『長い、長い一日』

 

朝陽がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中にはぼんやりとした明るさが漂っていた。
殷雷は布団から上半身だけを起こし、うんざりとした顔をしながら壁にかけてあるカレンダーを見やる。
2月14日。
睨みつけても、懇願しても今日の日付は変わらない。ぼうっとする頭で、やっとこさ事実を受け止める。
2月14日。
そう、今日は一年のうちで、一番チョコの消費量が多い日。聖バレンタインデーである。

 

「おはよう、殷雷」
登校中の学生でごったがえす通りのなか、殷雷の背中に声がかかった。
振り返らずとも、誰だかわかる。よって殷雷は体の向きを変えずに、短い返事だけをした。
「応、和穂か」
声をかけた少女――和穂は、殷雷の姿を見つけて駆け寄ってきたのであろう。少しばかり息を切らせ、殷雷の横で止まると、大きく深呼吸をした。そのあどけない動作が、どこか可愛らしい。
・・・もっとも、16歳の彼女に『可愛らしい』と言う言葉は、多少失礼かもしれないが。
ふっと、和穂は殷雷の腕の中を覗いて苦笑した。
「殷雷、今年も朝からたくさんもらってるね」
「・・・・・皮肉にしか聞こえんぞ和穂」
殷雷は自分の腕の中のもの・・・かわいいラッピングが施された、幾つものチョコレートを見つめてつぶやいた。
いまさらではあるが、殷雷はモテる。
運動神経抜群、ルックスも悪くない。いや、はっきり言ってかなり良い。勉強もそこそこでき、不良じみたワイルドさがまた良いと言われるほどである。
殷雷は持っていたチョコレートを鞄の中にしまいながら、必ず居るはずの人物が居ない事に気が付いた。
「・・・ときに和穂。あの色男はどうした?」
「色男・・・ああ、兄さんね。兄さんなら確か・・・・」
「俺ならここだ」
「うお!?」
和穂の言葉が終わらないうちに、突如人影が二人の間に湧いて出た。その手には、チョコレートが握られている。
驚きの声を上げていた殷雷だが、そのチョコを確認するや否や、ニヤリと口元を歪ませた。
「ひい、ふう、みい・・・5つ?いやぁ、色男は辛いねぇ程穫よ」
「黙れ。貴様だって、結構な数を貰ってるだろうが!このなまくらめ!」
こちらもチョコを鞄にしまいながら、程穫は殷雷を睨みつけた。
和穂の双子の兄なだけに、端正に整った顔立ち。あまり表情をださない、一匹狼の様な性格。
・・・当然の如く、程穫も女生徒に人気があった。
「しかし、お前なんぞにチョコを渡す女の気が知れんな。こんなシスコン野郎の、どこがいいんだか」
「ふん。俺からしてみれば、貴様のようななまくらにチョコを渡す女の方が、不思議だな。
 ・・・・と、いうことでだ和穂。こんな奴に、チョコなんてやるのは止めておけ。俺が代わりに食ってやるから」
ピクリと、殷雷は『チョコ』と言う言葉に反応した。
しかしそんな殷雷には気づかず、和穂はごそごそと鞄の中のチョコを探している。
「何言ってるの、兄さん。いつも殷雷にはお世話になってるんだから。
 ・・・あ、あったあった。はい、いんら・・・」
「殷雷先輩!」
突然、黄色い声が和穂の声をさえぎった。前方から、複数の女生徒がこちらに駆け寄ってくる。
「殷雷先輩、バレンタインのチョコレートです!」
「私からも・・・。あ、あの、こないだの剣道部の助っ人、すっごくカッコよかったです!」
「あ、その試合、私も見ました!やっぱり凄いんですねー、殷雷先輩って。相手に一本もとらせなくて・・・・」
きゃいきゃいと、あっという間に殷雷は囲まれてしまった。そのかたまりを見つけて、さらに女生徒が集まってくる。
ふと和穂が腕時計を見ると、時計の針はすでに8時半を指していた。このまま殷雷に付き合っていては、確実に遅刻してしまう。それに何より、何故か気分がもやもやして仕方ない。
「殷雷、私たち、先に行ってるからね!」
「お、おい和穂!」            . . . . . . . . . . . . . .
ちぃ、と、殷雷は小さく舌打ちをした。一刻も早く、チョコを貰わなくてはいけないのに。
殷雷は必死に声を上げたが、女生徒の声にまぎれて全く届く気配は無い。
和穂の姿は、小さくなるばかりだった。

 

昇降口で、靴箱に入ったチョコレートを片付ける程穫を待ちながら、和穂はおや?と思った。
(今日の殷雷・・・兄さんが間に割り込んでも、何も言わなかった)
いつもなら、何かしら文句を言うはずなのに。
チョコを片付け終わったのか、程穫が和穂をうながした。
「行くぞ和穂。本当に遅刻しちまう」

 

 

殷雷は、ズンズンと廊下を歩いていた。目指すは、和穂のいる1年2組である。
チョコを催促するのもみっともないと、1限目の休み時間は我慢した。
2限目の休み時間は、女生徒達に呼び止められて断念した。
そして今、3限目の休み時間。殷雷の忍耐は限界を超え、女生徒達も振り切って、殷雷は廊下をズンズンと歩いていた。額には、うっすらと汗が滲んでいる。
「和穂!」
ガラリと扉を開ける音とともに、殷雷の声が教室に響いた。数人の生徒が、何事かとこちらに振り向く。
その中に和穂の顔を見つけると、殷雷は早足でそちらに近づいた。
和穂も、喋っていた友人の輪を抜けて、こちらに近づいてくる。
「殷雷?どうしたの?」
「いや、たいした用じゃない。本当に、些細な事だ。こんな事で赴くのもアホらしくなってくる」
「ふーん。で、なんなの?」
「う、うむ。今朝お前が、俺に渡そうとしていた・・・・・・」
殷雷は、ふとそこで言葉を止めた。
ゆっくりと周りを見てみると、幾つもの好奇の目が、こちらをじっと見つめていた。廊下にいる生徒までが、足を止めてこちらを見ている。
(な、なんだ。これでは、俺が和穂にチョコをねだっている様ではないか!)
真実もさほど変わらないのだが、今の殷雷には、そんなことを考える余裕は無い。
一方和穂は、そんな殷雷の内部葛藤なんざ知るはずも無く、ただ殷雷の次の言葉を待っていた。

教室に広がる、奇妙な沈黙。

そして殷雷の忍耐は、またもや限界を超えた。
素早く和穂に耳打ちし、殷雷は脱兎の如く教室から出て行った。
『昼休み、一人で屋上に来い!』

 

「殷雷!」
今朝も同じ言葉を聞いたなと思いながら、殷雷は億劫そうに柵から身を離した。
声がした方を見やると、これまた今朝と同じように、和穂が小走りでこちらへ駆けている所だった。
・・・時は昼休み。普段なら、程穫や深霜を交えて、四人で弁当を食べている時間である。
しかし今日は、和気藹々と弁当を食っている場合ではない。
少なくとも、殷雷にとってはそうだった。
「・・悪いな、和穂。メシ、まだ食ってねぇだろ?」
「ううん。大丈夫。・・・それより殷雷、どうしたの?何か急いでたみたいだけど・・・」
「あ、ああ・・・。その・・・なんだ。今朝、お前が言ってたチョコ・・・・出来れば、今欲しいんだが・・・・」
和穂は一瞬キョトンとすると、思わずクスリと笑った。
「なんだ、そんなことだったの?」
「そ、そんなこととはなんだ、そんなこととは!」
少し顔を赤らめながら、殷雷は和穂に言い返した。やはり、多少恥ずかしかったようだ。
「俺だってな、本当ならこんな事をするつもりは・・・!」
「はいはい、わかったよ殷雷。笑ってごめんね。・・・・じゃぁ、教室からチョコレート取ってくるよ。殷雷は、ここで待ってて?」
「お、おう・・・」
殷雷の返事を聞くと、和穂はくるりときびすを返して、パタパタと扉の方へ駆けて行った。
和穂が屋上から居なくなったったのを確認すると、殷雷は大きく息をついた。
思い出したように滲み出す汗をぬぐい、体を柵に預ける。
                     . . . . . .
(・・・やっと、チョコがもらえる・・・。やっと、家に帰れる)
歪む景色を見つめていると、突然ピンポンパンポン、というお馴染みの音とともに、校内放送が流れ始めた。
声の主は、どうやら龍華のようである。

『3年4組、殷雷君。3年4組、殷雷君。至急、職員室まで来なさい。くりかえす。3年4組・・・・』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・やなこった」
殷雷は、額に筋を浮かばせながらつぶやいた。こうなったら、意地でも動かないつもりである。
しかし、そんなことは龍華もお見通しだった。
『えー、3年4組、昨日の夕方、川原で喧嘩をして川に落ちた、間抜けな殷雷君。至急職員室まで来なさい』
殷雷の表情が、ビクリと強張る。
『くりかえす。昨日の夕方、商店街で清華女学・・・』
「だああああああああああ!!!!くりかえしてねぇじゃねぇかあのヤロウ!!!」
思わず突っ込みを入れながら、殷雷は泣く泣く職員室へと駆けて行った。

 

 

「・・・はい、殷雷。ご希望の品」
「・・・・・・・応」
殷雷は、ゲンナリとしながら少し大きめの包みを受け取った。
(・・・結局、放課後かよ・・・)
龍華の嫌味・・・いや、説教は昼休み中続き、放課後まで和穂に会えなかったのだ。『逃げればもう一度呼び出す』と言われ、逃げるに逃げれなかったせいもある。
大事そうに包みを鞄にしまう殷雷を見ながら、程穫が面白そうに笑った。
「ま、川に落ちるような間抜けな奴には、市販のチョコがお似合いだろうな」
程穫の言葉どおり、殷雷の包みは、近くのデパートのラッピング紙に包まれていた。
「やかましい。お前だって、どうせ似たようなもんだろうが」
「ふん。俺とお前では、全く格が違う。なぜなら、俺のは和穂の手作りチョコなんだからな!」
これでもかと言うくらい、誇らしげに、程穫は殷雷に言い放った。
「へいへい。羨ましい限りでやんすね。・・・・・さてと、程穫も居る事だし、俺はここらで帰らせてもらうぜ」
「え?ちょっと殷雷・・・・」
「じゃあな」
殷雷は和穂の言葉を待たずに、早足で先の角を曲がっていった。
和穂が、不思議そうにつぶやく。
「変なの・・・・いつもなら、もうちょっと先まで付き合ってくれるのに」
「早く帰って、チョコでも食いたいんじゃないのか?」
「・・・うーん・・・・」
殷雷が消えた角を見つめながら、和穂は曖昧な答えを返した。

 

 

・・・・・・ふう・・・・・。
家の門に背中を預け、殷雷は大きく息を吐いた。白い吐息は、すぐさま冷たい空気の中へと消えていく。
夕日はすでに空の彼方へ姿を消し、紫色の空には、ちらほらと星が見え始めていた。
(・・・・・散々な一日・・・・・でもなかったか・・・)
鞄の中の包みに意識を向け、再び大きく息を吐く。しかし今度は白い吐息が消えるのは待たず、よっ、と門から背中を離した。
しかしその瞬間。
ぐら・・。
歪んだ視界と共に、殷雷の身体も大きく傾いた。
   . .
(・・・限界・・・か・・・)
特に落下には逆らわず、素直に倒れようとしていた殷雷の身体を、突然誰かが受け止めた。
受け止めた人影は、心配そうに殷雷の名を呼んだ。
「殷雷!」
(・・・和・・穂・・・?)
そう。人影は、間違いなく和穂だった。
そして、殷雷の額に手を当てながら、和穂は言った
「殷雷・・・・やっぱり熱があったんだ」
しまった・・・と、殷雷は心の内でつぶやいた。苦労して、一日中ごまかしていたと言うのに。
「今日は様子が変だったから、心配で見に来たんだけど・・・・こんなに熱があるのに、どうして休まなかったの?
チョコレートなんて、明日でも渡せるじゃない。」
殷雷に肩を貸しながら、怒っていると言ってもいいような口調で和穂は言った。
しかし、殷雷から返ってきた言葉は、意外なものだった。
「・・・・手編みの、マフラー・・だろ・・?」
「・・・!」
「程穫は、騙されてたみたいだが・・・あの包みの中身・・・チョコじゃないだろ・・・」
荒い息の中で、途切れ途切れに言葉は続く。
「どうしてそれ・・・・包み、開けたの?」
「いいや。まだ、指一本触れてないぜ」
「じゃぁ、どうして・・・・」
やっとこさ玄関に入り、殷雷はドサリと腰をおろした。
「姉貴・・・恵潤に、聞いたんだよ。お前が、何度か、編み方・・・聞きに、来たって・・・」
「う、うん・・・。でも・・・」
殷雷は、なおも言い募る和穂の口を手でふさいだ。
「お前が・・・俺のために、って、すっげぇ楽しそうだった、って・・・」
「殷雷・・」
事に気づいた深霜たちが、こちらに向かってくるのを視界に捕らえながら、殷雷は言った。
「・・そんなこと、聞かされて・・・おちおち休めるわけ、ねぇだろうが・・・馬鹿」
そう言って、殷雷は気を失った。

 

 

布団に運ばれ、ぼんやりとした意識の中で、殷雷はこんな言葉を聞いた気がした。

『殷雷。風邪って、人にうつすと早く良くなるって、知ってる?』

・・・数日後、今度は和穂が風邪をひいたとか、ひかなかったとか・・・・。

 

 

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・・・っていうか、ワイルドさってどうなんだ。