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2003.12.28/PM1:30/八ヶ岳赤岳鉱泉にて…
いつもホシダにご家族で来ていらっしゃるN山岳会のFさんご家族は、お正月はよく家族で八ヶ岳に行っているという。2002年3月に赤岳主稜を一緒に登りに行ったのはご家族のおかあちゃんHさんともうひとりN山岳会の女性と三人でだった。その時も天気が悪くて石尊稜に転進して帰ってきた。今回はHさんと二人でリベンジの予定だった。なのに、赤岳主稜は無情にも私を拒み続けてしまった結果となった。Hさんは前の敗退のあと2回主稜に登っている。私はそれ以来行っていない。

27日の朝7時頃の出発時も行者小屋についたときも青空が見えていた。しかし取り付きに着いたとたん、天候は最悪の事態になってしまった。諦め切れずに何度もザイルを結んだり解いたり…。しかしますます悪くなる一方の天気には断念せざるをえなかった。今回こそは登れると思っていただけに残念だった。また私だけが拒否されているようで悲しかった。

今回は骨折してから始めての雪の山とあって、少し不安はあったが内心ウキウキしていた。それも同年齢の女性とということで、気持ちの上ではとても楽だった。それと、前から一度は泊まってみたかった赤岳鉱泉小屋も楽しみだった。今回の一番の収穫は雪山を歩いたことはもちろんだが、この赤岳鉱泉の快適さを味わえたことだ。

山を本格的にやっている人はとかく小屋泊まりに批判的だが、わたしはそうではない。お金にゆとりがあって、この快適さを望むなら、何も見栄を張ることはないと思う。山を難行苦行のように捉えていて、より厳しいところに自分を置かないと気が済まない人がいるが、私にはそんな見栄や虚栄心は必要ない。それよりも、純粋に山に行けることが嬉しい。

今回は山小屋泊でかなりの収穫と思えたのは、人と人とのコミュニケーションが持てたことだ。小屋の大部屋にはいろんな人がいろんな形で山に来ている。それぞれがいろんな楽しみ方を求めて山に入ってくる。

冬山ということもあってか、ガイド登山が多いのには驚いた。私も自分の力で行けないルートなどはガイドをお願いしてでも行きたいと思うこともある。何しろ私のような年齢の女性にはパートナーが見つかりにくい。しかし結構な金額がかかるということで「もったいない心」が働く。毎年こんなに山に行けるのもお金を使わないから。

だんだん歳を取ってくると、ますます行きたいところに行けなくなってくる。そのうちに、「神頼み」ならぬ「ガイド頼み」で山に行った方が安全だとは思う。しかし達成感は違ってくるだろうなぁ〜。

山には、いろんな向かい方があるんだと改めて考えてしまった。自分が満足していれば良いのではないか、人がとやかく言うことではないと思う。少し前にガイドのガストン・レビュファーのビデオを山岳会のメンバーに借りて見た。「ガイドをして頂上に立ったとき、幸せそうな笑顔を見ると自分も幸せを感じる」というようなナレーションが記憶に残っている。

みんな、幸せを感じるために山に登るのだろう…。方法なんて何でもいいだろう…。

 


2003.12.19/PM6:30/クライミング中の事故
13日土曜日の不動岩正面壁菱形ハングでアイゼントレ中の滑落事故があった。私はペガサスを登る人のビレー地点でその瞬間を見た。凄く大きな音がしてそちらを見ると人が横になってバウンドして落ち、下の岩に背中を打ち付けた。一瞬の出来事だった。5-6メートル上の1ピン目のヌンチャクはかかっていたが、ザイルは通っていない。グランドフォールだった。意識はあったが本人は身動きできず、すぐに携帯で連絡。レスキューが十数名きて固定して担架で救出された。

もう一つの事故は、ホシダで起こった。リードをしていて核心で先にヌンチャクにザイルを掛けようとしていてたぐり、歯で噛んでいて落ちて、前歯一本が抜け、三本がぐらぐらになったらしい。歯科病院に救急車で運ばれ手術で歯をくっつけて固定された状態。彼女には昨日ホシダで会った。ギブスはしていたものの、普段と同じように見えた。しかし、登るのが相当恐いようだった。当然のことだと思う。私もそうだった。

幸いなことは不動の事故も大事に至らず、二人とも小難に終わったことは喜ばしい。

クライミングは危険である。車を運転する以上に危険なことかも知れない、とこのごろ思うようになった。それは今年の2月にフリーをしていて私も骨折をしてしまったからなおさらのことである。

私の場合もそうだったが、事故を起こすときには何か原因がある。一言でかたづけると「不注意」という言葉になるが、やっぱり無理がある場合に多いようだ。

初心に戻り、ビレーの仕方、落ち方、無理なトライなどやっては行けないことなどもう一度身を引き締めて考えてみる良い機会になった。

いろいろ、反省!!


2003.12.13/AM9:30/ラストサムライ
水曜日、楽しみにしていた「ラストサムライ」を見てきた。30分前に行ったがもう殆どいっぱいだった。

日本の明治初期の最後の侍をアメリカ人(トム・クルーズが主演)の目から描いたアメリカ映画だったが、何だか変というところは少しはあったが楽しめた。さすがアメリカ映画と思ったのは、日本の時代劇のセットとは大違いのリアリティーがあった点だ。

最初に日本に渡ってくる船上から見える富士山が美しい。そのあとに続く、日本の山々も墨絵のように美しかった。外国人が日本を描いているのを見るとすごく違和感を感じるのだが、今回の映画はそういった違和感があまりなかった。ず〜っと昔の写真で見たような懐かしさが感じられた。しかし反面、綺麗すぎるかな?

だが少しおかしかったのは、日本の農家で鶏に混じってアヒルがいたのはびっくり。私の認識不足なのか? それと、森の中に椰子の木のようなものがあってここは日本ではないなとわかってしまった。

もう一つの見方としては、トム・クルーズ演じるオールグレン大尉は南北戦争の時に権力の手先となり原住民を殺戮したことに対する自己嫌悪で自暴自棄の生活に陥り、また日本の体制と権力の手先となることへ反発をする反戦を主題しているようにも取れる。その点では、かなり中途半端なものだと思った。

しかしアメリカ人の目から侍を通して見える武士道や日本人は、自然な感じで良く描けていたと思う。


2003.12.11/AM1:00/あたごさん
9日に愛宕山に登ってきた。久しぶりの急登だった。一人だったのでマイペースで、写真を撮りながら登る。下りで快調に飛ばしていたら、だいぶ下ってから膝が笑ったような状態になった。かなり昔北山あたりを歩いていたときに味わった感覚だった。さいわい大したことはなく終わったが、明らかに歩いていないせいだと思う。次の日は強烈な筋肉痛に陥ってしまい2日目の今日も残ってっいる。最近フリーばかりの生活だったので、反省しきりである。

愛宕山表参道は、久しぶりだった。最初に行ったときの辛さを思い出した。1989年5月に家族と友人の家族とでいった。それからかれこれ十五年か…。

8日に「今年の冬はいつ訪れるのだろうか」と書いたが、愛宕神社に着いたときには、清滝から登るときに降り出した雨が雪に変わっていた。下界に見える京都は晴れていた。冬はもうそこまで来ているようだ。


2003.12.8/PM2:30/落ち葉
私の部屋の窓からから見える公園の桜の木は、つい数日前まで紅葉した葉っぱが美しかった。今日窓を開けると殆どが散ってしまい、数十枚の葉っぱが今にも散らんばかりの用意をして風にたなびいている。しかし、その風は木枯らしと呼ぶにはなま暖かい。今年の冬はいつ訪れるのだろうか。

そういえば、昨日クライミングに行った裏六甲の山々はまだ紅葉がだいぶ残っていた。落ち葉を踏みしめて登っていった不動岩も暖かかった。

不動はシーズンを待ちわびたアイゼントレーニングの人たちで賑わっていた。不動岩の正面の横の東壁の多分ハーケンルート(5級+)でパイルとアイゼンでトップロープをして登っていたグループがいて、「こんなところで、やるな!」と声を掛けられていた。

少し前に某MLでドライツーリングの練習場所やトレーニングの仕方が話題になっていた。、

アイゼントレーニング用のルートして市民権を得ているルートなら、全く問題にならないと思いますが、仮に、既成のスポーツルートだった場合、アイゼンとバイルを使用して登るのはどうかなと。エッジやカチなどは、ピックで削られて、微妙な感触が変わるだけでも、ルートの中身が変わってしまうように思われますので、練習対象の選定は慎重になされたほうが。苦労して掃除とボルト打ちをしたルートを、バイルとアイゼンでギタギタにされたら、開拓者が悲しまれることと思います。(MLの抜粋)

私も、この意見には賛成だ。不動岩のハーケンルートが上記に書いてあるアイゼントレーニングとしての市民権を得ているルートなのかそれともスポーツルートなのかは分からないので、実際にはこの場合良いのか悪いのか私には判断は出来ないし、また賛否両論もでてくる点だとも思う。

しかし、フリーでこのルートを登っている初心者にとっては大切なルートには違いない。初心者には、ホールドの一つや二つあってもなくてもどうでも良いという考えにはならないだろう。このルートでも、必死で登っている人もいるのだから…

そうすると、練習はどこですれば良いのだろうか? 専用のルートが必要になるのか…????

御在所のアイゼンの穴だらけの前尾根を思い出した。書いているうちにこの問題は奥が深そうに思えてきた。


2003.12.2/AM10:30/きまぐれ散歩での収穫
いつも車使用の生活にどっぷり浸かっているのと、この頃はフリークライミングが多くなって、山歩きをしていないのでますます体力がなくなってきているのではと不安もあり、昨日はぶらりと歩いてきた。せっかく歩くのだから、この際枚方の名所を歩いてみようと思い立った。京阪枚方公園駅から水面回廊に行き(ここはかつて淀川から枚方・寝屋川・守口あたりの田圃への農業用水を取り込む水門と水路があったらしい。それを模したミニチュアが公園内に作ってある)そこから東海道(京街道)を京阪枚方市駅に向かって歩いた。この通りは、まだ昔の建物が残っていて味わいがある。その中でも、鍵屋は資料館にもなっていて江戸時代の宿場町としての華やかだった当時が忍ばれる。

実は、私は枚方市に住むようになってから15年になる。生まれたのは隣の八幡市で近いのだが八幡市は京都府ということもあって、大阪府である枚方とは隣にいながら何か異文化的なものを子どものころから感じていた。こんなことを書いたら枚方の人からブーイングを食らいそうだが、やはり子どものころの印象は強烈なものである。

まず何が違うかというと言葉である。枚方の言葉は汚い(ますますごめんなさい)たとえば「くらわんか」という言葉はこの枚方を象徴していると思う。「われ、飯くらわんか!」(京都弁「あんた、ご飯おたべやす!」)なんて日常によく使われていた。もっと喧嘩腰になると「おんどりや、なにゆうてけつかんねん」(京都弁「アンさん、なにゆうたはんのん」)極端に置き換えるとこうなる。「いっきょった」(いかはった)「しよった」(しはった)などまだまだある。

オッちゃんたちが寄り合うと、この下品な言葉が飛び交うことになる。私は子供心に、あんまりいい感じはもっていなかった。人を「おちょくる」(からかう)ような感じが不快に思えていた。

鍵屋でのお勉強でこの言葉の発祥が、この地にあったのが理解できた。三十石船に食べ物売りに廻っていた「くらわんか舟」はここ枚方の庶民の言葉での不躾な言葉のやりとりが名物となっていたと言うことだ。その当時のその様子は江戸にまで知れ渡っていたそうだ。

引っ越してきた当初、娘は中学一年生。学校から帰ってきて「○○(呼び捨て)あいつ、きしょいんや!!」なんて言っているのを聞くと、びっくりしてしまっていた。

言葉は文化! 枚方の文化に触れてきた散歩だった。少し枚方を見直したかな??

家の近くのお地蔵さん

枚方市水面回廊にある三十石船のミニチュア

枚方市京街道の「鍵屋」船宿


2003.12.1/AM10:30/もう12月
早いなぁ〜!! もう12月。毎年、毎年クライミングや山に明け暮れる生活は特に早いと感じる。と言うことは私もかなりの年齢になってきたということだ。歳を重ねてくると一抹の寂しさが出てくる。それは体力的にも思うようにいかなくなってくることが多くなってくるからだろうか。

私の場合は、年齢に逆らうようにクライミングや山にのめり込んで突っ走ってきた。それが出来てきたということは、恵また環境にいたと思う。自分なりに頑張ってきたということもあるが、受け入れてくれていた回りの人や環境のお陰もあると感謝することも多い。

しかし、これからはいろんなことで無理なことが出てくるのかも知れないと思うようになってきた。それは私の所属山岳会は若い人が主流なので、特に感じてしまう。私の年代の女性でクライミングを一緒に楽しめる人が会にいて欲しいと思い続けてきたが、今までいなかった。まぁー、男性同士でもザイルパートナーは難しいと言うことなので仕方がないことだと思う気持ちもある。

私の場合は、家族がクライミングをしているので、まだいいほうなのかも知れない。

人に期待をしても仕方がないことだが…

これからは、自分に期待を掛けてみよう!!

 


2003.11.27/PM10:00/昨年より2週間遅れの紅葉
今日はホシダに行ってきた。風が強くて寒い一日となった。なのに人は多かった。寒いとやる気が出ない。

ホシダはやっと山が色づいていた。クライミングのあと山を散歩してきた。

携帯のデジカメで写真を撮ってきた。

ホシダの

2003.11.27


2003.11.24/PM10:00/まだまだ未熟
この連休は備中にまた行ってきた。11/4のこの欄に書いた夢に見ていたスプリングのムーブは正しかった。しかし、スプリングのRPは宿題となってしまった。宿題があるかぎり、また続けねばならない。今度こそ宿題分は片付けたいものだ。それも今年中に…。しかし自信が…??。

スプリングの下部は、夢で反芻していた通りやって上手くいった。何回してもいけるようになった。問題は上部の核心だ。ここで夢で見たのとは違うムーブを試みた。これが大きな敗因となった。それは人の登りを見ていて、その登り方をやってしまったからだと思う。嵌ってしまった。何度も何度も落ちて、左足の膝は同じ所をうつものだから、痣になってしまっている。おかしい!おかしい!こんなはずはないと思いながら落ちてしまう。情けない。

今度の備中は、このルートに嵌ってしまった。最後になってやっと夢で反芻していたムーブで登れた。これで時間切れという最後のトライ。緊張感が走る。ムーブは完璧なはずだったが力が持たなかった。落ちてしまった。ガックリ!! しかし落ちて体の力が抜けて、次ぎにトライしてスッと立ち上がってしまい、次のホールドに手が届きがっちり掴めた。なぁ〜んだ!! ガックリきてしまった。

まだまだ、だったんだ。このルートはメンバーでは私一人が落ちこぼれとなった。今度こそ…、と懲りずに考えている。またムーブを夢でも反芻しておかねば…。


2003.11.18/AM10:00/落ち方!!

今ホシダで新しいルートに挑戦しだした。何年か前の国体の女子予選ルートである。ハングをカンテ沿いにグングン登る魅力あるルートである。このルートが出来たころは私にはとてもとても取り付けるルートではなかった。今落ちながらもこのルートを登れるというのはとても嬉しいことだ。

13日の木曜日にこのルートを登っていて、最後のハングを乗越して直ぐの、終了まであと一歩のところでおもいっきり落ちてしまった。両足を大きく広げていたために左足をザイルですってしまい、火傷した状態になってしまった。

これから登っている限り、何度も落ちることもあると思うとなんとか怪我をしない落ち方をしなくてはならない。今年は、2月にも落ちて怪我をしていることもあるので、もう少し落ち方も上手くなり、リードでガンガン??挑戦できるようになりたいと思っていた矢先なので、出鼻を挫かれた形になってしまった。

フリークライミングをする上の課題は「上手く登り! 上手く落ちる!」ということに尽きるかなと思っている。何とか、落ち方も上手くなりたいと思っている。

また私はすごい恐がりなので、リードをするときにビレーヤーに張り気味でお願いすることが多い。今回のような場合は反対に緩めのザイルでもう少し下まで落ちていたら張ったザイルにこすらなかったかなとも思ったりしている。ビレーもいろんなことを予測してしなくてはならないので難しい。何でも、奥が深いなぁー、あー、あー(溜息)


2003.11.13/AM8:00/この世は阿修羅??
昨日は、「阿修羅のごとく」「ティアーズ・オブ・サン」と2本映画を見てきた。

阿修羅のごとくは向田邦子の原作の4姉妹を中心にしたホームドラマである。何だか可笑しい!!役者は揃っていて名演技である。男性はなぜか滑稽に描かれている。コメディータッチは最後まで面白可笑しく過ごしてしまう。なのに、いやに現実的だ。最後に二女の夫が「女は阿修羅だよな…」とつぶやく。しかし、人間すべてが阿修羅だということが表現されている。やっぱり台詞は「この世は阿修羅だよな…」でしょう。

「ティアーズ・オブ・サン」はナイジェリアの内紛の中をアメリカ人の女性医師を救出するというお話し。実際過去にはいろんな国でこんなことが起こっていたし、今も起こっているだろう。恐ろしいことだと、改めて思った。

向田邦子の描く阿修羅は、可愛いものだ。


2003.11.4/PM9:00/備中
岡山の備中でのクライミング。楽しい2日間だった。私が登ったのはミセスリエコ5.10aをOS。ザグ5.9をRP、TTハイスクール5.10dを核心で敗退(かなり遠くて手が届かない)。あとはスプリング5.11aは3回トライしてかなり楽になってきた。今度こそ初めてのイレブンをRP出来そうと、密かに3日目を楽しみにしていたが、夜からの雨のために登れなかった。

夢の中で何度も何度も下部と上部の核心のムーブを反芻していた。あれは夢だったのか目が覚めていたのか、未だに自分でもはっきりしない。もしも夢だとしたら、クライミングのムーブをあんなにリアルに夢で見たのも初めてのことだった。

仕方なく3日目はパンプへ。5.10台を次から次へと登ってみるが、おもしろさに欠ける。それはパンプはめったに行かないので、目標が持てないからだと思う。人工壁は、クライミングでの筋トレと言った感が拭えない。

私の場合はホシダにはしょっちゅう行くので、自分の課題と目標を設定している。いつも前回の登りよりも良い登りをしたいと思っている。

長い間テン台の前半から上達しなかったが、少しはましになってきたように思う。それは、ホシダでは最近トップロープをするときに、ザイルを持って上がって上のトップロープ用のバーに張らなくてはいけないという決まりになった。それは終了点のカラビナの摩滅が激しいのと、トップロープで終了点を独占して他の人が登れないようになることを防ぐために決まった。当然のことだと思う。私は長い階段を上って、ザイルを張りに行くのも面倒なので、トップロープをしなくなった。

これが、私にとっては甘えを無くさすことになった。

しかし、かなり遅い目覚めだったとも思う。

まぁー恐がりなので仕方がなかったかな…


2003.10.29/PM7:00/芹谷
先週の土曜日は芹谷でクライミング。そして日曜日は駒形岩と連ちゃんだった。芹谷は石灰岩の難しい目のルートが多い岩場だということで認識していた。今の山岳会に入会して間もないころによく行っていた人がいたが、まだクライミングを始めたころの私に縁遠いところだと思って行っていなかった。今回が初めてである。

5年の歳月は、やはり私でも成長できていた。登れるルートが数本あり、楽しく過ごせた。それで思い出したが、クライミングを始めたころは金比羅の5.6〜5.8ぐらいまでしか登れていなかった。5.9ともなるとトップロープでもなかなか登れていなかった。そしてどんな登り方をしていても(ザイルに蓑虫のようにぶら下がっていても)登れたような気になっていたような…。

無知ほど恐ろしいモノはない、と今頃思う。

何事も経験しないと(レベルが上がらないと)わからないものだと思う。

すると、まだまだわかっていないことがいっぱいあると言うことだ。

謙虚な気持ちでやっていこう!!


2003.10.22/PM8:00/幸運な人
20日の早朝、会のメンバーKさんから携帯に電話をもらった。こんなに朝早く何事かと思ったら「今朝の産経新聞に裏剱の紅葉が一面に出てますよ」ということだ。私が体育の日の連休に計画を立てていて、ぎっくり腰で行けなくなったことを知っていて親切に教えてくれたのだ。

昨日、会合があったのでその写真をわざわざ持ってきてくださり、もらって帰ってきた。白く染まった八ツ峰に池の平の紅葉がはえ素晴らしい。タイトルは「自分を休もう」と写真の上についている。

今年の紅葉は今ひとつだという噂だったが、写真を見る限りそんなことはない。このHPを公開した年の2001年の9月11日の「つぶやき」に

剱の紅葉 ---------------------------------------------------------------岳人10月号を見ていたら、裏剱の紅葉の写真がとても美しい。この写真の時期はいつだろう。しかし本文最後に「美しい紅葉に出合えるのは、5年に一度と言われている。それもはかないもので、一風吹けば裸木となる。霜や雪によって一夜にして変色することもある。一回で美しい紅葉に逢えるとすれば大変幸運な人であろう」と結んである。

何年か前に、やっぱり雑誌のグラビアに惹かれて涸沢の紅葉を見に行ったことがある。ハズレだった。10月の最初の連休あたりは紅葉目当ての山行を毎年計画するが、なかなか幸運の人になれない。

それでも、一度裏剱から紅葉の八ツ峰やチンネと三ノ窓あたりを見てみたいと思った。そして、チンネからも下界の紅葉を見てみたい。

と書いていた。行きたいと思いながらもなかなか行けない山がけっこう多い。それは紅葉などの一番いい時期は年に一回ぐらいしかチャンスがない。それも天候が左右するので、行きたいと思いながらも何年も過ぎてしまうと言うことが結構ある。

しかし、今年は念願の左方カンテで紅葉が見られ、注文の多い料理店まで登れたので良しとしよう。


2003.10.21/PM12:00/なんで何もかも老化?
最近、医者からは「老化ですね」とお決まりのようにいわれてしまう。その度に「この藪医者め!」と決して口には出さず心の中で思ってしまう。「医者なら治して…」と、いいたいところだ。老化といえば、仕方ないと諦めるとでも思っているのだろうか?

特に骨折以来、あちらこちらに負担を掛けたのか痛むことが多い。松葉杖を取った歩き始めの時も股関節がかなり痛み、病院でレントゲンを撮ってもらった。レントゲン写真とにらめっこしていた医者が、「老化してきてますね」と一言。何の治療もない。そのうちに、治ってしまった。

この間の腰痛もしかり。ここでも「老化してますね。椎間板が減ってきてます。痛み止めを出しときましょう。」これで終わり。この痛み止めは、とても良く効いたので、この場合は少し許せる。

私の母親は、針の治療で何でも治してしまうという治療院に行っている。ここに行くと痛みは何でも楽になるという。何でも昔、小児麻痺の子どもを治したという(その人は私より少し上で、今も全く健康だ。昔小児麻痺だった片鱗もない)。

私は一度腰痛が我慢できなくて、藁をもすがる思いで高い治療費を何とか捻出し、針の治療を受けに行った。初回の日に、針をしてもらった「あんたはまだ若いから、ストレッチや腹筋などして治るから、来なくてよろしい。山などで重い荷物を持つ使い痛みだ。ここに来る人は、自分で何にも出来ない年寄りが来るんです」とおっしゃりお払い箱。(なかなか誠実な人のようだ)

病院に行ったら骨の老化といわれ、鍼灸院では若いから自力で何とかしろといわれる。

一体、私は若いの? それとも歳なの? どちらでしょう???

昨日山の会合がありメンバーに腰の調子を聞かれ、「この頃、医者に行くと老化、老化と言われて嫌になる」と話すと、会場の喫茶店のママさんに「その老化してるは、異常なしと言われていると思って喜べばいい。他に悪い病気の症状ではないと言うことだから…」とおっしゃった。

「なるほど、やっぱり年の功」と、含蓄のある名回答に感心してしまった。

そうだ、私は何ともないんだ…

(まだ少し痛む腰をさすりながら…)


2003.10.19/PM5:30/今日は日曜日?


日曜日に家にいるなんて、本当に珍しい。毎週週末はどこかの山かフリークライミングと決まっている。今日はレスト日。錫杖の後かたづけで一日終わってしまった。

娘の休日に併せて、家族で(夫と娘と私)左方カンテと注文の多い料理店を登ってきた。錫杖岳の左方カンテは娘と二人で行く計画を昨年秋にも立てたりしたが、天気が悪くて中止してしまった。その前の2001年9月は会の企画で左方カンテを登りにいったが、連休で混んでいるために比較的人気のない、3ルンゼ(報告写真)にルートが変わってしまった。

例年、夏には娘とはどこかに行っているのだが、今年は行けてない。娘はもう一度計画があり、クリヤ谷近くまで行っているが、その時も雨が降り出してきたらしく引き返していた。錫杖の左方カンテはかなり縁遠くなってしまっていた。

今回は、娘の計画だった。注文の多い料理店も最初から狙っていたようだが、私と二人だったら左方カンテがやっとだと思っていたようで、前に登ったことのある父親にガイドの依頼を前もってしていたようだ。

お陰さまで(三人ということもあり)、私はオールセカンドの楽ちんクライミングとなった。

秋晴れの晴天で、素晴らしい写真も沢山撮れた。

特に、注文の多い料理店はルートとしてとてもいい。全くの切り立った垂壁で下に紅葉を見ながらのクライミングは最高だった。

また、行ってみたい。今度は新緑のころがいいかな…。


2003.10.14/AM11:30/連休
アクシデント続きの連休も終わった。今年はスカッと秋晴れというわけにも行かなかったのは、私の気持ちと同じ。今年は2月の足の骨折から始まっていろいろあり、思うようには山に行けてないような…。

腰もだいぶ良くなったので、かわりに大峰の大普賢岳に計画をたてた。一人なのでいつでも出られるということもあり、11日出発の予定が天気予報を見ながら見送ってしまい。12日午後から家を出た。こちらは秋晴れだったが大峰に近づくに連れて雲がでて、柏木あたりから降り出した。天気予報だと13日は曇となっていたので、和佐又ヒュッテまで行くことにした。和佐又ヒュッテまでの林道近くからは本格的な降り。

しかし、とうとう雨は止まなかった。と言うよりは次の日はもっと降り出した。こんな天気なのにヒュッテは団体の泊まり客でにぎわっていた。テントも10張り近くある。やっぱり連休なので来てしまうのだろう。さすがに大普賢岳に向かった人は朝に来た1パーティー2人しか私は知らない。ヒュッテの食堂は私が帰るときに立ち寄ったときには人でいっぱいだったし、テントにも人の気配がしていた。

私は空身で、和佐又山まで登った。往復一時間ほどだ。頂上からは見えるはずの奥がけ道の稜線も見えない。しかしガスの掛かった世界は幻想的。

9時頃帰ることにした。下に降りるほど雨は小降りになり、橿原市についたころには上がっていた。

そのままホシダに直行し5本登れた。まだ少し腰は痛むが、もう大丈夫かな?


2003.10.8/PM4:30/ぎっくり腰
昨日珍しく朝から掃除や洗濯にと、家事にいそしんでいた。風呂の掃除もした。カビが気になり、カビキラーを持ってもう一度風呂場に入ってかがんでシュッシュッと吹きかけていたところ、腰に痛みが走った。「やった!!」と思ったが後の祭り。大したことはないが、腰を動かすたびに痛みが走る。

9日の夜発で剱へ紅葉見物の計画をたてていた。(上市駅〜早月(10日泊)〜北方稜線〜池の平(11日泊)〜阿曽原温泉(12日泊)〜欅平〜上市駅)準備万端整っていた。裏剱からの紅葉を前から見たいと思っていた。天気も良さそうなので楽しみにしていた。

今日もカイロとサポーターで、腰を保護しているが鈍痛はとれない。一定角度曲げると、油が切れた機械のようにギシギシとする。

もう、今週末は諦めるか…。とは思いながらも諦めが悪い。これだけ行き続けていても、自分を制しきれないでいる自分に半ば愛想が尽きる。

ここのところ、地図やネットやガイドブックを見ながら剱北方稜線をイメージしていた。残念である。今回も娘と二人での山行であったのでよけいに残念だ。毎年二人でどこかに行っていたのだが。

少し休みなさいという警告と受け止めよう。

また、来週の計画が待っている。


2003.10.3/PM10:30/秋の夜長
暑い暑いといっているうちに、もう10月。9月も慌ただしく過ぎ去ってしまった。集計をすると一ヶ月の半分はどこかの壁をよじ登っていたことになる。夏バテではなくても疲れるはずだ。この先の短い人生を、こんなことに費やしていていいのだろうか? もっと有意義なことがあるのでは…

そう、有意義なことって何なんだろう。社会的に意義のあることとは、人のために行う行為なんだろうか。例えば、ボランティアのような行為を意義があることだと言えるのだろうか?

ただ一生懸命に何かに打ち込むことは、たとえどんなことであっても価値付けはいらないと思う。

私も「一手上を取りたい」という思いが、一月の半分もクライミングに向かわせたのだろう。成果は? と問われると…、専業遊び人なんだから、まぁーいいか…、

今日10月3日は、登山の日だということを人から聞いた。知らんかった。


2003.9.30/AM8:00/また御在所
また、御在所に行ってきた。今回は会の山行で、初めてのマルチ体験の人が3人、経験者が4人という計7名。初日は前尾根を全員で。そして次の日は、一の壁で4人で遊んで帰った。

今回も、前回に味をしめて藤内小屋に泊まってしまった。最初はテントを持っていくつもりだったが、格安の宿泊料金と美味しいご飯を思い出し、間際に日和ってしまった。何しろ一泊二食付で3700円は本当に安い。そして小屋のご夫妻が温かい。小屋のドキュメントが以前放送され、そのビデオを居間のテレビで写していたのを見ながら食事をしていたところ、よく見るとここのご主人「怪物くん」が居間に座っていらっしゃる。私の横では、奥様のとしこさんが一緒にお食事中で、「いろいろありましたわ!!」とひとこと意味深のお言葉。

初日の前尾根は大変な混雑で、帰りは遅くなってしまった(混雑の張本人は私たちのようだとも思えるが…)。暗くなり始めたころ小屋に帰ると、としこさんが心配してくださっていた。一の壁の帰りにも立ち寄ると、やっぱり気に掛けてくださっていた。ほんとうに、優しい人なんだと実感。

こういう人との繋がりが小屋を支えて来ているんだと思える。この小屋は何でも下から担ぎ上げなくてはならなかったらしく、ボランティアの手で作られたと、としこさんがおっしゃっていらしたが、ここにも格安料金の理由がありそうだ。

藤内小屋のHP http://www.cty-net.ne.jp/~sai/


2003.9.23/PM8:00/ぼやき
この3日間はひたすらクライミング。

日曜日はホシダで6本、月曜日は誰もいない駒形で6本。そして今日は椿岩の予定だったが天気が悪そうなので、またホシダで5本。さすがに掌はヒリヒリするし、腕はパンプで最後は力が入らない。

駒形で、ギアを付けた男性が一人夕方やってきて私たちの前を素通りした。今頃からどこへ行くんだろう、と思っていると上の方から懸垂で降りてきた。ビレーしている私に向かって、ザイルにぶら下がったまま「こんにわ」とご挨拶を交わす。下に降りたとたん、フィックスしたザイルで5.12のルートをソロで登りだした。その手際の良さには感心してしまった。セットしたユマールを片手であげながら、華麗なるムーブであっという間に登ってしまった。するとすぐに横のルートにザイルを移動。同じことを繰り返していた。テンションが掛からないかな、と密かに期待していたが最後まで涼しい顔をしていらっしゃる。立て続けに3本ほど登るのを見た後に私たちは車に戻った。駒形のほうを見ると、一人小さく岩に貼り付いていた。

世の中には凄い人がいるものだ。かっこいい!! この人は、どのくらいのレベルで私と同じような必死の形相になるのだろうか? 少なくともサーティーン以上は登れるのだろう。

「上には上がある」とはいうものの神さまは不公平だとぼやく。

こんなに頑張っているのに、大したことないなぁ〜

しかし、日曜にホシダに見学に来ていた、クライミングをしていない方の双子の娘が「凄い! 凄い! 見直した!!」と誉めてくれたのがせめてもの救い。

また、がんばろ〜


2003.9.18/AM6:30/続おじさん岩
昨日の夜布団の中で、『日本の100岩場』を眺めていたら、小川山の八幡沢周辺にちゃんと「続おじさん岩」という岩場があった。これでおじさんを開拓しなくても大丈夫! 小川山にはまだまだ新しい発見があるかも…。続ということは、ただの「おじさん岩」もどこかにあるのかな??

昨日映画がレディースデーで千円で見られるので、第60回ベネチア国際映画祭「監督賞」受賞!の北野武監督「座頭市」を見てきた。

感想は、何だかわざとらしくてぎこちない感じと、血しぶきが飛び交う残酷なシーンは私好みではないなぁ〜。しかし、画面のアングルは時々いい構成だと思う場面があった。いろいろ、欲張りすぎているのかな…。主張が見えすぎだとも思った。

もともと時代劇と西部劇は好きではない。


2003.9.17/AM11:00/秋の気配
先週の連休は小川山に行ってきた。ちょうど一ヶ月ぶりだ。あたりはススキが美しく、季節はもう秋だった。夜は寒いくらいだ。3日ともとてもいい天気で、夜空には大きな星が輝き、銀河や火星(今かなり接近しているらしい、ということを一緒に行ったIさんに教えてもらった)まで見えていた。火星はオレンジ色に光って他の星から見たら少し大きかった。

この連休の小川山は、かなりの混雑だった。駐車場は満杯で至る所に車が止まっている。お盆が雨だったせいもあるのかもしれない。知っている人にも、何人か出会った。

こんな状態だから、人気の岩場は待ち時間が出来る。初日はリバーサイド、次の日は父岩、最後の日はマラ岩だった。朝8時頃岩場に向かったがどこももうすでに取り付いている人がいる。父岩も小川山ストーリーと小川山ストリートにすでに取り付いていた。その人たちに聞くと、6時に来ているという。私たちは次ぎに予約して、わりと早く(30分ほどの待ち時間)で取り付けたが、そのあと続々と来るわ来るわ…。

こういうときに、すんなり要領よく空いているルートを見繕って、隙を狙って人気ルートに取り付くには一種の要領の良さが必要だと思う。遠慮をしていたらいつまでたっても登れない。また下手で時間が掛かると思うと、つい遠慮もしてしまう。謙虚な性格は損だ。

小川山の岩のネーミングを今まで「父岩」「母岩」「兄岩」「弟岩」「妹岩」まで認識していたのだが、日本100岩場を見ていると「おばさん岩」に「二階のおばさん」「一階のおばさん」というのがある。他にも「お子様岩」「ともだち岩」があるかと思えば「妾岩」「ままこ岩」「隠し子岩」「水子岩」まであるのには驚いてしまった。いけないお父さんだ!!

しかし岩でのこと、ユーモアとして笑って済ませるが、このネーミングは男性だというのがすぐ分かってしまう。

ところで「おじさん岩」がないではないか? これって私が知らないだけ???

「おじさん岩」を開拓しなくては…。


2003.9.9/AM9:30/御在所
2月に怪我(骨折)をしてから6ヶ月が過ぎ去り、徐々にリハビリ山行をしてきた。6日に登った御在所岳中尾根は怪我以来初めてのセミ本ちゃんでもある。臆病な私は岩に対してまたトラウマを作ってしまっていて、行く前から少し弱腰になっていた。それでも中尾根は今回で5回目の登攀なので、何とかなるだろうと思ってもいた。いつものクライミングの相棒Nさんも別パーティー(4人で2パーティー)だったが行ってくれることになり心強かった。

何事も「案ずるより産むがやすし」というがごとく、行ってしまえばそれほどのこともなく楽しく過ごせるのだが、クライミングはやっぱり「危険」を伴うスポーツなので、つい取り越し苦労をしてしまう。

御在所中尾根は今までで一番の混雑ぶりだった。大坂労山の登山学校の講習の団体が入っていて賑やかだった。中尾根から前尾根の方を見ると、こちらにも人がいっぱいだった。7日の京都岳連の講習会の人も私たちのように前日に入っていた人もいたので、どこもラッシュ状態。

2ピッチ目から少し雨がぱらついてきたが、しかしまぁー、最後まで完登出来てとても嬉しかった。

これで私も完全復帰が出来た。


2003.8.29/PM7:30/暑い
今年の夏は何だか変?? 

何て19日に書いたが、その後暑い日が続いている。しかしながら今年は冷夏だそうだ。米の不作も心配されている。

昨日は、車がないので電車と歩きで平日のホシダに久しぶりにいってきた。

午後から雨の天気予報だったが少しポツリときたが、本格的な雨にはならなかった。しかし梅雨を思わせるような蒸し暑さで、一本登るたびに洪水のような汗。

こんな日に、みんなようやるわ。といつものメンバーに呆れながらも尊敬の念も湧く。

帰りは疲れの極限、フラフラになってしまった。生協に立ち寄ると、揚げたての豚カツが美味しそう。油を避けている夫は今夜は仕事で遅い。何のためらいもなく、豚カツに手が出る。そしてキュウリの酢の物をかごに入れレジへ。

ずつと水分が欲しいのを我慢していた。帰ってからシャワーを浴び、冷蔵庫のビールに手が出る。一口目のビールの美味しかったこと。久しぶりのアルコールと油はスーッと体に吸収してしまった。

せっかく減った体重が1.5L増。誘惑に負けた自分を責めてしまうが、この至福感には、つい仕方がないと思ってしまう。

スリムになって秋を迎えたいと思ってはいるが…、もう9月。


2003.8.19/PM3:30/やっと落ちついてきたかな…
今年の夏は何だか変?? 

入道雲をまだ見ていない。蝉の声がとても静か(毎年朝早くからうるさくて寝ていられない)。クーラーを付けていない。スイカや冷たいものをあまり食べたくならない。など…。このまま、秋に突入か…。

と思いきや、今日は久しぶりの夏らしい日。我が家の温度計は32℃を指している。お盆が過ぎて、やっと夏らしい青空が広がった。

足も治ってやっと元のように歩いたりクライミングをしたり出来るようになってきた。足首の違和感も忘れているときが多くなってきた。7月の山行回数が元のペース以上になっている。クライミングも、何とか復調してきた。

世間もお盆休みを終え、私の生活も普段のペースを取り戻してきたようだ。これで何もかも元に戻ったかな??


2003.8.9/PM8:30/なかなか落ち着かないなぁー
台風10号が通り過ぎてその後を追うように私たちも小川山に向けて出発。こう立て続けに出かけるというのは忙しいし疲れる。お盆を過ぎれば少しは落ちついた生活に戻れるかな…。

車で簡単に出かけるようになってからは、日本が狭く感じる。時間がかからない分何だかあわただしく感じるのは気のせいでもなさそう。せめて小川山では何にもしない日をつくってのんびり過ごしてみようかな?

避暑だと思って…


2003.7.30/PM7:30/今度は九州
尾瀬から帰ってから、10日が過ぎてしまった。まだあの風景がチラチラしている。今ではもう幻のような気もする。

帰ってからも慌ただしい日々。明日から九州だ。夫の出張に合わせて、例のごとくの母たち一緒の温泉と山行き。今度は阿蘇山と九重山に登る予定だ。有名な九重山のミヤマキリシマの季節からは外れてしまうが、何しろ初めての九州の山なので楽しみだ。

昨年は友人たちと、別府から阿蘇を縦断して長崎、福岡とバス旅行した。そのと時、やまなみハイウェイから広々とした牧草の中にある九州の山々が強く印象に残った。特に、もやに浮かぶ阿蘇山は特に美しかった。

今度は、あの頂上に立ってみたいと思っていた。こんなに早くチャンスが巡ってくるとは…。

2002.10/バスの中から写した阿蘇五岳

阿蘇五岳(ごがく)

阿蘇山は 根子岳・高岳・中岳・烏帽子岳・杵島岳の5つの山の総称です。約30万年前に始まった火山活動、その繰り返しで大カルデラが生まれ、その中でまた噴火が始まり誕生したのが阿蘇5岳です。北側外輪山より眺める5岳はお釈迦様の寝姿に似ていることから「阿蘇の涅磐像」と呼ばれています。

 


2003.7.20/AM12:30/あ〜ぁ! 尾瀬
尾瀬! 前から一度は行ってみたいと思いながら、遠いのと人が多いのとで延ばし延ばしになっていた。行く前に地図を家で捜していたら、古いエアリアマップが2冊見つかった。

抜糸から一ヶ月。足がやっと復活できそうなので歩きやすい所にリハビリ山行をしたいと思っていた。ついでにいつもの親孝行(?)。

いつも通り、母親たちは温泉(老神)で待っていてもらった。今回は花の好きな母はとても尾瀬に行きたがっていたが、だいぶ歩けなくなってきているので気の毒だが無理だと判断した。

感想は、いって良かった。ほんとうに尾瀬は美しかった。どこを切り取っても、パステル画のよう。楽園! 天国! … 表現できる言葉が見つからない。

いつもなら眉をひそめる団体の旅行者まで、まるで空を一列に飛んでいる渡り鳥のように風景にとけ込んで見えるのだから不思議だ。

写真を見ていると、どれもが現実の風景とは思えない。これこそ絵に描いたような…、という言葉が当てはまる風景だと思った。

秋にも行きたくなってきた。


2003.7.13/PM11:30/もうひとつの山の会
ほんとうに、嫌になってしまうくらい雨ばかり。今日は私の参加しているもう一つの山の会の例会で醍醐へのハイキングだった。この会は「京都山の子会」といって、視覚障害者と健常者の山の会である。そもそもこの会に拘わることになったのは、2001年4月からだ。朗読を通じて知り合ったTさんがとても山が好きだが、なかなか行けないという。その時に、『岳人』で障害を持ちながらも山に向かっている人が参加できる山の会が特集されていた。京都山の会はその中の一つだった。Tさんに話すと参加してみたいといわれ、京都北山のハイキングに一緒に参加したのが最初だ。

この2001年7月にはTさんと白山にも登った。それからはときどき例会に参加していて、もう2年が過ぎてしまった。

今年は2月に私が骨折してしまったこともあって、初めての参加だった。Tさんは、今日は盲導犬と一緒だった。3代目で名前はスカイ。1代目は山にも行っていたらしいが、スカイは今日が初めての山登り。なのに雨という最悪の条件。

私はスカイとは今日が2度目の出会い。私も初めてのことなので、いろいろ気をつかう。Tさんにどのように接して良いのか、質問をしながらだ。

京阪樟葉で待ち合わせ、最初に合ったときはスカイも嬉しくて仕方がないようす。Tさんの足下で大きな体を横たえながらも、キョロキョロしては落ち着かない。人間でいえばニコニコ・ソワソワといったところか…。まるで遠足に行く子どものよう、と思った。

しかし、大方ちゃんとお行儀良く振る舞い、ちゃんと仕事をこなしているので、私は感心して見ていた。その時は、これなら大丈夫だと思った。

しかし、スカイのようすが少し変わりだしたのは、やっぱり山道に入ってからだと思う。少しずつ落ち着かない素振りが見えだした。登山道の横の草むらによそ見をしたりして集中力に欠けるように思えるようになってきた。

やっぱり初めてのことは、たとえ犬でも大変な試練なんだと徐々に思えてきた。それは、Tさんにとっても大変なことで、勇気がいることでもあるように思える。それでもスカイは自分の役目を精一杯やり遂げようとけなげにも努力しているのが判る。登るにつれて呼吸も荒くなっていく。しかし、明らかな段の前では一旦停止をちゃんとして教えている。ほんとうに偉い!

しかし、下りになってハプニングは起こった。階段状の降りはTさん自身、濡れていたために恐かったようだ。それを、スカイもTさんもなれていない状態でおそるおそる下りていたが、途中でTさんが転んでしまった。幸い何ともながったが、つい手綱を離してしまったために、スカイは一目散に登山道を逸れて山の斜面に掛けだしていってしまった。私はすぐに後を追ったが早い早い…。「スカイ、ストップ!」とさけんでも聞いてくれない。すると手綱が木に引っかかりスカイの動きは止まった。やれやれだ。登山道まで連れて行くが少し興奮していて落ち着かない。

そのうちに、少しずつまた自分の使命を思い出したようで、しっかりと仕事をこなしてくれた。

帰りのバスと電車の中では行きとは大違いのスカイの姿があった。静かに横たえ動かないスカイの顔を覗くと、ほんとうに疲れたようすだ。

しかし、大変だったのはTさんも同じだと思う。こういう経験を積み重ねて、信頼関係が生まれてくるのだということが理解できる。

私にしては、行きなれた簡単な山のハイキングがスカイにとってはとても厳しい山行であったということに今頃になって気がついた。最初は、スカイにとってももう少し楽なところから楽しみながら行ければ良かったのかも知れない。

決して、山はもうこりごりとは思わないで欲しい。今度は近場の八幡さん(石清水八幡宮)にでも散歩に誘ってみよう。

スカイは、今夜はよく眠れたかな?スカイ/2003.5


2003.7.6/PM9:30/人工壁
ここのところ雨ばかりなので、人工壁に連ちゃんで行っている。いつもはホシダの常連なのだが、大坂のパンプとクラックスにも行った。クラックスは2回目パンプは初めてだ。ホシダは無料なのと家から近いのとでついつい行ってしまう。恐さから言うと一番はホシダだ。16.5メートルとボルトの間隔(特に1ピン、2ピン目)はつい落ちたくないと思ってしまう。その点、クラックスとパンプは恐さは薄れる。

今日のクラックスで「ホシダも飽きちゃうでしょう!」と言っていた人がいた。私の場合、ホシダでは繰り返し練習してレッドポイントができ、そして次の課題に進むという方法で登っているので、なかなか登れるルートも少ないのとで飽きることはない(要するに、レベルが低いということなのだが…)。たまにクラックスやパンプに行っても、いつも同じぐらいのところで登るしかない。

それぞれ、自分がしょっちゅう行けるところがやっぱり課題が見つかったり達成感がレッドポイントで味わえたりで楽しいのだと思う。

ホシダも通い初めてもう4年半が過ぎたが、それにしても上達はしないなぁー。


2003.7.1/PM8:30/天才と凡人
ニュースとしては少し古くなってしまったが、2003年5月22日に最高齢の70歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎氏もすごいが、今日テレビに出ていた雄一郎氏の父親の敬三氏も、見ていて凄いと驚いてしまった。敬三氏は99歳で現役。今日の放送日も立山でスキーをしているということだ。その元気の秘密を紹介していた。

敬三氏は一人暮らし。その自炊の食生活が素晴らしい。メニューは玄米食と鯛のあら煮、モロヘイヤのお浸しやキクラゲなど数種類の副食。それを2食だという。それに自家製の健康ドリンク(きな粉、黒ごま、牛乳、ヨーグルト、蜂蜜、玉子酢(酢に生卵を殻ごと漬けて五日ほど置いておき玉子が溶けてしまったあとの酢))を2回。そして、毎日4キロのザックをしょい、足に1キロずつの加重をして4キロ歩くのと体操やタイヤのゴムでのスクワットなど毎日トレーニング。これがもうすぐ、100歳の人なのだろうかと、私はテレビに釘付けになって目を離せなくなってしまっていた。

京都の丹波でおみやげとして売っている「黒ごまきな粉」というのがある。昨年、娘に頼まれたので買ってきた。やっぱり、コップ一杯の牛乳に大さじ2−3杯溶かして蜂蜜を入れて飲むのである。そのときは、よくこんなにまずいものを飲むなぁーと思って、数回飲んでほって置いた。今日のテレビを見て、単純な私は「これだ!」と思った。

そして好奇心旺盛な私はさっそくビンに酢と玉子を入れて今観察中である。今は、玉子の殻から細かい泡がいっぱい出ている。少々気味が悪い。

いろんなことで反省させられた。私はいろんなトレーニングや体にいいということはやってみたりするが、忙しいとかいろんな理由を付けては挫折してしまうことが多い。しかしそういう人を凡人と呼ぶのだろう。

少しは、見習いたいものだ。


2003.6.24/AM5:00/早起きは三文の徳?
今朝4時前に目が覚めてしまい寝られない。と書いたらまるで年寄りみたい。この頃、夕食を食べるとすぐに眠くなってしまい。8時とか9時に寝てしまうことが多くなった。当然朝は早く目が覚める。それは昼間にクライミングとか何か運動をした日だ。

子育真っ最中の頃のこと思い出す。昼間子どもを外で遊ばせないと、夜中に起き出して困った。無理をしてでも、午前と午後2回意識的に外に遊びに連れて行くようにしていた。

遊び疲れて、眠る。今の私は、子どもと一緒? 人はよく「幸せな人だね」とおっしゃるが「そうでもない」と思っている。

そういえば、夜中によく目が醒めて午前2時頃から4時頃まで読書タイムになっていたが、それも知らないうちになくなった。

何はともあれ、早く目が覚めたお陰で、メールの返信を書いたり、今頃の時間にこんなことを書いたりしている。そろそろ5時だ。今日は早く家事を済ませてしまおう。一日が有意義に過ごせるはずだ…。

いつもの今頃の時間に比べたら外が暗い。窓を開けたら案の定雨だった。お天気がよければ愛宕山を歩いてこようと思っていたのに残念。今年は梅雨らしい梅雨びよりだ。


2003.6.20/PM10:30/梅雨の晴れ間を狙って
今日は、朝早く愛宕山に向かって出発したが、ちょうど八幡市の木津川の橋を越えたあたりから雨が降り出した。お菓子屋さんの駐車場に入って行こうか行くまいか、悩んでいた。京都の友人に電話をして京都の天気を聞こうとしたが、あいにくみんな留守。なかなか止みそうにもないので、母親に頼まれていた用事をこんな日に片づけてしまおうと引き返した。すると木津川にかかっている橋を越えたとたん、雨は降っていない。そればかりではなく道路も濡れていない。なんだか狐につままれたような気分になる。

そのうちに晴れ間が出て、青空が見えてきた。しかし、京都の方に目を移すと空は暗い。週末はどうしてもクライミングを中心に過ごしてしまうので、歩くのは平日に行くしかない。

まだ、あせっても仕方がないのだがどの程度歩けるのか知りたい。来週の天気に期待しよう。

母に頼まれた腐葉土を買ったついでに、ハイビスカスの苗2本と朝顔の苗を3本買ってきた。

朝顔が咲くころには、本格的に山に復帰したいものだ。


2003.6.18/PM.8:30/抜糸
昨日、抜釘の手術あとの抜糸も終わった。今日で病院通いともお別れ。 とてもうれしい!

まだ踝ははれていて、縫い目も鮮やかに残っている。この頃のように雨が続くと少し痛いが、しばらくは、仕方がないだろう。2月9日に骨折をして、18日に手術。4ヶ月が過ぎた。とても、長く感じた。いちど怪我をするとやっぱりダメージは大きいようだ。

これからは、少しずつ里山でも歩こうかな…

そして平日のクライミングも開始しなくては…


2003.6.14/PM.11:00/梅雨
ここのところ、天気予報は晴れマークが消えてしまっている。山の天敵、梅雨入りをしてしまった。週末の会の山行も相次いで中止をしている。紫陽花が綺麗。緑が濃く茂り、山々からはパステルカラーがいつのまにか消えてしまった。

いつもの私だったら、雨にも負けずホシダに向かっていただろう。しかし手術から5日、さすがにまだクライミングは早いと思う。雨だとあきらめがついていい。

最近はこんな日は、公営のスポーツジムに行っている。2月の骨折以来、汗を流すこともなく過ごしていたので気持ちが良い。体重は増加の一途をたどっている。まだ始めたばかりなので成果は分からないが、つい期待してしまう。3日坊主に終わらないようにしなくては…。


2003.6.10/PM.9:00/いよいよ
9日は抜釘の手術日だった。前日の夜9時から、手術に備えて飲食は出来ない。食いしん坊の私は、何が辛いといっても何も食べられないほど辛いことはない。

手術は無事に終わった。10センチほどの金串のようなものが3本と針金が抜かれて出てきた。「記念に持って帰りますか」といわれ、もらって帰ってきた。今日は朝から病院内を歩き出し、昼食後に退院して家まで歩いて帰ってきた。さすがにまだ傷口はチクリチクリと痛む。薬のせいなのか、昨日からやたらと眠い。よく眠る。今も眠くてたまらない。

とうとう中断して少し眠ってしまった。

これで、抜糸をしたら治療はすべて終了。ほんとうにもう少しの辛抱となった。しかし、前のように山道を歩けるのか不安は残る。

怪我をすると、大変だ。半年はブランクが空いてしまう。しかし、怪我の功名とはよく言ったもので、私にとってもいろいろ考える良い機会となった。

まずは、フリーといえどクライミングは危険だということだ。今までは怪我をしたり事故の話を聞いてもしょせん他人事でしかなかった。自動車事故と同じで、未熟さと無謀さがより事故に結びつく。これからもクライミングをやるなら、より研鑽して自分の力を高めないといけないと思う。

それと、加齢に伴う衰えも考えなくてはならないのだろう。少し、寂しいなぁ〜。


2003.6.4/AM.5:30/めぐりあう時間たち
水曜日、今日をどのように過ごすか朝から考えていた。とりあえず、1月に切って以来ボウボウに延びきった髪を切ることにした。その後、ホシダに行くか…、と考えていたが手術のことを考えると気持ちが萎えてしまった。クライミングは、かなりテンションを高めていかないと行こうと言う気持ちになってこない。

美容院を出たのが、昼を過ぎていた。朝に友人と話していて、彼女のお勧めの映画の始まる時間にちょうど好い時間となった。

題名は「めぐりあう時間たち」。ほんとうに良い映画だった。人間について、生きるということについて考えされられた。正気と狂気の境目はいったい何なのか? 精神を病んでいる人をほんとうに病気というのでかたづけられるのか? 正常というのは何を持って正常というのか? あらゆる価値観がぐらつくような衝撃を覚えた。

三世代の生きた年代の違う女性三人が、最後には見ているものに繋がりを感じさせてしまう。不思議な構成がなされている。

原作を読んでみたくなった。


2003.6.3/PM.11:30/芦生の新緑に心が和む
今日芦生の写真をじっくりと見てみた。みどりが綺麗。会の地図読み講習会だったので、殆ど一人で行動していたので、おもいっきり写真が撮れた。深い森の中の登山道ではない道を歩くというのは以外と気持ちの良いものだ。もっと不安があるかなと思ったのだが…。

かなり古い木に蔦が巻いていたり苔むしていたりしていると、これが秋だと鬱蒼としているのだが、この季節はなぜかそんな感じはしない。

森の中を、妖精が駆けめぐっているようなキラキラとした命の躍動のような感じがする。小川のせせらぎの音も、みどりの色もやすらぎを感じる。

森のみどりの中に横たわり、時の流れを忘れたい衝動に駆られる。

しかし、山に登るということは現実からの逃避ではありたくない。

美しいものへの憧憬として山に向かいたい。


2003.5.29/PM.11:30/リハビリクライミング
久しぶりに平日クライミングの仲間、Nさんnさん二人と一緒だった。ホシダには平日毎日といっていいほど来ているクライマーが数名いる。みんな、前向きで素晴らしい。中毒にかかったように来ている。私も、少しは中毒気味。たいした進歩もないのに、辞められない。特に今はリハビリ中の身、無理もできない。今日は、3本リード。1本トップロープ。少し、前の登っていたレベルに少しは近づいたようなきがする。しかし、パワー不足は拭えない。かなり、腕の筋力が萎えているようだ。

クライミングで全身リハビリできる。病院のマッサージよりははるかに効果があると思う。

というようなわけで、リハビリだと思って、 ガンバ!! ガンバ!!

そしてリハビリという大義名分があると、平日のホシダ通いも人様からの顰蹙をかわずにすむかな?? しかし、主治医のH先生は何とおっしゃるでしょう??


2003.5.28/PM.6:30/後遺症
未だにすっきりと生活が立ち直れていないと思う。後遺症が大きい。足のリハビリも遠のいてしまった。ただ、マッサージをしてもらいに行っているだけなので、どうと言うことはないように思うが、やっぱり行った方がいいようにも思う。2週間サボってしまった。来週は足の定期検診だ。内踝はまだ腫れているがかなり足はスマートになったと思う。このまま維持しておかなくては、また抜釘の手術はしてもらえない。

この前の検診の時は、熊野古道を歩いてきた後なのでかなり腫れていた。案の定、抜釘の手術を延ばされてしまった。

もうすぐ夏山シーズン。山復帰はいつになったらできるのでしょうか。それまで体力だけは維持しておかねば…。しかし、これも心配。

 


2003.5.25/PM.10:30/悲報
ひさしぶりにつぶやきへ書こうという気持ちになった。とくにこの一週間は脱力感で何もすることができなかった。ただ時間だけが、忙しく過ぎてしまった。悲しい一週間だった。

新聞紙上で遭難の記事を見るたびに、山に行っている私は人ごとではないなぁー、と思いながらもまさか自分の山岳会で亡くなられた人が出るとは思ってもいなかった。

約17-8年ほど前、親戚の一人息子Hが今回と同じ剱で遭難している。その時にはハイキングは家族でいっていたが、本格的な山にはまだ行っていないときだったので、ただただ山は怖いところという印象だった。なんでそこまでして山に…、とごく普通に思っていたが、パネル張りした本人が撮った剱岳の写真を見ながら、あまりの美しさに少しは気持ちが分かるような気もしていたと思う。しかし自分が山にのめり込んでいくとはその時は全く思いも寄らなかった。かなりの捜索にも拘わらず遺体はとうとう見付からず、何の痕跡も山には残していなかった。Hの母親は帰ってくる夢をしょっちゅう見ると今でも言っている。帰ってくると信じ続けていたが、7回忌目に遺体が戻らないまま葬儀はおこなわれた。剱に登るとかならずHちゃんのことを(私と同い年)思い出しながら、頂上の祠に手を合わす。

今回のOさんの遭難も、また山での悲しい思い出を作ってしまった。今は、最近一緒に行った山行でのOさんを思い出してばかり。知らず知らすのうちにお話ししたことやいろんなことを繰り返し反芻してしまってる。

もう、こんなことは経験したくない。なのにまた私と家族は、山に向かう。Oさん! 同じ山好きとして私たちを見守っていてくださいね。お願いしますよ!


2003.5.1/PM.6:30/サボっている間に…
もう5月、早いなぁー。私はというと、28日夕方から風邪で寝込んでしまった。喉が真っ赤に腫れ、熱もでて下がらないので、29日病院に行った。筋肉注射を肩にしてもらった。その時は、医者が「注射をしますか?」と聞くので、あまりの辛さに何でもいいから治して欲しいという気持ちで即座に「ハイ」と応えていた。しかし肝心の何の注射か聞くのを忘れた。とにかく、肩の筋肉にブスリと刺されたときは痛かった。その注射が即効性があったのか30日は熱も下がった。しかしその日一日、ゴロゴロして過ごしてしまった。実はちょうど宮部みゆきの小説「理由」が面白いところなので布団からでられなかったのだ。お陰で夕方には読み終えた。

今朝は、あまりによく寝たせいか、腰が痛くて直角以上に曲がらない。ホシダに行く予定だが迷ったあげくに我慢。そのうちに体も少し軟らかくなり、だんだんエンジンもかかってきた。布団からシーツを剥がし、シーツを洗濯をして湿っぽい布団も干す。気分も爽快なので久しぶりに掃除もこなす。しだいに、体も快適に動くようなってきた。

そして、食欲もでてきて3キロ減った体重が元に戻ってしまった。あっけない戻り方だ。自分ではあまり食べていないと思うのに変だ。食べ物が美味しい。

この数日間の苦しみはいったい何だったんだろう。私にしては珍しいことだった。急にホシダで頑張りすぎて、疲れていたのだろうか…。それとも、また自分に抑制が利かなくなったことへの、神の忠告だったのだろうか…。

治った(調子が戻った)とたんに、またまた抑制は利かなくなっている。困ったものだ!


2003.4.24/PM.8:30/映画「シカゴ」
アカデミー賞受賞の映画「シカゴ」を見てきた。アメリカらしい映画だと思った。野望に燃え、したたかに生きる二人の女性を中心に描かれている。脇役の弁護士や看守も同じようにしたたかだ。久しぶりに見たミュージカルだったが、とても楽しめた。舞台の中心になっている監獄の地味さと、夢想として描かれている華やかな世界の対比が面白い。構成としても画面がとても練られているという感じがした。それに主演女優のひとりヴェルマ役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズという女優のダンスや歌も素晴らしく魅力的だった。

ずーっと大昔見たミュージカル「メリーポピンズ」「サウンドオブミュージック」「ウェスト サイド ストーリー」からみると、私の目にはかなり進化して見えた。


2003.4.20/PM.8:30/動けるようになると
足の方が治ってきたら出かけることが多くなり、忙しい。水曜には、映画のレディスデーで「アナライズ・ユー」を友人と見に行った。この映画は、あまり印象に残るような映画ではなかった。

木曜日はホシダへ。金曜日は午後から、また石清水八幡宮まで歩いた。桜はもう散って若葉が出ていた。八幡市橋本経由で帰った。京阪橋本駅は昔と少しも変わらない、ローカルな雰囲気の小さな駅である。駅の周辺の家並みも昔と変わらない。一種独特な雰囲気を醸し出している。

そして土曜日は、年寄り4人を乗せて奈良の吉野山の上千本までドライブ。この日の朝のNHKのニュースで桜が見頃と放映していたのを見た母にせがまれてのことだったが、下千本から中千本あたりは殆ど桜は散っていた。上千本の展望台では桜は見られたが、生憎の雨で視界はなく、今ひとつであった。十年ほど前に、何年間は毎年見頃のころを選んでハイキングがてら花見に行っていた。いつも日を選んでいたせいか見事だった。その時の印象が残っていただけに、がっかりした。

そして今日の日曜日は雨の中、ホシダへ。湿気も多くて、蒸し暑い日だったが、人はわりと多かった。


2003.4.15/PM.11:30/久しぶりに面白い小説
水村美苗著『本格小説』上下という小説を、一気に読んでしまった。最初からどんどん小説の世界に引き込まれていく。久しぶりに面白い小説に出会ったという感じがする。読み始めは、作者の私小説という感じだが、上巻は殆ど下巻の複線でもある。上巻だけでも充分小説として読み応えがあるのに、下巻にはもっと波瀾万丈なストーリーが展開される。

主人公が何人もいるという感じだ。登場人物の人生がそれぞれいろんなところで交差している。

構成自体が面白く、読み進に連れて、ますます深入りしていってしまう。そして読み終わった数日も奇妙な余韻を引いていた。

『本格小説』という奇妙なタイトルも、読み終えてみて納得した。正に『本格小説』と呼べる。

ウィリアム・モリスの壁紙を使った装丁も内容にピッタリで素敵だ。


2003.4.9/AM.9:30/骨折から2ヶ月
2ヶ月前の今日だった。時間的にはちょうど今ぐらいかな。今朝のように雨上がりの朝だった。

昨日、検診に行った。いつも通り見慣れたレントゲン写真に目を向けながら、H先生は「しっかりついているから来月抜きましょう」とおっしゃってくださる。今度病院に行くのは一ヶ月後だ。この分だと、あっと言うまだと思う。夏には山に行けるかな…。

どうしてこうも山のことが頭から離れないんだろう。


2003.4.4/AM.9:30/大文字山へ
夜に所属山岳会の会合があるので、少し早く行って大文字山に登ってきた。3月27日に哲学の道を歩いたときは、桜の蕾もまだ固かったが少し開きだしていた。家のベランダから見える公園の桜はほぼ満開。桜の開花が、だいぶ違っている。銀閣寺周辺は夕方にも拘わらずかなりの人手だった。

大文字山の登りは30分ぐらいかかった。後から来た青年二人に追い越されてしまう。ゆっくり歩いていても、久しぶりの登りは息切れがして汗が流れる。上につくと10人前後の人がいた。ちょうど、夕日が沈むところだった。灰色の京都の町並みの上の方で、お日様はオレンジ色に輝いていた。

しばらく眺めていた。端から端までけっこう広い。最初は、はっきり見えていた町並みもどんどん暗くなり、日が沈むと少しずつ灯りがつき始める。人も少しずつ減ってしまった。夜景も見たいという衝動に駆られるが、足下が見えなくなると危ないので降りることにした。案の定降りたころは、かなり暗くなっていた。

いつになったら、足を気にしないで歩けるのだろうか…。


2003.4.1/PM.9:30/歩行練習
朝から松井の出る大リーグのオープン戦を見ながら家事を済ませ、昼食後外に出た。一応5キロほどある石清水八幡宮を目指すが、疲れたら引き返すつもりで歩きはじめた。いつもなら車で通り過ぎてしまう商店街を、キョロキョロしながらゆっくりと歩くと、空き家になった商店やビルが目につく。かなり不景気なんだなぁーと思う。古くからあったM電化も閉店セールをしている。鍼灸、接骨医院や個人医院、動物病院などが反対にやけに増えていると思ったのは思い過ごしだろうか?

歩き始めは、思いの外快調だった。商店街を抜けて、公園に入りベンチで休む。足首が少し痛い。広い公園なのに、人はまばらだ。子どもが少しいたが、とても春休みとは思えないほどの少なさだ。桜はここでは三分咲きぐらいだ。靴下を脱いで、足の様子を見てみたが変化無し。また住宅街を歩きはじめる。とうとう、八幡さんの山道まで来た。まるで嵯峨野を思わせる竹藪の道である。この道は裏道になる。

頂上の桜はまだ蕾だったせいか、人は少ない。そのまま表の石段を降り京阪八幡駅から電車に乗った。全部で10キロほどの行程だっただろうか。

石清水八幡宮のHPです。

http://www.iwashimizu.or.jp/5/index.html#top

途中の公園

嵯峨野ではありません

八幡さんへの裏道

下の赤いのは椿の花

石清水八幡宮

灯籠が並ぶ

神馬

下の境内

 

桜が少し咲き出した


2003.3.29/PM.5:30/ホシダ
陽気に誘われて、久しぶりにホシダにいった。木々達は、やっと新芽を出しはじめたところ。春爛漫にはもう少しかかりそう。家の前の公園の桜が少し花が開きだしてきた。窓から見える一階の庭の木蓮はちょうど白い花が開き、私の部屋のパソコンの前のイスがちょうど特等席。これで桜が開くとこのイスから花見が出来る。そして、部屋の中まで花吹雪が舞い込んでくる。

ホシダの壁を見ても、久しぶりという感じはしなかった。ピトン小屋の管理人の人や常連の人たちが温かく迎えてくれた。不安ながら、トップロープで正面をなんでもありで登ってみる。まだ左足に乗り込むには自信が持てず恐い。しかし、大丈夫だという手応えはあった。上まで行くと気持ちがよい。

いつになったら以前のルートまで戻れるかは判らないが、また頑張ろうという気持ちになれた。

また山行記録欄が書けるのも嬉しいことだ。


2003.3.27/PM.5:30/哲学の道で物思う
私の所属山岳会は銀閣寺の近くにある「zig zag」という喫茶店で会合をしている。入会前にこの喫茶店でミーティングをしていると聞いたときは「ヘエー、まだあるんだ」とびっくりしてしまった。この喫茶店は三十数年前の昔、何回か行っていた。

そのころはドアを開けるとがんがんロックが鳴り響いている狭い店内に、長髪でジーンズの薄汚い格好のヒッピー風の若者がひしめき、ムンムンしていて穴蔵という印象だった。

最初の会合で行ったときは、懐かしさでいっぱいだった。歳の頃は私と同じぐらいの個性的で素敵なママさんに、「ずーっと昔、この店に来ていたんですよ!」と話しかけてみた。そしてその喫茶店の全盛期の話をしてみた。「そうらしいですね!」という返事。残念ながら、そのころのことをご存じではなかった。「そうだろうな、もう三十年近くも経ってるんだもの」と納得はした。しかしその頃の名残が、アーチ型のしきりの壁やカウンターの位置、ルネッサンス風の布張りイスやテーブルにある。

定期的にこの喫茶店に通うようになってから、かれこれ7年程か。昨日は約2月ぶりだ。少し早めに行って哲学の道を歩いてみた。歩けるのが嬉しく、早速どこでも歩いてみたかった。桜の木はまだ蕾で、陽気は春めいていたが、風景は寒々しい。途中で「日本百名道」という看板があった。何でもかんでも「日本百○○」流行りだ。何だか、いただけないなぁー。

哲学の道の終点から鹿ヶ谷通りを折り返した。私の歩き方を見てか私のとこにくるとタクシーが徐行する。何台もである。京都は、このごろなんてタクシーが多いんだろう。足を引きずりながらやっとZIGZAGまで戻り、店内に入る。お客さんは一組。初老の男性が囲碁をしていた。今では、ママさんと趣味を同じくする常連さんがお客に多い。まだ時間が早かったので、本を読みながら時間を過ごす。久しぶりに歩いて疲れたのか、いつのまにかコックリ…。

今日は、家の前の公園の桜が一輪咲いていた。目を凝らして他の木も捜してみたが、その一輪だけだった。 


2003.3.25/PM.11:30/よちよち歩き
今日の検診で松葉杖を外して歩いて良いと許可が下りた。

実はもう家のなかでは面倒なので少し歩いてしまっていた。先週の検診で、つい松葉杖を横に置いて数歩歩いてイスに座ったのを、私の主治医の先生はしっかり見逃さず「体重をかけて良いとはいっていないのに、勝手なことをされると後で後遺症が出て痛くなっても知りませんよ」と叱られた。「すみません、家ではちゃんとしてます…」と即座に言うと、「言い訳はだめです」とまた叱られた。それでも先週は片方だけ外す許可を下ろしていただき、この一週間は面倒だが出来るだけ片方の松葉杖は使うようにしていた。しかし一本残った松葉杖を早く返したかった。

治ったわけではないのに、本当に嬉しかった。自分の足で歩けるということが、こんなに素晴らしいとは…。自分のために花をいっぱい買って来た。家の中はいたるところ花だらけ。実は、近くのスーパーで花の百均をしていたのだ。両手に抱え込んだ花は甘い香りがする。何もかも幸せに満ちているような、錯覚を起こす。少し前までは私の手は松葉杖しか持てなかった。

今日は、だいぶ歩いてみた。とはいっても銀行に行ったり、近くに買い物にいったり本屋さんで立ち読みしたりと大したことではないが…。なのにかなり疲れた。出来るだけスマートに歩きたいのに、だんだん疲れてくると足首や足の裏が痛くなり、変な歩き方になってる。

家の前の公園の桜の蕾もかなり膨らんできた。これからは歩くのには絶好の季節だ。ワクワクしてきた。


2003.3.16/PM.4:30/新しい生命
今日も一日雨。よく降る。

我が家はマンションだが、玄関とベランダにはいろんな植物(殆ど緑のもの)が生い茂っている。ほとんど手入れをしないので野性味豊かな状態だった。なのに追い打ちをかけるように、激寒の日に折り鶴ランとベゴニア、アロエなど寒さに弱い植物が枯れてしまった。しかし忙しさにかまけて、片づけずにそのままにしていた。娘は「幽霊屋敷みたい、何とかした方がいいよ!」と言うし、訪れた人は遠慮がちに「ジャングルのようね!」と笑って仰有る。

私が怪我をしたので、ますますそのまま我慢せざるおえない状態だった。今日は思い切って枯れているのを切って綺麗にした。ゴミ袋いっぱいのゴミが出た。完全に枯れていると思っていたら、下から小さな芽が出ているのもある。

私の足と一緒で、植物も一生懸命再生しようとしているんだと思うと、小さな芽もいとおしく思う。その小さな芽が大きく成長するのを楽しみに待とう。


2003.3.15/PM.3:30/週末の雨
朝から雨。ここのところ週末は雨が多いような気がする。いつも週末の天気が気になっていたのが嘘みたい。雨の日は一段と静かに思うのは気のせいか。一人でいたら、土曜日であることも忘れてしまう。こんな雨の休日はどのように過ごしていたのかしら?

そういえば、山に行き始めた京都北山当たりをハイキングしていたころには、雨でも山に入っていたのを思い出す。最近でも雨や雪が降ってもホシダにクライミングに行っていた。夢中になっていたら、雨もまた乙なもの…。山は雨で洗われると、一段と美しく見える。

しかし、今の私は雨の日に出かける気分にはなれない。ようやってたなぁ〜。

前の公園の桜の蕾がベランダからもだいぶ膨らんで、うっすらピンクに見えるのは気のせいか? 昨年は20日のつぶやきにこの公園の桜が咲いているのに気が付いたと書いている。昨年はずいぶん早かったと思う。今年はもう少しかかりそう。

Nさんが寄せ植えにしてもってきてくれたヒヤシンスは、覗くと黄色い蕾が延びていた。

一雨ごとに暖かくなり、もう春はそこまで来ているようだ。


2003.3.13/PM.3:30/戦場のピアニスト
11日めでたくギブスは取れて、やっと左足に20キロ分の加重をしていいと医者から許可が出た。待ってましたとばかりに、さっそく左足にも靴と靴下を履かせ、地面に足をそっと置いてみる。家ではすでにもう立ってはいたが、体重を掛けるのは恐かった。全く痛みもなくすんなり立てた。その日は、帰りにリハビリで20キロの加重体験をして、それで歩く練習をした。松葉杖を使ってのことなので、すんなりと歩けた。歩けると言うことが、こんなにも嬉しいとは…。

次の日の昨日、私は映画を一人で見に行った。家でじっとしていられない気分だった。車で20分ほどのジャスコにある映画館で「戦場のピアニスト」を見た。水曜日はレディースデーなので1000円と格安である。普段の水曜日はホシダの日に当てていたので、なかなかこの日に映画を見られない。

この映画はショパンの美しい曲とは対極的に、その内容はナチスのユダヤ人に対する目を覆いたくなるような残虐な行為や戦争の悲惨さがリアルに描かれている。戦争は人間からあらゆるものを奪い、何も生むことはないと、その対極がゆえに分かりきったことに改めて強くうなずいてしまった。

私は、ショパンとモーツァルトのピアノ曲が好きである。


2003.3.5/PM.3:30/自分の体の一部であるという実感
怪我をしてからずっと左足はギブスで、足としての機能はなかった。私は壊れ物を扱うようにしてきた。それは、生まれたての赤ん坊を扱うようにぎこちない。ようやく風呂にはいれ、生身の足をギブスから解放した状態で眺めてみた。足首周辺はまだ腫れてずんぐりむっくりである。そのまま少しずつおそるおそる前後に動かす(医者に前後だけは動かすようにと言われた)。向こう脛に痛みが走る。そっとお湯をかける。こすると垢とも皮膚ともわからないがぼろぼろと落ちる。やっと自分の足であるという実感がしみじみと湧いてきていとおしい気持ちになる。

特別のものとして感じなくなったとき、本当に自分の体の一部となるのだろう。


2003.3.4/PM.3:30/抜糸
怪我をしてから3週がすぎ、手術から2週目で今日病院に行った。抜糸をしてもらい、ギブスも半分になった。明日から、風呂に入って良いということだった。まだ体重は左足にはかけてはいけないということなので、不自由さは変わらないが、気分的にはとても楽になった。

骨はレントゲンでは、よくついているらしい。私が見ても折れた箇所が分かりにくかった。黒い針金のようなものがはっきり2本写っていた。

今日は粉雪が舞っていた。寒い日だ。なのに家の前の公園のさくらは芽が出始めていた。来月の今頃は花が咲いているだろうか?


2003.3.1/AM.11:30/時間泥棒から返して貰った心のゆとり
久しぶりのモーツァルトピアノ協奏曲のCDをかける。モーツァルトは、心を和ませくれる。思わぬゆとりの時間。体の動きは制限されていて身体的に出来ることは制限されるが、日頃忙しさにかまけて後まわしになっていたことが出来る。不自由な中の自由。このゆとりを私のためにだけに使えるという贅沢さ。

今頃の時間にシャワーを浴びること、朝からモーツアルトの音楽に聴き入ること。好きな本を飽きるまで読めること(本箱を開けると、読みたいと思って買っておきながらほって置いた本がけっこうあった)。パソコンで好きなことを書いていること。何をしていても、時間制限はない。

これはとても嬉しいこと。時間泥棒が時間を返してくれたのかな??


2003.2.28/PM.6:30/たっぷりある時間での考察
今の私は怪我の功名。のんびり、ゆっくりと一日が終わる。

ずっと昔私が子どもだったころ、時間はゆっくり流れていたような…。子どもだったから、そう思うのかも知れないが…。何をするのも、田舎は時間がかかった。たとえば、学校に行くにも駅に出るにも、歩いて一時間単位。私は小学生のころ、通知票に先生が「道草をしているようなので、まっすぐ家に帰るように…」というような意味のことを書かれたことを未だに憶えている。そのころ、登校時は一番に行って、運動場のドッジボールの場所やその時に夢中になっていた遊具を確保するのが日課であった。だからかなり朝早く家を出ていた。しかし帰りは途中から家が殆どなくなり、田圃と畑ばかり。道路から逸れて農道(田圃の畦道など)に入り込み、回り道をして帰るということをしていたのを思い出す。それと遊びながら帰る。ジャンケンして負けたら勝った子の鞄を電信柱一本分を運ぶという遊びだ。あとは、かくれんぼをしながら帰ったのも思い出す。(かくれんぼ時に隠れていた大きな瓶のようなものは、発掘された棺だったのは後になって知った。その当時、道端に放置されていた。)登下校中に車が一台も通らない通学路だから出来たのだろうが…。そんなことをしていたらなかなか家には帰れない。今の子どものように、列をなして登校・下校した記憶は全くない。

風呂を沸かすのやご飯を炊くのは私の仕事。ご飯は学校に行く前に竈で最初から炊きあがるまで付きっきりで炊く。今はだいぶ記憶が薄れたが、その当時はご飯の炊けてくる様子を、音や臭い、湯気などで察知して火を強めたり弱めたり、けっこう要領よくやっていたと思う。こういう日常生活は、お婆さんから手取り教えられていた。風呂は毎日ではなかったが同じように蒔きで沸かす。これも、ぼーっと炎を見ているのが好きだった。火を見ていると、気持ちが何だか落ちついてくるし、冬場は暖かく気持ちがよい。洗濯もたらいである。全て手作業で時間がかかる。

そういう、非文化的な生活も我が家に洗濯機が来た頃から、変わっていった。小学生の中頃だったと思う。父が頑固もので「ご飯は釜で炊いたんがいちばん美味い!」という主義でかなり後までご飯は竈だったが、あとは田舎にも合理化の波が押し寄せ、文化的な生活が始まっていった。

子どものころは、何かにつけてのんびりしていた分、日々豊かに過ごしてきたように思う。

そんことを思っていたら、うちの子どもが小学生のころ、読み聞かせをしていた本の中のミヒャヘル・エンデ著「モモ」を思い出した。主人公モモは円形劇場に住んでいる孤児の少女である。街の大人や子どもの人気者で楽しく暮らしていた。ところが、だんだんモモのところに人が集まらなくなってくる。原因は、時間泥棒がはびこり「灰色の男」を使って、みんなから余分な時間を奪ってしまうからだ。するとみんな忙しくあくせくし、時間を節約し出す。しだいにモモの所にも人は集まらなくなり、人間関係がギクシャクしてくる。そこでモモはみんなの時間を取り戻すべく、「灰色の男」と闘う。そうして、街や円形劇場はまた楽しい場所になっていくというストーリーだった。これは、エンデが脚本を書いて映画にもなっている。この映画はとても良かった。(エンデの本で有名な「はてしない物語」がある。この本もとても良かったが、映画を見てガッカリしたのを憶えている。)

私は、大人になるにつれて時間に追いまくられる生活を余儀なくされてきた。今の子どもは母親に「早くしなさい!」「ぐずぐずしないで!」と生活でも追い立てられている。そして遊ぶ時間まで奪われ、塾通いである。子ども社会は大人社会の縮図。まさに現代社会は時間泥棒の「灰色の男」がはびこっているのだろう。私は、最初に「モモ」を読んだとき、童話でありながらこの社会に対する警告として捉えていた。

幸いにも、今の私にはたっぷり時間がある。日頃、忙しいという名目で出来なかったこともできる。私にとっては有意義な時間だと思える。

私を山に向かわせるもの…。それは時間を忘れられるからかもしれない。何日か山に行くと、その日は何月何日何曜日であるとか、地上で起こっているであろうことや社会での煩わしいことすべてが頭から消え去っている。ただひたすら対峙するのは自然だけである。

私は、失った時間を山で取り戻しているのかもしれない。


2003.2.26/PM.1:30/臨時車椅子
昨日手術後一週間の診察に行った。「骨はしっかりくっついている」とレントゲンを見ながらもう一人の手術をしていただいた男性の医師に言っていただいた。次の週(術後二週目)は抜糸。術後三週でギブスが取れる。しかし、まだ松葉杖は手放せないそうだが…。

今日は、久しぶりに掃除をした。どういう風にしたかというと事務用のイスを車椅子代わりにして動く。我が家はマンションなので段差がほとんどない。この臨時の車椅子は足が四方八方に動くように出来ていて、イス自体もクルクル回るのでとても便利だ。あとはケンケンと松葉杖を臨機応変に使いこなしている。部屋の中では、松葉杖はとても不便だ。まずは手が空かない。床に座っていて、立つときに立ちにくい…。

日にちが経つに連れて、生活は不自由ながらも要領よく順応していく。人に頼れないほど、何とか工夫をするものだ。

片足生活もだいぶ慣れてきたようだ。


2003.2.24/PM.2:30/手術
2月17日入院。18日手術。22日退院。

私は今までに手術の経験がない。今回が初めてのことだ。あんまり何回もない方がいいのだが…。内踝にボルトを通して固定するという手術だった。時間的には手術室に入って出るまで2時間強だった。背中の左側の骨髄に(エビのような格好の)折り曲がった状態で半身麻酔の注射をされた。そして麻酔の効くのを待って手術になるのだが、なにせ初体験なものだからいろいろ不思議に思うことがあった。

手術中は足は延ばしていたにも拘わらず、麻酔を掛けられたときのエビのような格好が潜在意識として残り、麻酔のかかった左足はずっと膝を立てているという想いがずっと抜けなかった。何ともない右足はちゃんと伸ばしていることが実感できたが、左足は曲がったままの踝の位置で、麻酔が効いていないような鈍痛にずっと悩まされた。ホント辛かった。しかしよく考えれば幻覚みたいなもので頭の中で想像した痛みだったようだ。

看護師に「痛みますか?」と問われ、「痛いです!」と応える。医師は「痛み止めしておいて!」と看護師にいうが、何の処置も施してくれない。ガリガリ、ほじくられているような感じと鈍痛が続く。じっと時計の進むのを眺めながら絶える。やっと手術が終わってギブスをはめてもらえたがまだ痛い。医師が抱え挙げて、はさみでギブスからはみ出した綿を切っている。一丁上がりの白い足が目の前に見えるが、それは自分の足とはとうてい思えない。まだ膝を曲げた状態に意識が残ってる。すると突然そのギブスの上から医師が傷口当たりを撫でてくれた。そうすると不思議なことに今までの痛みがすーっと消え、撫でられたところがホカホカし、いやに気持ちが良い。このとき初めて、自分の足が伸びていることを私は認識した次第だ。撫でてくれている女医先生は天使のようにやさしく思えた。こんな体験は初めてのことだった。

人間の体や脳は不思議だ。今回の体験で麻酔をするなら全身(脳も)にして欲しい、それが情けというものだろうと思った。しかし、専門家ではないので、全身麻酔か局所麻酔かの判断は医者にゆだねるしか他はない。

手術の日は、一日中水分も食事もなし。じつはこれが一番辛いのでは…、と思っていたが意外なことにどうということはなかった。次から次への点滴のお陰だろうか。その夜は、やっぱり辛かった。痛みもあったが、熱も出ていた。痛み止めの座薬と氷枕で少し寝られたが、うつらうつらしては目が覚める。

次の日は、もう松葉杖で歩いて良いという許可出た。午後からはもうリハビリだ。簡単なストレッチをした。

一週間弱の入院生活だった。昨年の9月に移転新築された病院は設備もよく綺麗。ここが病院でなければ帰りたくないような…。

ギブスをはめた不自由な生活がこれからしばらくつづく。


2003.2.16/PM.5:30/鉄の男
先週の日曜日から一週間がすぎた。何をしていても時間は過ぎていく。「激しすぎる夢」を読み終えた。鉄の男小西政継も死んで終わっている。この本の中だけでも、どのくらいの人が遭難して死んでしまったか…。

一緒にクライミングをしている女性が「山の用語は戦争の用語と一緒で抵抗を感じる」といっていたことがある。そういえば、この本のなかに頻繁に出ていた。「攻撃、攻撃隊、攻略、進撃、偵察、敗退、挑戦、征服、…」。山はより厳しくより高くと征服し、競い合うものとしてあるのか。

女性は基本的には、命を産み育む性である。やっぱり基本的に違うなぁー、と思ってしまった。こういうことを書くと、何も死ぬのが目的で山に行くわけではないといわれそうだが…。この男女の差異をけっして優劣でだけは判断して欲しくないとは思う。

やつぱり何処までも強く…、なんでしょうか? 私の問いは、まだまだ続く…。今まで、厳しい登攀をしている一流の登山家の本(私とはあまりに世界が違いすぎるので)はあまり読んでいなかったが、また次の本に手が出てしまっている。今回は本当にいい機会となった。

 

一週間ぶりにシャワーを浴びた。気持ちがいい。この一週間で右足と左足が明らかに違ってきた。右足の裏の皮は白くふやけている。そして太股は柔らかくなってきたように思う。一週間でこんなんだと、気合いをいれてリハビリしないとだめだなぁー。


2003.2.14/PM.5:30/人の情けを知る
足の一本が不自由で、こんなにも行動が制限されるとは…。日頃歩けることが当たり前のように思っていたが、何と有り難いことか。

足は、ぱんぱんに指先まで腫れている。そして、足首は内出血で紫色。「手術日までに、しっかり腫れを引かせておいてくださいね。そうでないと手術は出来ませんから…」と美人で若いH先生のきつい言葉が頭をよぎる。象の足のように腫れた露出している爪先や指を見ては心配になってくる。後3日で、腫れは引くのだろうか。今日も、ぐうたらで過ごしてしまった。午後から、同じマンションの友人が、夕食のカレーを作って持ってきてくれて、しばらく話し込んで帰った。気が紛れる。こういうときは人の親切が有り難い。

80歳の母が、「晩ご飯作れるか? 大根炊いたけれど…」と電話があった。「大丈夫!」と応えた。まさか持ってきてとは言えない。日頃、私をアッシー君として使っていた母も、買い物をバスで行っている。ほんとに、周りの人に心配を掛けて申し訳ないとつくづく思う。

それも、好きなことをしていてだから、よけいに後ろめたい。

人間ってほんとうは優しいんだ、とこういう時に再確認できる。


2003.2.13/PM.8:00/なぜ?危険なクライミングを
9日に怪我をし、次の日の10日はこちらの病院で一日潰れた。その日は入院に際してのいろんな検査のために病院中を松葉杖ではいずり回った。いままで、こんなに松葉杖で歩くことが大変なことだとは知らなかった。こんなんだったら、片足でけんけんのほうがずっとましだ。夕方うちに帰ってからは、ぐったりしてしまい松葉杖を見るのも嫌で、炬燵に潜り込んでひたすら読書。起きあがるのはトイレぐらい。あぁ〜、めんどくさい。

一本足が使えないくらいで、何という不自由さ。そんなわけで、今2冊目の本を読んでいる。1冊目は今井通子の「私の北壁」。今読んでいるのは「激しすぎる夢」小西政継の生涯である。なんでクライミングで怪我をしていて、一年ほどほって置いたクライミングの本を読んでいるんだろう、とふと思ってしまった。

自分でもよく分からないが、それは懲りない自分を再確認すためのようなきがする。よくそんなしんどい思いをして何で…、とかそんな恐い思いをして何で…、と山に行かない友人に聞かれる。今までも「分からない、何でなんでしょうね…」と曖昧な返事をしていた。実際、怪我をしてしまうと、やっぱり自分にももう一度問いたくなるのだろう。それが、こんな本ばかりに目が行ってしまう要因だと思う。命のぎりぎりのところで山に入っている人に「何で?」と問いたくなったのかも知れない。

クライミングは、やっぱり危険なスポーツだと思う。なのにリスクを負ってでもなぜまだ辞めないのか。私の場合は、先鋭的なクライミングに憧れたり、目標があるわけではない。しかし、少しずつは上手くなり、行ける範囲は広げていきたいという希望はある。そしてクライミングは山に行くひとつの手段として楽しいからやっている。これが山に関係のない人工壁だけのスポーツクライミングだったら、こんなに熱心にやっていなかっただろう。

山に登るにもいろいろ方法がある。何もより危険な方法を取らなくても良いではないかという考えもある。それは、一般登山道を登るよりも素敵な発見や達成感があるからだろう。昨年の夏に行った娘のMと登った北岳バットレス四尾根。その終了から頂上までのお花畑は、クライミングをしてきた人にのみ与えられる特権である。辿り着いた頂上は、記念写真を撮っている人でいっぱい。どこかの観光地の喧騒そのままだった。登攀中の私たちの目に写る貸し切りの風景は、なんて贅沢だったんだろうと思ってしまう。しかし、山に登り初めてすぐの私の力では行けるところではなかった。何年間のフリークライミングやザイルワークの経験があって行けたのだ。セカンドで連れて行ってもらつたり、ガイド山行だともっと気軽にいけたと思う。しかし、自分の力でやり遂げるのには、たとえ簡単なルートでも一即跳びには行かない。日頃の、努力も必要だ。それで私は、人工壁やゲレンデに通っている。

「私の北壁」を読んでいてマッターホルン北壁を登攀しているのは、あたかも自分であるような錯覚を持ってしまった。当然私の実力では行けるはずがないのに、疑似体験をしてしまっている。それは彼女の喜びが、私の喜びとして追体験出来るからだろう。特に男性と女性はクライミングに対しても向かい方が違うようだ。いや、男女差ではなくてスタイルの違いかも知れない。

★『私の北壁』女性だからという偏見より引用

「私は、今はもう「女性が、女性が……」と、虚勢をはろうとは思わない。男性も女性もその特性を生かすことが必要であろう。こと山に関しては、男性にしても女性にしても、心に求めるものは全く変わらないのである。ただ女性には女性的な登り方があるのではないか。男性にそれがわかってほしいのだ。」


2003.2.12/AM.11:30/怪我の功名になれば…
この連休は、伊豆の城山でのフリークライミングと天城山の登山、そして温泉という欲張った計画をたてて7日出発した。同行、娘M、母(80歳)、母家の伯母(87歳)の4人だった。初日の城山南壁は順調だったが、2日目にアクシデントが起こった。雨が夜に降っていたようで、地面は濡れていた。少しゆっくりめにとりつきまでいったのだが、壁は部分的に濡れていた。しかし、渇いているように見えるルートが左にあり、昨日登らなかったルートがナインで2本残っていた。前日で気をよくしていた私は、最初はその渇いていたルートの一本ナインのアナザステップにMの次ぎに取り付いた。Mも出だしから、「何だか乗れてる気がしない」といっていたのだが、そのときはえらい弱気だなぁー、とビレーをしながら思っていた。そしてザイルを抜いて交代。出だしのスラブは、Mがいうとおり何だか乗れてる気がしない。靴の中で足がずれるという感じだったが、慎重にテラスに乗っかってホッとした。次のピンはかなり遠い。のっこそうと思ったとたん、チョークバッグが真っ逆様に落ちてしまった。「何だか、へんだな?」と思っていたら、下でルート名を聞いている声が聞こえる。Mと数名が話している。一瞬、とまどってしまったが手を伸ばしたところに第一関節がはまるくらいのホールドを両手に感じ、これだと大丈夫と思い行ってしまった。その瞬間指先が滑り、気がついたら3メートルほどフォール。左足に激痛。捻挫だと思った。下ろしてもらい、靴を脱ごうとしたら、見る見るうちに腫れてきた。テーピングで固定したが痛みが取れず、下山することにした。Mは荷物を持ってくれたが、足を置くたびに痛いので、さきにMに降りてもらい車からストックを持ってきてもらう。必死で降りていた私とストックを持ったMは途中で出会い、ストックにたよりながら降りる。まだその時は捻挫だと思っていたので、大仁駅まで行き、湿布薬を買うために薬局を探した。が生憎休日なので何処もしまっている。駅の売店で、救急で診てもらえる病院をMに聞いてきてもらうと、一駅向こうにある病院をタクシーの運転手さんが教えてくれた。湿布薬をもらってすぐに帰るつもりだったが、レントゲンをとり骨折と判明。

その日に帰ることにした。問題は年寄り二人だ。早速旅館に行き事情を説明して、二人は残ってもらい、Mと二人で帰路に就いた。

今までにフリークライミングで怪我をした人のことは、よく聞いたりしていた。しかし所詮は人ごとだった。自分が、怪我をして初めていろんなことを改めて考えた。

私の場合は、人工壁に行くことが多い。岩のゲレンデクライミングの経験が少ない。人工壁はハング気味なので落ちても大事にはあまりならない。しかし、岩でランナウトが遠いときは、登る人もビレーヤーも落ちたときのことを絶えず念頭に置いておかねばならない。今回のようなスラブの場合は落ちたらどこかにぶつかってしまう場合が多い。

そして、壁が濡れているときは(今回は見た目には渇いているルートをとったが)もっと注意が必要だった。

そして、お喋りしながら和気藹々とクライミングをしている風景をよく見かけるが、ビレーヤーも周りの人も登っている人に登ることのみに集中させるようにしなければならないと思う。

細かくはまだまだあるが、以上の反省を今後に活かしていきたい。

そして人工壁と岩のグレード感はかなり違ってると思う。今まで、人工壁で反復して登れていたグレードからはもっと低く、ましてオンサイト能力はまだ低いと言うことを、謙虚に自覚して反省としたい。


2003.2.6/PM.9:30/五十歩百歩
人は何で比べたがるんだろう。「我が道を行く」に徹していればいいのになぁ〜。クライミングなんか時にそんな気がする。自分の目標を持って、一つずつ課題をクリアしていく。そうすれば、人のことが気にならないだろうに。

自分でも陥りやすいのは、目の前の同じくらいのレベルの人に勝った負けたと思うことだ。それはとても浅はかだと思う。「井の中蛙大海をを知らず」になっているのだと思う。

そして、自分より下の人を見つけて、その人よりましだと思う。差別の構造だ。

本当に人間的にも出来ている人は、出来ない人や弱い人に思いやりがあると思う。

五十歩百歩、目くそ鼻くそで比べて優位に立っても仕方がないだろうに。

それよりも自分の一歩先に目標を持ち、努力した方がいいと私は思う。


2003.1.31/PM.9:30/寒波のあとに
29日の寒さは異常だった。昨日ホシダに行ったら29日にクライミングに来ていた人がこの日も来ていた。やっぱり凄い人もいるものだ。この寒さで我が家のベゴニアと折り鶴ランが枯れてしまった。残念だ。特にベゴニアは、一度はウドンコ病で枯れかけていたのをみごと蘇生させて花を咲かせていたのに…。

荒島岳に山スキーに向かった私の所属山岳会のメンバーが、勝原スキー場も豪雪につき営業休止。この日は道路上で敗退になって、22時間のドライブで疲れ果てて帰還とMLで報告を流していた。

私も、不動に約束していたが朝に電話で中止を申し込んだ。

しかし、このあとの山は綺麗だろうな。どこか近場で行ってみたいなぁ〜。御在所か比良か京都北山の皆子山あたりでも…。


2003.1.28/PM.3:30/昨日の続き「岩見知り」
昨日書いていて思い出したが、人はけっこう人見知りをする。人に対しても誰でもすんなり打ち解けられる人は少ないだろう。それも凄い人だと思うとよけいに尻込みしてしまう。けっこう、話してみるとすんなり打ち解けたりするのだが、最初にいろんな先入観が入ってしまい話しかけられなかったりする。「恐そうな人」「無口そうな人」「真面目そうな人」「賢そうな人」「偉そうな人」…なんて勝手に自分の中でイメージ化してしまっていて話しかけられないことが結構ある。その点「ざっくばらんな人」「気さくな人」「愛想のいい人」「飾らない人」…という人は私の場合はすぐに打ち解けてしまう。

前者の人でも何かのきっかけで、先入観が取れてすんなりうち解けられる場合もあるが、けっこう思いこみが長い間続いてしまう場合がある。比較的人には垣根は作らないようにしているが、たまには思いこみでざっくばらっんに接することが出来ないことがある。そう思っていても、何となく話しかけたことで今までの印象が全く払拭されることもある。「恐そうに思っていたのに、意外に優しいところがあるやん!」とか「ヘェー、この人ににもこんな一面があったんや!」と見直すこともある。こういう場合は、あとも気持ちがよくて良いのだが、逆の場合は後味がかなり悪い。いい人だと思いこんでいた人からひどいことを言われたりすると、憂鬱な気分になったりする。

私は、不動岩の正面壁に気後れしていた。「岩見知り」である。たとえ登れなくても取り付いてみてると、良く思えるのだろうか。果たして好きになれるのだろうか。なんて書いていると、我ながら大層さに苦笑してしまう。取り敢えずは、垣根を取り払うことが先決だ。


2003.1.27/PM.10:30/奇遇
土曜日の不動でのことである。駐車しようとしていたら、もう一台の車が入ってきてカップルか降りてきた。夫はなじみらしく、挨拶をして私を紹介してくれた。そのまま不動岩の正面につくと、その人から「昨年の夏白山でお会いしましたね」といわれ、すぐに思い出した。私の報告「美しすぎる白山」に大坂の労山のカップルで登場している。お二人はご夫婦で、私には全く取り付くことも出来ない不動の正面のルートを華麗に登っていらっしゃる。感心して、眺めている。ほんと奇遇である。

実のところ、私は不動があまり好きではなかった。それは不動の代表的な正面壁は、かぶり気味の長いルートでほとんどイレブン台だ。私には、とてもとても太刀打ちが出来ない。しかし不動ではやっぱり正面壁にステータスがある、という思いもしていた。なのに、いついっても登れるのは左の短いルートが数本のミュージックフェイスだけ。ルートの長さは倍以上ある正面壁を華麗に登っている人に比べると、惨めな思いをいつもしていた。いつも不動に拒絶されているように思ってしまっていた。

正面壁に取り付いている人は、特別に上手い人で別世界の人という感じがしていてなかなか馴染めなかった。それが今まで行きたくない理由となっていた。

しかし、今回たまたまその中に知っている人がいて気軽に話しかけてくれたので、今までのイメージが少し払拭されたようだ。正面壁も、私にも登れるルートはあるだろうかと、真剣にトポを見ている。ミート&ポテト(5.10a)とリトルボーイ(5.10c)あたりから練習してみようかな、と少し積極的な気持ちになってきた。


2003.1.23/PM.5:30/美容院
髪の毛を短くした。従姉妹が美容師をしていて、その店でカットをしたのだが、なんと昨年の7月に行って以来だという。自分でも呆れてしまう。最近は女性に拘わらず男性でももっとおしゃれには関心を持っているのだろう。私のヘアースタイルは子どものころから何ら変わっていない。これでも3回ほどはパーマを掛けてみたことがある。しかし、一度も満足をしたことがない。似合わないのである。確実に老けて見える。1度目は、東京にいるころ(20歳代の前半)であるが、美容室から出てすぐに隣の喫茶店のトイレに駆け込み、水で濡らして取ろうとして、よけいにクルクルになり泣きたくなるほど惨めな思いをしたのを思い出した。

それ以来2回ほど試してみたが、後悔こそすれ良かったと思ったことはない。それ以来もうパーマはあてていない。


2003.1.23/AM.0:30/お節介と助言
今日は、ホシダに行ってきた。わりと冷える日だったのに、人はかなり多い。総勢20名近くいただろうか。誰かが不景気だから多いのだろう、といっていたが(仕事が暇)そうとばかりも言えないだろう。熱心な人たちであることには違いない。

上手い、下手とは関係なく自分のレベルアップのために努力しているのだろう。所詮は何でも、○○の為にと考えるとやっていられない。最終的には自分のためにやっているのだ。

今日ホシダに集まっていた人は、少なくとも人のことは気にしていない。自分のために登っている。そう、ただひたすら登っている。人は少し知ると人にお節介をやきたくなり、人の登りにとやかく言いたくなる人もいる。また、適切なアドバイスは役に立つこともことも多いし感謝することもある。しかし、ろくに出来ない人からの助言は単なるお節介となる場合が多く、単に口うるさいという印象しか与えない。ということは、お節介と助言はどう違うのだろうかと考えてしまう。

私と娘でクライミングをしているときにお互いにいろいろ言い合っていることは、決してお互いにお節介とは感じていない。それは根底には愛情に根ざした思いやりがあるからだ。それは、何の利害関係もなく相手が上手くなって欲しいと心底願うからだ。

人は、愛情を含んだ言葉には喜びを素直に感じるのだが、そうでない言葉にも敏感に感じるようだ。言葉は一旦口から出ると、もう戻すことは出来ない。私もお節介にならないように気を付けなくてはならないと思う。


2003.1.20/PM.7:30/アイスクライミング
18日と19日は南アルプスの戸台川、上ニゴリ沢と歌宿沢大滝「歌姫の宿」でアイスクライミングを楽しんできた。今シーズンはこれで3回目。アイスクライミングがなんで楽しいのか、と自問してみる。結構腕力と脚力がいるので大変だ。おまけにプロテクションは自分で作らねばならない。スクリューを打つときは、片手での作業である。傾斜がある場合は楽だが、立っていると大変な作業でもある。

初体験は、3年前の2000年。それも、2回目の八ヶ岳のジョウゴ沢の美しさが原点のようだ。それもF2から上の水色の氷と氷瀑が感動的だった。それからもう一度、行きたいと思いながら3年が過ぎようとしている。

毎年、機会があるたびに行ってしまうのは、キラキラ輝く氷の魔力なのだろう。それと雪景色を眺めながらのクライミング。今年こそ、もう一度ジョウゴ沢の水色の氷を見てみたい。


2003.1.11/AM.12:30/上位ランキング
ホシダの利用者の上位10名がリストアップされた。もちろん全員の名前は私の知っている人だ。私は8位になっていた。しかし、あまり大きな声では言いたくない。それはこの回数に上達が比例していないからだ。子どものころに、「努力しなさい、かならず結果がでる」と教育されてきた私は、自分なりに努力する人になってはいると思う。しかし、何事も努力のみでは解決しないとこのごろうすうす感じている(今頃遅いか?)。それは才能である。潜在的な能力である。やっぱり、人間は平等に作られてはいないと感じる。

しかし誤解しないで欲しいのは、だから努力は無駄だといっているわけではない。何もしない人よりは、やった方が少しずつでも出来るようになるのは当たり前。

能力差はキリなくある。それだったら自分自身の能力を自分なりにほんの少しでも高める。そのことに対しての努力だと思えば、努力することもまた楽しくなる。人と比較したり、あまりに高いところに目標を置くと挫折感が大きい。

クライミングをしているときは延ばした手の上のひとつのホールドしか見えていない。そしてそれを掴むことしか考えていない。そうだ今年は、それでいこう。あまり欲張らない。自分の目の前に見えている、一つ上の目標を達成する努力をしよう。

とはいうものの才能がなくても一足飛びにうまくなる方法はほんとうにないのかな? あったら誰か教えて!


2003.1.9/PM.8:30/ウイルス騒動の功名
暮れからの疲労を引きずって正月を迎え、だらだらと時間を潰してしまっている。その分、家でパソコンに向かっていることが多い。HPの新年度への改訂や表紙のイメージチェンジなどけっこうHPの作業もたまっていた。そんな折り、私の所属山岳会のMLで、ウイルス騒ぎがあった。家のはマックなのでウインドウズのウイルスは掛からないという確信はあったものの、MLのメンバーの強い批判もあり、ウイルス対策をしていなかった私は、慌てて大阪の日本橋に駆除ソフトを買いにいった。重い腰を(私の場合はお尻かな?)上げたのである。やっぱり、家のマックは偉い。ウイルスには強かった。ついでにセットになっていたので買ったてしまったノートンユーティリティーでいろいろな問題も見つかり、そちらも修復が出来た。マックは少し疲れが出てきたようだが、これでまだまだ快適に過ごせる環境は整った。やはり、メンテは大事だと思った。(私のマックは2歳の誕生日を迎える)。今回のウイルス騒動の「怪我の功名」である。

私自身も、この年末年始はメンテ期間だったようだ。使っても使っても疲れが出にくく残らないというのは若い人の特権だ。私はわりと痛みや疲れに鈍感な方で、少しぐらいの疲れには気付かずに来たようだ。いや、気付こうともせずに夢中になっていたのかもしれない。私は、虜になると見境がなくなる性格らしい。山に虜にされていて気付かずにいることや、目に入らなくなっていることが多くなっているようだ。精神的にもかなり疲労していたと思う。

思い起こせば、昨年の終わりころには夕食を終えるか終えないうちに睡魔が襲ってきて、我慢ができず寝てしまうという日々が続いていた。これが今から思えば警告だったのだろう。それにも拘わらず、相変わらずの山行やクライミング。それに年末の慌ただしさ…。それが、疲労となり風邪をひいてしまう結果となり、暮れの合宿に症状がでてきたようだ。

そろそろ無理がきかないほど使ってきたんだと自覚しなくては。私はマックほど若くはない。マックのように簡単に修復も効かないということも自覚しなくては。反省しきりである。

いろいろ、考えが巡った2003年の正月であった。しかし、こんなことがあっても山に行きたい衝動はまだ抑えられない。連休はのんびり快晴の雪山を歩いてみたいと思う。山に癒されている自分があることも事実だ。


2003.1.3/PM.6:30/正月気分も薄れているなぁ〜
今日で正月三が日も終わりである。まったく正月らしく無いなぁ、というのが感想だ。今年は夫も一週間クライミングにいっていしまい、子どもたちも2日から仕事である。私はというと昨年一年の疲れを癒すべく、ゴロゴロと正月を過ごしてしまった。家でゴロゴロしていると一日はあっというまだ。これもまたいいものだ。


2003.1.2/AM.10:30/新年を迎えて
2003年お正月。久しぶりで年末と正月元旦を実家で迎えた。80歳を今年迎える母は昔ながらのまま正月を迎えている。暮れには餅をつき、棒鱈や野菜の煮しめをつくる。正月といってももう2日には店が開いていて何でも揃うというのに、大量の買い物もしている。不合理だと私は思ってしまう。しかし久しぶりの味噌仕立ての雑煮とおせち料理はおいしかった。懐かしい味がした。

昨年も、山やクライミングで明け暮れた。年末も、合宿のアイスクライミングに参加した。しかし、最初の予定である稜線まで詰めることは出来なかった。滑川を詰めるときから、どうも体調が悪い。体がフラフラする。足も重いし、荷物も応える。奥三の沢に休み休みやっとの事で辿り着いたときは、みんなの最終の1時間遅れ。他のメンバーはすでにテントを残して、F1でクライミングをしている。それを知っていながらも、全く気力が湧かない。ついたとたんテントに潜り込み、ガタガタ震えながらシュラフに潜り込むがまだ寒い。2時間ほど寒さに震えていた。次の日はもう下山しようとその時は決めていた。その夜も、ダルマのように着ぶくれしていたのに寒くてあまり寝られなかった。朝F1で二本登って、12時過ぎに一人で下山をした。上松駅までは長い道のりであった。

135日の行動の疲れがどっと出てきたようだ。もう、無理がきかない年頃になっていたのだろう。

今年は、突っ走るのはやめよう。