菖蒲谷にまつわる伝説・よもやま話のコーナー
ホームへもどる:菖蒲谷村の遺構を保存する会のページ
11月30日にフィールドワークを行った、たつの市立揖西西小学校6年生から「リポート」が届きました
菖蒲谷村跡を訪れた6年生が、それぞれ自分の肌で感じたことを豊かな想像力で膨らませ、リポートとして
まとめてくれました。
感想に加えて、車池の大蛇伝説、脇坂公建立の石塔などを絵にして、上手にまとめられていました。
車池、荒神さん、石塔、・・・ どの遺構を取り上げても子供たちにとっては不思議の世界の連続だったようです。
・・・・、たいへんおもしろかったです。
7月31日(日)に トレイルランの大会「カキツトレイル」が開催されました
龍野マウンテンバイク協会主催のトレイルランニング大会が、菖蒲谷や城山城周辺を舞台に開かれました。菖蒲谷村の跡地がコースに入っていると知り、行ってみました。全国各地から数百人のランナーが集まり、30kmの部と10kmの部に分かれて山岳マラソンを楽しんでいました。
標高約500mもある山を登ったり下ったり、しかも気温30度を越す猛暑、これをものともせず走り抜けるランナーたち、すごい鉄人の方たちです。それぞれが、装備や給水に工夫をしておられました。
スタート前の様子(30kmの部)
菖蒲谷村跡の石塔付近を走るランナー
菖蒲谷村の紀功碑付近を走るランナーたち
たつの市立揖西西小学校6年生の疑問に対して (各種資料から調べました) 令和4年7月1日
1 菖蒲谷に住んでいた人たちは、どんな仕事をされていたのでしょうか。
昔は村の大人の全員がお百姓さんだったと考えられます。
「相生市史」1巻(P580)によると、相生市矢野町は「矢野の荘」と言って京都の東寺の荘園でした。東寺には鎌倉時代ごろの「矢野の荘」の田畑開墾の面積の記録が残っていて、その時の地名に「カマテ」という地名が出てきています。「カマ」というと、草をかる鎌や、ご飯をたくカマド、お釜、炭を焼く窯、などが連想されます。また、材料の鉄も思い浮かびますね。昔の人々は、その土地から何かモノが出てきたら、その名前を土地の呼び名にすることがあります。また、特産品のモノを地名に名づけることもあります。皆さん「カマテ」からいろいろと連想したり、調べたりしてみてください。何かわかるかもしれませんね。
3 菖蒲谷村と黒蔵村とは交流があったのでしょうか
「相生市史」第4巻に黒蔵村の特筆記事が出ているので調べてみましょう。菖蒲谷から楓池のそばを通り北へ約3kmのところに、黒蔵という村がありました。江戸時代の元禄絵地図から村の名前が出てきています。明治時代には12軒の家があり、大正時代ごろは6軒に減り、ついに廃村となりましたが、その後大阪から移り住んだ人達が家畜を育てていました。その人達も昭和40年ごろに村を出て誰もいなくなり、完全に廃村となったそうです。相生市史によると明治時代、菖蒲谷を通って毎朝、龍野の町へ柴を担って売りに行ったそうです。龍野市史には、菖蒲谷村の人々が釜出村、黒蔵村の人々と、数十人が毎朝薪や柴を背負うて龍野の町へ売りに行った、と書いてあります。
1601年に、菖蒲谷村にあったお寺が、別の遠い所(新宮町上莇原)に移ってしまったため、江戸時代以後は、村人たちは黒蔵村を通ってお寺に参拝しました。また、お寺のお坊さんも、この道を通って菖蒲谷村へこられました。この黒蔵村を通る道を、「寺参り道」と呼んでいたそうです。黒蔵村は、廃村となってからも、多くの棚田跡とか、道端に屋敷跡の石垣が残っていましたが、5,6年前に大型のソーラーができたため、完全に村跡が消滅してしまいました。
ひしひしと押し寄せた大群が赤坂を踏破すると、「いすがた」の尾根の近くで、鶏が鳴いた。大軍は的陣営近しとさらに躍進したが忽然眼前に万灯輝き、煌々たる光に眼がくらみ、前進を阻まれ、全軍後退して菖蒲谷は戦火をまぬがれた。
それから、鶏の鳴いた岩をコケコロ岩、万灯の輝いた岩を万灯岩と言うようになった。いずれも旧道の傍らにあって、コケコロ岩は円みを帯びた巨岩、万灯岩は数個の岩の集まりである。里人はこの万灯岩を徳とし、その名を取って土地の字名とした。
この伝説に出てくる戦いは、いつの頃の戦いだったのでしょうね。
荒神社の神様は「スサノオノミコト」で、出雲の神様と同じだそうです。昭和30年代には、まだ社殿が残っていましたが、その後朽ち果てて倒れてしまいました。境内には、明治時代に奉納された玉垣とか御神灯の石、手洗いの石などがまだ残っています。神様(ご神体)は、最後に山を下りられた方が、新宮の熊野神社に合祀されたらしい。
子どもの頃を菖蒲谷で過ごした方は、荒神さんの祭りがあったと言っておられます。その日は、それぞれの家々に多くのお客さんがみえ、村の人口が増えた。そして皆でごちそうを食べ、荒神社にお参りしたそうです。
荒神社はたくさんの立派な樹木が境内を取り囲んでいます。なかでも、樹齢400年と推定される松の木があり、当時は揖保郡内で一番と言われていました。しかし大正時代に枯れてしまったそうです。他にスギ、ヒノキ、タブなどの大木が並んでいます。境内の入り口にある周囲3m80cmのヒノキの大木は、兵庫県下で10番目に太いといわれている。ぜひこれらの大木を守っていきたいものですね。
6 赤松氏と菖蒲谷はどのような関係があるのか
昔の菖蒲谷村のことを書いた記録は「丸田家に残された文書」しかありません。その文書によりますと、15世紀の末ごろにある一人のお坊さんが菖蒲谷に住み着き、村にお寺を開いたそうです。その頃、菖蒲谷には人々が住んでいた集落があったということです。その村人たちはいつ頃から住み始めたのでしょう。村人たちが山のふもとの人たちから離れてひっそりと暮らしていたことから、落人が逃れて住み始めたのではないかといわれています。そのひとつが、源平合戦(1184年)で源氏に敗れた平家方の残党が菖蒲谷に逃れ隠れ住んだという説です。しかし、平家一門にかかわりのあるようなものが村には一切残っていません。
二つ目は、赤松氏の残党が、嘉吉の乱の城山城落城の後、逃れて住み始めたという説です。城山城の落城が1441年ですから、お坊さんが菖蒲谷にお寺を開く50年ぐらい前ということになります。このお坊さんは、もともと関東の相馬村(現在の千葉県あたり)からやってきた人で、平家の血を引く家に生まれたといわれています。このお坊さんが住み着いたことで、いつしか平家伝説が生まれたのではないかとも推測できます。いずれにしても、菖蒲谷村の起源は謎につつまれています。
兵庫県自然環境課のHP 「ひょうごの自然」 自然満喫 菖蒲谷へのみち
たつの市龍野町北龍野の神姫バス佐野橋バス停から城山城、亀の池、菖蒲谷を経て、相生市の感状山城に至るウォーキングマップが掲載されていました。全行程が十数キロ(推定)のタフなコースです。帰りは、相生市テクノラインの神姫バス森バス停から相生駅へ向かいます。
このマップ(「兵庫県 自然環境 菖蒲谷」 で検索すると出ます)を見てみますと、最初の的場山への登りはタフですが、的場山から終点まではさほど急なコースではありません。ところが、菖蒲谷村跡を通過した後、相生市釜出に下りる道が一部で通りにくくなっています。そこで一案ですが、相生市に下りずに、菖蒲谷村跡を見て、菖蒲谷の周回道路を回って、城山城に引き返すコースも良いものですよ。
HPは https://www.kankyo.pref.hyogo.lg.jp/jp/environment/ で表示、その後「菖蒲谷」でサイト内検索してください
菖蒲谷の市道のヘヤピンカーブのところにある湧水について
ここの水は、明治時代にふもとから菖蒲谷集落へ向かう新道をつけた時の工事で湧き出た水だそうです。
その後、ふもとから菖蒲谷へ歩いて移動するときに、休んでのどを潤す場としてここは利用されました。
湧水はこの上にある山に降った雨を集めて流れ出して来ています。
最近、水を汲んで帰る方が増えているようです。
12月31日
神戸新聞NEXT「戦国時代の眺望復活 木々伐採で周辺山城くっきり 佐用・上月城跡」の記事に注目。西播磨県民局が企画し、西播磨の山城を整備し観光スポットとして活用しようとはじめた。名付けて「山城復活プロジェクト」。西播磨には中世、赤松氏の山城跡が多数のこっており、たつの市の菖蒲谷の近くにも城山城、感状山城、光明山城、下土井城などがある。これを機に、山城をつなぐ遊歩道の整備にも力を入れてほしいものだ。菖蒲谷はちょうど城山城と感状山城との中間点にあり、遊歩道が通っている。ハイカーや山城マニア、山城ガールにはとっておきのルートだと思います。
私たちの取り組んでいる「菖蒲谷の歩道の整備」にも力が湧いてきました。 次のアドレスにアクセスしてみてください。
https://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/202012/0013975726.shtml
11月15日
菖蒲谷各所の地蔵様などを掃除されている方がいらっしゃいます。ひんぱんに訪れては、お地蔵さん、湧水、トイレなどの掃除をしていただいています。いつも美しくしていただき、ありがとうございます。
定期的にボランティアで掃除されている(ヘヤピンカーブ付近)
おかげで、山から流れてくる水は多くの方が汲んで持ち帰られている
菖蒲谷で幼少期をすごされた方の思い出(手紙より)
山道に入っていく所 ”塚口”、道は左手に中の車(水車)のMさんの家やら滝に行く道がありました。小さな谷川があり、橋もあり、谷川では、どじょうや小魚もいて、子供等はちょっと休けい、Mさんの家には同級生もいて、寄り道して遊ばせてもらいました。夏はパンツ一枚になり、滝の方から流れてくる川に入ったり、上にある池にもしじみとりに入ったり、Mさんのお兄さんが池に大きな丸太を浮かばせ、それに私達がつかまり池の深い対岸まで泳いでひっぱっていったりして遊んでいました。Mさんのところはそうめんの製造もされていて、そうめんのバチがたくさんあり、いつもバチ汁がおやつ、皆で頂きました。おいしかったですよ。小学校出て塚口にたどり着くまでも山すその道を歩いていると、田に出て農作業中の新宮の人達がよび止めて、持参されているおかき等を分けて頂いたこともあります。菖蒲谷の子等は皆に見守られていたのだと感謝の気持ちが今頃わいてきます。
神戸新聞総合出版センター刊 「ひょうごの自然歩道」ガイドより
実高前バス停を出発し、少し北へ進んだ後、左へ折れて山道に入ると、三坂神社奥野登山口に差しかかります。鶏籠山を背に急な坂を登り詰めると、やがて的場山に到着します。ここからは、広々とした景色が広がり龍野市街地や揖保川などを望むことができます。
そこからアップダウンを繰り返しながら北上し、城山城址、亀の池、奥宮神社を過ぎると、ひと休みするには絶好の新池に着きます。そして、菖蒲谷森林公園として整備されている大成池、花菖蒲園を散策した後、谷筋を下りると釜出の集落に出ます。
(※ この本は2004年に出版されたもので、今は閉校となった龍野実業高校の裏山から、的場山、城山城、相生市釜出へと歩くルートに菖蒲谷が入っています。掲載された地図を見ると、そのルートが旧菖蒲谷村跡を通っていることに気が付きました。また当時、相生市釜出に至る道をよくハイカーが通っていたことを示すものです。)
神戸新聞事業社刊 「兵庫の自然歩道」より
「矢野川歩道」
地形の上からは菖蒲谷は矢野川源流に向かう谷と位置しているが、行政的には竜野市である。自然歩道のコースに沿って井関を経て入る道の他に、約5kmの道のりを構から入ることも出来る。数戸の家が点在しているが廃屋となり、少しばかりの畑が手入れされているのを見ながら広い林道を5分ほどで釜出への下り道が右手に入っているのを見ながらの歩きとなるが、このあたりはポプラが多く植林され見ごたえのあるところである。
林道をあとにして、いよいよ釜出への下りとなるが、夏はウツボグサ、・タツナミソウなど、また秋にはオミナウシ・フジバカマ・トラノオなどの野草の花の見られる谷沿いの小径である。ポプラ樹の間を7分ほどで右の谷からの出会いにつく。ここには石の道標があり、「左しょうぶ谷」と刻まれている。このコースを登路に使う場合には直接この文字が目に入るため、前記の右の谷に入ってしまいやすい。この道はたしかに荒れた水田跡などを通りながら菖蒲谷に続いているが、相当道はブッシュでおおわれており、苦労しなければならない。道標に従い、この道を菖蒲谷へと行く場合には、およそ20分ほどの所要時間となる。この標柱の上部には自然の大きな岩があり、まわりの緑と相まって「日本式庭園を感じさせるおもしろみがある。
釜出より右岸沿いに安森の村を経て上瀬の才の元橋につく。・・(以下略)
(「兵庫の自然歩道」神戸新聞事業社刊 より) ※ 著者は懐かしい恩師でした
脇坂公と菖蒲谷とのかかわり
脇坂公は「菖蒲谷」で狩りをした。村の入り口に籠を置く場所が設けられていた。そのため、菖蒲谷は脇坂公と深いつながりがあったと思われる。かつて、大名が各地を治めていた時代、自分の領地でたびたび大がかりな狩りをするのが通例であった。その狩りは、軍事演習の一環としても捉えられていたともいわれる。また当時、大名にとっては狩猟を大きな楽しみとしていたようである。この狩り場として菖蒲谷は大事にされていたらしい。(菖蒲谷座談会より)
赤松氏の埋蔵金の話
八瀬久 著「嘉吉の乱始末記」に埋蔵金の伝説が掲載されているので、紹介する。(原文のまま)
龍野市揖西町中垣内に、城山城の埋蔵金に関する、言い伝えが残っている。
古老の話に依ると、「朱壺千本、黄金一杯、朝日も夕日も当たる宝物」と謎めいた言葉が、埋蔵金の在りかを示すと言うのである。
幕末の頃か明治の初めかに、中垣内の水谷だか、平木だかでゴールドラッシュが起きたらしい。しかし、手掛かりさえも得られず、何時となく話は立ち消えとなったと伝えられている。
この話に似た伝説が、当地から四キロほど西の光明山城の在った光明山にも残っている。(八瀬久 著 「嘉吉の乱始末記」より)
宝庫の伝説とその発掘
上垣内の山麓に宝庫の跡と称するところがある。平家残党の宝物を蔵した庫とも云い、赤松氏滅亡の名残とも伝えて居る。出役免除につながる話もあるが、庫の跡らしい形跡は、今は求め得られない。昭和三十七年、讃岐赤松氏の直系と称する人で、京都府下在住の某が、相当の経費と、半年の日子を費して発掘したが、それらしい何物も出て来なかった。伝説は伝説として暖い夢のまま、眠らせて置きたい。(田中真治氏、龍野市史より)
”怪火”と”鶏”伝説(龍野市史より)
菖蒲谷では近年、鶏に関した怪火の洗礼を受け、その後次第に滅亡の一途を辿ったことは迷信家ならずとも、解せぬ因縁と、人々不思議がるのである。
大正十四年四月、島津某が初めて鶏を飼い鶏に餌を与えていた時に、突然火気のないところから出火し、忽(たちまち)にして家は全焼、鶏は焼死した。山上で水の無いところ、消火器の設備もなく、土をまいて消化するより外、施すべき術もなく、実に悲惨を極めた。この空前の火災で、その後菖蒲谷は次第にさびれていったのである。
この火災について実地検証をしたは龍野警察署司法主任、寺坂五夫氏で、当時感想をつづられた古体一篇が残されている。(漢詩は略す)
(附記)
菖蒲谷は地質の関係で井戸を掘ることが出来ない。古来上垣内の北山の麓にある一個の井戸が全村民の命の綱で、四時良質の水が涸れることなく湧出するが、井戸極めて浅く、火災には到底役立たない。
菖蒲谷への新道の工事
「龍野市史」に揖西町の平野部から菖蒲谷村への新しい道の工事のようすが記されている。以下に市史を引用してみる。 (龍野市史) 中国高原の特徴がそのまま、菖蒲谷にも災いして麓との連絡を遮断し、四周への通路はあっても利用が困難である。地形的には相生市矢野町の地域であるが経済的には古来の龍野の商圏に属し、峰を越え谷を渡ってわざわざ龍野へ出るのが表道であり、順路となっている。明治二十八年工を起こし、六百日の日子と、莫大な費用とを費やし六部落の人員を動員して全長一里の新道を開墾してから、この表道路は唯一無二の道路となった。揖西町構で上郡県道と分岐した菖蒲谷道は麓までは龍野市の一級道路、山にかかってからは二級道路として、幅員九尺ないし十二尺の大道が菖蒲谷まで直通した。
更に林道として新宮町境まで延び、牛馬車、小型三輪車が自由に通行でき、昭和三十七年には石材運搬道路新設のためブルドーザを上げた位であるが、一部地形に阻まれて、自動車は通行できない。(以上龍野市史)
龍野市史には、さらに詳細に道路を区切って工事の施主、予算措置、担当した地区まで記載されている。この工事が如何に大きな事業であったかが想像できる。ちなみに、工事を担当した地区は、新宮、構、田井、竹万、北山、そして村に近い箇所は菖蒲谷地区である。また、予算は六地区、郡、県、国の補助を受けている。六地区の人も総出の協力に基づいた大事業であった。その紀功碑が菖蒲谷村の入り口に建てられている。(追記、保存会)
村の入り口に建てられた紀功碑
脇坂公建立の碑(菖蒲谷制札場)
脇坂家は、もともと信濃飯田藩主であった。2代目藩主安元は子を亡くしたため、3代目として堀田家から養子、安政を迎えていた。堀田家は大名で、安政の弟の堀田正俊は後に春日の局の養子に、そして13万石の大名となり大老にまで昇りつめている。
1654年安政は脇坂家3代目を相続し、後に1672年飯田から龍野に転封された。この時、安政は30歳代後半で、安政は荒れた城郭を修理再建し、また醤油を奨励するなど、現在の龍野の原型をつくったと言われている。また、脇坂家が外様大名から譜代大名に格上げになった功労者でもあったようだ。
1684年に安政の五男脇坂安照が4代目として家督を相続した。この安照は後に浅野内匠頭の刃傷事件の後、赤穂城請取りのため赤穂に赴き、その後赤穂城の守衛にあたったことでも有名である。
1694年(元禄7年)、安照の父安政が62歳で亡くなった。菖蒲谷村にあるこの碑は、碑の背面に刻まれた年号から安政が亡くなる前年(元禄6年)に建立されたものである。生前の安政が建立させたものなのか、それとも後継者の安照が建立したものであるのか不明である。いずれにしても「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑文に込められた思いについて、いろいろな想像をめぐらせることができます。 (「脇坂淡路守」より、保存会調べ)
前 面 背 面
車池と糸車
車池は滝谷の奥にあって、滝川(古子川)の水源をなし、四時豊富な水を湛え、新宮、構、田井、竹万、北山五部落、百余町歩の水田を養い、昼夜放流90日、いかなる干ばつにも底を見せることがないので、龍神とか糸車とか神秘的な伝説を多く生んでいる。(龍野市史より)
近隣の村人との薪売り
釜出村、黒蔵村の人々と共に数十人が毎朝薪を荷い柴を負うて、蜒々長蛇の列をなし、横尾の急坂を下って龍野町へと急いだ明治末までの絵巻物のような風景は今は語りつぐ人もなく、寿永の平家滅亡にも増して哀れである。 (「龍野市史」より)
釜出村は現在の相生市釜出(菖蒲谷から歩いて下ること約15分)で今でも10軒ほどの村がある。菖蒲谷から最も近くつながりの深かった村である。黒蔵村は相生市榊の奥、黒蔵地区で、菖蒲谷から北方へ約3キロのところにあり、大正の頃まで数軒の家があったらしい(「相生市史」より)。黒蔵地区は数年前までは、盆地状の狭い土地に荒れた田畑と、屋敷跡の石垣、道路が残っていた。一時期大阪の人が養豚を営んでいたこともあったらしい。北東の山を越え、歩いて千本駅に出て、姫新線を利用したと伝えられている。しかし、いまは広大なメガソーラーと化し跡形もない。 (追記、保存会)
菖蒲谷村の生活
鶏を飼わず、幟(のぼり)を立てず、という生活から、一説には平家の落武者の村とも言われていました。
(龍野市史より、昭和の頃)
急病人が出た時の医者道
菖蒲谷から北へ峠を越し、沼の池(楓池か?)から坂を下り、善定村の医師(吹田医師)のところに急病人を籠にのせて背負い、運んでいました。行程は約4キロメートルでした。その時に使う「籠」は、村の公共の備品として説教場に格納されていました。
菖蒲谷のことは新宮町「善定村史」にも記録されています。たつの市新宮町善定には、この吹田医師の顕彰碑が建立されています。
(善定村史より、 たつの市新宮町善定自治会編) 。
コケコロ岩
ひしひしと押し寄せた大軍が赤坂を踏破すると「イスガタ」の尾根近くの大岩のあたりで鶏が鳴いた。大軍は敵陣営近しとさらに躍進したが、忽然、眼前に万灯が輝き、煌々たる光に目がくらんだ。
(龍野市史より)
万灯岩
コケコロ岩からさらに菖蒲谷村に近づいたところに、大岩がある。大軍がこの大岩のところにきたとき、この大岩越しに万灯が輝き、大軍は目がくらみ前進を阻まれ、全軍後退して菖蒲谷村は戦禍を免れたと言われる。
殿様の狩り
龍野の殿様が鷹狩りをして新宮谷から井関谷の辺りまでだんだんと山深く狩場を広げていった。獲物も多くそろそろ城へ帰ろうと腰を上げた時、山の向こうに沢山の蝶や蜂が舞っているのが目に止まった。殿様は興味を持ってどんどん奥深く分け入って行った。すると高く熊笹の生え茂っている間から真っ白な花畑が見え、よく見ると蕎麦畑であった。
蕎麦畑の向こうには五、六軒の草葺きの家がひっそりたたずんでいた。殿様はお供の人に「あれは何という村か」と聞いたが誰も答えることは出来なかった。それは菖蒲谷という村が初めて他の人に見つか った時の話で、源氏に敗れた平家の落人の子孫であるという。
※ 玉岡松一郎著 「播磨の伝説」より