『束の間に君に花束を』

 

 

 

見つめる。
じっと見つめる。
雑踏の向こうに見えるちょいとばかり眉毛の太い娘と、目つきの悪い黒い外套を着た男だけをただひたすらに見つめていた。
あの2人は、追っ手。
今は呑気に団子なんぞを食べているが、いつ自分の脅威になるやわからない追っ手。
無意識に腕の中の物を強く抱き、返ってくる固い感触に少しばかり安心した。
これを使えば。これさえあればこの逃亡生活に終止符を打てるのだ。
女は、もう一度腕の中のものを強く抱いた。
絶対に、回収なんてさせるものか。

 

 

 

「おい和穂。策具輪の調子はどうだ?」
「・・・・駄目。宝貝に近づいてるせいか、この街にあるってぐらいしかわからない」
耳に添えていた手をゆっくりと離し、娘は男の問いに答えた。再び日の光の下に現れた双眸は黒曜石のように美しく、強い意思を宿している。
「ふむ。まぁいつもの事だな。とりあえずは街の人間への聞きこみと言った所か」
そう言いながらも、さきほど運ばれてきた団子を食べながら男は呑気に茶をすすった。
しかしこれは、身近に危険が迫っていない事を表している。
――まぁ、そこそこに賑わう茶店の中で危険だ何だのと言われても、普通の人間ならば杞憂だと笑ったかもしれない。
しかし、呑気に茶をすすっているこの二人は普通ではなかった。娘は元仙人であり、男の正体は刀だった。
「離れている時は、細かい場所までわかったのに…やっぱり、これって宝貝のせいかな?」
「さぁな。…おい和穂、考えるのは良いが茶をこぼすなよ」
「え?わわわっ!」
やたら可愛い動作で湯のみを持ちなおす娘――和穂。それを『しょーがねぇな』と見つめる男の名を殷雷と言った。
「ちょっと待ってろ。布巾かなにかもらってきてやる」
「うん、ごめんね殷雷」
席を立つと、殷雷は店の奥へと消えて行った。なんだかんだ言いながらも気を使ってくれる殷雷が、和穂には嬉しかった。
再び茶をすすろうとした和穂だが、ふと。雑踏の中から視線を感じて、顔を上げる。
よく見てみると、通りの向こうから4、5歳くらいの女の子が此方を見ていた。
和穂がにこりと微笑むと、とてとてとこちらに向かって走って来た。
「どうしたの?お嬢ちゃん」
和穂の問いに、女の子はたどたどしい口調で答えた。
「なまえを、かいてほしいの」
「名前?」
コクンとうなずいて女の子が差し出してきたのは、小さな身体には多少不釣合いな大きな本。しかし皮張りではなく、紐閉じなところを見ると、何かの雑記帖なのかもしれない。
女の子は、多少苦労して最初の頁を広げると、そこを指差して言った。
「ここに、わたしのなまえを、かいてほしいの。わたし、字のれんしゅうを、したいの。
どうしさま、かける?」
ぱちくりと瞬き一つしたあと、ああ、と和穂は自分の格好に気がついた。
「そうか、道服を着てるからそう見えるのかな?いいよ。なんて名前?」

「かずほ」

「・・・え?」
小さな木炭を構えたまま、和穂がぴたりと止まった。
「かずほ?」
「うん、かずほ」
「それって、もしかしてこんな字を書くのかな?」
ガリガリと和穂が地面に書いた字をみて、しばらく考えた後、女の子はうなずいた。
「うん。こんな字」
世の中には不思議な偶然もあるもんだと、和穂は素直に驚いた。
「実はね、お姉ちゃんも和穂って言うの。あなたと同じ名前。・・・・はい、書けた。これでいい?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして。気をつけて帰りなよ?」
和穂から本を受け取ると、挨拶もそこそこに女の子は再び雑踏の中に消えて行った。
それと同時に、布巾を持った殷雷が店の奥から戻ってくる。
「 ? 誰だ?今のガキ」
「うん?和穂ちゃん」
「和穂?」
「うん。私と同じ名前でね?自分の名前を練習したいんだけど、字が書けないから書いて欲しいって頼まれちゃった。偉いねー、小さいのに」
「偉いと言うか、ませてると言うか・・・。最近のガキは、皆ああなのか和穂?」
「 ? さぁ。なんで私に聞くのよ?」
殷雷は意地悪く笑うと、わざと恭しく頭を下げた。
「いえ、和穂先生なら、同じ子供の気持ちがおわかりになるんじゃないかと思いまして」
「ちょっと殷雷!それどう言う意味よ!」
ケタケタと笑いながら、殷雷は和穂の頭を軽くなでた。

 

 

 

 

 

コンコン。 
「和穂、入るぞ」
宿ではなるべく自分の部屋に居るように言ってあるので、不在の心配をする必要はほとんど無い。軽く声を掛けてから、殷雷はそっと部屋の扉を開けた。
開け放たれた窓からは月明かりが差込み、部屋の中には蝋燭の柔らかい光が広がっていた。だがそれでも、部屋の角まで照らし出すには至らない。
そんな中、和穂はこちらに背を向け、寝台の上に座っていた。
ぼんやりと浮かぶ闇に何故か胸騒ぎを覚えながら、殷雷は和穂に声を掛けた。
「おい、和穂。この街を出た後なんだがな」
聞こえているのかいないのか、和穂は降り返らない。
「このまま今日来た街道を歩いても良いんだが、途中で違う街道と交わるらしい」
しかし殷雷は気にも留めずに、和穂に歩み寄る。
「そっちの街道の方が、比較的安全だと思うんだが…」
殷雷が触れられるほどの位置に来ても、和穂は降り返らなかった。
「…おい和穂、まだ昼間の事を怒ってるのか?ガキじゃあるまいし」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
殷雷が溜息混じりに問い掛けるが、全くの無反応。
軽くキレかかった殷雷は、和穂の肩を掴むと強引に振り向かせた。
「…おいコラ眉毛!」

ぶつかる視線。
怯えた眼差し。

「…あなた、誰…?」

長い、沈黙。
「・・・・・・・・・・・・は?」
やっとの事で搾り出せたのは、言葉とも言えない言葉。ただ疑問をぶつける音。
「おい和穂、お前何を言って…」
「さわらないで!!」

パシ!

和穂にむけて伸ばしかけた手は、無情にも和穂によって振り払われた。
これがタチの悪い冗談ならば、殷雷にも怒鳴りようはあった。
だが、和穂はこんな冗談をする人間ではないし、何よりも怯えと困惑が混じる眼差しは、決して冗談などではなかった。
殷雷の中に、段々と焦りと不安が募り始める。
「お・・い、和穂?本当に、俺がわからんのか?」
相手を落ち着かせる、ゆっくりとした声音で問い掛けるが、和穂はコクン、と頭を振った。
一体どうなっているのか。殷雷の、武器の宝貝としての本能が、事態の分析を始める。
まず、自分の事を知らない所からみて、おそらく和穂はなんらかの記憶障害に陥っている。
記憶を失う。普通にはありえない事だ。普通にはありえない事が起こる・・・つまり、宝貝の仕業である可能性が高い。この街のどこかに宝貝の使い手が居る所から見ても、ほぼ間違い無いだろう。
何の宝貝だ?いつ、何処で、どうやって・・・?
あらゆる考えと記憶が、殷雷の頭の中を駆け巡る。
記憶、記憶、茶屋、記憶、失う、失う、宝貝、記憶、宝貝、子供、本、本、宝貝、名前・・・?
意味の無い記憶の欠片が、意味のある形へと姿を変える。
本と、名前と、子供。
殷雷は和穂を怯えさせないように策具輪をはずすと、急いで自分の耳へ付けた。
幸い、使い手が街から遠ざかったためか、まぶたに浮かぶ星達は正常に動いていた。
街に一番近い、街とは反対の方向へ進む反応…。
とある街道と重なる位置に、それらしき反応を見つける。
「・・・逃がすか」
殷雷は和穂にここに居るように指示すると、全速力で宿を出ていった。

 

 

 

 

 

はぁ、はぁ、はぁ・・・・
もう、どれくらい走っただろうか。街道脇の木に手をついて、呼吸を整えながら考えた。
計画は、上手く行った。今頃刀の宝貝は、おろおろ狼狽しながら和穂を揺さぶっている所だろう。あの元仙人が、刀にとって特別な存在である事は調査済みだ。
武器の宝貝でありながら、情にもろい刀・・・。
多少心臓の鼓動も収まり、再び歩き出そうと顔を上げた瞬間。
「んなっ・・・・!?」
そこには肩を上下させながら、般若の形相で此方を睨む刀が居た。
「・・・・てめぇか、宝貝使いは」
「な、なんでここが・・・!いや、か、和穂はどうしたの!?宿に残してきた!?」
「・・・そーか、てめぇか。分かり易い反応をしてくれてアリガトウよクソアマ」
あ!と気付いた時にはもう遅い。逃げ出そうと背を向けた瞬間、棍で足を打たれ、女は地面に倒れこんだ。目の前に、鈍く輝く真鋼の棍が付きつけられる。
「さあ、宝貝を出しな」
「なんで!なんで!私の計画では、あんたは追いつけない筈だったのに!」
殷雷の言葉を無視して、最後の悪あがきとばかりに女は叫んだ。
「うるせぇな。お前は、2つの間違いを犯した。
一つめは俺を甘く見ていたこと。2つ目は、和穂に手を出した事だ」
「なんでなんで!それでもこんなに早く捕まるなんて!」
「茶店で、ガキを使ったとこまではよかったな。だが、中途半端な所で歴修記を使ったのがまずかった」
「歴修記を知ってるの!?」
「そ。名前と、大まかな機能くらいはな」
封印のつづらの中で、殷雷はいくつかの宝貝を見知っていた。歴修記も、その中の一つだった。本の形をした宝貝で、頁に本人が名前を書くことで、書いた人物の記憶を改竄する事ができる。ちなみに、許容量は頁数…ざっと二百人といった所だ。
「確か、歴修記に書いてある名前を消せば、記憶は元に戻るはずだ。
さぁ、とっとと和穂を元に戻してもらおうか」
殷雷に棍を付きつけられ、怒りと恐怖で怒鳴り散らしていた女だったが、突然ふっとその表情が消えた。
代わりに浮かぶ表情は・・・笑み。
「ふ、ふはは。あははは!」
「何がおかしい!」
わけのわからない殷雷は女を一喝するが、その笑みは止まらなかった。
「ふふふ・・・。そういえば、まだ自己紹介をしてない無かったわね。私の名前は芳玲」
「名前なんざどうでもいい。さっさと宝貝を渡しやがれ!」
女――芳玲は、殷雷の言葉を聞いているのかいないのか、懐から1冊の本を取り出した。
「これが、歴修記。記憶を改竄する事ができる宝貝。夢のようよね、記憶が好きにいじれるなんて。忘れたい事は忘れられるし、気に入らない奴の記憶も書きかえられる。
でもね。あんたは知らないみたいだけど、これには致命的な欠陥があるの」
「・・・何?」
「歴修記の欠陥。それは、名前を消しても、記憶が元に戻る早さに個人差があること。早ければ2、3日中に。遅ければ、何年、何ヶ月・・・あるいは、寿命が尽きるまで元に戻る事は無いの」
「な!?」
芳玲は、殷雷の動揺に付けこむようにさらに言葉を続けた。
「名前を消しても、和穂が元に戻るのはいつかしら?ちなみに、和穂からは仙界での事、宝貝回収の事、あんたの事・・・すべてを消させてもらったわ。今あるのは、生きるのに最低限の知識と本能だけ。
ねぇ、そんなただの小娘に付いて行く必要があるの?
私のものになれとは言わない。だけど、見逃してくれない?回収する意味も無いでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
殷雷は、何も答えなかった。代わりに芳玲に向けていた棍の構えを解く。
それを承諾の意味ととった芳玲は、カラカラと笑いながら殷雷に言った。
「そう、それでいいの。じゃぁ私はこれで・・・」
「なぁ、芳玲?」
そそくさと立ち去ろうとした芳玲の肩を、殷雷が力強く掴んだ。
びく!っと、芳玲の肩が震える。
「な、なによ?」
「・・・たしかに、和穂が元に戻るのは何十年も先かもしれない。だが、明日の朝になれば元通りになっている可能性も在るんだぜ?」
「で、でも、そんな可能性は零に近いのよ!?何も知らない小娘に、自分の人生賭ける価値が、どこにあるのよ!?」
ボキリボキリと、腕を鳴らしながら殷雷は答えた。
「・・・てめぇにゃわからんだろうさ」
そして、辺りにくぐもった声が響いた。

 

 

 

 

 

小鳥がさえずり、やわらかな朝日が差込む平和な宿の朝。
うつらうつらと眠りの底をさ迷っていた宿泊客達は、ドカドカと宿を揺るがす足音と、怒鳴り声とも言える声で目を覚ました。
「和穂!」
「・・・あ、殷雷さん。おはようございます」
やけに他人行儀な挨拶を耳にすると、殷雷はズルズルと扉によしかかった。
「 ? どうしたんですか?殷雷さん」
「・・・いや、なんでも無い」
――あの後。芳玲から歴修記を奪い取り、頁から和穂の名前を消しても、やはりすぐには和穂の記憶は戻らなかった。
とりあえず何もわかっていない和穂に事情を説明し、明日の朝に期待しようと落ち着いたわけだが・・・それでもやはり、和穂の記憶は元に戻っていなかった。
その証拠に、何度も『”さん”付けはやめろ』というのに、いまだ和穂は殷雷の事を『殷雷さん』と呼んでいる。・・・仙界で、初めて顔を合わせたときでさえいきなり呼び捨てで呼んでいたと言うのに・・・。
はっと、殷雷はズルズルと回想にふけっている事に気付き、自分を叱咤した。今、自分がしっかりしなくてどうするのか。
「・・・とりあえず、後で街に出掛けてみるか?昨日の話し振りだと、ほとんど何もわかっていない見たいだからな」
「はい。・・・ご迷惑かけて、すみません」
本当にすまなさそうな顔をする和穂を見て、記憶を失っても、やはり和穂は和穂なのだと殷雷は改めて思った。
・・・昨日の夜。お前は記憶の一部を失っていると告げた時、和穂は騒がず殷雷の言葉を受け入れた。いざというときの度胸の良さ、何事にも屈しない強い意思。記憶が無くとも、それは変わらぬ和穂の本質だった。
「では、俺は先に食堂に行っておく。お前も着替えを済ませたら、早く降りて来い」
「はい」
そう告げると、殷雷は静かに扉を閉めた。

 

 

 

 

 

「・・・わぁ。人がいっぱいですね、殷雷さん!あ!あれはなんですか!?」
「おい、そんなに急ぐと転ぶぞ!それから、あんまり俺から離れるんじゃねぇ!」
賑やかな繁華街を歩きながら、和穂は好奇心を押さえきれずにはしゃいでいた。
あっちの店に入り、こっちの屋台をのぞき。宿を出てからは、『これなんですか?』が和穂の口癖となっていた。そんな和穂にあきれながらも、しっかり質問答えているあたり、案外殷雷は几帳面なのかもしれない。
ふと和穂は、甘辛い醤油のにおいにつられて一件の屋台を指差した。
「殷雷さん、あれ食べませんか?えぇっと・・・『団子』?」
「ああ、別に構わんぞ。丁度俺も小腹が空いたところだ。・・・・自分で買ってくるか?」
「いいんですか?」
「ああ」
和穂は嬉しそうに殷雷から硬貨を受け取ると、いそいそと屋台へとかけていった。
屋台の親父とニ、三言言葉を交わし、しばらくすると、手に団子の包みを持ってこちらに駆け戻って来た。微かに頬が上気している。
「はい!しょうゆと、のりと、あとおじさんお勧めのあんこ。どれがいいですか?」
「むう。では、あんこをもらおうか」
「はい」
殷雷に団子を渡し、自分も海苔団子を頬張りながら、和穂は再び歩き出した。
「ちゃんと、金は使えたか?」
手についたあんこをなめながら、殷雷が和穂に聞いた。
「はい。ちゃんと、殷雷さんに教えてもらったとおりにしましたから。もう大丈夫ですよ!」
「そうか。まぁ一安心だな」
「はい。・・・でも、屋台のおじさんに、変わった格好をしていると言われました。私、そんなに変な格好をしてるんですか?」 
くるりと回りながら、和穂は自分の格好を見なおした。自分では別段変な格好だとは思わないのだが、まわりの常識だとおかしいのかもしれない。
殷雷は、なんと答えたら良いのか迷ったが、妥当な答えを和穂に教えた。
「その服は道服と言って、道士が着る服だ。・・・道士と言うのは、昨日説明したからわかるな?確かに、屋台の親父が言う通り、若い娘はあまり着ないな。だが、気にする必要はない。今のお前にとってはその格好が最適だし、一番似合うんじゃないか?」
「あれ。殷雷さん、それ密かに嫌味ですか?」
「ほう、大分とわかるようになったじゃないか」
くすくすと笑うと、和穂は改めて自分の格好を見なおした。
「・・・でも、案外殷雷さんの言う事は、正しいのかもしれませんね」
「なに?」
「今朝、この服・・・道服を着る時、何の迷いも無く簡単に着れたんですよ。帯の結び方から、何まで、私は知らないはずなのに。
・・・きっと、私の前の『和穂』が、無意識の内に着ているんでしょうね」
「・・・・・・・かもな」
芳玲は、今の和穂にあるのは、生きるのに最低限の知識と本能だけだといった。おそらく、身体に染み付いている癖や習慣などはすでに『記憶』ではなく、『本能』として働いているのだろう。
では、『感情』はどうなのだろうか?
例え記憶を忘れたとしても、何かに対する感情は『本能』として作用するものなのか?
・・・・そこまで考えると、そんな事を考えている自分が妙に女々しく思えて、殷雷は自分に辟易した。
ぶらぶらと歩いている内に街の端まで来てしまったようで、いつのまにか殷雷達の横をちょっとした川が流れていた。川が街道沿いに流れていると言うよりは、街道が川に沿って作られているようで、あたりは小さ目の堤防のようになっている。
「殷雷さん、ちょっと川原に降りて見ませんか?」
「ああ」
殷雷の返事を聞くと、和穂は少し頼りなさ気な足取りで下へと降りていった。
しかし、中ほどまで降りたかと思うと、和穂は急に後ろの殷雷に向かって叫んだ。
「殷雷さん!見てください、あれ魚ですよね!?」
「そうだが…しっかり前を見ろ!本当に転ぶぞ!」
「大丈夫です…きゃっ!?」
笑顔で『大丈夫』だと言おうとした瞬間、あえなく和穂は足を滑らせた。
しかし次に来るはずの衝撃は、殷雷が和穂をを引っ張り寄せる事によって免れた。
「…言ってる傍から…。記憶を無くしても、さすがお前と言った所か?」
「ご、ごめんなさい…」
申し訳なさそうに謝る和穂を見て、殷雷は溜息を一つ漏らすと、和穂の手を掴んだまま再び歩き出した。
「あの、殷雷さん?」
「…また転ばれても困るからな。しっかり掴まっておけ」
前を向いたままぶっきらぼうに言う殷雷を見て、和穂は「はい」と返事をすると、強く手を握り返した。

 

 

 

 

 

「…と、言う具合にだな。龍華は毎度毎度、妙な宝貝を作ってはつづらに放りこんでいたと言うわけだ」
「妙な宝貝って…殷雷さんも、つづらに封印されれた一つなんじゃないんですか?」
「やかましい」
殷雷の説明に、和穂はひとしきり笑うと、ふっと悲しげな表情を見せた。
「…昨日の夜も聞きましたけど…やっぱり、私はとんでもない罪を犯したんですね」
殷雷は和穂を気遣ってか、宝貝回収の顛末について、あまり酷な表現はしなかった。
しかし和穂は、自分の犯した罪の重さを取り違えはしなかった。

――ワタシハ、ナンテコトヲシタンダロウ…

「和穂?」
「…ねぇ、殷雷さん」
殷雷の呼びかけを無視して、和穂は空を仰いだ。柔らかな風が、頬をなでる。
「どうして殷雷さんは、私の傍に居てくれるんですか?私は…私はこんなに罪深いのに。
今すぐにだって、私を見捨てる事が出来るのに」
殷雷の欠陥は聞いていた。だが、だがそれでも…
冷たい物が流れる和穂の頬に、ふっと殷雷の手が触れた。
――どうせ、記憶が戻れば忘れてしまうのだ。
「…初めは、確かに仕方なくお前の傍に居た。護玄との約束もあったし、はっきり言って同情だけで、お前の傍に居た。
だがな。お前は、俺を受け入れてくれた。欠陥も、何もかも全てだ。
たとえ、再び封印のつづらに戻ろうとも…今、目の前にあるお前を、俺は護りたい。それが理由だ」
これは、身勝手なエゴ。
それがわかっていても、少しだけ…少しだけ、この我侭に溺れていたかった。
ふっと。
目を凝らしていなければ、判らないほど微かに、和穂の表情が緩む。
殷雷の手に、和穂の手が重なった。

「…殷雷…」

殷雷。
その言葉に、殷雷の本当にあるかどうか怪しい心臓が跳ね上がる。
そんな殷雷をよそ目に、和穂はきょときょとと周りを見まわした。
「えぇっと…。とりあえず、何で私達はこんな所に居るのかな?」
ぱくぱくと、無意味に動いていた殷雷の口にようやく音が乗る。
「…か、和穂!お前、いつから記憶が…!?」
これは、身勝手なエゴ。
優しさだけでは拭い切れない不安を消したかった、わがままなエゴ。
にっこり笑うと、和穂は殷雷に言った。
「…いつからだと思う?」

 

 

 

 

『歴修記(れきしゅうき)』
本の形をした宝貝で、頁に本人が名前を書くことで記憶を改竄する事ができる。
名前を消せば記憶は戻るが、欠陥は記憶の戻る早さに個人差があるということ。

 

 

 

 

 

++あとがきもどき++

夢栞さんの誕生祝SS…のはずだったんだけど、見事遅れまくったこの一品。…本当にスミマセンでした…。(汗) っちゅーか、殷雷偽モノ度高!!久しぶりに本編書くと、なんともなんとも…え?もとから? あと、今回いつにも増して展開が強引…。意味はあってもオチとヤマが無いよ凛龍サン。←っちゅーか意味があるのかすら怪しい。
こんなモンでごめんなさいね、夢栞さん…。

                                               凛龍 拝