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2002.12.24/AM.10:30/クリスマスイブ
今日はクリスマスイブ、とはいっても今の私には何の関わりもない。子どもが小さいころはプレゼントを昼間に用意して、寝てしまってからサンタの手紙(実は夫が書いていた)を添えて、そっと枕元に置いていた。我が家の場合は中学一年生までしていた。他の子どもは、サンタなんていないと小さいころから知っていた。幼稚園の時に、「今日は幼稚園にサンタさんが来たんだ。サンタは園長先生だ、とみんなは言うけれどぜったいあれはサンタさんだ」帰ってから興奮して話していたことも思い出す。我が家の双子の娘は、かなり大きくなっても居ると信じていた。小学校高学年ぐらいのときのことだったと思う。二人で泣きながら帰ってきた。それが「○○ちゃんが、サンタはいない。お父さんだよ、って言うんだけれど、いるよね!」と私に聞く。どうもそのことで、議論して悔しくて泣いてしまったようだ。その時に私は、「サンタは心の中にいるんだから、いると信じていればいる。いないと思えばいない」というようなことをいったと思う。そうしたら「やっぱりいるよ。いると思っているんだから」と勝手に納得してしまった。

今大人になった本人に聞いても、そのころは信じていたという。子どもは、悪魔にも天使にもなると思う。それは、接する大人の心次第だと思ってしまう。子育てのときに、大人になってから、もう一度「童心」に触れられたことは、私にとってもかけがえのないものとなっている。その頃触れた絵本も、もう一度人間を問い直すのに一役買つていたのだという想いがしている。

灰谷健次郎「わたしの出会った子どもたち」(新潮社)を思い出し、本箱を捜してみたところ、見つかった。もう一度読み直してみよう。


2002.12.21/PM.3:30/折角の三連休が…
今日から三連休。なのに雨。私もくすぶっている。部屋の中も暗い。こんな日は心の中も暗い。今日は朝から年賀状の印刷。昨日は窓ガラスをピカピカにしてカーテンを年に一回の洗濯。

昨日はやっと、新田次郎の「栄光の岩壁」を読み終えた。どんな状況でも、夢を追い続けている人は魅力的だ。小説の主人公は、やはり「苦難を乗り越え、大きな夢を実現」というストーリー展開。でないと読者を引きつけないのだろう。その点、主人公竹井岳彦は八ヶ岳での凍傷で足を切断。それにもかかわらず、山を捨てず努力で山に挑んでいく。凄い人は、やっぱり感動も大きい。山野井泰史・妙子さんのギャチュンカンでのドキュメントも人を引きつける。それは本当に凄い壮絶な闘いであっただろうことは、私にも想像できる。

しかし、人間のどんなささやかな行為にもその人なりの感動と夢が詰まっているはず。ささやかであろうが、でっかいことであろうがその人なりに努力している人は魅力的だ。そして、奢れていない人も…。

「1.健康な肉体 2.強固な意志 3.謙虚 4.情緒」としてこの小説に出てきたアルピニストの条件。私も、うなずいてしまった。


2002.12.15/PM.10:30/筋肉痛
土曜日ホシダにいった。ここのところ、ホシダへいく回数はめっきり少ない。この日もたったの3本登っただけなのに今日は腕が凄い筋肉痛だ。ホシダのハングは一週間に2回ぐらい行かないと、私は登れなくなる。これは完璧に筋トレをしているようなものだ。

最近ルートが変わってから、かなりグレードアップしてしまい、ホシダで登れるルートが少なくなってしまった。これは、常連のみんなからもブーイングがでている。私も行く回数が少なくなっていることもあってか、今ひとつ調子が悪い。(なんて愚痴っているけれども、これが実力かも…)

冬は、やっぱり季節的にもフリーはむかないのかも知れない。どうしても、アイスクライミングや冬山に行きたくなる。雪の中を、歩くだけでも楽しい。土曜日のホシダは特に寒く、ホールドを持つ手が冷たく痛くて力も入らない。それで登れないので、苦行をしているようなものだ。

やっぱり、こんな時は山を歩いている方が楽しいのかな…


2002.12.13/PM.8:30/丹後半島は雪景色
昨日丹後半島の夕日ヶ浦温泉へ行き、カニ料理を堪能してきた。丹後地方に近づくに連れて雪景色が開けてくる。網野当たりからは結構積もっていた。途中雪をかぶった大江山が美しい。

帰りは丹後半島を、雪がちらつくなか一周。日本海が荒々しい。(写真左)

写真右は伊根町の「船屋の里公園」から見た船屋。

  


2002.12.10/PM.2:30/八ガ岳
今年、初めてのアイスクライミング。会の講習会で最初の計画では、中央アルプス西面の正沢川幸ノ川と悪沢あたりでの予定で出発。しかし、ここには氷が張っていなかった。急遽確実に凍っているだろうというリーダーの判断から、八ガ岳の南沢の大滝・小滝に転進する事になった。ここは私は初めてであるが、一度どんなところか見ておきたかったところだ。

それは、私の娘が2001年の1月27日にこの大滝にアイスクライミングに来て、雪崩に遭った場所でもある。その日の八ガ岳はドカ雪だったらしく、入山しなくて美濃戸で引き返したパーティーもけっこうあったらしい。なのに、娘のパーティーは腰までのラッセルで南沢に時間を掛けて辿り着いた。滝を偵察に行ったらしいが埋もれていて発見できず、小滝の下でテントを張り、お茶を入れてほっこりしていたところに小滝から雪崩れてきたらしい。テントごと埋もれてしまった。

京都の山小屋の静原荘で会の懇親会の最中、携帯にその一報が入った。全員無事に救出されたという知らせが入るまで、私は自宅でいつでも出かけられるように待機していた。京都駅に迎えにいき無事な姿を見て、やっと安心したのを今でも鮮明な記憶として残っている。山に娘を導き入れたのは私である。その時は心底後悔した。

そして、今回偶然とは言え大滝でアイスクライミングをすることになり、その現場がどんなところなのだろうという好奇心に駆られていた。行ってみたらどうしてこんなところで雪崩が…、と思えるようなところではないか。まだ雪が少ないとはいえ、全くの樹林帯である。雪崩れたという小滝は本当に、雪が少なかったと言うこともあるが、どうして雪崩れてきたのか信じられないようなところだった。テン場もテントが張ってあったが全く雪崩などとは無縁に思えた。

未だに、その時のことを思うと冬山に気楽に行ってはいけないと思ってしまう。そのとき娘の命がなかったなら、私は山を憎んでいただろう。


2002.12.2/AM.10:30/忙しすぎる日々
もう12月。一年のあまりの早さに驚いてしまう。こんなに山やクライミングに明け暮れていたら、早くてあたり前だろう。我ながらこんな生活に呆れてしまう。そして、いつまで続けられるのかと、ふと思ってしまう。

土曜日は、アイゼントレでまた金比羅。これで今シーズンは3回目。3回目ともなると余裕が出てきて、わざと先の出っ歯1本でどの程度のところにまで乗れるのか試して遊んでみたくなる。今回は軍手着用。素手の感覚とはかなり違う。もったホールドに不安感がつきまとう。これもきっと慣れだろう。アイゼントレも、結構遊べるものだ。

日曜日は姫路の小赤壁(しょうせきへき)でクライミング。家から私の運転で2時間の余裕の日帰りができた。海を眺めながらのクライミングは、初めての体験。夕日で海面がオレンジに染まるまで遊んだ。

さすがに月曜日は、起きたときに体が硬直状態。直角より前に体が曲がるようになったのは昼頃。そして昼頃まで頭痛。かなりの疲れだった。しかし今日はもう疲れも癒えてきたようだ。

そのとたん、明日はホシダである。飽きないのが不思議だ。

 


2002.11.28/AM.9:30/どこまでも、青い空
快晴の西穂高。空には雲一つ、染み一つない。ごこまでも真っ青な空が広がっていた。雪の白さとは対照的により青く見える。この時期いつも恒例としての会山行であるが、年度によって雪の状態が違っている。一昨年の涸沢岳西尾根は全く雪がなく、新穂高の林道を出発したとたんに足の裏に水ぶくれが出来てとても辛い山行となった。西尾根も雪が付いていないと、単なる藪こぎである。プラブーツの足には酷な山行であった。

地上は晩秋のこの時期の山は厳冬期の厳しさがなく、それでいて雪山の美しさが味わえるとても良い季節なのである。だから、今までも私は進んで参加してきた。

今回は、絶好の天気となった。それまで早くから降った雪が積もり(前日までずっと雪模様だったらしい)、景色も格別美しい。本当にラッキーだった。山は天気次第だとつくづく思った。

特に冬山は、天気が良ければ寛大になるが、天気が悪いと厳しくなる。いつもいつも、こんなに温かく迎えてくれるとは限らない。その分、この希少価値の眺めをいつまでも心に残しておきたい。


2002.11.17/PM.10:30/京都一望
今日は、京都山の子会(視覚障害者の山の会)から京都北山のハイキングに行って来た。山幸橋バス停から盗人谷へ入り氷室へ。氷室神社を経て京都の送り火五山の一つ、舟形の山の船山(317M)という経路だった。この船山からは、お天気もよく、遙か大阪まで見渡せるのでは…と思うほどの展望だ。十数年前に北山を毎週のように徘徊していたころを懐かしく思い出した。京都は南の方からずっと山に囲まれた盆地であることがよくわかる。向かい右には大文山の「大」という文字もちゃんと見えた。比叡山もひときわ高く見えるのでよくわかる。

途中の氷室では、平安時代に氷をつくって献上していたという氷室が残っている。直径五メートルぐらいのすり鉢状の穴が三つ。これは岩の横穴のようなものを、勝手に想像していたので全く違っていた。ここに雪を詰めて、水を掛けて凍らせて六月までもたせて運び出していたという。

京都の北山は、ハイキングコースとしても「京都一周トレイル・コース」として整備されている。京都はいいなぁーと改めて見直した。また歩いてみたい。

 

追記:11/28 「日本の食卓文化考」(下記引用)というHPにこの氷室の氷にいわれをもつ京和菓子「水無月」のことが載っていました。興味のある方は下記ご覧下さい。

http://www.wanogakkou.com/hito/0110/0110_29.html

京都らしい和菓子に「水無月」があります。関東では見ませんので、はじめはとても珍しく思いました。三角形のういろうの上に小豆をのせただけのものですが、もちもちした台と、小豆の淡い甘さがほどよくマッチして、素朴な味わいのお菓子です。

水無月は言うまでもなく六月のこと。六月になると京都の和菓子屋さんの店さきは、どこも水無月がならびます。

それにしても、このなぜこのお菓子を水無月というのでしょう。三角形の姿は氷を象徴しています。六月は一年のおりかえし点で、もう一つの正月です。それで六月一日をことに「氷の朔日」といって氷を食べて無病息災を願う日です。これからいよいよ暑い夏を迎え、これをのりこえるために心をひきしめるのです。

京都の北山には、いくつもの氷室があって、厳冬のうちに切り出した氷を、深い穴蔵に貯蔵しました。氷は夏なってもとけずに残ります。氷を薄く削って、甘ずらの汁をかけて食べるのは何よりの楽しみと、平安時代の清少納言も書いています。いわば現代のかき氷。うだるような京都の暑さのなかで、冷蔵庫も何もない時代にこれは最高のぜいたくでしたろう。というわけで、宮中では六月一日に氷室から氷を出して廷臣にくだされるしきたりがありまして、これを氷の朔日といったのです。 氷のかわりに氷のかたちをしたお菓子を食べて、同様の思いを求めたのが京菓子の水無月でしょう。

 


2002.11.13/PM.8:30/紅葉真っ盛りのホシダ
今日はホシダでクライミング。今日のホシダは綺麗に紅葉した木々で彩られていた。街路樹も、綺麗に染まっている。「春色か秋色かどちらが好き」と聞いてみる。私は、ずっと昔から秋色が好き。秋色の、黄色オレンジ色、赤色、茶色…みんな暖色。今日一緒だったNさんも同じ。娘は「春色が好き」という。Nさんが「Mちゃんは、これからなので春、私たちはやっぱり秋なんだ」と意味深なことを仰有る。「もう散っていくから? じゃーもうすぐ冬で終わってしまうの?」。そんなはずはない。散るどころか今も満開、そしてまだまだ咲きそうな人がたくさんいらっしゃるではないか。

私はまだまだ散りたくないと坑しながら、木にへばりついている葉っぱだろうか?

絵本「葉 っぱのフレディー」のフレディーように…

 

一緒に生まれた 同じ木の 同じ枝の どれも同じ葉っぱなのにどうしてちがう色になるのかフレディーはふしぎでした。「それはね−」

とダニエルが言いました。「生まれたときは同じ色でも いる場所がちがえば太陽に向く角度がちがう。風の通り具合もちがう。

月の光 星明り 一日の気温 なにひとつ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときはみんなちがう色に変わってしまうのさ。」

変化するって自然なことだと聞いて フレディーはすこし安心しました。

枝にはもう ダニエルしか残っていません。

「この木も死ぬの?」「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ。」とダニエルは答えました。

葉っぱも死ぬ 木も死ぬ そうなると 春に生まれて冬に死んでしまうフレディーの一生にはどういう意味があるというのでしょう。

「ねえダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」とフレディーはたずねました。ダニエルは深くうなずきました。

「葉っぱのフレディー」より

 


2002.11.6/PM.6:30/終焉
九州の旅行に一緒に行った友人の母親が急に亡くなった。私の回りでも伯父や伯母たちが次から次へといなくなった。私の子どものころから、死は身近にあった。兄が死んだときは、保育園児。祖父が死んだのは小学三年生。その頃は、埋葬は土葬だった。子どもの頃は、人が死ぬことはとても恐いことだと感じていた。

恐いことはいっぱいあったような気がする。暗闇も恐い。私の子どもが小さいころによく読んでいた絵本に、斉藤隆介の「モチモチの木」というのがある。豆太という5歳の少年は、夜中に小便に行くことが出来ない臆病者である。おもての大きなモチモチの木が恐いのである。いつもじっさまについてきてもらう。そのじっさまがある日腹痛を起こす。弱虫の豆太が、じっさまを助けるために勇気を振り絞って、医者を呼びにいく。勇気を奮い立たせたお陰でじっさまは助かる。それからは、恐がらずにせっちんにいけるようになった。というようなストーリーだったと思う。

私はこの本を子どもに読み聞かせをしていて、自分の子どものころを思い出していた。田舎なので、やはりトイレは外にあり、おまけに暗い。もちろん、今のように水洗ではない。私は、いつも豆太のような気持ちでトイレに行っていた。

私がいろんなことを少しずつ恐がらなくなってきたのは、いつ頃だろうか。この頃は、特に鈍感になってきている。人が死ぬことも当たり前のこととして受け止められる。少なくとも、子どものころのような恐さはない。

ところで自分の終焉は、どのように迎えるのだろうか。そして、80歳になる母親のことも思った。

 


2002.11.5/PM.8:30/捻挫
九州の旅行で阿蘇草千里でのことである。見渡す限りの草原で美しい。とは言っても、もう秋色で茶色の草原なのだが…。私は、迂闊にも風景に見とれて排水溝のくぼみに足を取られぐねってしまった。

その時の痛みは、並大抵ではない。そのまま、ウ〜ッと唸りながら、しゃがみ込んで起きあがれない。周りの目を感じ、何気ないふりをしようとするのだが、だめだ。「こりゃ、重傷だ」と思った。大概道でぐねって痛みは走っても、すぐに戻ってしまうのに、なかなか痛みが取れない。靴下を脱いでみるとかなり腫れている。バスガイドさんが、湿布を持ってきてくれた。すぐに貼ったがそれからは足を引きずりながら歩くことになる。雲仙の薬局で湿布薬を買う。

次の日は痛みはだいぶ楽になった。歩いてもいたくない。しかし足はかなり腫れている。もうかれこれ一週間近い。腫れはだいぶ引いたようだが、くるぶしの周りはまだ痛みと共に、腫れも残っている。山では気持ちが集中しているから怪我も少ない。

これからは、ボ〜ッと歩かないことだ。いろんなものに、目配り気配りが必要だ。歳と共に…。


2002.11.2/PM.3:00/伊吹に初冠雪
今日の朝テレビのニュースで「伊吹山に初冠雪」というのをやっていた。例年より17日早いそうな。11/1の槍ヶ岳の写真を会のメンバーが転送してきてくれた。(http://www.mcci.or.jp/www/yarigatake/me021101.htm)槍沢も雪で埋まっている。大曲当たりの写真も膝上のラッセルをしている写真が出ていた。今年は、このまま豪雪になるのだろうか? もう山は一気に冬に突入したようだ。

ついこの間まで、「雪山は厳しいから、今年は…」と引く気持ちが強かったが、また気持ちがぐらついて行きたくなってきた。げんきんなものだ。


2002.10.28/PM.10:00/木枯らし
週末、土曜日はホシダに行き、日曜日は駒形岩と烏帽子でクライミング。さすがに昨日帰るころにはヘロヘロ。ちょっとやりすぎだ。もう少し歳を考えなさいと天の声が聞こえてきそう。

とにかく寒くなってきたものだ。一気に冬という感じだ。今日は慌てて、扇風機をしまう。ついでに暖房器具をもう出しておいた。夏服もやっとしまい、冬物とタンスの中身も交換した。これで一段落。

明日からは九州へ旅行だ。メンバーは子供が幼稚園ぐらいからの家族ぐるみの友人たち、全部で4名だ。子供たちが小さいころはついてきていたが、中学1年生のときを最後に子どもたちは来てくれなくなった。それからは、母親だけの付き合いになってしまった。旅行の積み立てをして、貯まるとどこかに行くということを不定期に続けてきた。

その子どもたちも交えての最後の旅行が、立山アルペンルートだった。立山からケーブル・バスと乗り継ぎ、ただ人の列の後に並んでいるだけの旅行だった。生憎天気が悪く視界はゼロ。室堂では、雨の中。何しに来たのやら、だだ町中と同じ人混みに飲み込まれているだけ。

ところが、トロリーバスからロープウェイに乗って黒部平に降りていくときに、ガスが晴れて黒部の山容が現れてきた。突然のことでとても感激した。雄大な山の風景との対面である。帰ってから、その山の雄大さが忘れられず、山に足を踏み込んでいった。京都北山からの出発である。

それから、十数年その友人たちとの旅行も山も未だに続いている。

もちろん、その友人たちは山には登らない。いつも山は見るだけである。私はといえば、下から眺める山もけっこう楽しんでいる。そして気に入った山は、今度登りに来ることを約束してくる。九州の山はまだ登ったことがない。じっくり眺めてきたい。


2002.10.24/PM.8:30/連ちゃんホシダ
昨日と今日はまたまたホシダに行ってしまった。もう、筋肉痛は起こらなくなってしまっていると思っていたのに、今日は筋肉痛だった。一本目の、ダイレクトルート(5.10a/b)を必死でしがみつく。体も重い。ここのところ、体重は少し減っていて、軽いはずなのに。2本目のオレンジも最悪。テンションだらけ。なのに今日は4本登ってきた。

こういうときに頑張ると、いい筋肉が出来るというMさんの言葉に励まされて…。

ホシダでもだいぶ涼しくなってきた。


2002.10.22/AM.1:00/まるで梅雨時
週末から雨ばかりで嫌になる。週末は雨の中2日ともホシダでクライミングをして過ごした。日曜日は結構人が多かった。今、次の課題に挑戦している。いくらでも目標が出来るから辞められない。赤テープ(5.11b)を3回目のリードである。なんでもありで登っているのだが、最初はとても遠かったホールドが少しずつ楽になってくる。

しかしこのルート、ホシダで一番ハングがきつく最初に上の方まで行って剥がれたときは目が回った。恐いからしがみつく、ムーブが出来ない。この悪循環に嵌ってしまっている。パニック状態で登っているようなものだ。こうなると登れるところも登れない。

恐怖心を感じると冷静ではいられない。みんなそうなんだろうか?

いつでも冷静心でいられる人が羨ましい。

ザイルがついているというのに…。


2002.10.18/PM.6:30/慌ただしい日々
先週の連休は小豆島へ、クライミングに行ってきた。吉田の岩場でのフリーと拇岩の「赤いクラック」ルートの登攀だった。3日間毎日岩にしがみついていたわけだが、最終日はとうとう指先から血が滲んだ。こんなに登っているのに飽きない。それは楽に登れないからだと思う。何でも簡単に出来たらつまらないではないか。

帰ってからの一週間はあっという間だった。じつは今日から錫杖の「左方カンテ」行こうと思っていた。今の今まで、用事をすませザックにギアを詰め万端整い天気予報とにらめっこしていた。頭の中では紅葉の錫杖を快適?に登攀しているイメージが頭のなかをかすめていた。もちろん紅葉のバックはまっ青な空。

雨には勝てない。9月はほとんど週末は雨で潰れてしまっていたが、またである。今年中に錫杖は行けるかな?

ずっと、行きたいと思っていてもなかなか行けないルートも多い。


2002.10.4/AM.10:00/拉致
最近はテレビを付ければ拉致された家族の悲痛な声が画面に現れる。その度に、この家族のウン十年の生活に想いを馳せると、大変だっただろうなとつくづく思う。人生は細かくはいろいろあるが、大方の人は平凡に生きている。いろんなことがあっても自分が招いたことなら諦めもつくだろう。しかし、他者から不幸を招いたことは簡単に諦めきれないだろう。それも自分の力でどうにもならない、大きな権力には個人では立ち向かえない。本当に人間ひとりひとりは小さなものだと思う。だからといって、たとえ小さなアリンコでもどんな理由であれ踏みつぶされたくはないだろう。

まして人間、「人間として」せめて「踏みつぶすな!」と叫びたい。


2002.10.1/AM.3:00/道場での酒盛り
日曜日、久しぶりに烏帽子岩に向き合っている駒形岩に行ってきた。兵庫の道場駅の周辺のこの岩場は不動岩と共に大阪の山岳会のゲレンデとして賑わっている。この周辺の岩場に来た帰りに道場の駅に立ち寄ると、前の広場はいろんな山岳会の酒盛りとなっている。何年か前に来たときは、駅前の唯一の店も田舎のパン屋さんといった感じだったのに、いつのまにかコンビニ風に綺麗になっていた。そして駅前広場も駅舎やトイレもとても綺麗になっていた。

この道場駅前の宴会を横目でみながらいつもは素通りをしていた。夫が大阪の山岳会に所属した。その会の人も駒形岩に来ていて、初めてその宴会に私も加わった。道場の駅前広場は、あちらでもこちらでも帰るころには酒盛りが始まっている。そして、それぞれのグループもお互いに交流があり、顔見知りの人も多いようだ。2時間ほどの宴会のあと、それぞれ少しずつ家路を急ぎ、だんだん道場前も静かになっていく。私たちが帰る8時頃はもうほとんどの人がいなくなっていた。いつのまにか、たこ焼きやさんも店じまいをしている。

この光景を見ていると、やっぱり大阪だなぁー、と感じる。京都のゲレンデ金比羅の雰囲気とは全く違っている。岩場自体の様子もどことなく違う。あきらかに違うと思うのは、大阪はとても庶民的な雰囲気がある。気さくに誰とでも声を掛け合い、和気藹々と楽しんでる。その点京都の金比羅はよそよそしい気がする。

いつも、ホシダでクライミングをしていて感じる雰囲気はやっぱり大阪なんだと改めて思った。どちらがいいのかは人によって違うと思う。

私は庶民的な雰囲気はわりと好きな方だが、知らない人ばかりだとなかなか入っていけないだろうなぁーと感じた。今回は夫の所属山岳会の人たちとの宴会なのでうち解けたが、この雰囲気によそ者は入れないと言う感じもしないでもない。ホシダでも、このように感じる人がいるとしたら問題があるなぁー。意外と中にいると気がつかないもだ。

しかし、このざっくばらんな交流で、いろんな情報が行き交うことはメリットもあると思える。


2002.9.23/AM.8:30/武奈ヶ岳
きのうは「京都山の子会」の例会に参加して、武奈ヶ岳に登ってきた。総勢40名前後とすごい人数である。まだまだ紅葉には早いが、他にもけっこう沢山の人がいた。曇り空で、頂上は風も強く肌寒い。

京都山の子会は、視覚障害者と健常者の山の会である。昨年の4月ごろ入会した。なかなか行く機会も少なく今回は2度目である。きっかけは朗読ボランティアで知り合った全盲の77歳の女性Tさんが山に登りたいと言ったのがきっかけである。昨日の武奈ヶ岳はTさんと朗読の仲間のNさんと三人で参加してきた。この二人とは昨年白山に登ってきた。

この会はかなり古いらしい。毎月例会でどこかに山行があり、京都の山岳会の人がサポートをしている。いつも40名ぐらいの参加者があり盛況である。

いろんな人と知り合え、楽しいひとときである。今回は同じように朗読をされていて、この会に参加されて十年以上というYさん、演劇の話になると目が一段と輝いたのが印象的だった。

 


2002.9.20/PM.6:30/フリークライミング雑感
やっぱり、手近でホシダに行ってしまった。家から近いというのはかなりのメリット。散歩気分でいける。鳳来から帰ってから、やっぱり岩場で練習しなくては、上手くならないという思いがたえずしているのだが…。

ホシダでは5.10台の今まで取り組んでいたルートをレッドポイントした。昨日は国体大阪予選の女子のルート(5.11b)をトップロープで2回登った。いままでは一手一手がすごく遠いと思っていたのが少し楽になってきている。こんなところ、本当に登れるのかしら…、からいつか登れそうだ…、に気持ち的にも変わってきた。

私がホシダに通い続けるのは、こんな喜びを味わえるからである。

私はピアノを30歳から15年程趣味で習っていた。ピアノのレッスンは初歩の「バイエル教則本」を番号順に練習して1つずつよたよたクリアしていく。そしてツェルニー100番(初級)、30番、40番…、曲もピースという楽譜にこの初級とか中級とか表示がある。曲集も、「ブルグミユラー25」「ソナチネ曲集1.2.」「ソナタ曲集1.2」と順番にレベルアップしていくように上手く構成されている。クリアするとそのレベルが初見で弾けるかというとそんなに甘くはない。初見で弾けるのは、中級が終わるころに初級レベルが弾ければいい方だろう。発表会などで実力よりもハイレベルの曲に取り組み猛特訓をして何とか弾けるようになっても、その実力があるとは思えない。本物の実力はかなり下がってしまう。初見での演奏能力となるともっと下のレベルになる。なのに先天的に才能のある人が必ずいる。そういう人は人よりも早く教則本をこなしていく。子供でもまれにみる天才的な子供がいるものだ。私が知っている子供でも幼稚園でソナチネやベートーベンの簡単なソナタを弾いていた。そういえば友人の子供で幼稚園ぐらいの時、レコードで「エリーゼのために」を聞いただけで、音を拾っていて完璧ではないが旋律を弾いていた子がいた。その子は、母親について私の家に遊びに来てもピアノにしがみついていて離れない(当時その子の家はオルガンしかなかったこともあるが)。その頃は、女の子はほとんどピアノを習っていたが、だいたいの子は小学生の後半で辞めてしまっている。中学生でほとんど辞めて、高校生まで続けている子は本当にまれで、音大にでも行こうと思うような子が残っていたように思う。私の知り合いにも、大人になってからピアノを始めた人が数名いるが、バイエルを終わる前後でやめてしまっている人がほとんどである。もちろん、バイエルは初歩の教則本なのでまともな曲は弾けないままである。小学校の先生の採用試験にバイエルの後半で課題曲が出て弾かされるらしいが、この段階では何の役にも立たないと私は思っている。そして、途中で辞めるとだんだん弾けなくなってくる。しかし、趣味の域でピアノを楽しみで弾くのにはレベルや仕上がり状態は全く関係ない。本人が楽しめればそれでいいのだ。

クライミングも、レッドポイントできたルートのレベルをオンサイトするにはかなり難しい。オンサイトのレベルはかなり落ちる。途中で辞めたり間が空くと、登れていたところが登れなくなる。たえず、前向きに練習をしなくては上手くならない。初級から上級に一気に成長はしない。どんなレベルでも自己満足する事ができる。こうして考えると、ピアノとクライミングは共通してるとつくづく思う。いやどんなものにも共通しているのかも知れない。簡単に上達できるものはないのだろう。しかし、努力次第ではその人なりのレベルアップがあり、楽しみもみつかる。みんな苦労してやっているのだ。そして楽しみとして…。

昨日の帰りに、相棒のNさんがクライミングスクールに行ったときに最初に言われたのが「絶対に人の登りにとやかく言わないのがマナーです」と最初の講習の時に講師が言ったそうだ。何かにつけて、ちょっと知ってくると言いたくなるのが人情。私も気を付けなければと反省。楽しく登るためには、とやかく言わない言われないが一番だと私も思う。

それにしても、才能のある人が羨ましいと、凡人以下の私は思う。でも天才と言われる人ほど努力家であることも事実だ。


2002.9.17/PM.6:30/ついてないなぁー
ここのところ秋雨前線が毎週末に日本列島に停滞して、山には最悪の事態になっている。私も、槍ヶ岳北鎌尾根と前穂北尾根4峰の登攀が中止になってしまった。2週続けて寂しい週末を過ごしている。とはいうものの、たいして上手くはならないが、めげずにクライミングには励んではいる。

先週は前穂北尾根4峰北条=新村ルートに登る予定だったが、土曜日の朝沢渡の駐車場で目覚めると雨だった。なかなかみんな諦めきれずにぐずぐずしていたが、iモードでの天気予報で回復の兆しもないということなので、天気の良さそうな鳳来の岩場に転進した。前から鳳来は難しい。初心者には登れるルートはないとは聞いてはいたが、帰ってから「日本フリークライミングルート集」のプロフィールを読んで、私にとって何と場違いな場所であったのかが納得できた。そこには「鳳来は上級者向きの岩場だ…」とちゃんと書いてある。また「5.10クラスのルートでも、上級者のウォームアップのために作られたものなどはボルトが遠く、こういったグレードを目指すクライマーが、オンサイトで取り付くには危険なものが多い。鳳来は上級者向きのエリアであると認識してもらいたい…」と書いてある。所詮私には無理な岩場だったのだ。

雨で行き場の失った私たちには苦肉の策ではあった。それと鳳来がどんなところであるのかということもよくよく分かった。懲りずに私は2日ともガンコ岩1階の冷たい男(やつ)にトップロープでぶら下がっていた。ほんとうに簡単には登らせてはくれない冷たい男(ルート)だった。と言うよりは私の未熟さを思い知らされたというのが本音だ。靴もアルパイン用のブカブカのボリエールのクラシックというのも敗因だ、と言い訳がましくいいたいが、それ以前の問題だ。

鳳来に来ているクライマーは、見るからにフリークライマーといった感じだ。体型もスリムな若者が多い。美しいムーブで、しなやかに5.12当たりを登っている。小山田大が2日とも来ていた。いつもいっているホシダとは雰囲気がまるで違う。小川山とも何かが違う。

イレブン台をオンサイト出来るようになったらもう一度来てみたい。しかしもう来ることもないような気もするが、まだもう少しめげずに頑張りたい。でもやっぱりイレブンは遠〜いなぁ〜。特に岩場はもっと遠〜い。


2002.9.11/PM.7:30/平日のホシダ
今日は、同年齢の女性3人(私も入れて)でのホシダでの合流。やっぱり暑いが、夏から咲いていた萩の花が駐車場からずっと満開状態。やっぱり秋なんだと納得。関学の山岳部の学生が数名。大坂わらじの会の人でFさんの知り合いがひとり。水曜日いつもきている青年Iさん。それから外国の人2名が飛び入り。

Fさんの旦那さんからイチジクの差し入れ。口に入れると、よく熟していて意外に甘い。こんな味だったのかと懐かしく思い起こした。私が子供のころは畑の畦道などに植えてあって、もう食べ飽きた田舎の人には有り余るものだった。果物屋さんに並んでいるのを見ても買ってまで(お金を出してまで)食べようとは思えず、長い間横目で見ては通り過ぎていた。しかし、久しぶりのイチジクはとても美味しかった。そうそう、こんな味…。でもこんなに甘かったかしら…。


2002.9.9/PM.10:00/久々の金比羅に降参
土曜日はホシダ。日曜日はホシダの仲間と金比羅にいってきた。前からみたら大分登れるだろうと、楽しみにして金比羅に久しぶりに向かったが、全くだめだった。同じグレードでも、小川山や烏帽子の方がずっと簡単に思う。それとも、そんなに進歩はしていないのか? 前日のホシダに引き続きで、疲れていたのか? 

2002.9.5/PM.8:00/まだまだ残暑…それでも味覚の秋…

昨日の枚方市は36℃以上あったらしい。母親に付き合って園芸用の土を買いに行ったり一日こき使われてしまった。その報酬に韓国産の松茸をもらった。今日は松茸ご飯とお吸い物にした。デザートは梨の幸水。食生活はすっかり秋の味覚なのに…。今日も暑い。梨で思い出したが、私の生まれた京都府八幡市は梨園があり、今でもそこの梨園で梨狩りをしている(川口というところ)。私が子供のころは長十郎という品種で、ざらざらとした食感で甘みも少なくとにかく固かった。今は梨園でも幸水という品種に変わってしまっている。長十郎はどこへいったんだろう。大分前から見かけない。あれじゃ、人気がないと言うことは想像できるが…。

私の家では、子供のころ葡萄畑があった。デラウェイという品種で、種があった。畑で採りたての葡萄は粉がふいたようになっている。房が大きくて綺麗なのは箱に並べて出荷するが、蜂の餌食になったのや形の悪いのは、私たちのおやつになった。舌で上手に種をペッペッと出す。その時に潰れた果肉から少し酸っぱいような味がでてくる。その味が正に葡萄らしい味として残っている。今の種なしのデラウェイは甘いばかりで、つるりと飲み込んでしまうので、その種を出すときの甘酸っぱい味わいがない。最初に種なしを食べたときは、何だか物足りなくて、わざと飲み込む前に口の中で舌で潰していた。習慣とは恐ろしい。もちろん今は種なしに慣れてしまってそんなことはしなくなった。今も梨狩りと葡萄狩りをしている親戚がある。

それは、トマトにも言える。青臭いトマト独自の臭いがない。そしてもっともっと酸っぱい。特に種の入っているところは、青臭くどろっとしていた。子供のころは夏は毎日トマト責め。おやつは砂糖をかけて、食事のときはソースをかける。この話を東京育ちの夫に言うとどちらの食べ方もしたことがなく、気持ちが悪いという。最近、市販のトマトで試してみたが、どうも味が違う。他にもほうれん草もキュウリも昔より味が淡泊になったと思うのは私だけだろうか。

話は逸れてしまったが、出荷できなかった葡萄は石臼ですりつぶし、ビンに入れて紙で軽く栓をして縁の下に入れておく。しばらくすると発酵して、紙の栓を押し上げて吹き上げる。するとビンの中は透明な葡萄酒になっている。この味は記憶にないので、子供には飲ませてもらえなかったのだろう。これって密造酒? もう時効かな?

そして、秋と言えば柿。柿の木は私の遊び場所でもあった。柿木の下に筵を敷き、木の上でままごとをしていた。ミルクのみ人形がいつも柿木にくくりつけたお菓子の空箱のベッドに寝かされていた。この人形は口に穴が開いていて付属の哺乳瓶でミルク(水を入れて)を飲ませると本当にオシッコをする。この人形がそのころとても流行っていて、かなりひつこくねばって買ってもらったのを憶えている。

このときの木登りが、今のクライミングに繋がっているのかな…。そう言えば、ツリークライミングというのもあると娘が言っていたっけ…。

柿も嫌になるくらい食べていた。渋柿と甘いのがあり、渋柿はお婆さんが皮をむき縄に通して軒下に吊し、干し柿にしていた。不思議なのは半分渋く、半分甘いという柿があったことだ。売っているのにそんなのには当たったことがない。不思議だ。今もあるのだろうか。

何しろ秋の味覚に、不自由のない生活だった。そうそう、松茸も裏山でお婆さんがちゃんと国産のを採ってきてふんだんに食べていた。

豊かな子供時代だったんだなぁー、とつくづく思う。


2002.9.2/PM.12:00/まだまだ残暑…そろそろ疲れが…
昨日はさすがに疲れてしまった。連日のホシダに、山の会の飲み会を挟んではちょっと厳しい。昨日は2本しか登れずおまけに帰りの車から爆睡。食事とお風呂を済ませて8時頃から熟睡。朝7時まで目が覚めなかった。11時間眠り続けたことになる。

もう9月に入るのでちなみに8月の山行日数を数えてみた活動日は14日。移動日を併せて15日だった。自分でもビックリ。そんなに行っているとは思わなかった。約半分である。疲れるはずだ。私は今までも何かに夢中になると見境をなくしてしまうところがある。夢中になっているときはかなり集中しているために、あまり疲れは感じない。生まれつき鈍感なところがあるのかな…。

しかし、いい加減にしないと山では取り返しのつかない事になりかねない。ほどほどに、と自分に言い聞かせているのだが、はてさて…??


2002.8.30/PM.9:00/続コンタクト
ワンディのソフトコンタクトが今ではもう目の一部であるように馴染んでしまったのをいいことに、ハードコンタクトを購入した。それは使い捨てだと、勿体ないという理由でだ。しかし目の中に異物が混入しているという感じが拭えない。ゴロゴロする。おまけに動いて目の中で迷子になる。思いあまって、文句をいいにいったがもっと長時間付けると慣れるものだといわれた。

それで昨日はホシダから山の会のミーティングと一日中付けていた。一応気にはなったが、外さないで済んだ。昨日ホシダで一緒にクライミングをしているTさんはずっと何日も付けていて何ともなく、そのまま寝られてしまうらしい。ほんとにそんなことができるのだろうか? しかし、クライミング中は確かに付けていることを忘れてしまう。ということは、気持ちが他のことに集中すれば忘れられるのかな、とも思う。

試練だと思って、頑張ろう。


2002.8.26/AM.8:30/面白かった愛宕山ケーブル跡追跡
愛宕山は、もうかなり登っているが、こんな面白かったのは初めての体験だ。愛宕山に戦前ケーブルが通っていたのは聞いていたのだが登山道からは何の痕跡もなかったので、完全に消滅したものだと勝手に思いこんでいた。ところがこの前表参道から下山中、清滝近くに線路の後のようなものが見えムラムラと好奇心が湧いた。そんなとき、ネットでケーブル跡を歩けるというのを知り、行きたくなった。昨日もう一度、検索したら写真などの情報が得られた。

十数年前からもう何回行ったかわからない愛宕山にこんなところがあるなんて…。興奮してしまった。歴史を感じさせる。写真が出来次第公開したい。


2002.8.22/AM.12:30/久しぶりのホシダ
一ヶ月ぶりのホシダでのクライミングである。3本リード、2本トップロープで登った。ホシダはあちらこちらで萩の花が咲き、もう秋の気配である。土砂崩れのあとは、ネットで覆われていた。掴んだホールドに蜘蛛の巣が巻き付いていたりしていた。顔なじみのメンバーが2人と、私たち3人の5人である。今回は復旧が早かったせいかブランクは感じない。

Nさんは今日は腰痛を押してのクライミングである。実は私もすぐに腰痛を起こす。この頃、年がら年中である。テントでの生活が一番辛い。何ともなくても、テントでしゃがんでいるうちに痛みが出てくる。もう椎間板がへしゃげて来るお年頃。なだめなだめのお付き合いである。こんないやなお付き合いも増えてくることでしょう。

今日の朝、偶然テレビで取り上げていた。ゆっくり見ていられず残念だったが、やっぱり腹筋と背筋を鍛えるしか方法はないようだ。それでも治ることはない。現状維持と痛みの改善ぐらいらしい。

いつまで山に向かえるのだろうか…。出きるだけいつまでも楽しみたいものだ。


2002.8.19/AM.11:30/花と緑の白山
白山の二日間は本当に素晴らしかった。とにかく全てが美しすぎるくらいに美しい。お決まりの言葉だが、花と緑と青い空…。御前ヶ峰での御来光。油坂での雲海に浮かぶ立山や穂高連峰。チブリ尾根のブナ林にガスが立ちこめ、原始そのものとも思える風景。今回は何もかも恵まれていた。昨年行ったときとは7月の終わりで今回よりは一ヶ月近く早いが、まだまだどこを通っても花は楽しめた。

メンバーが女性ばかりの山行は、美しいものを見ると素直に感嘆の声がで、そして立ち止まる。今回は特にテント泊でこんなに高い山は初めてという人が主だったので余計に感激が深いようだ。それに連られて,わたしも今まで見えていなかったものにまで注意がいく。何回行っても感激を新たにできることを知った。

こういう山も私は大好きだ。もちろんクライミングも大好き。先週の15日からホシダが使えるという連絡をピトン小屋の管理人さんからもらっているので、行きたくて仕方がない。

また水曜日の「ホシダ詣で」を再開しよう。


2002.8.13/PM.0:00/孤高の人
新田次郎の「孤高の人」を読み終えた。加藤文太郎の主人公のこの本は、上巻がなかなか読み進まなくて、読み出すと寝てしまうという悪循環に陥ってしまっていた。だいぶ前に「銀嶺の人」を読んだときは面白くて一気読みだったのに…。それは「銀嶺の人」の主人公は今井通子という、同性で身近な存在に感じている人物であることも手伝っていたのかも知れない。しかし、下巻に入ってからはあっという間に読んでしまった。それは人間臭い加藤文太郎が出てきたからだろうか。

「孤高の人」の加藤文太郎の時代は戦前の事でもあり、山男とはかくあるべきというイメージが強い。時代背景が反映しているのだろう。ヒマラヤを夢見て貯金をし、単独で厳しく山に向かう。不器用なために人に誤解される。

何故に単独を好んだか、それは後半になって明らかになってきた。山での仲間は、友情と思いやりと優しさの人間関係で包まれているという幻想が崩れてくる。

山は確かに厳しい。体力も気力もいる。しかし強い男の世界という観念はもう捨ててほしいものだ。山に世俗の人間の葛藤を持ち込みたくない、というのが私の気持ち。

読み終えて思ったのは、加藤文太郎は優しい人物で、上巻に出ている強い山男そのもののイメージではなかった。本当に強い人間は、窮地に陥ったときに人に優しくできるものだ。強く見せたい人間ほど弱いということだろう。


2002.8.9/PM.9:30/志津川バットレス
今日は夫が休みなので急に思い立って、午後から志津川にいってきた。けっこう風があって涼しい。集中的に登れない「ピンチでクリア」を攻撃。5.10とガムテープに書いて貼り付けてあるがなかなか手強い。今日はやっとムーブがつながり手応えがあった。しかし何回もトライしている間に、手がパンプ最後には力が入らない。どうもここはパワールートだ。

明日は千石に行こうと思っている。ホシダが来週中頃からまた使用できるようになる。また頑張ろう。


2002.8.6/PM.2:30/小川山は涼しい
8/2朝小川山に出発。5日夜帰宅。帰ってからの猛暑に頭の中は起動しない。ただクライミングが適度の運動になったのか体が軽く、くるくると掃除機のようにこの暑いのによく動き、すっかり家の中も綺麗になり、山のような洗濯も片づき、お陰ですぐ乾く。すっきりとした部屋の中でのひとときである。

これから、お盆にそなえてお墓の掃除に行かねばならない。それにしてもこの暑いのに、うんざりだ。そして夜は山の会のミーティングと疲れている暇もない。

思うのは小川山に戻りたい…。標高1600メートルの廻り目平はやっぱり涼しい。初日廻り目平に向かう道路の温度表示は19℃を示していた。正に天国と地獄だ。

あつ、そろそろ行かなくては…。小川山のクライミング報告は、あしたに…。


2002.7.30/PM.8:00/25年振りの友人と会う
今日は、学生時代の友人二人と京都ホテルのバイキングで昼食をとりながらお喋りを楽しんだ。そのうちの一人は25年振りの再会だ。私が東京で一人暮らしをしていたときに、しばらく私のアパートに居候をしていた。ホテルのロビーで顔を合わしたときは、本人だとすぐに分かったが随分歳をとったなーと思ってしまった。(向こうも同じように思ったようだ)。しかし昔のイメージと重なるのにたいした時間はかからなかった。もう一人はよく会っているので歳をとったというような印象は全く抱かない。昔のままだと思ってしまう。

しかし、長い間会っていなくても、しばらく話していると昔のイメージは忘れて、今のままがすんなりと自分の中に受け入れられ違和感は感じなくなる。それは本人の本質が昔とちっとも変わっていないからだろう。嬉しくなった。

彼女もいろんな事があったようだ。

山が好きで、クライミングをしてみたいという。今度金比羅に行こうと誘ったら、行きたいと言った。好奇心旺盛なのは昔のままだ。私も一緒にまた遊べるのが嬉しい。


2002.7.29/PM.10:00/北岳に思う
私の今までの経験だと、山は梅雨明けのした後が一番だ。この考えが実証できたと思えるような素晴らしい北岳バットレス第四尾根の登攀となった。2週間前の雨の敗退の惨めな思いは完璧に払拭された。こんな事を書くとその時のメンバーにはとても申し訳ないと思う。

昨日の疲れも心地よく残っていて、まだ夢見心地のなかにいる。写真が出来てきた。写真を見ながらこんなものではなかったと否定してしまう。雲の上に浮かぶ群青色の富士山が思い出されてくる。最高のロケーションとなった。第四尾根はルート的には簡単だが、このロケーションは本当に素晴らしい。


2002.7.23/AM.9:00/蝉に起こされて
梅雨が明けてからは、猛暑の厳しさを感じる。朝は蝉の激しい声で起こされる。この間のホシダでの小鳥のコーラスは素晴らしかったが、蝉の大合唱は暑さに拍車を掛けるようでいただけない。人間の勝手な言い草だろう。

小鳥といえば、先日うちのベランダで洗濯物を干していたら、ヨタヨタとヒヨドリの雛が二羽飛んできて、一羽は竿に、もう一羽は干している手元にドタッと落ちてきた。そしてつぶらな瞳で私を見つめて大きな口を開ける。私の母性(?)とお節介心は刺激され、その口に食べ物を入れてあげたい衝動がムラムラと湧いてきた。頭の中では、雛の献立の虫がグルグル巡っていた。しかしここは我慢のしどころ、そっと部屋に戻って窓から眺めていた。しばらくして泣き声がすると思いきや、親鳥が来た。無事に親についてまたヨタヨタと飛んだ。一羽が少しどじなのか親にはぐれ、二つあるベランダのもう一つの方にいってしまいった。親鳥ともう一羽の雛は向かいの大きな木にとまっている。親鳥は心配そうに鳴いて捜しているようだ。そのうちちゃんと親の元に、ベランダの雛も飛んでいった。やれやれである。しっかり巣立ちをさせるまで、親鳥が見守っていたのにはじ〜んとしてしまった。

人間も鳥も、親は大変だ!


2002.7.19/PM.5:00/ホシダ偵察
昼からホシダの土砂崩れを散歩がてらに見に行ってきた。今日は、ハイキングも兼ねているので交野文化会館の駐車場に車を止めて歩いた。こんなに暑いのに、バーベキューをしているグループが何組かと天の川の河原で遊んでいる家族連れ2組。そして途中で道に迷っている中高年のカップルと出会う。道案内をする。ホシダの駐車所からの木道は落石のために通行止めという看板が出ていて、下の水車の方に迂回道の案内矢印が出ていた。

ピトン小屋前にも通せんぼのロープが張られ、立入禁止の看板が出ている。岩の方を見上げるとちょうどフェンスの右端の上の方が大きくえぐれ、土色をしている。小屋の管理人さんの話だと、石状のものは何一つ落ちてこず、砂状のものが落ちてきたらしい。かなり風化が進んでいるのだろうか。見た目には回りも岩のように見えるのだが…。

当分調査が続くらしい。やはりいつから使用できるかは分からない。

見ていても仕方がないのでそのまま散策道を進む。吊り橋への急登を登る。吊り橋には誰もいない。この前通ったときは桜とツツジが美しかったが、今は緑が深くなりまた一段と美しい。いつも思うのだが、深い森といった感じである。下の方に小さく、ピトン小屋の赤い屋根が見える。風が気持ちよい。

そのまま進むと「やまびこ広場」にでる。木陰で女性二人がお喋りに花を咲かせていた。少し離れた東屋のベンチに寝っ転がる。目をつむるといろんな鳥の鳴き声が聞こえてくる。負けじとカラスも混じっている。ついでに私も歌ってみた。鳥たちの声がまるで応えてくれているようにあちこちから聞こえてくる。小鳥と一体感を味わう。汗がひいて、そよ風が心地よい。ゆっくりとしていたのは30分ほどだっただろうか…。帰りはいつもと違う道を行く。そこは湿気が多いのかキノコが多い。いろんな種類のがあったが、真っ白な大きなキノコは珍しい。何という名前なのだろうか。写真を撮ってきた。他にも食べられそうなのもあったが、私にはよく分からない。

谷筋には綺麗な水が流れ、顔を洗うと冷たくて気持ちがよい。「コ〜ン、コ〜ン」と音がする。鹿脅しである。前にここを通ったときは気付かなかった。

少し小屋で話し込み帰る。2時間ほどの行程ではあるが汗をびっしょりかき、気持ちがよかった。


2002.7.15/PM.5:00/居眠り登山だった北岳バットレス
残念ながら、北岳バットレスは雨のために敗退という結果となった。最初の計画だと白根御池小屋にベースを張る予定だったが、天気が崩れる予報だったので、日帰りということになった。ついた土曜日の午前3時頃は満天の星だった。その星を眺めながら私は13日土曜日一日はもつだろうと思っていた。

出発の時は青空が見えていた。しかし、大樺沢を登り始めてだいぶ行ったあたりから雲行きも怪しくなってきて、少しポツリポツリと降り出した。二俣でもまだ諦めてはいなかった。何とかもつだろう。いやもってほしいと願いながら足を進めた。

このころから、私は睡眠不足がたたって急に眠くなってきた。ただひたすら眠たい。こんなことは初めてだ。時々は歩きながら気持ちの良い眠りにすーっと入っていたようだ。みんなに遅れていくが、自分の力ではどうにもならない。私の頭は意志に反して、もうすでに眠りモードにはいっている。こらえて足を進めるのだが、どんどん睡魔に襲われてペースダウンしてくる。

D沢のガレ場でNさんが待ってくれていてザイルを持ってくれたが改善しない。森林限界を越えてお花畑になっている上の方でみんなも待ってくれていた。上まで行くと隣のC沢の尾根上に、先に偵察に行ったKOさんが見える。とにかく、凄い元気だ。辿り着いた頃本格的に雨が降り出しやっと目が覚めた。ずーっと居眠り運転をしているような感覚だった。向こうのc沢の尾根から、「どうしますか?」とKOさんの声。本格的な降りに「こりゃ無理だわ」と思う。あわててレインウエアを出し羽織る。そして、登山道まで下り相談する。私以外は、北岳にピークハントをすることになった。私はこの雨と眠気でそんな気力は萎えてしまっていた。一人で下山を決め込む。

しばらく下ったところで、休んでいたら隣に中高年の男性が座って休憩し、話しかけてきた。肩の小屋の経営者と知り合いでフランスパンをザックにいっぱい詰めているということだ。北岳が好きでしょっちゅうここだけ登っているということだ。しばらく話し込んで、また下りはじめる。二俣の上で右股の登山道を登る人の列を眺めながら休憩していると、また睡魔が襲ってくる。

そこからは、早く眠りにつきたくて一気に下った。そして一番に帰り着いたKOさんがドアを開けるまで、ぐっすりと熟睡していた。

もう、無理はきかないとつくづく思った。

といいながら、日曜日は気が進まなかったが夫と娘とホシダで一緒のSさんと烏帽子に向かった。行ってしまうと元気が出てきて、登りたくなる。完登3本とどうしても登れなかったルートが2本を3回。計6本と頑張ってしまった。


2002.7.10/AM.9:00/十代のころの感性
殆どがゴミと化した私の昔の絵を公開することにした。たいがいは本当にゴミとして捨ててしまっている。

私は仕事でもかなりの絵を描いてきた。商売にしていたから当然だ。今みたら冷や汗が出るくらいへたくそだ。デザインという消費されるものなので手元に残っているのはほんの少しだけ…。懐かしい思いでのアルバムを見るようである。今見たら自分でも古いなぁーと思う。そう、昔の写真のファッションを見ているよう…。

その中に写真で十代の後半に描いた2枚の絵が出てきた。写真自体はかなり色あせてしまっている。私は本来は、自分を表現するために高校生ぐらいから絵を描いていた。子どもの頃から、本を読んだり絵を描いていたり、ピアノを弾いたり一人で何かをしているときがけっこう多かった。ずっと、好きだったんだと思う。

この絵を見たとき、描いているときははっきりと意識化をしていなかったそのころの潜在意識が、とても出ていて吃驚してしまった。このころから私の中にはこんな意識があったんだ、と変に納得してしまった。

この絵はとても大事にすべきだと思う。

自分を信じて突き進むことが出きる。若いということはいいなぁー。

娘達に思う、精一杯今を大切に生きてほしいものだ!

     


2002.7.8/AM.9:00/七夕の続き
昨日の夜書き忘れていたことがある。ホシダクライミングウオール(交野市星田園地)には京阪交野線私市駅から歩いていくと、天の川という川沿いに歩くことになる。この辺は天の川伝説発祥の地らしい。詳しくは下記アドレスをご覧下さい。

http://homepage3.nifty.com/murata35/ 星のまち交野

http://www.yuko.ne.jp/tanabata/index.html 織姫と彦星が出会うまち

http://www.yuko.ne.jp/tanabata/linkpage1.htm 1)★交野が原の七夕伝説について

 


2002.7.7/PM.9:00/七夕
珍しく七夕の日が晴れている。今外に出てみた。ひとしきり明るく見える光は、飛行機の光。そしてグレーの空にバラバラとうすく光る星が少し。寂しいなー。久しぶりの七夕の空がこんなだとは…。

すぐに昔のことになってしまうが、私が子どものころの空はちゃんと天の川が見えていた。織姫と彦星のロマンスを信じ空を眺めたものだ。

今は、満天の星は山でしか見られないのだろうか。失われていくものはいっぱいある。私の生まれたところも一変してしまった。山に登るのは失われた自然を追い求めているのかも知れない。

今日もホシダの人工壁で登ってきた。ホシダは「関西の岩場」(白山書房、廃刊)に私市(きさいち)の岩場として紹介されている。人工壁の横に「関西の岩場」の写真そっくりの岩が残っていて名残があるが、もう登られていない。

その岩場も採石場だったらしい。山の中でもどんどん様変わりしていく。

クライミングウォール(右に岩場が見えている)

今は使用されていない、かつての岩場

 


2002.7.4/AM.9:00/梅雨の晴れ間
昨日のホシダは暑かった。午前中は日差しもあり何もしなくても汗がしたたり落ちてくる。ノルマは達成。こう暑いとホシダのロングルートは応える。メンバーは、いつものNさん、みずえ、奈良山岳会のFさんと女ばかり。あとは水曜日の常連と他6名で、平日にしては賑わっていた。

今日はほんとうは本ちゃんの予定が入っていたが、キャンセルをしてしまった。それは週間天気予報が芳しくなかったから。私は山に雨の日に向かうのは気が進まない。山の風景としては雨あがりはとても緑が美しく、空気も澄みわたっているように見え格別なものがある。しかし、岩登りは別である。怖いだけで楽しさは全くないと思う。あるとしたら、厳しい条件での達成感ぐらいかな。

私は「楽しい」が優先順位一番の条件なので雨はいやだ。だから無理はしない。遊びである。まだ先は短いようでも永い。チャンスはあるでしょう。なければないでそれでいい。

今週末は、土日は天気予報によると雨だ。こんな時は、クラックスなどの室内人工壁に流れる人が多いようだが、狭いところのムンムンした環境でクライミングをするのは苦手。まだ雨に濡れてもホシダの方がましかな…。意外とホシダはハングが軒下になって濡れないのをみんなは知らないと思う。

ここのところ比良や北山を歩いていないので、今週末はぶらりと行ってみようかな…。


2002.6.29/AM.1:50/初めてのコンタクトレンズ
昨日はホシダに行ってきた。会のTさんに誘われた。水曜日に行ったばかりなので気乗りしなかったが、行ったらやはり登ってしまう。ここのところ涼しい日が続いていたが、昨日はまた真夏日だった。暑いとルートが長いので最後まで行くのがしんどいものだ。それでも4本は登ってきた。最低ノルマは達成といったところかな…。

実は、私は40歳代になってから近視になり、眼鏡を掛けだした。山で眼鏡を掛けていることで、不自由な事が多かった。使い捨てコンタクトをしている人が多いので、いいなぁーと思って見ていたが、私には向かないと思っていた。

それは、たとえ目薬でも目に何かが入るというのが堪えられなかったからだ。子どものころから、洗面器に顔を浸けて目をパチパチして洗う人が信じられなかった。プールでは目を開けられない。そんなことだからいまだに泳げない。それも何かが目にはいると感じるときには、目のまわりの筋肉に特別な力が入り意地でも開けないぞー、といったようになってしまう。

目医者に行ったときには特に困る。自分の意志とは正反対に、意固地に閉じようとしてしまう瞼に我ながら見放したい気分になる。それでも、いつも涙をいっぱいためながら頑張って治療を受けるのである。

それが前から買い物などでよく前を通りながら気にしていたコンタクトレンズの専門の店に、こんな私でも出来るのか聞いてみようと入ってしまった。前にも一度行ったのだが、目薬の差せない人は無理だといわれてすごすごと帰ってしまっていた。今回の受付嬢の対応は、検査してみれば合うか合わないか分かるので検査だけでもしてみたら、と勧めてくれた。店にお客は一人もいなくて暇そうだったので、こんな私でも大事な客になると踏んだようだ。

そんなわけであっという間に検査も済み、気がついたときにはコンタクトを試着する段階まで来てしまっていた。説明を受けてまずは右目に入れたら何とすんなり収まってしまった。しかしその瞬間激痛が走り、涙があふれ出した。目をパチパチしていると、痛みも治まってきた。左は少し慣れたのか右目ほどの苦痛はない。気がついたら会計を済ませていた。

まだ不安を残しながらも、一度使ってみようという気持ちになっていた。帰ってから言われたとおりに三時間だけ付けてみた。すんなりとうまくいった。

今日は、ホシダで一日試めしてみた。付けるときにかなり時間がかかったが、帰るまで問題はなかった。眼鏡に比べて快適である。少し気になるとはいうものの、煩わしさは全くない。こんな事なら、もっと早く試してみればよかったと思う。

しかし、周りはよく見えてとても良かったのだが、引き替えに手元の字が全く見えない。老眼鏡のいる歳になっていたことを思い知らされる結果となってしまった。


2002.6.25/PM.10:50/懐かしい曲
今週に入ってやっと梅雨らしく雨が降っている。今日は外に出ると肌寒い。車のラジオから「おらは死んじまっただ〜、おらは死んじまっただ〜、…」と懐かしい曲が聞こえてきた。京都の当時大学生によるフォーククルセイダーズというグループの曲で「帰ってきた酔っぱらい」というタイトルである。1967年発売だという。隣に座っていた娘が、「生き返ったんだ、よかったやん」と言う。少し前に娘が車でかけたCDも傑作だ。ウルフルズの「大阪ストラット」という曲である。このグループもフォーククルセイダーズも関西の出身である。このノリはやっぱり関西だなぁー、と思う。年代を超えた共通点を見いだした。

フォーククルセイダーズといえば、「イムジン河」がこの頃またはやっているそうだ。これも私の好きな曲で当時歌っていた。しかし発売と同時に北朝鮮からクレームがついて発売禁止になったそうだが、私はそのことは今日まで知らなかった。

「イムジン河水清く、とうとうと流る、水鳥自由に飛び交い彷徨うよ、我が祖国南の地、思いははるか、イムジン河水清く、とうとうと流る」確かこのような歌詞だったと思う。

試しにネットで検索をしてみたら、新しく出たCDが通販で発売されていた。もちろん、購入した。


2002.6.19/AM.8:00/シャガール
昨日は千石にクライミングに行くつもりで家を出たところ雨が降り出した。帰りに山の会のミーティングに行く予定なので帰るというわけにもいかず、京都国立美術館にシャガール展を見に行った。そして大文字山へ…。

私は20歳前後の多感な頃、絵画はシュルレアリズムに傾倒していた。そのきっかけを作ったのは同じ美術館で30数年前に見た「マグリット展」である。自分の中にあるどろどろした内面を、そういうった絵画の中で答えを見いだしたいと思い、ひたすら本を読んだりした。印象派や後期印象派の絵画にはただ綺麗というだけで、人間の内面が表現されていないように思え否定してしまっていた。その中でシャガールはファンタジーな要素が強く、嫌いではなかったが絵本の挿し絵的な雰囲気を感じていた。いまから20数年前にも初めて、デパートでシャガール展を見たのをかすかに憶えている。その時もその印象はファンタスティックな夢の世界を綺麗な色彩で描いているなぁー、という印象で特別の感動もなかった。

今回のシャガール展は、そういった印象は全く払拭されてしまった。それは1910年代から1950年代の作品をこんなにたくさん見たのは初めてで、シャガールの歩んできた人生が浮き彫りになっているように思えたからである。美術館の出口近くになるにつれて、もう見なくてもいいという重苦しい気持ちにさせられた。

それは、私自身の30年の人生が捉え方を変えてしまったのかもしれない。

そういえば音楽も最近はモーツアルトやバッハを好きになっている。

☆シャガールの絵を見ながら、その頃好きだった作家・安部公房の短編集『笑う月』の「空飛ぶ男」を思い出した。

 


2002.6.15/PM.9:30/久しぶりの休養 
土曜日なのに家にいたというのは久しぶりのことだ。それもゴロゴロという言葉がピッタリの一日だった。車がないのでホシダにも行く来もしない。朝方は気持ちの上で禁断症状が出たのかソワソワと落ち着かなかった。しかし、ほんとにゴロゴロとして本を読んでいるうちにウツラウツラと眠ってしまい、目が覚めたらまた本を読みまた眠る。そんなことでぐうたらと一日が過ぎてしまった。疲れが出ていたようだ。こんなに眠れるのも久しぶりだ。こういう過ごし方もたまにはいいものだ。

ナマケモノになってしまった一日だった。


2002.6.14/AM.10:30/京都千石岩 
昨日はまた千石岩に行った。千石は岩の上に登ると琵琶湖が一望できていいのだが、とりつきはジメジメしていてビレーをしていると蚊の襲撃に悩まされる。蚊取り線香と虫除けスプレーは必携である。それでも、今日は無意識にボリボリ掻いている。

1997年初めてこの岩に会の講習会で来たときのことを思い出した。ここで一番簡単なルートのPast Generationをトップロープで登った。これは5.7である。その時は、そのルートがどれくらいかという自覚もなく、ただ登れたことが嬉しかった。あれから、丸5年たったことになる。

昨日は岩登りを始めたばかりの若者3名と一緒だった。スタートの時点はみんな一緒なんだというのがわかった。若いというだけで身体能力が優れていると思っていたが、クライミングに関してはそうでもなさそうだ。Past Generationで四苦八苦しているのは同じだ。簡単に出来ることは何もない。何でも地道にコツコツ持続してこそ成果が出てくる。

しかし5年の成果は多少あるとは言え、いまだに5.10台で四苦八苦しているのも事実だ。一足飛びに上手くなる方法ってないのかしら?


2002.6.11/PM.9:00/いよいよ梅雨かな 
ここのところ真夏を思わせるような晴天が続いていたが、今日は午後からとうとう降り出した。いよいよ梅雨に突入か。山行計画が一番たてにくい時期でもある。この時期毎年キャンセルがでる。雨の中の山歩きはあまりにみじめ。まして濡れた岩は危ないし、怖い。

食べ物は腐りやすいし、カビは出来やすく、洗濯物は乾きにくいといいことはない。

しかし田植えをした田圃を見るとこの雨が必要なんだろうなあー、と思う。

喜んでいるのは、田圃のカエルもかな。

そういえば、このごろカエルの鳴き声を聞かなくなったなぁー。


2002.6.7/PM.10:00/週末 
明星山から帰って、もう週末を迎える。先週の今ごろ京都駅から出発したのだと思うと、あまりの時間の経つのが早いので嫌になってしまう。明星山クライミングの他にこの一週間何をしていたのかと考えると、まるで記憶喪失に掛かったかのように意識にない。なのにフリースピリッツのことは、ますます記憶が鮮明になっていく。

これは、やばい。私の頭の中から現実のことが消えいく。と書いてはいても、ほんとうに消えてしまうわけではない。気持ちが完璧に現実逃避をして、クライミングの方にばかり向いてしまっているようだ。

テレビではワールドカップの試合中である。家族は一喜一憂している。私はといえば、それも興味の対象とはなり得ない。

しかし、現実逃避をしきれないのも現実である。


2002.6.3/AM.11:00/明星山フリースピリッツ 
未だ興奮と緊張が醒めないでいる。この高揚した気持ちと、心地の良い疲労感がクライミングの魅力だと思う。今回の明星山のフリースピリッツはセカンドということもあって、充分楽しめた。セカンドといえど梅干し岩からのトラバースは落ちたらかなり振り子のように降られてしまうと思うと緊張感がある。

それとこの緊張感は、達成感が伴う。達成感は岩の大きさにも比例しているようだ。2週間前の雪彦の何倍かの達成感になるのだろうか。最初は雪彦の壁を見ただけでも、足がすくんでいたのに…。


2002.5.31/AM.9:00/もう週末 
一週間は早い。今日の夜からまたクライミングである。こんな生活をしていていいのかしら、とふと思う。明星山と聞いただけでも、気分的には緊張してしまう。一気にグレードアップである。すごく嬉しい反面、大丈夫かなという不安もよぎる。しかしこのチャンスを逃したら、このルートはもう訪れる事はないだろう。

もともと臆病な私は、足下から地道に積み上げていかないと出来ないタイプ。だから進歩も遅いのかも知れない。ホシダでも「テンション」と叫ぶと常連のSさんからは「いくさんはお嬢さんだから…」とからかわれる。ほんとにそう思う。次のホールドを取りに行って落ちるということはまずない。それで行けるようなところも行けなくなってしまっている。怖いと思うと体が硬直して、先に手を伸ばせない。私の実力以上のところを登っている人に「そこを次ぎにトップロープで登らせて」というと、Iさんにも「トップロープなんかで登っていたらうまならへん」といわれる。「だって、怖いもん」なんていいながらも内心そうだと思う。この臆病さを克服しなくてはといつも思っている。

こんな気持ちは、多かれ少なかれ誰にもあるのではないだろうか。あまりにどこでも行けてしまうと思うことは危険でもある。しかし、本チャンは少し勇気が持てる。それは取り付いたら、どんなことをしても行かねばならない。パートナーにも迷惑が掛かるし、自分にも多少は厳しくなる。

ホシダでUさんが、登っている人を見ながら性格分析をして私に話していたことがある。それがまた当たっているようで面白かった。本当に登り方は一人ずつ全く違う。それから人の登り方を、違った目でも見るようになった。人柄を考えてやっぱりと思ったり、あれ! 意外だなぁーと思ったり…。意外だなと思っても、わりと潜在的な気質を感じたりするから、やっぱりフリークライミングでの性格判断は出来るのかも知れない。そして自己分析も…。自分を見つめ直すのにも役立つかな。

このことについて、ご意見があるかたはメールでお聞かせ下さい。

 


2002.5.28/AM.9:00/御在所 
土曜日(25日)は、Nさんとホシダへ。12日の講習はあんなにいっぱい受けていたのに、この時期良い季節なので岩場に足を運んでいるのだろうか、この日は少なかった。ホシダは国体の大阪予選ルートが男子緑テープ(5.12b-c)と女子赤テープ(5.11b-c)で張られ出来ていた。トップロープでちょっと男子ルートを登らせてもらったが、最初から太刀打ちできない。イレブンでもまだまだなのにトゥエルブなんて身の程知らぬもいいところだ。しかしせめてイレブンまではリード出来るようにはなりたいものだ。

日曜日(26日)は御在所へ会の講習でいった。とにかくすごい人、人、人…。一の壁も前尾根も順番待ち。こんなに人がいたのは初めてだった。道理で駐車場も道路も車でいっぱいのはずだ。

一の壁で大声を張り上げていたら「いくさん」と声を掛ける人がいた。昨年剱沢のテン場で(いや、行きの室堂から帰りの立山まで付かず離れずでした)一緒だった、名古屋のNaさんではないか。そのときの三人組も一緒だという。この三人に会えてとてもうれしかった。テン場ではご馳走をしていただいた。岩魚の薫製とそのみそ汁は絶品だった。ほんとうに美味しかった。おまけにビンごとのワインと、すごい。か弱い私たちはザックの重さにたえられそうにないのでドライフーズ中心の味気ない食料構成だった。こんな時のご馳走は忘れられない。いや、ほんとに懐かしい(食べ物ではありません)。山に行っていていろんな人の厚意に触れたときは、また格別良い思い出になる。

この日の御在所は、素晴らしくいい天気で伊勢湾までの眺めを堪能できた。田植えのあとの緑と麦畑の黄色もコントラストが美しい。木々の緑も活き活きしている。前尾根終了からの下山道にはイワカガミがたくさん咲いていた。2月の雪景色とも、4月の風景ともまた違っている。ほんとうに山は生きていると思う。

今回は、初めての岩登りやマルチ体験の人と一緒にいった。この中で一人でもクライミングの魅力を共有できたら、この日はいきてくるでしょう。

 


2002.5.22/AM.11:45/雪彦 
土曜日(18日)は、ホシダなどで一緒にクライミングをしているNさんを誘って雪彦に行ってきた。

会の山行であったが、私たちふたりは地蔵岳正面壁を登った。私は1999年に1回正面壁をセカンドで登っている。Nさんは2-3回登っているらしい。

この日早朝に家を出たところ、すごい雨でびっくりした。これはピークハントで終わるかなと思いながら向かった。待ち合わせ場所のいつもテントを張っている東屋につくころには止んではいた。しかしガスで壁は全く見えない。

会のメンバーは三峰へあぶみの練習に、私とNさんは地蔵岳の正面壁に向かった。今回は女性二人での登攀である。Nさんはいつもホシダや千石でかなり登れるのを知っているので心配はない。とはいうもののつるべでの登攀となるので、私も前のようにお気楽にというわけにはいかない。今回は、各ピッチのリードを交代して2回登った。これで、全ピッチのリードをしたことになる。

Nさんはいつも上手い人と安心して行っていたらしく、同じような力の女性同士は初めてということであった。私は昨年から、これで5回目の女性との登攀である。

岩は雨でびしょびしょ。ガスで視界は全くない状態で厳しい登攀であった。詳しくは報告に書こうと思っているが、厳しかった分、達成感と充実感はとてもあった。本当に良い経験となった。

1回目の登攀の3ピッチ目をリードをしているときに、ザックの中の携帯電話が鳴り続けた。これは何かあったと思い、3ピッチ目の終了点でビレイを取り、電話を掛け直し伯母が亡くなったことを知ったが、帰る足もみんなと一緒なのでどうしようなかった。

帰ってからは母の実家(京都府京田辺市)ではてんてこ舞い。家で葬式が行われた。まだまだここらでは地域の団結は強い。

雪彦から帰ってからも強行軍で疲れてしまった。


2002.5.17/AM.12:30/エベレストに63歳日本人女性が登頂 
今日の朝日新聞に女性最高齢を13歳更新して、63歳の日本人女性がエベレスト登頂をした記事が載っていた。50歳を過ぎてからヒマラヤ登山を始めたそうだ。すごいことだと思う。羨ましい。

私の身近にも年齢を感じさせないクライマーが数人いる。山に限らずホントにすごい人がいっぱいいる。前向きに生きている人は、年齢に関係なく魅力的だ。

エベレストを目指せば誰でもエベレストに登れるというわけではない。しかし自分にあった山にすれば、誰でも頂上を極められる。しかし少しずつの積み重ねと努力次第では今まで不可能だと思っていることも可能になる。たとえエベレストでも夢ではないと思いたい。今日の新聞記事は、私に大きな夢を与えてくれた。

これは山だけのことではない。


2002.5.16/AM.9:30/投稿 
このコーナーに5月9日に書いた「お喋りな冷蔵庫」が、今日の朝日新聞の声欄に「しゃべる機械 話さない人間」として載せてもらった。初めての投稿である。紙面の都合上かなり短くなっている。

この「つぶやき」に思い付いたことや日常のあれこれを書いている。ネット上のコミュニケーションは掲示板などあるが、これは以前に私のHPにも付けたことがあったが、いろいろ問題があると感じた。

掲示板の書き込みは面と向かって人と話すのとは違って、言葉が上滑りに流れていているように思える。掲示板は不特定多数の人を相手にするものなので止むを得ぬと思うのだが、私は苦手である。

それで、私からの一方的なこのコーナーを作ることにした次第である。


2002.5.12/AM.12:30/久しぶりのだらだら休日 
まるで梅雨入りしたかのような鬱陶しい天気である。6日の夜剱から帰り、9日の木曜日ホシダへ、夜は会のミーティングと、私もかなり疲れていたようだ。昨日の土曜日はホシダにでも行こうかなと思っていたが、朝からのどんよりとした天気も手伝ってとうとう、一歩も家からでない休日を過ごしてしまった。何もしない日、というのは久しぶりのことだ。体が休養を要求していたのだろう。とにかくよく寝る。寝てばかりの一日だった。

しかしこのごろ気が付いたのだが、山から帰ってから以前はよく筋肉痛を起こしていたが最近は筋肉痛はない。しょっちゅう体を使っているので馴染んでしまったのだろうか。

明日は、ホシダの利用者講習会だ。三年目の切り替えに行く。三年前の5月、忘れもしない。一人で緊張感をもって講習を受けに行き、正面壁の5.9のオレンジルート(今はない)をレッドポイントしたことを…。石の上にも三年と言うが、この三年はとても短く思う。客観的に見ると進歩は大したことが無く自己満足の域だが、自分では感慨深い。

いつまで出来るかはわからないが、ここまでくれば継続していくことに意味があるように思う。

山も行きたい気持ちが次から次へと沸いてくる。

山ばかりではない、他にもである。


2002.5.9/PM.12:00/お喋りな冷蔵庫 
冷蔵庫の冷凍室が剱から帰ってきて気がついたがどうも凍っていないようだ。買ってから十数年。某一流メーカーのものだがその間何回かの修理をしていた。電気製品は十年が目処で潔く買い換えてもいい気持ちになる。

ここのところ、使っている人間も古くなったのか次から次へと買い換えねばならない。結婚してから、テレビにしても洗濯機やその他もだいたい3台目が多い。

十年以上経つとどんな電気製品も、進化している。今度の冷蔵庫は喋る。そういえば、昨年買ったレンジも出来上がると「熱いですから気を付けてください」「取り出してください」と言う。ほっておくと何回も言う。うるさいので設定を消していたら、コーヒーなんかを温めていて、やっぱり取り出すのを忘れていたりする。これは便利な機能なのかもしれないと、また喋る設定にした。このごろこの電子レンジのお喋りも気にならなくなってきていた。慣らされてきたようだ。今度の冷蔵庫は、設置してから食品を入れていたら、「ドアが開いています」と忠告してくれる。思わず「今入れているところ…」と言いたくなってしまう。何度も繰り替えされると今度は「うるさいなぁー」とまたぶつぶつ言いたくなる。機械相手に何だ、とふと我に返る。

昔は人間同士が、もっと会話をしていたように思う。友達同士も時間を忘れて語り合った。近所の人とも、気軽に話した。

この頃の人は、電気製品と喋るが人間同士は喋らなくなっているんだろうか。そういえば、コンビニや他の店に入ってもマニュアル通りの接客しかしていない。電気製品の、お喋りと思わず同じように思えてしまった。

何かおかしい。昔テレビで馬が人間の言葉を喋るアメリカのドラマがあった。私はこの番組が大好きで毎週見ていた。この馬が喋る言葉は、示唆に満ちた喋りであったように思う。主人公の男性(飼い主)が悩むと、思わず口出ししてきたりしていた。今マニュアルのお喋りだけが、そつのないお喋りだとして通用するなら、もう言葉は単なる事務的な伝達にしか必要がないようになったのだろうか。

この頃若い人と山にいくようになって思うのは、突っ込んで話すといやがられることが多い。何も私生活を興味本位に聞き出そうと言うわけではなく、一般論で話していても深い話は避けているようだ。何だか話が軽いと思ってしまう。

だからといって、私は人の中傷や誹謗を話題にはしたくはないのだが…。人と話すことによって分かり合える(違うと言うことも含めて)と思うことは幻想に過ぎないのか…。

やっぱり、新しい冷蔵庫が話すのは味気ない。

人間だけが、古くさいまま使用中だ。


2002.5.7/PM.11:30/剱の勇姿 
昨日の夜、会の合宿山行で剱から帰ってきた。3日の夜からの雨のため4日は停滞を余儀無くされた。その日の夜も雨と風は続き、5日の明け方まで止まなかった。結局行きたかった源治郎はいけず、5日に別山尾根から頂上に登り、平蔵谷を下るというコースになった。

しかしながら、本峰からの眺めは最高だった。四方の大パノラマで素晴らしかった。だが雪は例年に比べたら大分少ないらしい。平蔵谷を下るときに見た源治郎尾根は岩がむき出しになっていた。

剱は魅力的な山だ。今年の夏も熊ノ岩をベースにクライミングを楽しみたいものだ。


2002.5.2/AM.12:00/メーデーの日に思う 
5月1日はメーデー。私は29年前のこの日に東京で結婚式をあげた。記念すべき日でもある。その頃のメーデーは、もっと大々的なものだったように思う。マスコミでもかなり大きく取り上げられていた。このころは高度経済成長でベースアップもかなりの金額だったのをかすかに憶えている。給料も一年で倍になった。夜中まで職場にいた。その頃は、土曜日も休みではない。日曜日は疲れ果てていて、本当に休養日だった。

山は全く無縁だった。

 


2002.4.29/PM.8:30/いよいよGW 
ゴールデンウイークにいよいよ突入した。

28日は御在所でクライミング。今日はホシダでクライミングと、相変わらずの生活である。御在所は中尾根と一の壁で、今回はオールフォローのらくちんクライミングだった。三人だったのでビレーもする事がなく、ほんとに気楽だった。クライミングはハイキングではないのだから多少の緊張感は必要だ。気の抜けたサイダーのようだった。これも、中尾根4回も行っているせいかもしれない。しかし、前に全ピッチリードをしたとき、満足したリードは出来ていないので、楽にリードが出来るように実力アップしたいとは思う。

それにしても、ホシダは飽きない。これはまだ満足な登りが出来ないのと、次の課題が見つかるから…。

ゴールデンウイーク後半は、私の加入している京都雪稜クラブの合宿で2日の夜から剱に向けて出発である。昨年夏に娘と行った源治郎尾根が雪を被ってどんな姿を見せてくれるのか、これもまた楽しみにしている。


2002.4.21/PM.11:00/白馬主稜 
先ほど無事に白馬主稜から帰ってきた。さすがに人気ルートとあって素晴らしかった。

20日は天気も良く最高の眺めだった。とりつきから急な登りである。曲がりくねったリッジが頂上まで続いているのが6峰当たりから見渡せる。まるでアイスクリームをべっとりと塗りつけたようだ。

21日朝、頂上では雪が舞い、大雪渓を下る頃には雨になった。

1峰の登りから下を見下ろすと、遙か下の方に二俣から猿倉までのアスファルトの道が見える。そこから続く主稜を眺めて美しさに感激をした。一歩一歩の歩みがこんなとこにまで自分を運んでくれたのだと思うとまたまた感慨深い。

満足と充実感で満たされている。


2002.4.14/PM.8:30/連ちゃん 
昨日は京都の金比羅山でアイゼントレとボッカだった。金比羅は京都の山岳会御用達の岩場である。この日も人でいっぱいだった。Yケンという岩尾根を登るのだが、登るにつれて大原の里が箱庭のように下に見えて気持ちがいい。。級のグレードがついていたと思うが、初心者でもザイル無しでも登れる。ここでもツツジが綺麗かった。珍しいのは、クリーム色のツツジがあったことだ。

今日のホシダも、家族連れのハイカーでいっぱいだった。吊り橋を通る散策道を一時間ほど歩いたが、山はまだ桜も残っていて、ツツジも咲き、新緑に映え美しい。上ではウグイスも鳴いていた。連日の疲れで今日のクライミングはいまいちだった。


2002.4.10/PM.10:30/紫に塗られた藤棚 
桜は花が散ったとたんに、青葉が出ている。生まれたての葉っぱの緑は何とも言えない色をしている。桜が満開の時は、夏日のような暖かさだったが、また肌寒さを感じる日が続いている。

ベランダの前の公園はもう藤が咲き始めている。この藤棚は少し前に、ブランコや滑り台と一緒にペンキを塗られてしまった。それも紫色にである。私はこういう無神経さがたまらなく嫌である。紫の花が咲くので、紫のペンキと考えたのなら、なんと単純な発想だろう。この色を選んだ人の美意識を疑ってしまった。そもそも、藤棚というのは昔から木で出来ているのではなかったか。今まで藤棚に色を感じたことがなかったのは、自然に受け入れられる素材であったからに違いない。

もうベランダから、藤の花を見る気もしない。もうすぐ山にも藤の花が見られるだろう。山での藤の花は一段と美しい。


2002.4.8/PM.3:00/ホシダのルート集 
昨日も、ホシダで頑張ってきた。雨上がりのせいか空いていた。いくら登っても登れないルートがある。なかなか足を洗えない。ちょっとサボると、冷たい仕打ちをうけて、登れない。クライミングはシビアなものである。

今日、うっちゃんこと内山さんの作成してくださったルート図を私のhpにアップした。グレードがわからないとなかなか自分の目標も定まらないので、私はとても感謝している。

継続は力…


2002.4.6/PM.4:00/愛宕山ボッカ 
今週は水、木とホシダ。昨日はレスト。そして今日はボッカ。

これは、今月の山行のためにリーダーからのきついお達し! 年々衰える体力を思うと、山に向かうエネルギーは相当いると感じてしまう。

ボッカで思い出す苦い思い出が、今日行った愛宕山にある。愛宕山に行くと、いつも思い出してしまう。今の山岳会にはいって初めての合宿がテント泊で、重い荷物を持たなくてはならないので、しかたなく一人で愛宕山にボッカに向かった。

ハイキング用に使っている20リットルぐらいのザックに、家にあった8キロのダンベルを一つバスタオルのようなものにくるんで他のものと一緒に忍ばせた。大きさは小さいがかなり重くなったので、良い考えだと思い家を出発した。

電車とバスを乗りついで清滝に下り、表参道から歩き始めた。登りにさしかかると重さがこたえてきた。赤ん坊を負んぶしているようにザックの下に手を置き、持ち上げるように歩いても相当重い。通りすがりの人が「重そうですね、何が入っているんですか?」と声を掛ける。恥ずかしいので「ちょっと…」と笑ってごまかす。休み休み上まで行き下りてきたのだが、もうこりごりだった。私の、ボッカへの拒否反応は、この時の悪印象が尾を引いていると思える節(ふし)がある。

「教訓:重けりゃ良いというものではない。大きなザックにそれなりのものを入れましょう!」以後この教訓は私の中で生き続けている。

今日の愛宕山は、裏参道から登り、表参道から下りてきた。清滝の桜は満開できれいかった。登る途中は、白いコブシやアセビ(馬酔木)がきれいかった。ピンクの山ツツジが満開だった。スミレも可愛い花をいっぱい付けていた。頂上の桜はまだ蕾だった。けっこう人で賑わっていた。

久々の愛宕山で春を満喫してきた。

しかし、荷物を持っては辛いなぁー…。

ブツブツ………。

明日は、ホシダ! ああしんど!


2002.4.1/PM.11:00/桜が散ってしまうときはとても寂しいものです 
何年ぶりかで、走ってきた。近くの船橋川沿いの桜並木の美しい道である。桜が散り始めていた。桜につられて散歩気分である。前に走っていたときからみると、スピードはがた落ち、時々歩いてしまう。もともと走るのは嫌いなのですぐに挫折してしまう。辞める理由はすぐに見つかる。「寒いから」「忙しいから時間がない」「山に行ってるからいいだろう」…などなど。また、三日坊主にならないようにと自分に願う。

体力を付けたいと思うのだが、こんな生活をしていて疲れるばかり。もう年齢的には無理をしない方がいいのかしら…??

しかし、ホシダでも私より遙かに年齢も実力もハイレベルの人を見ると年齢でもないように思える。そして、まだまだという気もしてやる気も出てくる。疲れを知らないパワーの原動力を知りたい。

やっぱり、「クライミングが楽しい」に尽きるのかな…


2002.3.31/PM.6:30/あ〜ぁ、今日もホシダに… 
28日木曜日にいって、今日もまたまたホシダである。28日は八ヶ岳の疲れが残っていたのか、腰の痛みもすっきりしなかって、調子が悪かった。一週間でやっと体調が戻ってきた。このごろほんとうに疲れやすくて嫌になる。今日のホシダには、高校生がいっぱい。久々に満員御礼状態だった。

高校生のコーチに東秀磯さんが来られていてびっくり。著書「インドア・クライミング」(山と渓谷社)の写真を見ていたので初めてお会いしたのだがすぐにわかった。前からホシダのセッターもされているので良く来られているようだが、私がお会いしたのは初めてだ。意外と小柄な方で気さくに話せる人だった。

天気予報で、雷雨といっていたのでまさかと思っていたら、2時過ぎ頃に空が真っ黒になり、雷が鳴り響き、凄い雨になった。ひとしきり降ると何もなかったようにまたお天気はよくなった。季節はずれの、雷だなと思った。しかし天気予報がこのごろ良く当たる。

山桜の美しいホシダで、今日も楽しく一日が過ごせた。


2002.3.27/PM.9:30/桜が満開 
今日は朝から雨で一日寒かった。八ヶ岳はまだ雪が降っているのだろうか。まだ心は八ヶ岳に残してきている。真っ白な世界がうそのように、周りは一面ピンクの世界。桜が満開になった。うちの近くの桜の木の下では、恒例の花見の宴がくり広げられている。私には考えられない光景だ。花を愛でるのに、何で宴会なのだろう。それも自動車や人が通る道路の横でである。

桜も山に静かに人知れず咲いているのがもっといい。


2002.3.26/AM.3:00/八ヶ岳 
週末八ヶ岳にいってきた。ときどきホシダで一緒になる奈良山岳会のFさんからの突然の赤岳主稜の登攀へのお誘いメールが来た。ほんの10日ほど前のことだった。私は初めての冬期登攀だった。足を引っ張っては行けないと思いつつも、こんなチャンスを逃す手はないと即答で行くと返事を出した。今回のメンバーのもう一人も、烏帽子岩などで数回お会いしているYさんだろうと察しがついていた。メンバーも女性ばかりということもとても嬉しい。二人ともかなりの経験者で、それも安心できる。願ったり叶ったりだった。

結果としては、天気の悪化で赤岳主稜は断念。石尊稜に転進して、1ピッチのみ登攀という結果に終わった。しかし今回は私にとって、足がかりとしては充分満足のいくものとなった。それは冬期登攀がどんなものかということが、今回の体験でおぼろげながら理解できた。それと、赤岳主稜の取り付きもわかった。ぜひ近い内にもう一度リベンジしたい。今度は青空のもとで…。

今回の収穫の大きな点は女性ばかりのパーティーだったことである。メンバーの二人は、しょっちゅう二人で登攀をしているということだが、私は女性ばかりというのは初めてのことだった。これこそ、いままで私が願っていたことである。そうでなくても体力的に年々衰えてくるので、スピードにはついていけない。しかし、山には行きたい。このジレンマを一気に解決してくれるのが、女性ばかりでの山行である。おまけに、楽しい。東京では女性ばかりの山岳会がある。しかし、関西では聞いたこともない。

こういう機会には、これからもどんどん参加したい。声をかけてくださったFさんに感謝。


2002.3.22/PM.9:45/日ごとに春 
昨日はお彼岸。お墓は人でいっぱいだった。昔は、気味の悪いところという印象だったのに、今は周りに建て売り住宅やスーパーができてお墓のイメージも変わってしまった。まるで社交場のように明るい挨拶が飛び交う。一緒に行った地元の叔母は、一つずつ「これは○○さんちの墓や! これは、××さんの墓や!」とガイドしてくれる。一つのレクレーションになっているようにも思える。

そして、実家でひとしきりまた昔話に話を咲かせる。私とはずいぶん価値観が違い、交わることのない話ばかりだが、聞くのが嫌ではない。初めて東京から夫と帰省したとき「ここの人は明治の意識だ!」夫が言っていた言葉を思い出す。昔はこの古さが嫌で東京に行ってしまったのだ。しかし価値観はいまだに受け入れられなくても昔話を懐かしいと思うようになったのは、私も年齢が近づいたせいだろうか。

東京の桜はもう満開らしい。こちらも大分開いてきた。美しい季節である。


2002.3.20/PM.11:45/桜開花 
またまた、ホシダに行ってきた。桜がほんの少し開花していた。駐車場のユキヤナギも綺麗。ユキヤナギにピンクがあるのは今まで知らなかった。木々も芽吹きだした。暖かな一日だった。のんびりクライミングで過ごす幸せをかみしめる。ホシダの花もこれから楽しみだ。土曜日はあんなに閑散としていたのに、今日のホシダは賑やかだった。ハイカーもかなり増えてきている。

ホシダでこれから珍しい花は、桐の木の花だろう。最初天の川に浮いている薄紫の花はいったい何の花でどこから落ちて流れているのだろうと不思議に思っていた。そのうちに私市から星田園地の散策道にかなり大きな桐の木が沢山あるのに気が付いた。私は桐の花をはっきりと認識したのは、このときが初めてである。川に流れる花は美しい。確か5月頃だと思う。その前に山桜が咲き誇るだろう。

家の前の公園の桜も咲いていることに帰りに気が付いた。この桜は花吹雪となってベランダから部屋の中まで舞い込んでくる。これもまた、楽しい訪問者だ。

何だかウキウキしてくる。なのに今週末また雪の中に身を置く。山はまだまだ冬景色だ。いつも山から下りてくると、このギャップが面白く夢の世界から目覚めたように不思議な感覚になる。


2002.3.17/PM.8:00/またまたクライミングネタ 
昨日はホシダ今日は大鳥居と連チャン・クライミング。帰ったら疲れてバッタンキュー。絶好の季節到来なのに、どちらもガラスキ。オ〜イ、みんな何処へいってんの? 会のMLで呼びかけても応答無し。

ひょっとして、烏帽子や不動あたりは満員御礼かな…。

ホシダは、11時頃に行ったのに誰も登っていない。一人なのでどうしょうかと、思っているとIさんが犬の散歩から帰ってきた。そこへ、これで2度目だという若いご夫婦がハーネスと靴を購入して来ていて、登らしてほしいと声をかけてきた。一回登っただけだが嵌ってしまったという。この4人で始めていたら、ぼちぼち、4人ほど増えた。しかし土曜日とは思えない寂しさだった。

以前は、ルートが空かなくて困るほどいっぱいの人だったのに、みんなどうしたのかな? クライミングは続けるのにやっぱりかなりのエネルギーがいる。しかし、続けていればどんな人でも必ず上達する。少しでも上達していると思うとまた気力が出る。

私は、この日やっと息切れせずに砂をレッドポイント出来た。やっと次へのステップができる。ナガカッタ!!

今日の大鳥居も私たち三人だけの貸し切りだった。お陰でのびのびと楽しめた。なれてきたのか、指も痛くなくなってきた。とても楽しい一日だった。しかし工事の音がうるさいのが玉に瑕。発破の音まで鳴り響いていた。


2002.3.14/AM.0:00/対抗心かな??今日のホシダ 
今日は、水曜日クライミングホシダの日。お誘いメールに返事はない。Yさんとみずえの女三人で頑張ってきた。Nさんは都合が悪かった。ホシダは、アメリカ人のGと大学生の4人、三歳ぐらいの男の子づれのご夫婦と賑やかだった。みずえに砂ルートをレッドポイントされて、先を越されてしまった。だんだん、力を付けてきたようだ。対抗しても仕方がないとは思いながらも、力が入る。

いつもタフなNさんが前に7本登ったといっていたので(10本のときもあった)、私はいつもは5本以内なのに、今日は7本も登ってしまた。別にNさんを特別意識していたわけではないが、ちょっと力の可能性を試してみたかった。いつもは5本目ぐらいになると、握力が効かなくなるのだが、今日は大丈夫だった。ホシダはルートが長いので、一本の登りごたえがある。

暖かくなり、今日は汗が噴き出てきた。登っているときは半袖のTシャツで充分だった。暖かいと、心なしか体も軽く感じるのは気のせいだろうか。

ちょっと年上の女性でもあるNさんは、やっぱり良きライバルでもあり、励みでもある。クライミングや山に対する秘めたる情熱には日頃敬服している。

私も、頑張らなくては…


2002.3.12/PM.2:30/フクジュソウとセツブンソウ 
藤原岳の写真が出来てきて今日アップした。冬と春の境目で、雪と花を充分楽しんだ。可憐なセツブンソウが顔を出し、豪華なフクジュソウが黄金に輝いていてとても対照的だった。私は、個人的にはセツブンソウでありたいと思うが、一緒に行ったNさんに「いくさんは、フクジュソウやわ」といわれてしっまた。しかし、セツブンソウでありたいと思っている。弱そうに見えながら大地にしっかり根を下ろして、目立たずそっと咲いている。こうして写真で見ると凛としている。やっぱりセツブンソウの方が好き。Nさんはセツブンソウみたいな人…。

次の日曜日は大鳥居にクライミングにいった。疲れが残っていて登れないかと思っていたがそうでもなかった。明日はホシダに水曜日クライミング。


2002.3.9/PM.9:00/藤原岳 
福寿草を見に藤原岳にいってきた。今日は天気もよく暖かい日だった。これからの藤原岳はわんさか人が来るという藤原町役場の情報で、花にはまだ早いと思いながらも出かけてみた。とはいうものの、人はいっぱいだった。

福寿草は、見ることが出来た。5合目から6合目あたりに結構咲いていた。頂上にも少しあった。節分草も初めて見た。とても地味な花で、私だけだと見過ごしてしまうだろう。

楽しい一日だった。

 


2002.3.7/AM.0:00/ホシダに春一番? 
今日は水曜日クライミングでホシダに向かった。予報の雨もやんではいたが、風が強く少し冷えた。春一番かもしれない。ホシダはいつものメンバー数人が来ていた。相変わらず、砂ルートでは最後のハングで力つきてテンションを掛けてしまう。今度こそは、と思っていくのだが…。クリアできないと次ぎに進めない、というものでもないとは思うのだが。

今日は体がとても重い。クライミングをしていると、調子がいいと自分の体が軽く感じられてすぐにわかる。ここのところ、どうも疲れが残っているようだ。日曜日の筋肉痛がまだ残っている。年々、疲れやすくなってきているのを感じる。

しかし、7本も登ったというNさんは何という人か。私より5歳も年上で、おまけに月曜日に千石にいって、火曜日にバトミントンをしてきているのに…。昨日の時点では「疲れているから辞めとく」といっていたのに、「一晩寝たら元気になったので…」朝電話があった。筋金入りだ。

私も、まだまだ負けられん…


2002.3.4/AM.0:00/ニューいくさん 
左のINDEXのいくさんが、とても可愛くなった。みずえの落書きでとても気に入っている。開けるたびに見えるので照れてしまう。一人でパソコンに向かってニンマリ…。気持ち悪いなぁー。


2002.3.3/PM.9:30/雛祭り 
今日は桃の節句、雛祭りである。

朝から、Iさんに前から聞いていた滋賀県の信楽・大鳥居の岩場に行ってきた。大津信楽線沿いにあると聞いていたが、なかなか見つからなかった。途中で岩場が見えたのでそこに向かって登山道を登ってみた。登山道はしっかりついていたが、かなり上まで行ったが間違っていたようだ。毎度のことながら、初めての岩場はとりつきで迷ってしまう。大津信楽線を何回も行ったり来たりしたあげく、途中の大鳥居の交差点を信楽から来て右に折れてみたところ左に岩が見えた。

もう、時間は1時前になっていた。急いで取り付く。結構難しい。花崗岩で指が痛い。私は岩質としてもあまり好きではない。今でも指先がヒリヒリしている。

帰りは宇治田原の茶畑、城陽・青谷の満開の梅林を眺めながらのドライブを満喫。

そういえば、なぜか桃の花は見かけなかった。花屋さんには沢山あったのだが…


2002.2.28/PM.11:30/もう春 
公園の桜の蕾が遠目にもふくらんで見える。もう春はそこまで来ている。ベランダから一面ピンクに見えるのももうすぐだろう。明日から三月。春を迎えるときは、何だか何もかも良くなるような兆しを感じるのは私だけだろうか。

表紙に氷の写真を入れながら、真っ白の世界は幻であったのかもしれないと思ってしまう。

山が幻か、現実が幻か…


2002.2.25/PM.9:30/御在所三ルンゼ 
あまりの暖かさに、もう御在所はアイスクライミングは出来ないかもしれないと思いながら行ったのだが、ウサギの耳あたりから残雪があり、上の方はかなり残っていた。三ルンゼも充分アイスクライミングができるほど氷っていた。数パーティーが、すでに取り付いていて順番待ちとなっていた。おまけに、TVの撮影隊が来ていた。アイゼン等のメーカーである「カジタ」の社長が主役で、インタビューに答えたり登るのを撮していた。

天気もよく、楽しい一日となった。三ルンゼは初心者にはもってこいのやさしいルートだった。御在所は身近で、春夏秋冬問わずに楽しめるいい山だ。

今度は一ルンゼ中又に挑戦してみたい。


2002.2.22/PM.5:30/進歩の続き 
昨日に続いてまたホシダにいってしまった。人から見ればよっぽどの暇人で他に何もする事がない、おめでたい人に見えるのではないかと、この頃は山行報告にホシダと書くたびに自己嫌悪に陥ってしまっている。

しかし、今日はビレーヤーに徹しようと思っていたのに、Tの行ったあとトップロープで登ったところ、このルート(5.11b)はいつもはしんどくて途中で下りてきていたのに、終了点までテンションを掛けながらだが何とか行けた。また昨日の自分より進歩できた。イレブンも夢ではないかな? この歳でまだ進歩できるのは、とても嬉しい。 

やっぱり、なかなか辞められないはずだ。


2002.2.17/PM.11:00/進歩 
今日は午後から雨だという予報だった。めげずに昨日に引き続きホシダに向かう。やっぱり、昼から降り出した。しかし、ハング下は雨は掛からない。

やっと、恐さから少し抜け出せそうだ。今日は新たなルート2本に挑戦。一本は砂ルートの反対の大ハングの赤テープをトップロープながら上までいけた。かなりのパワールートで一つハングを越えるたびにテンションである。

ホシダでは、努力した分の見返りがある。最初の頃には考えられなかったハングも登られるようになる。私のような人(腕力無し、年齢高し、運動神経無し)でも人と比べさえしなければ少しずつ自分なりに進歩する。それが嬉しくてホシダについ足が向かう。

ところが、先日Iさんに「ホシダでは、岩は上手くならんよ」と娘が言われたという。これも当たっているように思うが、ホシダでの努力が岩では全く無効かと言えばそうではないようにも思う。

岩の細かいスタンスやホールドは人工壁には少ないし、また人工壁のようなすごいハングは岩には少ない。しかし共通点はあると思う。

私は両方楽しいし、どちらもレベルアップしたい。ホシダは家に近いのでお手軽にいけるのでどうしても行く回数が多くなるが、もう少し暖かくなれば、フリーの岩場にも行きたい。

それは、やっぱりクライミングが上手くなることによって、少しでも楽に登れる本チャンルートを増やしたいから…。クライミングは山のための楽しい基礎トレーニングのひとつだというと過言かな?


2002.2.17/AM.12:00/孤独 
人は孤独には弱い。入院中の老婆を見舞い、つくづく思った。誰も見舞ってくれなかったら、病院も姥捨て山のように思ってしまうのだろう。そういうことがストレスになって、人にあたり散らす。実際、昔は家にいたような老人が病院に入院させられている。そして老衰のまま最後を病院で迎える。家族は仕事を持っていたりすると世話をやくこともできず、病院に預かってもらうと助かる。「自分の部屋から、庭を眺めながら寝ていたい」という素朴な最後の願いも、家族の事情で叶わない。

最初はそうしたイライラで怒っていたその老婆も、昔話を話しかけるうちに怒りと苦しみの表情の中に、笑顔が見え始める。数時間話しているうちに、ニコニコ顔で話始める。この単純な変化の意味は深いと思った。


2002.2.14/PM.10:30/今日は朗読のレッスン 
朗読のレッスンで新しい教材になった。宮部みゆきの短編「送り提灯」である。もう朗読を始めてからかれこれ8年たつ。本を読むのが子どもの頃から好きなので、朗読ボランティアをしようと気軽に始めたのだがこれがとんでもないことだった。まずは関西弁を標準語に直すことから始まり、鼻濁音だ、促音だ…と次から次ぎへと課題が出てくる。根が凝り性なので、とうとう今まで続けてしまった。成果と言えば、大阪弁と標準語を操れることになったことだ。それと、今までは好きな本しか読まなかったのが、いろんな作家の本を知ったことだ。今度の宮部みゆきの本は、こんな機会がない限り読まなかっただろう。

視覚障害者の人に図書館から送っているテープに吹き込んだ雑誌、「テープ雑誌さつき」も仲間と作っている。それに録音するためにも、いろんな作家の本を読むようになった。これは私にとっては大きな収穫である。

しかし、なかなか面白いと思える本も少ない。


2002.2.13/PM.7:30/一日おきのクライミングでお疲れ 
我ながら、よくやるよ!! 今月は7日(京都千石岩)から一日おきの9日(ホシダ)11日(御在所)13日(ホシダ)といっている。今日は、京都GクラブのNさん、トミー、みずえとである。すでに二人見慣れない人が来ていた。ルートを知らなかったようなので、説明すると「5.10bはクラックスの5.11はある、5.11.bは5.12ある」と冗談めかしておっしゃる。ルートが長い分手強いとは思うが、ほんとにそうなんだろうか? 他の人でも、ホシダは難しいという人が結構いる。慣れていないからそう感じるのかもしれない。

Nさんとはこの頃良く一緒にクライミングにいく。「ホントに、クライミングが好きなんだよね!」と口癖のように言っている。前向きで素晴らしい人だ。見習わなくてはと思う。

私も、登れても登れなくても心底楽しい!!

また、楽しいひとときを共有できる仲間がいることも嬉しい!!


2002.2.11/PM.11:30/御在所は最高のコンディション 
今御在所から帰ってきた。一度いってみたかった厳冬期の御在所だった。久々の寒波のお陰で何もかも素晴らしい。今日は結局藤内沢から3ルンゼまで詰め、稜線に出て裏登山道を下山。最初の計画では、前尾根登攀だったがすでに取り付きで昼前ということと、雪がかなりついていたので厳しいだろうということで、1ピッチのクラックで少し遊んだあと3ルンゼの偵察にきり替えた。

夏とは全く違った真っ白い御在所もとても美しい。

写真を見るのが楽しみである。


2002.2.10/PM.9:30/昨日は相変わらずホシダ 
昨日は一日ホシダで遊んだ。土曜日なのに人は少ない。新しいナインのルートをオンサイト。ホシダは新しいルートを今どんどん作っている。ムーブになじんだ登り慣れたルートについ逃げてしまいがちだが、もうすこし果敢に挑戦しなくては、と反省。

何度も練習して登れるようになったルートと、オンサイトできるルートのグレードにかなりの差がある。オンサイト出来るグレードが実力だとしたら、私はまだまだだ。

オンサイトの難しさを、つくづく感じてしまう。まだ落ちるのを恐れているので体が硬直してしまい思うように動けない。

まずは、落ちる恐怖を克服しなくては…。そしてオンサイト能力を付けたい。しかしどうしたら、克服できるのか…。

 


2002.2.8/AM.8:00/千石岩 
千石岩に行ってきた。昨年の11月に不動にいって以来のフリーの岩だった。いつも皇子カントリークラブの駐車場の下の方に車を止めさせてもらっているのだが、平日なのにけっこう上の駐車場には車が止まっている。世の中、不景気でリストラだ何だといっているのに、平日にこんなに人がいるのでは、まだ安心していていいのか(?)と思った。しかし、ここでも中高年が目立った。定年退職後の楽しみなのかもしれない。

千石は先客一人だけ。京都のGクラブの代表の方が一人でトレーニングにはげんでいらっしゃった。そのままそこでテント泊をして、朝少し登って帰られるという。お仕事がシフト制らしいが、すごいスタミナと努力に頭が下がってしまう。世の中には身近にもホントにすごい人がいるのが、クライミングを始めてわかった。上手い人にはそれに見合う影での努力がある。頑張り続けるのにはすごいエネルギーがいると思う。そして頑張る人ほど、自分を知っていて奢れることがない。怠け者の私は、反省しきりである。

クライミングに限ったことではないのだが…。


2002.2.6/AM.11:00/病棟 
カギのかかった病棟。面会に行くと、インターホンで受け付けをして、カギを開けてもらい中に入る。その中はホテル並みの綺麗さだ。ゆったりとスペースもとってある。みんなの集まる集会場も広々ととても綺麗。節分なのでそこではみんなで巻きずしを巻いている。詰め所もカギがかかっていて看護婦さんも医者もいちいちカギをかけて出てくる。中にいる人は、痴呆という病名がついた老人である。

集会所では、人が集まっているが患者同士が話したりしてはいない。一人一人が勝手気ままなことをしている。ただしゃがんで空(くう)の一点を見ている人。何かをぶつくさ言っている人。よくわからないことを話しかけてくる人。

不思議だ。まるで絵を見ているように動きが感じられない。顔に表情を感じない。昔好きだったマグリットの絵を思い出した。

私が面会にいった叔母は、病名はアルツハイマー。しっかり者で賢い人だった。今は、にこにことしていて何もかも子どものように無邪気に受け入れている。しかし、以前の聡明さを思わせるところはない。

今度、行くときは白山の高山植物の写真を持っていこう。そして許されるなら、のんびりと万福寺でも散歩したい。 


2002.2.2/AM.10:00/さとうきび畑 
今、パソコンに向かっていたら居間でつけっぱなしのテレビから「ザワワーザワワーザワワ…」と歌声が聞こえてきた。一瞬一緒に歌ってしまっていた。あわててテレビを見に行くと、歌手の森山良子が歌っていた。題名は「さとうきび畑」という歌である。私が十代の終わりに何となく好きで歌っていた。あの頃は反戦フォークが全盛の時代であった。その時以来、耳にしていなかった。なのに鮮明に蘇ってしまった。

あとの森山良子の話でわかったことだが、この歌は作詞者が沖縄のさとうきび畑で地元の人に「このさうきび畑の下にまだ遺骨がいっぱい埋まっているんですよ」といわれたことから詩が生まれたという。この「ザワワ…」という、さとうきびの穂が風にたなびく言葉に込められた重さを66回繰り返すことに表現したと作詞者が言っていたらしい。

私がこの歌に惹かれたときは、そんな内容の深さは知らなかった。ただ美しいメロディーと歌詞がお気に入りだった。

この歌が生まれてから三十五年へて、またスポットが当たっているらしい。

インターネットで歌詞が見つかったが、歌がちあきなおみになってるのも始めて知った。

さとうきび畑

     作詞:寺島尚彦   

     作曲:寺島尚彦   

     編曲:不明     

     うた:ちあきなおみ 

  

  *ざわわ ざわわ ざわわ

      広い さとうきび畑は

      ざわわ ざわわ ざわわ

      風が 通りぬけるだけ*

    今日も みわたすかぎりに

    緑の波が うねる

    夏の ひざしの中で   

  

 (*くりかえし*)

  知らないはずの 父の手に

  だかれた夢を 見た

  夏の ひざしの中で

(*くりかえし*)

    むかし 海の向こうから

    いくさが やってきた

    夏の ひざしの中で

(*くりかえし*)

  父の声を さがしながら

  たどる 畑の道

  夏の ひざしの中で

(*くりかえし*)

    あの日 鉄の雨にうたれ

    父は死んでいった

    夏の ひざしの中で

(*くりかえし*)

  このまま 緑の波に

  おぼれてしまいそう

  夏の ひざしの中で

(*くりかえし*)

    そして 私の生まれた日に

    いくさの 終わりがきた

    夏の ひざしの中で

  ざわわ ざわわ ざわわ

  けれど さとうきび畑は

  ざわわ ざわわ ざわわ

  風が 通りぬけるだけ

  今日も みわたすかぎりに

  緑の波が うねる

  夏の ひざしの中で

(*くりかえし*)

    風の音に とぎれて消える

    母の 子守の歌

    夏の ひざしの中で

  ざわわ ざわわ ざわわ

  忘れられない 悲しみが

  ざわわ ざわわ ざわわ

  波のように 押しよせる

  風よ 悲しみの歌を

  海に 返してほしい

  夏の ひざしの中で

 

  ざわわ ざわわ ざわわ

  風に 涙はかわいても

  ざわわ ざわわ ざわわ

  この悲しみは 消えない

 

 


2002.1.31/P.M.2:30/林竹二 
昨日はホシダでクライミング。私たち女三人だけの貸し切り状態。遠慮なくお喋りにも花が咲かせられる。これも楽しさを倍増させる。午前中は風もなく、日も当たっていたので暖かかった。心地よい疲労感が残っている。

世の中暗いニュースが多い。中学生が、ホームレスの男性に暴行殺害という記事である。子どもをが病んでいる。教育も病んでいる。社会も病んでいる。

うちの子どもが小学校時代も、周りにいろんな子どもがいた。

その頃は自分の子どもを通じて、子どもの教育に興味をもっていた。「悪い子」と烙印を押され、周りの大人に見放されてしまった子どもが、一人の教師によって変わっていく姿を身近で見た。その教師は娘が小学二年の時に転任してきた担任である。林竹二の教育論を実践した授業をしていた。

林竹二の「問いつづけて」や「学ぶということ」「教えるということ」など図書館で借りてすでに読んでいた私は、その教師の一回目の授業参観でそのことに気が付いた。それで、「林竹二を知っていますか?」と聞いてみたところ教師の方が驚いた。それからはその教師のやり方がとても興味深かく、いつも影ながら応援していた。

いまでは林竹二のこともほとんど忘れてしまっているが、「人間は生まれながらにして悪い人間はいない」という、この言葉だけが今でも残っている。


2002.1.29/P.M.9:00/百円ショップ 
最近うちの近くで目立ってきたのは、百円ショップである。靴の量販店もジーンズショップもローソンもいつのまにか百円ショップに変わってしまっている。今日覗いてきたかつての靴屋は、スペースもかなり広く食料品も置いてある。行動食になりそうなものもあった。品数もずいぶん沢山増えている。

何年か前に、ユニクロで素材的に山に使えるものを安くで発見したときも、嬉しくて山に行くたびにみんなに「これユニクロ、○○○円やで!」といいふらして、「いくさんはまるで、ユニクロの宣伝マンやなぁー」とからかわれていたのを思い出した。

山の衣料品や道具類はとにかく高い。私のホシダでのクライミングウエアは帽子、フリースの上着、ズボン、全て上から下までユニクロである。色は赤と黒で統一。上から下まで、全部で4千円以内。

クライミングのギア類を格安で…(そんなことは滅多にないが…)、というのは不安があるが、着ているものはそれほど影響はないと思う。

私の町に沢山増えた百円ショップにも、何か使えそうなものはないか今度暇なときにゆっくり探しに行ってみようかな。


2002.1.28/P.M.1:00/雪のない比良 
予想通り、雨の中での救助訓練となった。雨だったらいやだなと引いた気持ちだったが参加してみるといつものことながらよかったと思う。このごろ特に行く前には億劫になってしまっている。疲れていてるのかな。

あんな土砂降りの中でも誰一人文句も言わず、つつがなく行えたのはやはりみんなの自発的な意志が働いているからなのだろう。最初から引いていた自分がはずかしい。

とはいえ、比良には全く雪はなかった。先週武奈に登ったときは、イン谷になかったが山を見上げると山は白かった。しかし昨日は上の方にも雪は見えなかった。スキー場も閉まっていた。このまま春を迎えるのだろうか。


2002.1.26/P.M.6:30/寒かったホシダ 
天気予報では午後から雨ということだったが、約束もあったのでホシダに向かった。午後からやはり予報通り雨が降ってきた。朝から曇りで寒い。登っていても、ホールドを掴む手も寒さを通り越して痛い。しかし、4本頑張って登ってきた。砂ルートが最後のハングでワンテン。もう少しだというのに…。一か八か行ってしまえばいいのに、落ちるのがいやさに「テンション」と叫んでしまう。なんという、いくじなし、と自分に叱りつけてみるが効果無し。安きに流されるのは性格だろう。自分に厳しくなれない。

クライミングもバンバン落ちても平気でやれるようになると、もう少し上手くなれると思う。

カメのような歩みでしかないが、続けていれば多少は前進する。継続は力である。そろそろまた次へのステップアップのルートに挑戦しよう。ホシダでも、前より楽に登れるルートが少し出てきた。しかし、まだまだ登れないルートの方が多い。これからも頑張ろう

今年のこれからの本チャンの岩場が昨年より少しは楽になっていることを願って…。

明日は、比良で岳連の主催で積雪期救助訓練がある。お天気が心配だ。


2002.1.23/P.M.2:30/武奈ヶ岳の写真 
冬の雪山の写真を見ると、墨絵のように見えることがしばしばある。今回表紙に使った西南稜から見えた武奈ヶ岳の写真も、墨絵のようだ。無彩色の世界は東洋的な雰囲気を醸し出す。いつもコンタクトカメラで撮ってそれをスキャナでコピーしているせいか、ピントがかなり甘くなってしまう。技術的にもう少し改良できるようにしなくてはと思いながらなかなかできないでいる。しかし、今回の武奈ヶ岳はこのピントの甘さが何と言えないムードがあって、私はとても気に入っている。

大がいの写真は、どんな山や花を撮っても実物に勝るものはなく、帰ってからわくわくして写真の出来上がりを見るのだが、いつも失望させられている。人に見せるとき「これも綺麗だけれども実物は口では表せないほどもっともっと綺麗かったんよ」と補足してしまう。

表紙の武奈ヶ岳の写真は、これ自体で絵のようだ。補足はいらないだろう。


2002.1.20/P.M.11:30/今日のホシダは寒かった 
今日は天気が良く、絶好のクライミング日和と決め込みホシダに行ったが、風が強くとても寒かった。こう寒いとやっぱり意欲が湧かない。人もかなり少なかった。昨日は講習だったが、5人しか来ていなかったらしい。

こんなに寒いのに、葉が枯れ落ちた木から新芽がでていてびっくりした。ついこの間までたしか紅葉した葉っぱを見ていたと思っていたのに…。自然の営みは何と規則正しいのだろう。必ず一年を勤勉に繰り返している。目まぐるしい変化で木々達は大変だろうと思ったが、目まぐるしいと勝手に思っているのは私であって、実は私の生活が目まぐるしいのだろう。自然界はゆっくりとした時の流れを繰り返しているのだろう。そして、長い時を刻んでいる。それに比べたら人間の人生はなんと短いのだろうと思ってしまった。せめて、あとはもう少しゆっくり味わって過ごそう。


2002.1.19/P.M.10:30/当尾(とうの)の里 
京都府相楽郡加茂町にある当尾の里は、私の思い出の地でもある。母の姉が嫁いだ先である。子どものころは夏休みに宿題をもって遊びに行っていた。当時はまだ炭焼きをしていたような山の中である。一人暮らしとなっていた叔父が他界してしまいもう行くこともなくなるだろう。一抹の寂しさを感じる。

当尾は浄瑠璃寺、岩船寺があり、石仏が点在していてハイキングコースになっている。何回か歩いたことがある。

村にはまだまだ昔の風情が残っていて、人にも人情が残っている。ほんとうにいいところだ。なにかホッとするものがある。

しかし合理的な生活に馴染んだ私には、単なる哀愁にすぎないと改めて思ったりもする。その中でずっと暮らしていると自然なことかもしれないが、今の私には時代を逆行するようななものだ。もう戻ることはできないだろう。

山に向かうのは、そういう哀愁もあるのかもしれないと思ったりもした。京都の北山あたりにもまだそういう村が残っている。また北山にも行ってみたい。


2002.1.17/P.M.9:30/体力 
みんなで山に行くときは、体力がいつも問題になる。年齢や性別でという訳ではないが、体力はかなりの個人差がある。同じ山を目指せば必ず早い人と遅い人がでる。しかし反面山は個人個人のペースで自分に合った山にすればみんな登れ頂上を極めることが出来る。

また、急いで登ると周りの風景が目に入らないと思う。ゆっくり行けば印象も違ってくる。いつも車で走っている道をたまたま歩いたとき「エッ! こんなところにこんな店あったっけ?」と思うことがある。急いで通っていて見逃しているのだろう。

私は、高山植物や雲の流れや遠くの山並を味わいながらのんびり山を歩くのが好きだ。駆け足で登って駆け足で下りるのは、もったいないと思う。山をスポーツ感覚で競争はしたくない。

力が違いすぎるとお互いに楽しくなくなってしまう。だから単独の山行は気楽で楽しいのだろう。

山は楽しいが一番。しかしたまには背伸びもしてもう少し上にも登りたい。するとより以上の体力がまた必要になってくる。やっぱり頑張らんとあかんのかな?


2002.1.14/A.M.9:30/充実した人生 
暮れから周りでいろんなことがあり、落ち着かない。一番は年寄りが多くなったことだ。叔父叔母や親の世代がもう人生の終盤を迎えようとしている。次は私たちの世代だ。もう年老いて体の自由がきかなくなると、山どころではなくなってしまうのだろう。充実した死を迎えるためには、充実した人生を送らねばならない。

充実した人生とは…。これは人によって違う。人から見て何てつまらない人生なんだろうというのは「大きなお世話」だ。人のことを羨ましがらず、妬まず、自分が満たされていればそれでいい。しかし、それがなかなか難しい。

自分が死を目前にしたとき、映画を見るように今までの人生を振り返るのだろうか?


2002.1.7/P.M.9:30/アクセス数5000突破ありがとうございます 
いつも見ていただいて有難うございます。今日はカウントが5000を越える日だなぁーと予想していたが昼過ぎに私が開いたときにはもう越えていました。独りよがりな文章と、大したこともない山行記録ですが、読んでくださっていて声をかけていただくと、恥ずかしい反面とても嬉しくて胸がいっぱいになります。5000という数字がほんとに信じられません。有難うございました。もっと情報の提供としてお役に立つような内容の企画を…と考えたりしますが、真似をしても他の方のHPの足下にも及ばないことになります。

これからも、楽しみの山を通じての思いを書いていきたいと思います。ご感想やご意見など何でもお寄せ下さい。宜しくお願いします。


2002.1.6/P.M.9:30/今日もホシダ 
今日もまたホシダで登ってきた。我ながら頑張るなぁーと感心する。12月は9回いった。昨日は3回テンションを掛けてしまった「砂ルート」が1テンションでいけた。それも最後のハングでだ。悔しい。来週の水曜日もいこう。ホシダの人たちはとても温かい。登りながらも、応援してくれているのが伝わってくる。同じ趣味での繋がりの共同体である。2002.1.4に地域共同体が壊れて人の心が索漠としてしまったと書いてしまったが、まだこんなところに優しさが残っていた。同じ目的で集まると、気持ちが通じるのであろう。こう思えるのは嬉しいことだ。世の中まだまだ捨てた物じゃない。私もまだまだ捨てた物じゃない。ガンバルゾ〜!!


2002.1.5/P.M.10:30/ホシダ初登り 
今日はホシダで登ってきた。寒い日だったせいもあってが人は少なかった。今年最初の登りは快調だった。とはいっても今まで登っていたルートだったのだが…。ここのところ進歩にはほど遠いが、楽しみながら頑張っていきたい。

2002.1.4/P.M.11:30/お正月2 

2日は待ちに待った解禁日。外で遊んでも近所の家に行っても良い。一斉に子どもが動き出す。まずは近所を一巡りして、年玉をもらいに回る。各家で近所の子どもの分は用意してある。当時は親からお小遣いといって日頃もらわなかったのでとても嬉しく楽しみでもあった。

お年玉をもらいに近所を一巡りするとあとは外で遊ぶ。「もういくつ寝るとお正月、お正月には凧あげて、コマをまして遊びましょ、早く来い来いお正月」この歌の通りだ。女の子は必ず羽子板を持っていた。

こうして、松の内の7日までは正月気分である。そして15日の小正月には「とんどさん」といって、朝から各家の男性(父親)が出て、竹や藁で櫓を組む。子どもの時の記憶なのでかなりの高い大きな塔のような物だったと思いこんでいるが、実際にはわからない。その出来あがった青竹と藁のとんどさんを見上げて、夜が待ち遠しくワクワクしていた。組んでいる間はそばで遊びながら見ていたり手伝ったりしていた。夕方暗くなると、各家からしめ縄や門松、そして子どもはテストや、習字など持ち寄り焼く。私は、いつも机の引き出しごと抜いて持っていっていた記憶がある。その焼いたテストやお習字などが火の粉となり風に空高く舞い上がると成績が良くなったり、お習字が上手くなると言われた。そして、崩れ落ちて来たら後に逃げて歓声が上がる。全部崩れ落ちてたき火状態になると、青竹を細く切って先をとがらせてあるその先に餅を刺して焼く。その焼き上がった餅をまずは食べないで、小さくちぎり火の中に投げ込む。その時に自分の性格で直したいところや、願いごとなどを呪文のように唱える。それが終わると餅は食べられる。火に当たりながら大人も子どもも賑やかに過ごし、火が消えるとみんな家に戻る。これが終わると、正月気分も抜けまた日常が始まる。

このとんどさんはかなり前に中止になった。いつだったかはっきり憶えていないが、私が子どものころに危険だからと言う理由でだと聞いたことがある。そういえば、話は飛ぶが秋祭りの御輿も危険だという理由で各町内から消えていき、今は全く御輿は出ていないようだ。残念だ。

情緒豊かなお正月だった。子供時代のいい思い出のひとつになっている。

今は実家の近所は町と一緒で、近所付き合いもなく索漠としてしまっている。昔は全部が農家で、地域が共同体となりみんなで助け合わなければやっていけなかったのだろう。今は職業も多様になり、考えかたもそれぞれ違い、共同で何かをやって行くにはあまりに困難を要する。そして煩わしいことはさけてしまい、事なかれ主義になってしまっている。

それと共に、人の心も索漠としているように思うのは考えすぎだろうか。


2002.1.4/A.M.12:30/お正月1 
正月三ヶ日が終わった。最近は正月が正月らしくなくなってしまった。また昔の思い出になるが、私の子どものころの正月は毎年厳粛に迎えていた。今も味わいのある正月がどこかにはあるのだろう。

大晦日、母はおせちの煮しめづくりに追われる。それもかなり量が多い。ちょっと他では見かけないのは、棒鱈の煮付けとクワイの煮物であろう。京都では欠かせない。今でも母は大きな鍋一杯の棒鱈を炊いている。我が家は、いつもそれをお相伴しているが、小さいころから子ども達まで「お祖母ちゃんの棒鱈」がないとお正月ではないという。私もお世辞抜きでファンである。たいがいの人は美味しいと言ってくれる。子ども達もこれだけは作り方を私に伝承してほしいと言う。もうそろそろ習得しておかなければならない。ついでにクワイは里芋のようなものに芽が出ているものだ。やはり芽が出て将来は立派な人にという縁起物だ。

元旦、朝の暗い内から男性だけが起きる。そして雑煮を作る。女性、子どもは出来上がるまで起きない。出来上がって全ての神棚に灯明を灯して、それから起こされる。薄暗い中で灯明の並んだ光景と台所と部屋のしめ縄は幻想的でいまだに憶えている。そんななかで、家族みんなで雑煮を祝う。雑煮は白味噌仕立てで、中には大根、ニンジン、するめ、小芋、頭芋である。大きな頭芋は切らないでまるまる椀に入れられ、人の頭に立つ賢い人になれるようにと、子どもである私に説明されて無理矢理食べさせられる。苦行のような感もある。そのあと、また寝る。大人はこの日は一日中寝ている。子どもにとってはかなり退屈な一日だ。大人のようには寝られない。だからといって、遊びにも行けない。それは、元旦は何もしてはいけない日になっていたのだ。退屈な一日を過ごす。ちなみに、正月男性が雑煮を作るのは、女性は不浄で元旦の台所に入れないという説と、日頃の女性の労をねぎらうという意味もあったらしいと聞いている。男性が台所にたつのは大歓迎だが最初の女性不浄説のためだとしたらけしからんことだ。真相は??

(もう、眠くなったので明日に続く)


2002.1.2/P.M.11:30/チョークバッグの利用法 
久しぶりにのんびりと過ごした。暮れまでのバタバタのせいか疲れが出て、昼間からこたつでうたた寝をして過ごす。こんなことは滅多にない。気のゆるみが出てきたようだ。

今日は特別寒い。外に出ると厚いコートなのに冷気が入ってくる。今日は、娘のMの買い物につき合って駅前のデパートに行く。するとなんと「コムサデモード」の店にチョークバッグが5-6個並んで置いてあるではないか。それも山の道具屋とはちょっと違うカラフルでおしゃれなものだ。

2-3年前だと思うがクライミングの帰りの車の中で、みんなでクライミング道具が高いという話が出て、勿体ないので他に使い道がないかと言う話で盛り上がった。その中で、チョークバックをポシェット代わりに出来るという話になり、もう町で持っている若者を見たことがあると誰かが言っていたのを思い出した。

若者向けにファッショナブルなクライミングの雑誌が出ていると、Mから聞いた。クライミングが、今ブームなのだろうか? ホシダにどっとそんな若者が押し掛けているという気配もない。

私もコムサデモードのチョークバッグをブラブラさせて、ホシダの壁を登ってみたくなった。 


2002.1.1/A.M.10:30/新年のお喜びを申し上げます 
昨年は、山やクライミング三昧の生活だった。山に行けるということは周りの人たちの理解があり、体力的にも何とかついていけるということである。山に行ける幸せをかみしめ、感謝の気持ちでいっぱいだ。

2002年の幕開けは山で過ごしたいと思っていたが、事情があっていけなかった。子育てが終わり、もう自由の身になったと思っていたが地上ではいろんなしがらみがくっついてくる。

山に入って一時だけしがらみを忘れる。すると山に行くことは逃避だと言っているように思えるがそうではない。山自体に魅力がある。私の場合は、山に登っていろんな均衡がたもたれていると思う。

今年も無理のない山を楽しみたいものだ。

今年も自分らしい山を追い求めて…

みなさま、宜しくお付き合いお願いします。