殷雷は、まどろんでいた。
今日は休日で、稽古も午後からしか入っていない。朝方特有の冷たい空気が殷雷の頬をなで、小さく身じろぐと布団を頭までかぶり直した。

「(しあわせだ…)」

冬場、温かい布団の中でゆっくりと朝寝をするのは、最高の贅沢だと殷雷は考えている。それが、普段は嵐のように騒がしい家庭のなかなら、尚更。
小さな幸せをかみ締めて、まどろみから再び深い眠りへといざなわれようとした、その時。ふと、聞き慣れた声がしたような気がした。

(殷雷)

「(このこえは…あぁ、あいつだ)」

ほとんど思考が止まった頭でも、それはまるで本能のように理解した。

(殷雷)

「(あさっぱらから、幸先がいい…)」

どうせ夢なら覚めるなと、声がする方へと手を伸ばす。指先に柔らかくて温かいものが触れ、そうする事が当然のように、それを引き寄せ抱きしめた。

「(あったけぇ…)」

言いようの無い安心感が広がり、そのまま眠りの淵へと落ちようとすると、腕の中から小さく抗議の声があがった。

「(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こえ?)」

「あの、殷雷、ちょっと苦しい…ぐ。」

ぱち。

殷雷は、唐突に覚醒した。
さっきまでの安心感は瞬時にどこかへ消え去り、代わりに頭の中でけたたましく警鐘がなり響いている。

そして、腕の中の小柄な人影と目が合った。

「えぇっと、おはよう殷雷?」
「・・・・・・・・っでぁああぁぁぁぁああああぁああぁぁぁっぁあああ!!!!!!?????」

いつもどおりの朝が、始まる。








Your Only One
.



「・・・・・・・・っでぁああぁぁぁぁああああぁああぁぁぁっぁあああ!!!!!!?????」
「あ、やっと起きたわね」

2階から響く絶叫(悲鳴?)を聞いて、深霜はのほほんと一人ごちた。それと同時に、ででででででっ!と、まるで嵐が駆け下りてくるかの様な足音が家全体を震わせ近づいてくる。静嵐は、机の上のお茶がこぼれないように慌てて湯飲みを支えた。

ドガン!

「深霜!!!てめぇの差し金か!!」
「あーうるさいわね。襖はもっと丁寧に開けなさいよ」

わざとらしいまでの平静を装って、深霜はずずずっとお茶をすすった。同じように、何事も無かったかのようにお茶をすする親兄弟を見て、元々超えていた殷雷の沸点が再沸騰した。
「俺を起こすならもっとマシな方法があっただろう!?なんでわざわざ和穂をよこすんだ!」
「その方が確実でしょう?」
「アホか!ジジイが真剣片手に乗り込んできたほうがまだマシだ!」
「寝坊した上に逆切れとは…我が息子ながら、情けないぞ」
「モウロクジジイは黙ってろ!!」
ぜぇはぁと息切れする殷雷に、恵潤がタイミングよく湯飲みを差し出した。それを一気に飲み干し、勢いよくちゃぶ台に叩きつける。

「…大体なぁ。お前も素直に起こしにくるんじゃねぇよ、和穂」
2階から小脇に抱えて『持ってきた』少女に、殷雷は声をかけた。顔に上った血がいくらか引き、ようやくまともに顔が見れるようになっていた。

「いや…ほら、殷雷っていつも寝起きいいじゃない?それで、かるーく引き受けたんだけど…えと…」
先ほどのことを思い出したのか、和穂の顔がほのかに赤くなっていく。それにつられて、殷雷に顔にも再び朱が指した。
それを見た深霜が、面白そうに声をかける。
「あれれー、どうしたの2人とも?顔が赤いわよ?」
「やかましい!!・・・・・ゴホン。あー、時に和穂。お前はなんでここに居るんだ?」

何とか話題を転換させようと、殷雷は無難そうなところから尋ねてみた。すると和穂は『そうそう』と手を打ちながら、自分のカバンをごそごそと漁った。

「はい殷雷、チョコレート。今日バレンタインでしょう?」

そういって差し出されたのは、見た目に分かる手作りチョコレート。気のせいだろうか、ラッピングも例年より凝っている気がする。
「お、おう。さんきゅ」
もしや自分にこれを渡すためだけに、わざわざ朝からやってきたのだろうか?その考えは、自然と殷雷の頬を緩ませた。
が。

「はい、あと静嵐と爆燎さんにも。深霜と恵潤さんには、こっち。今年は可愛いラッピングを教えてもらったんで、チャレンジしてみたんですよ」
「まぁ、可愛い。和穂ちゃんって器用よね」
「これはかたじけない、和穂殿。去年はクッキーでしたかな?」
「今年は生チョコよね。私あれ好きなのよね〜」
「僕はクリスマスのときのガトーショコラも好きだけどね」

「どうしたの?殷雷」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや。なんでもない」
考えてみれば、毎年例外なく万人平等にチョコレートを贈る和穂が今年に限って殷雷にだけ、なんて事はあるはずがないのだ。

一瞬でも期待してしまった自分が、酷く憎らしかった。

「(『大勢の中の一人』、か)」

考えてみれば、今まで和穂から『本命』というものを貰ったことがない。
いつだって『その他大勢』と一緒の手作りで、かろうじて一昨年は手編みのマフラーをもらったが、それすらも実は殷雷だけに贈られたものではない。
後日似たような色違いのマフラーを、双子の兄である程穫がつけているのを見たことがある。

自分が彼女の『トクベツ』だなんて、自惚れに過ぎないのだろうか?

確かめたくないと言えば嘘になるが、あえて確かめようという気は何故か起こらなかった。

「…まぁいい」

幾分か心を沈ませながらも、殷雷はとりあえずラッピングを解きにかかった。
凝った結びのリボンを解き、綺麗に色を合わせた包装紙を丁寧にはがしていく。そして、最後に現れた白い箱のふたを取った。
そこには…


「・・・・・・・・・おい静嵐、ちょっとお前のチョコ見せろ」

「へ?な、なんだよ殷雷。僕のはあげないからね」
ムっと不審そうに眉を寄せる静嵐は放っておいて、殷雷はひったくるように静嵐の持つ箱をのぞきこんだ。
「(…ない)」
同じように他の箱も覗き込んでいくが、『それ』は見当たらない。最後の箱を覗き込んだところで、ふと和穂と目が合った。
すると、和穂はわずかに頬を染めて、照れたような笑いを浮かべた。どうやら、勘違いではないらしい。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

頬が緩むのを、止められない。
先ほどまで胸のあたりを覆っていたモヤモヤが、嘘のように消えていった。


ああそうだ。

迷う必要なんて無い、信じるべきものなら分かってる。

君の笑顔が。ともにすごした時間が。



2人にとって、何よりもかけがえのないもの。







Fin.





++++++++
もはや何が言いたいのか…。相手にとってただ一つのものって、自分にとってのただ1つのもので見えなくなっちゃうことがあるよねってお話。

もとが漫画で考えてたお話なもんだから、更に話がわかりにくいよ!谷江さん!
実は漫画ではここまで深く心理描写考えてませんでした。ハハハ。とってつけとってつけ。
ええっと「一体何のことなのさ?」と分からなかった方は、鉛筆挿絵をじーっと注意深く見てやってください。並んでる箱の中身が微妙に違います。