朝。目覚ましがなる音で、眠りの淵から引きずり起こされる。

7時半。そろそろ、遅刻ぎりぎりの時間だ。和穂の手を煩わす前に、俺は自ら起き上がった。

多少眠気は残っているが、仕方がない。

さぁ。今日も奴との戦いだ。

 

 

 

「おはよう、兄さん。早くご飯食べないと、遅刻するよ」

和穂は、台所にいた。すでに自分は朝飯を食べ終え、弁当を包んでいるらしい。

俺は、ああ、とだけ応えて、朝飯の並べられたテ−ブルについた。

あらかた飯を片付けた、7時50分頃。今日一番最初の、不愉快な音が耳をついた。

ピンポーン

「あ、殷雷だ」

俺の機嫌に反比例して、和穂の顔が明るくなる。認めたくないが、あのナマクラといる時、和穂は一番いい表情をしている。

とてとてと足音を響かせながら、和穂は奴を迎えた。玄関先から、かすかに声が響く。

『おはよう、殷雷。今日も時間ぴったりだよ』

『当たり前だ。…それに比べて、あの変態兄貴はまだ飯を食ってるのか?』

「そんなわけないだろうが、ナマクラめ。お前には、学習能力というものがないのか」

タイミングを計ったように…実際、その通りだが…現れた俺に、奴は顔を歪ませた。

「これはこれはオニイサマ、お早いお目覚めで。箸が重くて困ってるのかと思ったぜ」

「ふん。少なくとも、貴様の稚拙な箸捌きよりはマシだな。…ほれ和穂、鞄」

「ありがとう兄さん。あ、机の上のお弁当…」

「俺が包んで、中に入れておいた。どっかの馬鹿が、タイミング悪く呼び鈴を鳴らすからな」

奴がぐっと言葉に詰まるのを横目で確認し、俺はかすかに口の端をあげた。

「いくぞ、和穂」

 

 

 

 

授業中。本当ならば、あのナマクラの事など気にかけないでいいはずなのだが、そうもいかないらしい。

それまで大人しく授業を聞いていた和穂が、ふと思いついたようにポケットを探った。

取り出したのは、小さな携帯電話。確か、奴と色違いだと言うストラップがついている。

どうやら、メールが着たらしい。しかも、表情からするとあのナマクラから。

和穂は、少し笑って、返事を打ち始めた。

俺も、自分の携帯を取り出し、メールを打ち始める。

『授業中に和穂を煩わすな。貴様の携帯のメモリーを、和穂にぶちまけるぞ。』

短くそれだけ、送信した。

奴の携帯に、深霜等から冗談半分に、和穂の画像が送られているのは知っている。

そして、それを消さずに保存していることも。

待つこと数分。携帯の小さなライトが、点滅する。

『…てめぇ、いつか絶対ブチ殺してやる。』

俺はそれに、返事を打った。

『望むところだ。』

 

 

 

 

放課後。雑用で、職員室から教室へ帰ると、話し声が聞こえた。それは、紛れもなく、和穂と奴の声だった。

空気が重い。なんとなく、教室へは入らず、様子をうかがった。

会話の端々から察するに、どうやら、友人とのゴタゴタを、相談しているらしい。

和穂を嫌う人間は少ないが、それでも時たま、何かしらあるらしい。

そう言うとき、和穂は俺にではなく、あのナマクラに話を聞いてもらっている。今が、まさにその状態だ。

下を向く和穂の頭を、奴がぽんぽんとたたいた。ヘタレなりに、精一杯の優しさなのだろう。

軽く、体重を預けてくる和穂の肩を、ためらいがちに支えている。

普段なら極刑ものだが、和穂がそうしたいのなら、仕方がない。

兄の立場では、限界と言うものがあるらしい。大いに不愉快ではあるが、その足りない部分を埋めているのが、奴であることに間違いはない。

俺は黙って、その場に立っていた。

 

 

 

 

夜。夕飯の席でも、大概一度は奴の話が出る。

「それで、なんて書いてあったと思う?『蕎麦が食いたい』って、ただそれだけ。思わず笑っちゃったよ」

「あの道楽馬鹿らしいな」

「で、今度うちで蕎麦でも食べようかって返したんだけど、それっきり返ってこなかったの。どうしたんだろうね…?」

「きっと、誰かに脅されたんだな」

「 ? なにそれ」

「いや、なんでもない」

軽く笑って、再び夕食に取り掛かった。

食後、和穂が淹れてくれた茶をすすりながら、本を読んでいると、電話が鳴った。

「もしもし」

『……お前か。和穂いるか?』

聞こえてきたのは、予想通りの声。

「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をご確認の上…」

『ひっかかるか阿呆!』

「冗談の通じない奴だな。和穂なら、大丈夫だ。もう落ち着いて、風呂に入っている」

『 ! 知ってたのか?』

「伊達に双子はやっていない。気分の浮き沈みぐらいは、お見通しだ。

それにしても、アフターケアまで万全だな?行き過ぎたお節介は嫌われるぞ」

『や、やかましい!もう切るぞ!』

ガチャンと、いささか乱暴な音とともに、電話は切れた。

そこへ、丁度風呂から上がった和穂が姿をあらわした。

「電話?」

「ああ。新聞の勧誘だ」

「そっか」

最近多いねーと言いながら、部屋へと戻る和穂を引き止めた。

「和穂」

「なに?」

「幸せか?」

「へ?うん、幸せだよ」

躊躇いもなく言う和穂は、どうやら大切にされているらしい。

「そうか。すまんな、呼び止めて」

「ううん。じゃぁ、おやすみ兄さん」

「ああ。おやすみ」

バタンと、扉が閉まった。

兄の立場では、限界と言うものがあるらしい。大いに不愉快ではあるが、その足りない部分を埋めているのが、奴であることに間違いはない。

まだまだ様子を見させてもらおう。最低限の邪魔をしながら。

さぁ、明日も奴との戦いだ。