊べ、近くていい。持久力を付けていきたい。今日は、朝から雲の多い天気だったが、わりと暖かだった。それにしても最近雨が多い。
ユキヤナギはみどりの葉っぱが出始め、コブシの白い花が咲いていて春の息吹が感じられるようになってきた。桜のつぼみもだいぶ膨らんできた。
山は、これから奇麗な季節。楽しみだ。
2006/3/20「雨と雪の週末はホシダで」 クライミング
土曜日も、日曜日も星田へ登りに行った。二日とも最低のコンディションだった。私も2週間ぶりのクライミングで最低だったが、また寒波が押しよせて来ていて、土曜日は昼頃からあめで日曜日は、雪や霰の中でのクライミングとなった。この週末は、山も各地で荒れたようだ。久しぶりのクライミングは、やっぱりまだ調子は出ない。土曜日は5.9と10a2本のみで帰ったが、相当疲れてしまった。日曜日は少しましにはなったものの、まだモチベーションは低下したまま。ムーブによっては腰が痛む。
日曜日は天気が悪かったせいかかなりの人出だった。年間数が一位のKさんも風邪でここのところ来られていないそうだ。やっぱり、無理が利かない年齢なのだろうか。程々でもやって行かなくては、どんどん億劫になり、間が空くと全くやらなくなってしまうということになりかねない。間が空くと必ずグレードは下がり、また元に戻すのが誰でも大変なようだ。それは、若くても同じこと。
しかし、やっぱりクライミングは楽しいなぁ〜。
まぁ〜、ぼちぼちやるとしますか…。
2006/3/17「あかちゃん」 人間
昨年の6月に尾瀬に行ったメンバーのひとりに3人目の男の子の孫が出来、今日はお祝いに尾瀬のときのメンバー全員で行ってきた。生まれて間もない赤ちゃんを見ることは、そういえば長い間無かった。赤ちゃんとしてはけっこう大きく生まれたというのに、その小ささには驚いてしまった。真っ赤な顔で、ふんばっている。家の子供も、そういえば生まれたての赤ちゃんだったときにはこんな顔をしていたなぁ〜、と思いだした。まだ人間としての個性は感じられない。みな一応にスタートは同じようなものなのでは、ともふと思った。赤ちゃんのお母さんは、家の子供と同じ歳で子供頃のことをよく知ってる。甲斐甲斐しく3人の子供の世話をしているのを見ていると、なんだか不思議な気持ちになってしまった。
尾瀬で山の魅力に味を占めたこのメンバーで、今年の夏は涸沢から穂高に行く予定を立てている。今まで山には縁遠かった人たちだが、年齢に逆行して過激に走り出している。観光旅行の延長で、みんながそろって山に行くようになるとは、私も夢にも思っていなかった。
今月末は、その予行演習でみんなで藤原岳に福寿草と節分草を見に行くことになってる。さて、どこまで歩けるのかは分からないのだが、行けるところまででいいという気楽さがこのメンバーの意識である。
仲のいい昔からの友達と山に登れるのは、私にとっても嬉しいことだ。
福寿草や節分草にも、尾瀬のときのようにみんなは感動してくれること請け合いだ。
人が喜ぶのを見るのも、私は好きだ。
2006/3/14「やっと日常へ」 生活
まだ、少し咳は残っているが、熱は出なくなって日常の生活は戻ってきた。今回の風邪は、重症ではないが、ずいぶん長引いてしまった。一週間何をしていたかというと、布団の中で本を読んでいた。少し前に借りた本だが忙しさにかまけて、読み進んでいなかった。布団の中でその本を開けるとすぐに眠くなり、うつらうつらしてまた目が覚めてまた本を読む。その繰り返しで闘病中に最後まで読んでしまった。私が、やっていたことは寝ているか本を読んでいるかだった。本当にしんどいときは、本すら読む気力も無いものだ。元気なときには、本を読んでいる暇もない程、何かをしている(単純だ)。今はもう日常生活は戻ったが、クライミングへの意欲にまでは至っていないようだ。いつもの平日クライミングへの意欲も湧いてこない。それは昨日今日は寒気が戻って寒いからかもしれないが…。布団の中で読み終えた本は『ビヨンド・リスク』という本で、17人の有名クライマーのインタビュー集だった。この本は面白く読めたが登場人物はあまりにも雲上の人。この本に凡人である私は触発されることも無く、モチベーション低下は著しいなぁ〜。ということは、まだ完治していないということか…。
とりあえず、日常の家事をこなさなくては…。
2006/3/12「少し元気が…」 健康
昨日やっと熱が下がったと思ったら、夜になってまた微熱と頭痛。嫌になってしまう。今朝は、やっと牛乳がおいしいと思えた。昨日はプリンと、ユンケルを買ってきた。プリンは私の好物。こんなときは、とくに美味しい。ユンケルは気休め。値段が高いので、元気になれそうな気がする。今は食欲もあまり無く、食べたいというものはあまりない。
お陰でこの冬増加の一途だった体重は元にもどった。一週間で2キロ減。こんな楽なダイエットは無いが、こんなしんどいのはもういやだ。
私が子供のときに風邪をひくと、おばあさんが甘酒を作っていやがる私に無理矢理飲ましてくれていたのを思い出した。麹で作っていたが、無いときには酒粕だったのを思い出した。この前の、大門酒造で購入していた酒の花がまだ少し残っていたので、昨日と今日作って飲んでみた。
作り方は簡単で、鍋に酒の糟を適当に水を入れて沸騰させ砂糖を入れる。そして生姜のすりおろしを入れるだけ。これが、飲んでいるうちに汗がびっしょりになるから不思議だ。その後は、なぜだか気分がすっきりする。昔の人は、薬がすぐに手に入らないために、いろいろ民間療法を伝えてきたんだと思う。今更ながらだが、おばあさんの愛情に感謝した。
そして、明日こそは普通の生活に戻りたいものだ。
2006/3/10「風邪で微熱」 健康
とうとう、風邪をこじらせてしまったようだ。火曜日の夜から咳が止まらず水曜日から微熱が続いている。37度台だがしんどいし、だるい。薬を水曜日に貰ってきているのに効果はない。食べ物がおいしくない。何もやる気がしない。何もしないで一週間を過ごすのも珍しい。週末の予定はキャンセル。
2006/3/8「踏んだり蹴ったり」 健康
救急で、診てもらった病院で診察をしてもらってきた。日曜日は当直が外科の医者だったので、今日はちゃんと整形外科の診察を受けてきた。昨夜は咳も出て寝られず内科もついでに受診したので昼までかかってしまった。結果は、腰痛はたいしたことがなかった。背骨の消耗度もゆがみも年齢並みで気にする程でもないらしい。岩に腰を打ったときに、筋肉を痛めたのだろうという結論で落ちついた。慢性の、腰痛はやはり腹筋を鍛えるしか対処のしようがないようで、腰痛体操の仕方を印刷した紙を貰ってきた。内容は、腹筋/背筋を鍛えるストレッチ。
今年は、インフルエンザの猛威も心配されていたが、周りであまり聞かない。どうだったのだろう。
今日は水曜クライミングがお休みなので、午後から朗読ボランティアの会の発表会に友人に誘われて行ってきた。咳が出て困ってしまった。
どちらにしても、たいしたことが無くてよかった。
2006/3/6「腰を痛める」 クライミング
日曜日、蝙蝠谷で腰を痛めてしまった。ビレー中、フォールで引っ張られて、岩に当たったとたん激痛が走った。いったん降りてもらって、様子を見ていたが少し動いても痛い。もしかしたら、岩に当たったときに腰を打って骨にヒビでも入っているのでは不安になる。打ったと思った右の腰の方を見ても、腫れも傷も何も無いので変だとは思いながらも、もうビレーも登るのも無理そうなので、荷物を持ってもらい下山することにした。この下山も、大変なことだった。ちょっと腰が動いても痛い。そ〜っと足を運び、何とか車の入るところまで来て、そこまで車を持って来てもらうことにした。意外なことに、じっとしていたり、まっすぐ歩くのは痛くない。車の急ブレーキも響き、これは一大事かもしれないと不安になる。
家の近くの病院に電話して、救急で診てもらうことにした。レントゲンをとったら、骨には異常がなかった。ヤレヤレである。痛み止めの座薬と湿布で、治療をしてもらい帰った。
昨夜はやはり、痛くて熟睡が出来なかったが、今日はだいぶ良くなって来た。ほっとしている。
しかし、クライミングは何があるか分からない。木曜日から昨日まで、金曜日だけクライミングの休日だったが、その日は母の買い物に付き合わされた。疲労がたまっていたようだ。
無理はいけないなぁ〜。
土曜日の烏帽子も空いていたし、蝙蝠は誰もいなかった。せっかくなのに、残念なことだった。少し家からは遠いのだが、蝙蝠はスケールも大きく魅力的な岩場だ。また行ってみたい。
2006/3/3「ひな祭りに思うこと」 生活
今日はひな祭り。家は双子の娘がいるので、小さい頃はひな祭りに近所の子供たちを呼んで、ごちそうを作ったりしていたのを思い出す。どんな家にも豪華なあのひな人形があるにもかかわらず、家にはない。あるのは、私が作った高さ10センチほどの質素なひな人形。ず〜っと本棚に鎮座している。ところで、男の子の節句は兜で、ひな祭りはひな人形を飾るという習慣はいつからなんだろう。私は、弟と二人兄弟だが私の子供の頃に鯉のぼりと兜は記憶にあるが、私のためのひな人形はなかったし、特にお祝いをしてもらった記憶がなかった。近所にもその当時は、見たこともなかった。私の娘が通っていた幼稚園には7段飾りの豪華なものがあっが、私の子供のときにはやはり無かったと思う。その頃は全体に貧しかったのもあるが、長男の場合は何を差し置いてもちゃんとやっていたのだから、田舎の価値観が理解できるだろう。
最近でも、どんな家に行ってもひな人形が飾ってるのだろうか? 私が、当時子供に高価なひな人形を買わなかったのには、自分なりの考えがあってのことだった。家に無いことで、子供が肩身の狭い思いをするのではと迷ったりもしたこともあったが、意外と私流ひな祭りを受け入れているように思えた。あるときには自分の持っているあらゆる人形を集めて飾って、ひな人形に見たてていたこともあった。多分、そのときの写真が残っていると思う。
子供は小さいときには、親の考えで育って行く。世間並みという育て方は、私には出来なかったようだ。それは、私が親自身が思う世間並みという考えを押し付けられて育ち、小さい頃から疑問に思うことばかりだったからだ。
親とは、教師にもなり反面教師にもなる。ただ、親がぐらぐらしていたら、子供はその親からは、何事も学べないと思う。今も元気な私の母親は、未だに私にとって反面教師である。それは生きて来た時代と環境と教育で、たとえ親子でも違った人格となって成長するからだと思う。
今では、私は頑固な父親が、徹底して反面教師でいてくれて感謝している。その父への反発が、私の自立しなくてはという意識となったのは確かである。もう亡くなって20年近いが、今でも思い出すのは、殴られ勘当だと言われて一人で東京に見送られることなく出て行ったときのことだ。そして、東京の私へ、家を出て数年して突然音信不通だった父からの電話。びっくりした私は、「何かあったん?」「いや、何も無い。小遣いあるか?」とポツリ。『大丈夫』と言って電話を切ったあとに涙が止まらなかった。それが、きっかけで私は一応勘当が解けたもののと判断して、関西に仕事があると家に寄るようになった。それからの父は、死ぬまで佛のような人に変身してしまった。
子育てでは、私は自分の考えを通して来たが、押し付けてはいないつもりだ。このことの善し悪しは、分からない。近所の子供と同じようなひな人形を買ってもらえなかった我が家の娘たちは、このことをどうおもっているのだろうか? 聞いてみたくなったひな祭りの日のひとときである。
今も、本棚に万年雛
娘が小学低学年のころに作った雛段の写真。私が作った人形も娘が作った人形も仲間入り。
写真を探したら出て来たので…。
2006/3/1「ホテル・ルワンダ」 クライミング
今話題の映画「ホテル・ルワンダ」を見て来た。なぜ話題になってるかというと、最初この映画は日本で上映される予定はなかったらしい。それは数々の賞を受賞した映画なのに、アフリカのルワンダという遠い国での出来事が、日本では興行収益があがらないだろうということで上映されないことになっていた。それは、あまりに私たちがアフリカについて無知なのも大きな要因となっていたのだろう。しかしながら、上演を支援する会が発足して、ネット上での呼びかけで署名を集めたりして日本でも上演されるに至ったという。このいきさつを私はTVニュースで見て、興味を持っていた。この映画は1994年にあった民族闘争での大虐殺のなかで、自分の家族への一途な愛情から多くの人をホテルに匿り救出したホテルの支配人を描いている。この話が10年程前に実際にあった事実であるということに私は自分の無知を恥じた。繰り返しラジオで洗脳された民衆は、おぞましい行為に走ってしまう。人間は、なんという残虐なものなのだろう。日本にいる限り、信じられない出来事でもある。過去の歴史をひもとけば、世界中で繰り返されてきたことでもある。自分が窮地に陥っても貫き通せる自信は私にはないが、何が正しいかを毅然と持ち続けることは大切だ。
この映画では単なる部族の対立としての虐殺としか描かれていないが、人がこんなにも狂気に走る背景が、もっと描かれていてもいいと思うし、また知りたかった。
2006/3/1「春の花が…」 生活
先日、目に留まった花を安いので衝動買い。
今部屋の中は春の匂いが漂う。
お花のある生活は和む。
花が好きなのは母親譲りかと思うが、育てて咲かせるのは下手。
なかなかちゃんと咲かせられない。
しかし、もっと好きなのは自然の中でそっと咲く花。
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2006/2/27「ちょっとやりすぎ」 クライミング
先週は木曜日ホシダ、土曜日は烏帽子。そして日曜日は雨だとホシダの予定だった。が大雨と風で、さすがのホシダも壁が濡れているということなので、急遽久しぶりのパンプに行って来た。今日は、掌が豆だらけで腕は軽い筋肉痛になっている。土曜日の烏帽子で一緒だった人がまたパンプで数名出会った。みんな好きだなぁ〜と、自分のことは棚に上げて感心した。クライミングをしていて嬉しいのは、人の輪も広がることだ。岩場にしてもジムにしてもクライマーの集まるところは特殊で限られているので、どうしても顔見知りになる。人と競う気は全くないのだが、同世代の女性の頑張りはまた私の励みにもなる。いつも思うのだが、中高年女性で平日クライミングや山の仲間の輪が広がるといいなぁ〜と、ときどき思う。
私の所属山岳会の若い女性が最近フリーに嵌って来ていて、あっという間にレベルアップ。私がチンタラとやって来て十年近く掛かったグレードを一年や半年でクリアしてしまう。若いというのは、凄いことだと思う。私の若い頃には、仕事に追われ結婚して子供が生まれ育児にも追われ、片手間の趣味を楽しむぐらいで、自分の遊びにだけ打ち込む余裕は気持ち的にも時間的にも無かっなぁ〜。というよりは、山よりは都会派だったのかな。
最近は、経済的にも自立している独身の女性が増えて来ている。そういう女性が今時珍しく、たくさん私の所属山岳会にいる。世間の山岳会からすれば不思議な現象に見えるだろうし、羨ましい限りだろう。私が入会して十年の間に、入れ替わり立ち替わり若い女性や男性が入会して来た。周りは中高年山岳会ばかりなのに、いまどき希少価値のある山岳会だ。そして一時期フリーを一緒にしたり山に行っても、いつの間にか辞めてしまっていたりする。
その点、顔見知りのクライマーはみんな長い間続けている人がほとんどだ。ホシダに行き始めた頃に、もうすでにベテランだった人でまだ続けている人もいる。そういう人は、中高年が多い気がする。土曜日の烏帽子で一緒だったSさんもその一人だ。偶然岩場で出会った、M夫妻もそうだ。久しぶりたが、その頃と全く変わりなくクライミングに興じている。
長い間、クライミングを続けている人を見ていると、マイペースだということに気がついた。自分なりの楽しみ方をしていて、のんびりとやっているようにも見えるゆとりが感じられる。しかし、ただのんびり時間つぶしというのも不満が出てくるだろう。そんななかにも、ちょっぴり秘めたる闘志がもて、切磋琢磨が出来、お互い励まし喜び合える…。茶飲み友達的クライミング仲間のようだが、それだけでは終わらない仲間が欲しいと思う。個人的にはそういう女性の同世代の仲間もいるのだが…。
そういえば、ホシダの平日のシルバー隊(勝手に私が呼んでいる)もそんな雰囲気だなぁ〜。こうして書いているうちに、長い間クライミングをしているといろんな輪が出来ていることに気がついて来た。
2006/2/23「物好きなひとたち」 クライミング
3日間のメンテでホシダは使用出来なかった。今日は終わったので、登りに行って来た。どんよりとした天気で、まだ寒かった。いつもの通りの風景とひとたち。ハイカーはほとんどいなくて静かなホシダだった。ハヤブサに望遠鏡のようなレンズを向けている人たちも相変わらずだった。ハヤブサは今日は派手な動きは無かった。それでもレンズを覗いている人たちに「物好きやねぇ〜、音楽を聞きながらとか、お菓子を食べながらやったらジッとしてられるかもしれないけれど、私には真似出来へんわ〜。」とM女史がいう。『あちらから見たら、一日こんなところ登ったり降りたりも、物好きに見えるかもしれへんねぇ〜」と続けておっしゃる。私は、うなずいた。もうホシダに通って8年年目に入っている。今日やっとムーブが繋がって次ぐらいには登れるかなと思ったルートは5.10bc。「これでももう少しレベルの高いところを、RP出来たルートもあるんやで〜」と見栄を張って言いたくなるが、言葉を飲み込む。言い訳にしか過ぎない。自分の実力は、と聞かれたらこんなところだ。
今日も、ホシダのルートは難しいという話が出たが、私も登れないとよくそういう風に言ったりする。しかし、どんなところでも久しぶりに行くと登れない。実力以上のところは難しい。ただそれだけのこと。岩場でも、トライ回数を多くして高いグレード(自分にとっては)のRPをしているだけ。集中してそのルートを登り込んでいるので登れるだけ。
ホシダは、壁が長いので持久力が必要なのはその分はちょっと難しいと感じる要因になるかもしれないとは思うが…。
いろいろ、ぐだぐだ思っているとほんとうにこんなに下手で8年もやってるのは、「やっぱり物好きやん!」と思った。
ハヤブサに毎日カメラを向けてじっとしている人も、壁を登っている人も好きで楽しいから物好きになれるのだ。「物好き」になれるのはいいことだ。
2006/2/22「人間は弱くなっているのか?」 生活
最近、殺人事件の報道が多い。気になるのは子どもが標的になってしまうことが多いのは、私にはショックなできごとだ。それは大人同士のトラブルはいささかでも両方に原因があると思える節があるが、子どもはどんな状況でも保護されるべき存在として私の中にはあるからだ。特に最近起った、京都の宇治の塾での事件と滋賀県長浜での幼稚園児の事件は比較的近くで起った事件ということもあり、私の中にも重苦しく残っている。女の子が犠牲になるのは、性的な欲望が事件を引き起こすことが多く、それも女性の立場では絶対に許しがたいことではある。しかし前者の最近の子供の殺害は、人の心の闇の部分が起こしている。その原因は私には計り知れない部分があるのでこの場では、言及しないでおく。
社会がストレスだらけの時代。とうとう人間も狂いだしたのだろうか。私自身、数年前に自分の心の闇に気づかず、自分をせめてばかりいた時期があった。自分では全く気づいていなかったのだから、医者にも行っていない。ただ、人と会うこともいやで、何も手に付かず人が発する言葉は自分を責めているとしか思えなかったようだ。そして、そういうことになるのは自分の中に何か原因があるのではと自分で自分を責めたりもしていた。頭の中は、そのことがグルグル巡り「何でや! 何でや!」と思いながらも他のことは考えられず、何もかも手に付かず暗いトンネルの闇を抜けられずにいる感じだった。
今まで人に愚痴や悪口を言わないタイプだと自分でも思っていたし、また言ってしまったとしても、そんな自分に自己嫌悪していた。そのときには、信頼出来る友人に電話しては愚痴や悪口を言っていた気がする。考えれば考える程、闇は深く暗くなって行くようで、自分で自分がコントロール出来なくなっていたようだ。このころの私が、果たして病気であったか否かは、診察を受けていない私には判断は出来ない。時期的に見れば、更年期のころだった。私が、そのトンネルを抜け出てから、同世代の有名な歌手がテレビのトーク番組で自分が更年期障害になっていたと話していた内容が、私に比べるとかなり重症だったようだが、私の体験とそっくりである。更年期障害でホルモンのバランスが崩れていたのかともそのときにやっとに思った。
私の場合は、この愚痴をいやがらずに「わかるワ〜、わかるワ〜」と相槌を打ちながら長時間ただ聞いてくれていた人が周りにいて抜け出せたようだ。かなり、迷惑を掛けていたと今では思うし、ありがたくも思っている。
人は複雑な動物だとつくづく思った。人は何でもないことに傷ついたり、喜んだり悲しんだりする。人を攻撃することは、傷つく人もいるということだ。そんな人を、弱い人間と片付けるのは簡単だ。しかし、そんなに簡単に人間を弱い強いの選別で片付けて、いいのだろうか。
ますますこれからも競争社会になっていき、「精神的に強い人だけが生き残れる社会」というのはしかたが無いことなのだろうか。
それにしても、より弱い人間が被害を受けて行くのは、悲しいことだ。
NHKの番組から(ネット検索で)
http://www.nhk.or.jp/fukushi/utsu/file/18.html
更年期障害 http://www.nagara.com/women/climact.html
2006/2/20「烏帽子岩」 クライミング
日曜日、烏帽子岩へクライミング。意外と暖かだった。タイムトンネルロング5.10a久しぶりに登った。ここは60メートルザイルが必要だ。最後まで登ると高度感があって楽しい。あと意地悪オヨネ10bに久しぶりに取り付く。このルートは限定がある。そしておじいちゃんのどたどた落ち11aRPして以来、初めて取り付いた。久しぶりなので、ムーブを忘れていて迷い2回テンションをかけてしまったが、ムーブ的には楽になっていた。そして太陽がいっぱい9、タイムトンネルショート10aをもう一度登った。その間ジャスティスにもトップロープが掛かっていたので何度かトライしたが、まだ核心のムーブが決められない。やっぱりここは封印かな。しかし何度目の封印だろう。もう一本北山=林11cルートも登れない。ここは剥がれると指先が痛い。ここも封印かな?
こんな、ルートがあちこちにある。ルートは苦手と得意系に分かれる。苦手なルートにいつまでもこだわる必要はないように思う。
私のクライミング寿命も、どんどん近づいてくるではないか。いつまでも出来ないところにしがみついていてもしかたが無いことだ。
グレードは一般的なものなので、自分の体感とは違うと思うことが時々ある。このジャスティスは、お買い得ルートとして有名だが、それはパワーがある人という条件が付いている。それに背が高いとクライミングを始めたばかりの人でも登れてしまう。
烏帽子という岩場は、初心者には取っ付きやすいのでよくいくのだが、ワンムーブのルートと限定のルートが多いのが難点だと思う。昨日は、簡単なルートを沢山登った。烏帽子岩は最後にしても良いと思えた。しばらく、烏帽子を離れたいとも思った。まだ登れないルートもあるのだが、とくにそれが登れなくてもいいとも思った。
さて次はどこへ行こうか?
2006/2/20「タローのガイド犬物語」 登山
土曜日、娘のMと皆子山に向かった。
京都市内から雪がちらちらしていた。大原を過ぎたら、雪景色になっていた。市内からほんの少し行っただけで、こんな景色が見られるなんて京都はいいところだなぁ〜、とあらためて思った。平のバス停に車を停めて、用意をして出発した。林道にはトレースがまったく無く、雪が積もるまでに人が歩いた形跡すらない。雪は結構多く、膝の上ぐらいまでズッポリと嵌ってしまい足が抜けないことがしばしばだ。
林道に入りかけたら犬が近寄って来て、嬉しそうにしっぽを振っている。先頭に立って、まるで案内でもするような素振りに見えるのは気のせいか。一緒に歩き出し、帰るまでず〜っと一緒だった。
後ろを犬が付いてくるので「ラッセル泥棒」といったら、それからずっと先頭をラッセルしてくれたとMが笑って話す。しかし、犬のラッセルはちっとも役に立たない。何だか、私が一番深く沈んでいるように思うのは気のせいだろうか? 軽いのが有利なのは、何もクライミングだけでもなさそうだ。
いつの間にかガイド犬はタローと名前がついてしまった。先に行ったり、横道にそれたりしながらも、またくっついて歩いている。離れると待っている。
寺谷の登り口では、そこをタローは通り越し、もう見えなくなっていた。
何年か前に来たときには橋が壊れていてなかったのだが、橋は架けられていた。しかし、その橋には雪がこんもりと積もっている。行こうか行くまいか迷っていた。登り口でコースタイム30分のところ1時間半も掛かっている。天気も悪い。相談の結果、朽木の温泉に行くことで話がまとまり引き返すことにした。
タローはどうしたのだろうかと、話していたら慌てて戻って来た。それからは帰りも一緒に帰る。途中で昼食を取ろうとしたら、タローもそばに来てそれを察知したように喜んでじゃれている。「お行儀よくしていないと、あげないよ。おすわり!」なんていうとちゃんと座っている。昨夜作ったおでんを温めていたら、タローの口からヨダレがタラ〜。「もう汚いなぁ〜!」 「お座りして、ちゃんと待ってなさい! 」というとわりとちゃんとしている。並の子供よりは躾けられている感じ。とうとう、私たちのおでんとおにぎりはすっかりなくなり、二人と1匹分の胃袋を満たし、タローも満足したようだ。
そして、先に帰ったタローはどこにいったんだろうと思いきや、次なる顧客になりそうに思ったのか、人が乗っている車のドアのところに座って運転手の方をじっと見ている。残念ながら、その車の人は登山者ではないのはタローにはわかっていないようだ。「タロー、バイバイ! ありがとう!」と声を掛けたら、ちらりと私たちの方に目を向けたが、もう営業活動を開始していた。タローの勤勉さには、マイッタ! マイッタ!
私たちは、朽木温泉てんくうへ向かった。
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2006/2/15「太ってしまってた!」 クライミング
暴飲暴食の結果、太っていた。イヤイヤながらまだ寒天は続けているのに…。それに最近寒天も、飽きてしまったなぁ〜。今日もホシダで登って来たが、テン台で苦労するはず。この辺で気持ちを引き締めないと、春の結果は…。考えたくはない。気持ちが悪い程、暖かだった。一本登って降りてくると汗が出た。いつもの、シルバー4人組がすでに来て登っていた。申込書に年齢を書いていて、私が一番若いのに感激。私の所属山岳会は若い人ばかりなので、身の置き所が無いのに、ここに来たらいつも大事にしてもらえる。
予報通り、昼から雨だった。早々に切り上げて帰って来た。
2006/2/13「日本酒愛好家」 生活
2月11日の土曜日は祝日。連休にクライミングではなくて美術館というのは、最近の私たちの生活パターンからいうとほんとうに珍しい。先週末は親戚の不幸でクライミングに行けていない。こういうこともたまには、必要なのかもしれない。土曜日の夜は、交野市の日本酒の飲み会に出席した。最初は交野にあるホシダクライミングウォールで、日本酒杜氏のイギリス人のハーパーさんとの出会いがご縁で、交野の酒蔵「大門酒造」を知った。ハーパーさんが熱く語る酒作りの話に魅了され、夫が「利休梅」を購入し味見をしたところ、日本酒の味にうるさい夫の口に合った。
そして、ハーパーさんの造った酒にはたくさんフアンがいて「和の酒造り」プロジェクトいう会をつくっている。今回の酒宴は酒蔵を見学させて頂き「和く輪く」という銘柄の酒や他の酒とおいしいお料理を戴きながら酒談義に花を咲かせるという趣向である。
私は、お酒は好きだが沢山飲めない。味は美味しいとまずいぐらいの分類しか出来ない。ここで戴いたいろんな酒は美味しい方に分類出来た。和く輪くというハーパーさんの新酒は私の口に合い、また注がれたお酒を残してはもったいないという思いもあり、少々飲み過ぎてしまい、帰ったとたんにまわってきた。
和く輪くはどういう味かというと、口に含くむと次に甘さだけでない香りが口の中で広がるという感じで、沢山ある銘柄のうちでもとても飲みやすいほうだ。ワインのようだと思ったりもしたが、別物だと今は思う。口当たりと後味もいいので、飲み過ぎになったのかも。
それと、ここの酒蔵の「無垢根亭」のお料理もおいしく戴いた。ここは(金/土/日)だけ開店していてお酒とお料理を出しているのだが、いろんな雑誌に紹介されているせいか3ヶ月先まで予約でいっぱいらしい。
そして次の日の日曜日は烏帽子岩の予定でいたが、あまりの寒さにホシダに行った。ハーパーさんも後からやって来た。最初は少しお酒が残っていたが、セッターのIさんのメール「土曜日に、正面に緑/赤(5.10b/c)を作りました。また登ってみて下さい。」と案内いただいたルートにも挑戦して来た。テンションを掛けながらだったが、ムーブ的には登りやすい私のレベルにちょうどいいルートだった。次回はRPしたい。
しかし、この日はホールドを持つ手もかじかむ程の寒さだった。
2006/2/12「「sensibilia センシビリア」」 芸術
滋賀県近代美術館の「sensibilia センシビリア」という展覧会の招待状を戴き見に行って来た。そういえば、最近は絵の展覧会もあまり行かなくなってしまっていた。長いあいだには芸術に興味を持って美術館にしょっちゅう出入りをしていたこともあった。昔若かった頃に京都に「京都書院」という芸術(美術)関係の本ばかり置いていた本屋さんがあってそこにもよく行っていた。その本屋さんはもうつぶれてない。ネットで検索してみたら京都書院のサイトがあるではないか。(http://yfujimatu.hp.infoseek.co.jp/)あれ〜、倒産したのでは? と思いながらよく見ると「京都書院は、1999年5月31日にて営業活動を停止いたしました。整理中ですが、多数のお客様のお問い合わせや、いろいろな方のご協力のおかげで在庫出版物の販売を開始することになりました。一般の書店には並びませんが、K−SHOINが京都書院債権委員会から委託され提供させていただきます。」と書いてある。納得した。
久しぶりの美術館は、刺激的だった。それは現代美術ということでだけではなかった。
この展覧会はパンフレットの副題(〜所蔵品によるある試み〜)とある通り、この美術館の現代美術のコレクションの展示だが、関西の芸術家のグループのsoftpad(ソフトパッド)が関わり、音響や映像、照明を工夫し、ちょっと変わった演出の展示となっている。
展示場を入ったところから中は真っ黒、照明の僅かな光で少しだけ見える。最初は意味が分からなかったが、その暗闇に点在している数点が、今回の主役の作品であると理解したのはだいぶたってからだった。所々に置かれている椅子はどうも鑑賞用の椅子で、ゆっくり腰掛けていていいらしい。こんな体験も初めてのこと。じっと座っていると、照明がいろいろ変わって、作品がいろんな表情で映し出される。そして、となりに移動するとimacが置かれていて、出展作品の作家の作品の開設がスライドされている。
出口の部屋では壁一面のスクリーンで、作品がスライドで動かされている。そして何とも不思議な音が響いている。前には椅子が離されて5脚程並んでいた。誰もいなかったので真ん中の椅子に座って鑑賞する。これが先ほどの部屋で展示されている作品だということがやっと理解出来た。それは造形のエッセンスを切り取られたようなスライドだった。一連のスライドと音の組み合わせは不思議な世界に導いて行く。もう元の作品のイメージからは逸脱されてしまってる別物だ。
スライドを一通り見てから、もう一度もとの展示作品を見に戻る。初めて壁の暗闇消えていた個々の作品にもスポットが当たったように、私の中によみがえってきて感動した。素晴らしい演出効果だと思った。こういうふうに、鑑賞するんだよということを暗黙のうちに教わったような気がした。
ソフトパッド+滋賀県立近代美術館
sensibilia センシビリア
〜所蔵品によるある試み〜
sensibilia 〜An Experiment on the Collection〜
2006年2月11日(土)〜4月2日(日)
2006/2/9「ホシダのハヤブサ」 クライミング
またホシダへ行って来た。相変わらず寒い日だった。今日も6名と少ない。クライマーよりも多かったのが、ハヤブサを撮ってるカメラマン。一日中ず〜っと望遠鏡のようなレンズを覗いている。一瞬のハヤブサの動きも逃さないという集中ぶり。とても私には真似は出来ない。昨年つがいだったハヤブサが3羽になっている。時々、空中を大旋回サービスをしてくれる。ハヤブサの動きに応じて、どよめきが聞こえ、カメラを持って写しやすいところへみんなで移動する。私も真似をして写してみたが、あまりに遠くて、私のデジカメのズームでは上手く映らなかった。先日もこの星田園地だけで40種類以上の鳥を撮影したという人が写真を見せてくれた。
帰りも山越えで歩いていると、目の前を小鳥が飛び交っていた。
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2006/2/8「まだ寒かったホシダ」 クライミング
岩船神社の駐車場に車を置き、プラプラ歩いてホシダクライミングウォールに着いたのは10時半ぐらいだったか、すでに4-5名の常連が取り付いていた。今日は一人なので仲間に入れてもらう。このあとに来た人とで、この日は8名だった。最近は、少ない気がする。落ち葉を踏みしめての山歩きはいいものだ。今日はネットから地形図を印刷し持って来て、照らし合わせながら歩いてみた。そうすると、いろいろ気がつかないところに目がいく。低いビークが数カ所あり踏み跡がある。鉄塔があるのでそのための道のようだ。時間があるときに、踏みあとを辿ってみたいと思った。
いつもの、チョコ5.10aでアップし、久しぶりでサンド5.10dを登るが、やはり持久力が最後まで持ちこたえず2回テンションを掛けてしまう。そのあとに、黄/黄緑5.10cを登ってみたがやはりテンションだらけ。しかし、次回もこのルートを登ってみようと思った。目標のルートを持った方がいいとも思う。このあと雪が舞い、もう登る意欲は喪失。帰りも山越えで駐車場まで。
このくらいが、ちょうどいい運動かな…。平日行く日をもう少し増やしたいと思うが、なかなか難しい。
やっぱりまだまだ寒い、春は遠い。
2006/2/6「週末」 生活
また寒気が戻って来たようで週末から寒い。今日は朝から雪でそのうちにミゾレになり今は雨に変わってる。珍しく、今日は疲れて家でぐったりしている。昨夜は6時頃に寝てしまい、今朝の6時頃まで12時間も寝てしまった。こんなに、寝られるなんて自分でも信じられない。歳とともに寝られなくなるというが、私には無関係なようだ。慌ただしい週末だった。親戚の99歳のおばあさんが亡くなられ、母の代理で三日間行っていた。田舎では、まだまだ人が亡くなると大変でたいそうなことだ。昨年は東京の夫の叔母が99歳でなくなり、最近は90歳以上というのが珍しくはなくなって来た。しかし、同じ葬儀でもこんなに違うのかと思ってしまった。
子供のときに、人が死ぬことがとても恐かったのを覚えている。そのころは土葬だったので、今までいた人が目の前で埋められるのだから、よけいに恐かったのかもしれない。それと同時に、死んだら人間はどうなるのだろうといつも思っていた。お化けになって出てくるのではとも…。
お化けなんていないと思えるようになったのかは、いつだったかは定かではない。
2006/2/1「一本の鉛筆という歌」 音楽
今朝は、NHKBSがつけっぱなしになっていた。用事をしていたので、全く見ていなかったが何となくアンネの日記のアンネ・フランクのゆかりの地を旅しているような番組だったと思う。そこへ突然美空ひばりの歌が聞こえて来た。その曲が「一本の鉛筆」だった。えェ〜、何でひばりや〜?? へぇ〜、美空ひばりってこんな歌も歌っていたんや〜。それも凄い歌唱力で…。なんだかじ〜んときた。私は、テレビに引き込まれるように聞き入ってしまっていた。まるで、ビクターの犬のよう。
「1974年、第1回広島平和音楽祭で実行委員長を務めた古賀政男のプロデュースで美空ひばりのために書き下ろされた曲。」だそうだ。1970年代前後の若者の間では、反戦フォーク全盛の時代で、美空ひばりの歌は全く蚊帳の外といった感じで私も無関心だったと思う。
私は、30年以上立ってから初めてこの曲に出合い感動してしまっている。
そして、もう一度聞いてみたいと思う。
歳を取ったのかなぁ〜。
そういえば、最近「愛があれば」が私の口癖だと指摘した人がいた。
自分ではそんなに言っているつもりはないのだが…。
以下、一本の鉛筆の歌詞
1 あなたに 聞いてもらいたい あなたに 読んでもらいたい
あなたに 歌ってもらいたい あなたに 信じてもらいたい
■ 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く
2 あなたに 愛をおくりたい あなたに 夢をおくりたい
あなたに 春をおくりたい あなたに 世界をおくりたい
■ 一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く
一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く
一本の鉛筆の歌詞と楽譜 http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/ippon_enpitu.htm
2006/1/30「天城山と城山」 クライミング
また、城山へいってしまった。お正月から3回めである。今回は、いつも城山に行くたびに気になっていた天城山にもやっと登って来た。「日本百名山」「花の百名山」に揚げられていて春の花のシーズンはツアー客でいっぱいになるらしい。今回は単独ということもあり、また平日の冬期ということもあってか入山者も少なく、静かな山を楽しめた。天城山は頂上からの展望はない山だが、万次郎岳から少し行くと展望が開ける。ここからの眺めは美しい。
金曜日の夜、仕事で東京からのTと大仁で待ち合わせて次の土日は城山クライミング。年末から併せて10日行ったことになる。こんなに頻繁に行くにしては、城山は遠すぎる。
なのに行ったのは、連休に登れなかったレインホール11bが気になっていたから…。今度こそ登れるのではという期待があった。土曜日は前日の天城山の疲れがでていたのか、登るにつれて登れなくなってしまう。1本めより2本めの方の登りが悪い。ムーブがめちゃめちゃ。かすかな期待もふっとんでしまい、TRで3本めはムーブを探ってみることにしたが1ピンめから剥がれてしまい、保持すら出来ない。このルートはTRで剥がれると戻るのが非常に困難なルートだ。この日の私は、気分は灰色。なんでこんなところまで来てこんなことをしているのかと、落ち込んでしまった。
だからといってこのまま帰るのはもっと悔しい。次の日の最終日のプレッシャーは並々ならぬものがある。アップは1本のみにしてさっそく登った。ワンテンだった。これでまた、期待が持てた。今度は十分な時間を休憩して1時頃最後のトライ。2ピンめで落ちてしまう。プレッシャーに弱い私らしい。そのまま降りてもう一度やり直す。
これで、もうこのルートには取り付くことがないとふと思った。そう思えば思う程体は固くなる。2ピンめではもう息があがって苦しくなって来た。落ちついて落ちついて、と自分に言い聞かせ深呼吸をし呼吸を整える。そしてムーブをもう一度確認しながら最後の乗っ越しの下のころまで一気に行く。ここで大休止をする。頭は最後のムーブを組み立てていた。やっと心臓の鼓動が収まって、組み立てた通りに体が動いて、やっと登れた。やれやれ。もう城山には当分来ないだろう。終わったという感じだった。やっぱり、怖がって躯が固くなりムーブの手順がふと飛んでしまうからだと思った。なんで、いつもこんなに苦労をするのだろう。
そして、クライミングは気持ちの浮き沈みも激しいものだと改めて思った。
久々の会心のクライミングだった。嬉しい。行ってよかった。
2006/1/23「週末クライミングと雪」 クライミング
週末の天気予報はハズレ。関西は土日とも雪はなかった。かわりに関東方面へと雪雲は流れて行き、ニュースで見る東京は雪国だった。今日は、朝起きたらこちらが窓の外は雪景色。予報は当たらないものだ。それで土曜日はホシダに向かったのだが、とにかく寒い。午前中だけ日曜日にいつも来ている小学生の父子のみ。かなり気持ち的には萎えてしまっていた。せっかく来たからと、簡単な正面のグレー(9)に取り付くが手が冷たい。ビレー用の滑り止めの付いている軍手をはめたままもう一回登った。これはけっこう滑らなくていいとは思ったが、やはり腕ははった。
そこへ、常連2名参加。結局、寂しい土曜日だった。これ以上の意欲もわかず10dにヌンチャクが掛かっていたので、もう一本何でもありで登ったが気力は湧かず…。
そして日曜日、会のメンバーも参加して賑やかに烏帽子岩へ。この日も、太陽が当たっているときは暖かだが、やっぱり寒い。無名ルート(9)でアップし、ゴールドフィンガー(10a)に取り付いて不覚にも上部で落ちる。
それから、ジャスティス(11a)3回TRで登ったが、核心が未だ自信が持てない。登っていると、下からいろいろアドバイスしてくれるが、混乱するばかり。「もう止める、封印や〜」と言いつつ、また登ってしまう。意地かな?
烏帽子岩の右の方に、プリティーカンテ(10c)というルートがある。いつも染みだしていることが多くて、あんまり登っている人がいない。「今日は乾いていて登れるよ」という言葉で、メンバーが取り付いていたので見に行ってみると、かなり苦戦している。下部が全く手も足も出ないようだ。ずっと昔にTRで登り、左から巻いたのを思い出した。ここは右からも左からも巻けるのだが、それは違反らしい。おまけに、カンテのガバが掛けているという。私も、挑戦させてもらったが、全く手も足も出ない。「これが、10c?」あり得な〜い。そのあと、TRで北山=林ルート(11c)を登らせてもらったが、こちらの方が小さなカチホールドが、まだかかるだけましだと思った。しかし、さんざん登った最後でのこのルートは辛いものがある。指先が痛い。
帰りに指先の薄皮が剥けて、ピンク色になっていた。その下に、予備の皮がまだあるのを見て一安心。
とにかく、クライミングには酷な寒い週末だった。
2006/1/21「東京タワー」 読書
「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」リリー・フランキー著
この本、ベストセラーらしい。私は全く知らなかった。友人が「読んでみてみ」と手渡してくれた。「この本なに?」「エー、知らんのん?」「外国人の作家みたいやのに、東京タワー? オトン? オカン? どうなってんねんや…」「ごたごたいうてんと、とりあえず読んでみ〜!」と言うような訳で、借りて来て読んでしまった。娘に知っているかと聞いてみたら、涙…涙…の本だということで職場の話題になっていたので読んだという。知らなかったのは私くらいなのか?
これは、作家の私小説で子供の頃から現在までのお話。副題の「オカンとボクと、時々、オトン」通り、両親は別居で母親に育てられて、父親は時々登場するがいわゆるマザコンではと思う程の密接な母との結び付きのなかで成長するが、高校から母親とも別れ別府へ、大学で東京。そして最後に東京へ母を迎えて一緒に暮らし、癌で亡くすまでの話し。1963年生まれの著者リリーさん、私とは一回りは歳が違うのだが、何だか共通の経験をしていて近親感を持ってしまった。
それは地方から東京に出て行って、東京というところの捉え方が「なるほど、そうそう」とうなずきながら読んだ。仕事も同じような仕事をしていたせいか、私が東京にいた1970年代の前半もそうだったなぁ〜、と懐かしく思いながら読んでいた。私は、結局故郷に帰ってしまったのだが…。
私が東京にいた頃には、東京に夢を見て出て来たデザイナーやカメラマン、漫画家志望などで食べられない人がたくさんいた。しかし消費者金融などという物は無く、みんな汚いアパートで共同生活などしながら肉体労働などのアルバイトをしていた。しかし大方の若者は夢破れ疲れて故郷に帰って行った。私の仲の良かった作家志望の友人は、お金がなくなるとコーラーの瓶を酒屋の裏から盗んで来て、違う店に持って行って1本10円で引き換えていたのを思い出した。それらの人たちが、この本の登場人物と時代は違うがオーバーラップしてきた。
最後に、東京タワーから眺めて「東京の風景すべてが巨大な霊園に見えた」「故郷から胸をときめかせてやって来た人々。この街は、そんな人々の夢、希望、悔しさ、悲しみを眠らせる、大きな墓場なのかもしれない」。これには、「うん、うん、」とうなずいてしまった。
オカンもオトンもその辺にいる平凡な庶民的な親だが、深い愛に溢れている。また子どものときにはひどい親だと思って育っても、大人になれば違った見方で見ることも出来る。なんだか、そのへんにいそうな家族でもある。
この辺に、ベストセラーの秘密がありそう。
歳とともに涙は枯れていくのか、ちなみに私は涙が出なかった。
2006/1/19「今日もホシダへ」 クライミング
あまりに昨日ひどかったので、ホシダにまた行って来た。今日は駐車場には停めずに、少し行ったところの岩船神社の駐車場に置いて、ハイキングコースを片道40分程歩き、山越えをしてクライミングウォールに達する。駐車料金の節約にもなり、ボッカと一石二鳥を狙っている。そして最近少し体重が増加気味なので三鳥めにダイエット効果もないかと密かに思っている。これも継続しないと期待は出来ないなぁ〜。
ホシダについたのは、12時過ぎ。なんと二人しかいない。こんなに少ないのは珍しい。ここのところ寒いせいか、常連のKさんは閑古鳥が続いているという。寂しいなぁ〜。
ついた頃は日差しもあり、寒さは感じなかったがさすがに午後から曇って来て、粉雪が舞いとても寒かった。最後にはホールドを持つ手の感覚が無くなって来た。やっぱりテン台の終わりは苦労の連続だが、昨日よりは少し体は軽く感じ疲労感が取れて来た。
2006/1/19「犬のお話し」
2006/1/18「ホシダ初登り」 クライミング
昨日ホシダに誘ったSさんから、「今1ヶ月の子犬の世話で行けません」という内容のメールで断られた。子犬でも貰ったのかなと思っていたら、そのあと電話があり詳しい事情を聞いて未だに信じられないでいる。
彼女は、六甲の近くに住んでいて暇があればトレーニング代わりに摩耶山に登っているという。そのときに、いつも会う犬のカップルがいて、山に登る彼女を遠目で見送っていたらしい。決して人間に媚びたり、食べ物を要求してくる様子も無く、毅然とした犬らしい。
今月の10日頃もいつもの通り犬に出会った。この日は不思議と犬が近寄ってしばらくついてくるので「おまえも山に登りたいのかい?」などと話しながら歩いていたという。そのうちに、いなくなったらしいが、気になってしかたが無いので、いつも帰りは通り抜けているらしいが、この日は登った道を頂上から引き返したという。するといつも犬に会うとこらへんまで来ると、行くときに会った犬が生まれたばかりの子犬をくわえて目の前に現れ、子犬をSさんの前に置いたらしい。
もしもこの犬が言葉を話せたら「お見かけしたところ優しそうな貴女にこの子を託します。私の今の状況ではこの子は死んでしまいます。私の代わりにこの子を育てて下さい。お願いします。」と言ったかどうかは…??
彼女は、親犬が育てられず子犬を自分に託したのだと思い、子犬を連れて帰り獣医に診察をしてもらって飼うことにしたらしい。私も昔犬を飼っていたことがあり、親犬は生まれたばかりの子犬を、たとえ飼い主でも人間に触らせなかったという経験がある。この経験から、この話が事実だったら凄いことだと思った。信じられます?
ちなみに、今年は戌年で彼女は戌年生まれということで、ますます驚きだ。
2006/1/18「ホシダ初登り」 クライミング
今日はホシダに行って来た。相棒が調達出来ず、ついご無沙汰してしまっていた。きょうは、常連のKさんにメールでお願いして重い腰を上げた(一人だと申し込み出来ない)。いきなり、アップの茶ルート10aで落ちてしまう。そのあと、10cの新しいルート、完登出来ずがっかり。垂壁の銀白10bでトップロープで常連さんが登っていたので、昼食後登らせてもらうがこれもテンションだらけ。最後にもう一度10cに挑戦したが、一ヶ月振りのホシダは手強かった。ガックリ!!
今日のメンバーは常連のシルバー隊とMさんに加えて、Iさんと少し寂しい。最近は利用者も平日は少ないらしい。
昨年(2005年度)のベストテンが発表されていた。なんと今年は返り咲きで61日で9位に入っていた。女性では一人だけだった。こんなにも、行っているのにちょっと間が空いただけでこのざまだ。行かない理由は簡単に見つかる。億劫がらずに、もう少し行こうと反省したホシダ初登りだった。
2006/1/16「06年初めての烏帽子岩」 クライミング
土曜日は土砂降りの雨。さすがのホシダも電話で聞いたところ、2名来た人がいたそうだが帰ったということだ。私は、土曜日はのんびりと過ごした。日曜日のホシダは講習会で1時からしか使えないので、烏帽子になった。雨のあとなので染み出しを心配していたが、もう乾いていた。前日の雨の影響か人は少なく、暖かな陽気の、クライミング日和となった。そして、今年初めての烏帽子だった。無名ルートとアルゼンチリ、そしてジャスティスをトップロープで3回。核心がまだ今一だがあとは楽になった。この核心が、解決しないために苦手ルートになってしまってる。パワーと身長のある人には超お買い得だと言うのに…。
ルートは、相性のいいのと悪いのがあるようだ。悪いのをいつまでも取り付いているよりは、自分の好きなルートにさっさと乗り換えた方がいいように思うのだが、登れないというのはやっぱり悔しいので、烏帽子にいったらジャスティスに取り付いてしまう。
昨日の3回目のときに、少しムーブに手応えを感じた。また行ったら「北村=林ルート」と併せて取り付いてみたい。
2006/1/11「沢木耕太朗著「凍(とう)」の感想」 読書
沢木耕太朗著「凍(とう)」を今日やっと読み終えた。この本も半分ぐらいは昨年に読み始めたのだが、忙しさにかまけて放り出していた。今日はホシダに行こうと思っていたが相棒が見つからず、急遽時間が出来たので続きを読み出したところ一気に最後まで読んでしまった。山野井泰史と妙子夫妻のギャチュカン北壁登攀の小説である。私はすでに山野井泰史の著作「垂直の記憶 岩と雪の7章」を読んでいたりネットの「山野井通信」で闘病生活の様子を読んでいた。私はちょうどその頃と同じ頃の2003年の2月にクライミングで骨折し、ちょうど山野井夫妻の闘病中のころに悶々と過ごしていて、「山野井通信」に励まされていた。こんなに凄い状況でもけろりとしている妙子さんは、同じ女性で凄い人だと以前から感心していた。弱気な私はただの骨折だったのだが「何でこんな思いをしてまで山に行くんだろう」と自問し続けていた。そして、もうクライミングは止めるかもしれないとも…。
そしてギブスの足で動けなくなった状態でこたつに潜り込み、山の本を読みあさっていた。それはこの怪我をきっかけに、自分のこれからに何らかの答えを出そうと思っていたのかもしれない。怪我をするのは、クライミングに自分は向いていないのではという思いもあった。いろんな本を読んで、有名で技術に長けた人でも、怪我や遭難などに遭遇していることがわかった。
私は約一ヶ月半後ギズスが取れ、さっそくホシダでトップロープで登り「骨折以来のホシダ。なんでもありのTPで一本登れた。嬉しい。いつになったら以前のルートまで戻れるかは判らないが、また頑張ろうという気持ちになれた。」と自分のHPの日記に書いている。私と偉大な登山家とは比べようも無いのだが、この「凍」を最後まで読んで山やクライミングへの衝動は、一緒だということがわかった。
この本の前半分が、私にとって退屈であったのは何故か。それは、この登場人物である山野井夫妻の生活や今までのことが淡々とした説明的な文体で書かれていたからだと思う。それは私には、質問(インタビュー)したことをただ文章に書き換えただけと捉えられ、その文章も作者が山のことを知らないのと一般読者のためか、かなり説明的になっていたのが気になり、この沢木という作家はなぜ山野井泰史のことを書きたいのだろうと疑問に感じていた。その点、本人が書いた「垂直の記憶 岩と雪の7章」は迫力のある迫り方だった。
主人公のことを良く書いていて、そのとおりの人物像なんだろうということは読みながら理解出来るのだがしっくりこない。沢木が質問してそのように理解したという人物像がこの中の山野井泰史と妙子像になってる。作家のやけに冷静な目が覚めて思え、それが私には物足りないのだろう。脚色が不足しているということか。私がイメージしていた夫妻とも、微妙にずれていたような気もする。
ところが、今日一気に読んでしまった後半の半分は、その脚色が無い分リアリティーがあり、私は悪天候での苦難の下山は頭の中に一駒一駒の映像として浮かび上がって来てどんどん引き込まれて行った。7000mを越えるクライミングの過酷さを私は知らないのだが、十分厳しさは伝わって来た。これは、完璧にやられたという感じだった。
そして、夫婦でありながらお互いにパートナーとして認め合い、信頼しているという二人の関係も伝わってきた。どんなことでも淡々といさぎよく受けいれているように見える妙子は、ほんとうに強いひとだ。ほんとは、芯は女性の方が強いのでは、とすら思ってしまった。そしてそれを認めている山野井も素晴らしいとも思った。
今も指を切り落としてもなお、クライミングに向かい続け「登ることが楽しく登れることが楽しかった。(略)自分がこれほどクライミングが好きだということをあらためて確認する思いだった。(略)最初クライミングを再開したばかりのときは赤ん坊同然だった。しばらくやっているうちにクライミングの幼稚園児くらいになっている自分を発見した。そしてさらにやっているといつの間にか小学生になっていた。そのとき山野井は理解するのであった。自分はクライマーとしての人生をもう一度送り直しているのだなと」と言わしめる。
ハンディーがあって、また一からの出発を苦にもせず、軽く好きだからと言い、クライミングを続けて行く山野井に私は魅力を感じる。
山やクライミングをするのに、講釈はいらない。下手でも、好きで楽しければいいんだよというメッセージを残しているように感じるのは、勝手な私の解釈だが嬉しい。
最後に、今度は妙子のことを知りたくなってきた。
2006/1/10「またまた城山へ」 クライミング
帰ったばかりで、また城山へ行って来た。パートナーが宿題を残して、それを片付けに今回は行ったという訳だが、一つのルートに対する情熱はクライマーのサガを感じる。今回は、やっと宿題も片付けられ、私もこれでやれやれで、やっと目的のルートに取り付けたが、今度は私が宿題を残して来てしまった。フリーを始めてからこんなことの繰り返し。特に遠くへの遠征ではそう毎週行くという訳には行かないので、食い散らした状態で残ってしまう。しかし何年か後、新たにそのルートに取り付いたところ簡単だと感じることもあり、僅かながらも自分の成長に喜べたりもする。城山も、これで3年目の5回目。ナインやテン台で必死に登っていたのに、イレブンに取り付ける自分に成長出来ていることは嬉しい。つくづく、クライミングは自己満足の世界だと思う。自分のことを自分でいいように評価するのは、人から見ればおめでたいことで、鼻持ちならないことと映るかもしれないが自分のことは自分が評価してあげないと可哀想だとこのごろ思う。
人と比べたり、人から言われたことを気にしていたら何も出来ない人になってしまうのではないかと思う。自分より上手い人は、なんぼでもいる。下手な人もなんぼでもいる。自分より奇麗な人も不細工な人も、背の高い人も低い人も、太い人も細い人も…。何かにつけて人は自分に無い物を羨む。私もその一人。スマートな上手い人(クライマー)に羨ましいと洩らしたりすることがある。
人との比較は、教育上もいい結果を残さないということを子育てで学んでいるはず。子供は、生まれたときから競争社会にいる。親がうちの子は隣の子より可愛いとか早く歩いたとかおむつが取れたとか…(笑)。これも親のサガ(?)。学校に行くようになったら、勉強ではクラスで何番、学校で何番…。そして、少しでもいい学校へ。そして就職しても、どんな仕事(企業)かというようなことで優劣をつけたがる。いくら競争してもきりがない。
問題点は、出来る出来ないということを優劣として捉えることにあるように思う。自分のことをこの劣(レツ)としか思えなくなってしまうと悲しいことだと思う。社会的にも、こういう子供が問題を起こしているのではないかと思う。
自分のことを認められなくなることは、生きて行くなと言われているような気がしないだろうか。
どんな人でも今の自分が認められて、自分なりに成長して行ける。そんな風になると少しは社会もましになるのではと思ったりする。最近「負け組、勝ち組」という言葉もよく耳にする。この言葉も私はきらいだ。どうして、何事もこういう見方で見てしまうのだろう。この言葉の流行も、やはり現実を表しているのだろう…。
2006/1/5「新しい年のはじめに」
城山から帰って、HPの整理をしながら昨年のことを「つぶやき」を読みながら振り返ってみた。ちょうど昨年は今頃から長い間体調が悪かった。昨年は年回りが悪かったのだろうかとふと思ったりする。しかし、結果としては山にも行け,クライミングも楽しんで来たので、いい一年だったとプラス思考の私は思う。
今年は、どんな年になるのだろうか。やっぱり、同じように山に向かえるのだろうか?
クライミングに対しては、今までの継続でやってはいくだろうと思う。モチベーションも昨年の今頃から見るとあるように思う。ただ、山に対しての向かい方は気持ち的にはだいぶ違って来ているように思う。もともと,ガツガツしたところは自分ではあまり無い方だとは思うのだが,今年はもっとのんびりゆったり山を楽しんで行きたいと思っている。昨年行った立山や劔のようなマイペースで歩く山へたくさん行きたい。
山の空気をたくさん吸い,美しい物もたくさん見て心豊かな一年にしたい。
さらりと身をかわす術を持ちたい。惑わされず,惑わず…である。
2006/1/3「年末/年始恒例の城山クライミング」 クライミング
29日から城山にクライミングに出発して,昨日の夜帰って来た。今年で3年目の修善寺ユースホステルで宿泊でのクライミング三昧である。このユースは1泊2食付き4750円(消費税込み)と格安なのに,食事が素晴らしい。大晦日の年越しそばと、お正月にはおせち料理とお雑煮が出る。朝のドリップコーヒも飲み放題。主婦でもある私は、今まで年末年始は超多忙に過ごしていた。城山でお正月を迎えるようになってからは、まさに天国である。毎日岩場に向かうだけの日々を過ごせる。
ただ、問題なのはいつも帰ると体重がかなり増加してしまっていることである。これは,クライミングにいい結果が出ない。半分は息抜きという気持ちもあるので、自分に甘い私はまぁ〜しかたがない気もする。今年は29日から31日まで南壁とワールドボアコージで登り,日曜日はレストして城ヶ崎の岩場にまだ行ったことがないので偵察にいった。城ヶ崎はリゾート地で,海岸沿いに岩場は点在していた。波の音をバックグラウンドに海を眺めながらのクライミングもいいなぁ〜と思う。岩を見ているとつい登りたくなって来るが、今回は空身なので我慢して次回の楽しみとすることにしよう。
最後の日の2日は岩場に向かったが、着いたとたんに雨が降り出した。しばらく待ったが止みそうにもない。しかたなく、一本登らせてもらい撤収し帰路についた。何だか最後は肩すかしに合ったようで物足りない感じがした。
今年の城山は、日にちはずれていたが総勢15名がユースに集結した。こんなことは初めてのことだった。おかげで、食後の酒宴で話に花が咲き、賑やかだった。岩場でも関西の岩場での顔見知りに出合い、何だか遠くに来ているような気がしなかった。ホント世間は狭いなぁ〜。
それで肝心のクライミングだが,楽しんでは来たが簡単なところでリゾートクライミングといった感じでお茶を濁してしまった。ちゃんと登らないと、もったいないなぁ〜。少し反省。