『背中』
殷雷は、戸惑っていた。
先ほどから、背中に刺さる痛いほどの視線。宿の縁側で茶をすすっている現状からして、敵ではない。むしろ視線には、好奇の色がありあり
と感じられる。
…一体何を考えているのか…
眉間にしわが一本追加されようとも、殷雷は怒鳴ろうとはしなかった。
否。怒鳴れなかった。
どこぞの他人ならいざ知らず…相手は、他ならぬ和穂であったから。
時はさかのぼり、四半刻ほど前。殷雷が、縁側で茶菓子をぱくつきながらのんびりしていると、突然ひょっこりと和穂が姿をあらわした。
自分を探していたと言うわけではなく、ただ通りすがったと言うだけであろう。縁側に自分の姿を見つけると、足に根が生えたかのようにその
場から動かなくなったのだ。そして、何を思ったか自分の後姿を見つめ続けて今にいたる。
視線など気にせずに居れば良いのだが、それは意外と難しいもので。
その場から動くに動けず、殷雷は5杯目の茶を飲み干した。
突然、すっくと和穂が立ちあがった。
この軟禁状態から抜け出せるかと殷雷は少し期待したが、事態は更にややこしい方向へと進んで行った。
今度は、殷雷のすぐ傍まで近寄ると、和穂はおもむろに殷雷の背中に手を置いた。そして、ぺちぺち叩いて見たり、存在を確かめるように、
ゆっくりと撫でて見たりする。
「・・・・・・・・?」
殷雷の表情に、さらに一筋の汗が追加された。…本当に、一体こいつは何がしたいんだ?
いい加減何か言ってやろうと、殷雷が後ろを振り向こうとした瞬間。
ぎゅ。
温かくて、柔らかい感触。
かすかに香る、髪の良い匂い。
和穂は、殷雷の背中に抱き着いていた。
「…何してるんだお前は?」
必死に動揺を隠しながら、殷雷は背中の和穂に声をかけた。自分に心臓が無くて良かったと、心の底から龍華感謝すると共に、厄介な感情
をつけてくれた馬鹿仙人を呪った。
そんな、殷雷の心の葛藤を知る由も無く、和穂は事も無げに言った。
「殷雷の背中って、大きいよね」
沈黙。
「…はぁ?」
「いや、殷雷の背中って大きいなぁと思って。体格もしっかりしてるし、私と全然違う」
そう言って、もう一度ぺちぺちと殷雷の背中を叩く。
「…ンな事当たり前だろうが。俺は宝貝で、お前は術の使えぬ元仙人。俺は男で、お前は女だ。…いや、お稚児さんか?」
殷雷の言葉に、和穂はむぅっと頬を膨らませた。殷雷は、ケタケタ笑いながら、和穂の頬を引っ張った。
ひとしきりあばれると、和穂はふぅっと殷雷の背中に身を任せた。
「…私も、殷雷みたいになりたい。そうすれば…」
そうすれば。
もっと強ければ、迷惑などかけないで済むのに。
続きそうになった弱音を飲みこんで、和穂はよいしょと立ちあがった。
「俺の背中はな」
「え?」
その場から立ち去ろうとした和穂に、殷雷は背を向けたまま声を掛けた。
「俺の背中は、どっかのお稚児さんの重荷を、一緒に背負ってやるためにでかいんだよ。
小さければ、それを補う奴が傍に居れば良い。…違うか?」
「…ううん、違わない」
和穂はもう一度、顔を赤くしてそっぽを向いている殷雷に抱きついた。
終
+後期+
後ろからぎゅ!万歳!ってことで