菖蒲谷の伝説、言い伝えなどを集めました

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菖蒲谷で暮らした子供達の思い出(第1話~5話)

  昭和20年~30年代、菖蒲谷で小学生時代を過ごされた方が、小学生の頃の思い出をお便りにして綴っていただ
 きました。
  子供たちの生き生きとした生活が描かれています。シリーズで掲載します。

   第1話 ~ 第8話

(第8話) 夜のあかり、菖蒲谷のお天気 

   夜のあかりは“ランプ”や“行灯(あんどん)”が主でした。ランプのガラスの火屋(ほや)をきれいに磨
  くのが子供の仕事でした。行灯はローソクのものと燈油(菜種油)がありました。ランプのあかりではクレパ
  スの“白”と“黄色”の見分けがつかなくて雪景色を描いたところ、朝になり絵を見て真黄き「これ、何?」
  でしたネ。

   夏休みの宿題では、毎日の気温の記録をとっていました。菖蒲谷と麓の人達とでは23度の気温の差があっ
  たと思います。
30度をこえる事はほとんど無かったです。

   冬に学校に行くとき、家を出たときは雪が降り積もっていて、真白な誰も通った跡のない所に小鳥や獣の足
  跡がついていましたが、麓に下りるといい天気で、うそみたい。学校に着き、私の靴だけズブぬれで、恥ずか
  しい思いもしました。

 

(第7話) 菖蒲谷の住居

    菖蒲谷の家の屋根は、立派なカヤぶきの屋根の家が何軒かありました。瓦屋根の方が多く、立て替えられた年代によ
   って少しずつ違いましたね。家の間取りは、多少広さや敷地や場所によって違いがありましたが、だいたい田の字型の
   間取りで、たいていの家に“いろり”があり、立派な仏壇(仏間)もありました。それに広い縁側、台所は土間に、そして必
   ず土間には唐臼(からうす・・足踏みの精米する物)が作りつけてありました。

    広い納屋には農機具を収納したり、縄をなったり、ぞうりを編んだりするため、ワラをトントン打つための台にする平らな
   石も置いてありました。おかきを干したりもしていました。土蔵(お米を俵に入れて積み上げていました)、牛小屋、我家
   ではトイレ、風呂は別棟でした。風呂場は井戸に近かったので、水をバケツにつるべから組んで、風呂に水を入れるの
   は子供(私)の仕事でした。毎日、台所にある大きな甕(かめ)に井戸から水を運ぶのは祖母や母の仕事で、大変だった
   と思います。我家の井戸から二、三軒の人が天秤棒でかついで水をくみに来られていました。

(第6話) 菖蒲谷村の人達の仕事 

    村で現金収入を得るのは大変だったようです。我家ではタバコの葉の栽培をしていて、乾燥場として高い建物もありま
   した。何軒か乾燥場のある家もありました。炭焼きに柴刈り、祖々母は柴を売りに行っていたとか(明治時代でしょう
   か・・加筆)。
    それよりも昔は、蚕を飼って絹織物を作ったり、麻糸をつむいだりしていたのです。糸ひき車もありました。桑の木がた
   くさんある場所もありました。農閑期には、男性は灘や四国等の酒蔵に杜氏(とうじ)として出稼ぎにも行かれていたと聞
   いていました。

 

(第5話) 山笑う (菖蒲谷の山の幸)

   浄教寺跡と参道、その下が私の実家が建っていた敷地です。この写真(播磨新聞掲載)のちょうど右下に井 
  戸がありました(※
1)。

    

   なだらかな崖には、ダンヂ(スカンポ)、蕨(わらび)、ゼンマイが沢山生えていました。赤い花の咲くボ
  ケの木も何株かありました。「山笑う」、本当に春の菖蒲谷はツツジ(何種類もの)、藤の花、木蓮、山吹、
  あじさい等々・・・、そして筍(たけのこ)も。
   次は木の実、ナツメ、ビワ、秋には栗、柿、アケビ、グミ・・・自然の恵みが豊かでした。大きな松の木の
  枝には宿木(ヤドリギ)のモチの実が沢山小さな実をつけていて(※
2)、男の子が木によじ登って採ってく
  れてチューインガムの様に小さな実の皮をむいて口に入れてふくらませて・・。
   松茸、シイ茸、しめじ、シバハリ等のキノコ
類も・・・。

  (参考) 1 絵図の中の右下の赤丸がこの井戸らしいです。(龍野市史より)
          ※
2 このヤドリギは、和名『マツグミ』というようです。果実は食べられ、かつては子供がおやつ代わりに集めた。
            ほのかに甘く、
チューインガム
ように何度も噛んで楽しめる。(ウィキペディアより)

(第4話) すべってころんだこと

   家より、ずっと奥の方に行くと、山の斜面が土砂くずれで、砂がむき出しになっていて、ちょうどすべり台
  の様に遊ぶのにもってこいの場所がありました。

   その日も、皆とすべりに出かけました。私は、一番高い場所からすべり始めて、真中あたりで何かのはずみ
  で体のバランスがくずれ、前にたおれてしまいました。それからはゴロゴロ、天と地が次々とさかさになり、
  斜面の下の道路に、ドスンとなげ出されてしまいました。しばらくは背中が痛くて、
   「うーん」
  とうなってしまいましたが、皆に笑われると恥ずかしいという気持ちが先に立って、すぐ起きあがり、なに事
  もなかったふりをしていました。幸い、誰にも気づかれずにすみました。

   それから十日程後の事です。私が投げ出された道路よりさらに下が、また急な斜面になっているのですが、
  そこに道路から牛が足をふみはずして谷底までゴロンゴロンところげ落ちて、谷川の大きな岩で背中を打ち、
  背骨を折ってしまったのです。人が集まってきて、助け上げる事も出来ず、手当てをしてやる事も出来ず、三
  日三晩、悲しそうに
   「モオー、モオー」
  とないて、とうとう死んでしまいました。大人たちは、
   「牛の持ち主は大変な損をした。いい牛だったのに、おしい事をした」
  と話していました。

   私はその牛をよく見知っていたので、毛が茶色で目がパッチリした、やさしそうな牛でした。あの牛もころ
  がり落ちる時、空と地面を交互に見たのだろうか。落ちた場所が岩場で痛かっただろうな、かわいそうだな
  あ、としばらくは死んだ牛の事ばかり考えていました。

 

(第3話) 菖蒲谷の水の話

   現在、整備されている所は菖蒲谷の“上所(かみじょ)”と呼んでいました。浄教寺跡や我家のあった所は 
  “下所(しもじょ)”と呼んでいました。上所では説教場の下のところに大きな井戸があり、上所の人達はほ
  とんどそこから水をくんでおられました。

    ”上所”(札場付近)の人が利用した井戸

   私が子供の頃、各家庭やら田んぼ(もと、家が建っていたところ)にも井戸は残っていました。昔はもっと
  水が豊富に出ていたのかも知れません。我家では年に一回ぐらい“井戸がえ”といって井戸の水全部汲み出
  し、きれいに井戸の中を洗う作業を、村の人達が大勢手伝いに来てくださってやっていました。

   菖蒲谷に井戸が少ないというのはちょっと違うような気がします。手入れをしない水を汲み出さなくなると
  自然に濁ってきて使えなくなってしまうのでは? と思います。大きな河川はありませんでしたが、札場の脇
  の小川はもっとたくさん水が流れていて、おばさん達がせんたくしたり、井戸端会議ならぬ、川端会議に花が
  咲いていた時もありました。


   下所はその小川の下流で、我家の水車小屋がありました。赤ちゃんのおしめ洗いなども、そこでしていまし
  た。七夕飾りの笹も流しに行っていましたから、そこそこ水は流れていましたよ。

   水道、電気のある暮らしからくらべると大変そうに思えますが、無い中でうまく工夫して暮らしていたん
  だ、と思います。
 

    村跡を流れる小川の水は今もかれることはない(上所)

 

(第2話) カラスの正月

  『カラスの正月』というのを知っていますか。
 

  お正月がすんで、十日ぐらい過ぎた日だったと思います。
  私のおばあさんが、
  「今日は、カラスの正月だから、カラスにおもちをあげないと・・・」
  と言いながら、半紙を七夕さんの時かざるように短冊に切り、それに焼いたおもちを小さくちぎって、点々と
  くっつけていきました。
  これを毎年、向かいの山の畑のさきにある、あんずの木の枝に結びつけていました。
  「本当にカラスが食べるのかなあ・・。」
  と思って、私は妹と番をしていました。
  でも、待っても待ってもカラスは来ません。
  そのうち、番をしているのがいやになり、遊んでしまいました。
  夕方気がついて見に行くと、本当におもちだけきれいになくなっていました。

  『カラスの正月』、今でもそんな事をやっている人がどこかにおられるでしょうか。



(第1話) 地獄谷の沼の池の “うそじゃ”の話

  菖蒲谷から小学校にかよっていた道は、山の中をとおっていました。
 山といっても、木のうっそうと茂った所ではなく、背の低い木々と所どころ赤土がむき出し
 になっていたり、笹々が茂っていたりでしたから、ずっと遠くまで見通せました。
  その曲がりくねった道の、どの位置からでも見える池がありました。その池は、
 水面がいつも赤茶けた緑色でした。他の池は天候、季節によって色々な色に変化するのに、
 なぜだかいつも気味の悪い色に見えました。その池が一番大きく見える場所の道路脇に、
 “南無阿弥陀仏”ときざまれた石碑がありました。その池の事を人々は“地獄谷の沼の池”
 と呼んでいました。

    サクラ公園の下にある「地獄谷池」


  昔、日がくれてから、道を通る人をその沼の池の主“うそじゃ”が出て来て、池の中に引
 きずり込むので“南無阿弥陀仏”の文字をきざんだ石碑をたて、えらいお坊さんにたくさん
 お経をあげてもらったところ、それからは“うそじゃ” は出てこなくなりました。
  けれど、“うそじゃ”はやっぱり人間が食べたくてしかたがないから、池の底で暴れ廻っ
 ているそうで、それで池の水があんなにいつもにごっているのだ、という話でした。大人達
 から、道草をくって日が暮れてからそこを通ると、 “うそじゃ”に引きずり込まれる、とお
 どかされていましたから、その石碑の前を通る時は、池の方を見ない様にして足早に歩くの
 が子供達の習慣になっていました。それでも、たまたま連れが多い時は、気が強くなって、
 その石碑の前に腰かけたり、よじ登って飛んでみたり、そんな事もしていました。

  それは、梅雨の晴れ間のからりと晴れた日でした。学校は午前中で終り、四・五人で連れ
 だって帰っていました。ちょうど笹ゆりの咲く頃でした。うすいピンク色の甘い香りのする
 笹ゆりは、野草の中のお姫様のようでした。露を含んで、今にもパッと開きそうな蕾は子供
 達のあこがれの的でした。少々の茨(いばら)の中でも分け入って、自分のものにした時は
 ほんとうにうれしいものでした。遠くの山の中に咲いているのを見つけては
 「アレは僕の」、「あれは私のもの」
 とか、先に決めておいて、花に向かって突進するのです。手に手に、ゆりの花を持ち帰って
 は、家の人に
 「また道草をくって」
 と叱られていました。
  その日も遠くの方にあるゆりの“見つけっこ”をしていました。濃い緑の中に白いゆりの
 花はよく目につくのです。たまには、咲き遅れたつつじの花や白くかれた笹の葉と見まちが
 うのですが、かなり遠くの花でも見つけることが出来ました。
  そのうち一人が、

 「おい、沼の池の方へおりていったら、もっとあるんとちがうか」
 「そうや、あそこは誰も取りにいかんから、もっと一パイあるぞ!」
 普段の恐ろしさを忘れて、皆でピョンピョン飛びはねながら山の中に入って行きました。ひ
 ょうひょうとした、松の若木やら、シダやら山桃の木の間をぬけて、道らしい道はありませ
 んでしたが、雨水が流れる所なのでしょう。石がゴロゴロころがって赤土がむき出して歩き
 やすい所もありました。ドンドン駆けて、ゆりの花をさがすのが目的だったはずが、いつの
 間にか、沼の池のふちまで行くのが目的みたいになっていました。
  先頭を走っていた子が、ピタッと止まりました。
 頭の上の方を見上げると、いつも通る道がきれぎれに白く見えました。という事は、どんど
 ん下って、ずい分下の方におりてきてしまっていたという事です。
  皆は急に“うそじゃ”の事を思い出しました。
 木の間からにごった池の水が見えました。風もないのにキラキラと波が光って見えました。

 「ゆりの花、ひとつも無いなー」
 「ほんまや、帰ろ帰ろー」
 誰も “うそじゃ”の事は口に出しませんでしたが、急にこわくなってきたのです。
 さあ、それからはもう夢中でした。今、鼻歌を歌いながらかけ下りた山肌を、物も言わずに
 一目散、私も自分が皆より一歩でもおくれたら、今にも “うそじゃ”が出てきて池の中に引
 きずり込まれそうな気がして、必死で登りました。汗はたらたら流れるし、心臓はドキド
 キ、それにしても、かけ下りる時はあんなに楽々だったのに、なんと急な所だったのでしょ
 う。木の枝やら草の根をつかみながら、やっとの思いで“南無阿弥陀仏”の石碑の前にたど
 りつきました。
  道ばたには、皆のランドセルやカバン、そして、グッタリしおれたささゆりの花が転がっ
 ていました。皆で、汗をぬぐいながら遠くになった沼の池を見おろしました。沼の池は、い
 つもと変りなく、にごった緑色に静まり返って見えました。

  それにしても“うそじゃ”なんて、ふざけた名前をもっともらしく誰がつけたのでしょ
 う・・・・・。

 

コケコロ岩の伝説

  ひしひしと押し寄せた大軍が赤坂を踏破すると「イスガタ」の尾根近くの大岩のあたりで鶏が鳴いた。大軍は敵陣営近しとさらに躍進したが、忽然、眼前に万灯が輝き、煌々たる光に目がくらんだ。     
 (龍野市史より)                                                                                                                 

万灯岩の伝説    

 コケコロ岩からさらに菖蒲谷村に近づいたところに、大岩がある。大軍がこの大岩のところにきたとき、この大岩越しに万灯が輝き、大軍は目がくらみ前進を阻まれ、全軍後退して菖蒲谷村は戦禍を免れたと言われる。

殿様の狩り 「播磨の伝説」より

 龍野の殿様が鷹狩りをして新宮谷から井関谷の辺りまでだんだんと山深く狩場を広げていった。獲物も多くそろそろ城へ帰ろうと腰を上げた時、山の向こうに沢山の蝶や蜂が舞っているのが目に止まった。殿様は興味を持ってどんどん奥深く分け入って行った。すると高く熊笹の生え茂っている間から真っ白な花畑が見え、よく見ると蕎麦畑であった。
 蕎麦畑の向こうには五、六軒の草葺きの家がひっそりたたずんでいた。殿様はお供の人に「あれは何という村か」と聞いたが誰も答えることは出来なかった。それは菖蒲谷という村が初めて他の人に見つか
  った時の話で、源氏に敗れた平家の落人の子孫であるという。
  ※ 玉岡松一郎著 「播磨の伝説」より
          

 

脇坂公と菖蒲谷とのかかわり(菖蒲谷座談会より)

 龍野藩主であった脇坂公は「菖蒲谷」で狩りをしたらしい。菖蒲谷村の入り口には籠を置く場所が設けられていた。そのため、菖蒲谷村は脇坂公と深いつながりがあったと思われる。
 かつて、大名が領地を治めていた時代には、自分の領地でたびたび大がかりな狩りをするのが通例であった。その狩りは、軍事演習の一環として捉えられていたともいわれる。大名たちはこのような狩猟を大きな楽しみとしていたようである。龍野藩において、この狩り場として菖蒲谷は大事にされていたらしい。 

 

赤松氏の埋蔵金の話(「嘉吉の乱始末記」より)

 八瀬久 著「嘉吉の乱始末記」に埋蔵金の伝説が掲載されているので、紹介する。(原文のまま)
  龍野市揖西町中垣内に、城山城の埋蔵金に関する、言い伝えが残っている。
  古老の話に依ると、「朱壺千本、黄金一杯、朝日も夕日も当たる宝物」と謎めいた言葉が、埋蔵金の在りかを示すと言うのである。
  幕末の頃か明治の初めかに、中垣内の水谷だか、平木だかでゴールドラッシュが起きたらしい。しかし、手掛かりさえも得られず、何時となく話は立ち消 
  えとなったと伝えられている。
  この話に似た伝説が、当地から四キロほど西の光明山城の在った光明山にも残っている。

宝庫の伝説とその発掘(田中真治氏、「龍野市史」より)

 上垣内の山麓に宝庫の跡と称するところがある。平家残党の宝物を蔵した庫とも云い、赤松氏滅亡の名残とも伝えて居る。出役免除につながる話もあるが、庫の跡らしい形跡は、今は求め得られない。昭和三十七年、讃岐赤松氏の直系と称する人で、京都府下在住の某が、相当の経費と、半年の日子を費して発掘したが、それらしい何物も出て来なかった。伝説は伝説として暖い夢のまま、眠らせて置きたい。(田中真治氏、龍野市史第7巻)

”怪火”と”鶏”伝説(「龍野市史」より)

 菖蒲谷では近年、鶏に関した怪火の洗礼を受け、その後次第に滅亡の一途を辿ったことは迷信家ならずとも、解せぬ因縁と、人々不思議がるのである。
 大正十四年四月、島津某が初めて鶏を飼い鶏に餌を与えていた時に、突然火気のないところから出火し、忽(たちまち)にして家は全焼、鶏は焼死した。山上で水の無いところ、消火器の設備もなく、土をまいて消化するより外、施すべき術もなく、実に悲惨を極めた。この空前の火災で、その後菖蒲谷は次第にさびれていったのである。
 この火災について実地検証をしたは龍野警察署司法主任、寺坂五夫氏で、当時感想をつづられた古体一篇が残されている。(漢詩は略す)
 (附記)
 菖蒲谷は地質の関係で井戸を掘ることが出来ない。古来上垣内の北山の麓にある一個の井戸が全村民の命の綱で、四時良質の水が涸れることなく湧出するが、井戸極めて浅く、火災には到底役立たない。(以上、「龍野市史」第7巻より、原文のまま)

菖蒲谷への新道の工事

 「龍野市史」に揖西町の平野部から菖蒲谷村への新しい道の工事のようすが記されている。以下に市史を引用してみる。 
    中国高原の特徴がそのまま、菖蒲谷にも災いして麓との連絡を遮断し、四周への通路はあっても利用が困難である。
    地形的には相生市矢野町の地域であるが経済的には古来の龍野の商圏に属し、峰を越え谷を渡ってわざわざ龍野へ 
    出るのが表道であり、順路となっている。明治二十八年工を起こし、六百日の日子と、莫大な費用とを費やし六部落の人
    員を動員して全長一里の新道を開墾してから、この表道路は唯一無二の道路となった。揖西町構で上郡県道と分岐した
    菖蒲谷道は麓までは龍野市の一級道路、山にかかってからは二級道路として、幅員九尺ないし十二尺の大道が菖蒲谷
    まで直通した。

    更に林道として新宮町境まで延び、牛馬車、小型三輪車が自由に通行でき、昭和三十七年には石材運搬道路新設の
    ためブルドーザを上げた位であるが、一部地形に阻まれて、自動車は通行できない。(以上龍野市史)

    龍野市史には、さらに詳細に道路を区切って工事の施主、予算措置、担当した地区まで記載されている。この工事が如
    何に大きな事業であったかが想像できる。ちなみに、工事を担当した地区は、新宮、構、田井、竹万、北山、そして村に
    近い箇所は菖蒲谷地区である。また、予算は六地区、郡、県、国の補助を受けている。六地区の人も総出の協力に基
    づいた大事業であった。その紀功碑が旧菖蒲谷村の入り口に建てられている。(追記、菖蒲谷村の遺構を保存する会)

        村の入り口に建てられた紀功碑

脇坂公建立の碑(菖蒲谷制札場)

   脇坂家は、もともと信濃飯田藩主であった。2代目藩主安元は子を亡くしたため、3代目として堀田家から養子、安政を迎えていた。堀田家は大名で、安政の弟の堀田正俊は後に春日の局の養子に、そして13万石の大名となり大老にまで昇りつめている。
 1654年安政は脇坂家3代目を相続し、後に1672年飯田から龍野に転封された。この時、安政は30歳代後半で、安政は荒れた城郭を修理再建し、また醤油を奨励するなど、現在の龍野の原型をつくったと言われている。また、脇坂家が外様大名から譜代大名に格上げになった功労者でもあったようだ。
 1684年に安政の五男脇坂安照が4代目として家督を相続した。この安照は後に浅野内匠頭の刃傷事件の後、赤穂城請取りのため赤穂に赴き、その後赤穂城の守衛にあたったことでも有名である。
 1694年(元禄7年)、安照の安政が62歳で亡くなった。菖蒲谷村にあるこの碑は、碑の背面に刻まれた年号から安政が亡くなる前年(元禄6年)に建立されたものである。龍野市史によると、安照が建立したという記録があるそうです。

「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑文に込められた思いについて、いろいろな想像をめぐらせることができます。 
        (「脇坂淡路守」より、保存会調べ)
 

           前  面                   背   面 

           

車池と糸車

 車池は滝谷の奥にあって、滝川(古子川)の水源をなし、四時豊富な水を湛え、新宮、構、田井、竹万、北山五部落、百余町歩の水田を養い、昼夜放流90日、いかなる干ばつにも底を見せることがないので、龍神とか糸車とか神秘的な伝説を多く生んでいる。(龍野市史より)

近隣の村人との薪売り(「相生市史」「龍野市史」より)

 釜出村、黒蔵村の人々と共に数十人が毎朝薪を荷い柴を負うて、蜒々長蛇の列をなし、横尾の急坂を下って龍野町へと急いだ明治末までの絵巻物のような風景は今は語りつぐ人もなく、寿永の平家滅亡にも増して哀れである。 (「龍野市史」より)
 釜出村は現在の相生市釜出(菖蒲谷から歩いて下ること約15分)で今でも10軒ほどの村がある。菖蒲谷から最も近くつながりの深かった村である。黒蔵村は相生市榊の奥、黒蔵地区で、菖蒲谷から北方へ約3キロのところにあり、大正の頃まで数軒の家があったらしい(「相生市史」より)。黒蔵地区は数年前までは、盆地状の狭い土地に荒れた田畑と、屋敷跡の石垣、道路が残っていた。一時期大阪の人が養豚を営んでいたこともあったらしい。北東の山を越え、歩いて千本駅に出て、姫新線を利用したと伝えられている。しかし、いまは広大なメガソーラーと化し跡形もない。 (追記、保存会)

菖蒲谷村の生活 (「龍野市史」より ) 

    鶏を飼わず、幟(のぼり)を立てず、という生活から、一説には平家の落武者の村とも言われていました。                                                                                           

急病人が出た時の医者道

  菖蒲谷から北へ峠を越し、沼の池(楓池か?)から坂を下り、善定村の医師(吹田医師)のところに急病人を籠にのせて背負い、運んでいました。行程は約4キロメートルでした。その時に使う「籠」は、村の公共の備品として説教場に格納されていました。
 菖蒲谷のことは新宮町「善定村史」にも記録されています。たつの市新宮町善定には、この吹田医師の顕彰碑が建立されています。     
 (善定村史より、 たつの市新宮町善定自治会編)                                                                                                                                         。