008.見知らぬ君と   

 

 

 


カタカタカタ…
蛍光灯の光がかすかに灯る中、キーボードをたたく無機質な音だけが部屋を満たしていた。

「…っあぁ〜」

パソコンの前に座る人影…殷雷は、大きく伸びをすると、億劫そうに髪をかきあげた。

(くそ、龍華め…レポートをフロッピーで提出なんて、面倒くさい事を言いやがって…)

普段は紙媒体で提出しているレポートだが、『今回のレポートはフロッピーディスクで提出すること。家にパソコンがない者は、学校のものを使え。』と言う龍華のきまぐれな言葉により、慣れないパソコンと奮闘している殷雷であった。
機械オンチと言うほどではないのだが、どうもキーボードは肩がこって苦手なのだ。

コキコキと肩を鳴らし、眼鏡の位置を直すと、殷雷は再びパソコンへと挑み始めた。


「…殷雷、まだやってるんですかね?」
「さー…?」

無意識に2階の殷雷の部屋…つまり天井を見上げながら、和穂がつぶやいた。それに、大して興味がなさそうに、深霜が答える。目下、テレビの深夜放送の方が大事らしい。

「かれこれ、3時間くらいずっとこもりっぱなしじゃないですか?」
「そうねー。殷雷も案外ムキになるタイプだからねー。終わるまで出てこないんじゃないー?」
「うーん…」

和穂は、天井から目をそらさずうめいた。
そこへ、台所からコーヒーを持った恵潤が戻ってきた。
「はい、和穂ちゃん」
「ありがとうございます」
熱いマグカップを包み込むように受け取り、ふと和穂が顔を上げた。
「恵潤さん、コーヒーまだ残ってますか?」
「えぇ。台所のポットに残ってるわよ」

「じゃぁ私、殷雷に持っていってきます」
そう言うや否や、和穂は自分のマグカップを手にそそくさと台所へと向かった。

「愛よねー」
「愛だわー」

とたとたと階段を上がる音を聞きながら、残った女性陣は感慨深げにつぶやいた。



コンコン。

軽くノックをするが、返事が無い。

「殷雷…?入るよー…?」

そろそろと、和穂はドアの隙間から顔だけのぞかせた。
殷雷は気づいていないらしく、カタカタとパソコンに向かっていた。
眼鏡をかけ、熱心にキーボードをたたく殷雷の姿は、どこか大人びていて…

和穂には、なんだか別人のように思えた。

お盆を片手にしばらく見入っていると、さすがに気づいたのか殷雷がこちらに顔を向けた。

「あ?和穂…?おまえ、そんな所で何やってんだ?」

その一言で目が覚めたのか、和穂はわたわたと手を振った。
「うぇ…?あ、いやそのー…あ、そうそう!コーヒー!持ってきたの!」
「お、おう…」

どことなく不自然な和穂に疑問を抱きつつも、殷雷はコーヒーを受け取った。

「どう?終わりそう?」
「ま、ぼちぼちな」
「ふーん…」

短い会話が終わり、ズズズ…とコーヒーを飲む音が響く。

「さっきね」
「あ?」
「殷雷が、ちょっと格好良く見えたの」
「ぶっ!」

和穂の突拍子も無い言葉に、殷雷は思わずむせた。噴出さなかっただけ、まだマシだと言える。

「げほ、げほっ!な、何を突然わけのわからんことを…!」
「ご、ごめん…でも、本当にそう思ったんだよ?」

こいつは…

曲がりなりにも、男の部屋…しかも二人っきりの密室で、こんな事を平然と言ってのけるのは、ある意味度胸だと思う。しかし、それにはまったく他意がないのだ。
ほかの人間なら、「馬鹿馬鹿しい」と一笑に付してやるところだが、生憎目の前の少女はそうはいかない。
ふとすれば早鐘と化しそうな心臓を押さえ、殷雷はとりあえず大きく息を吸った。
落ち着け、落ち着け、負けるな(?)俺。
とりあえずは自分のペースを取り戻すのが先決だ。

「大体なぁ、『ちょっと格好良く見えた』って、それじゃぁいつもは格好良くないってのかい?和穂お嬢さん」
「そ、そう言うわけじゃ…!」
「おーおー、悲しいねぇ。こんないい男を前にして」
「もー、殷雷!」

いつもの明るい雰囲気が戻り、殷雷が内心ガッツポーズをしたのもつかの間。思いもよらない攻撃が、殷雷を襲った。

「…殷雷は、いつも格好良いよ…」

「………な…っ……!」

予想もしない言葉に完全に墓穴を掘った殷雷は、ただ顔が熱くなっていくのを感じた。
いつものように、からかいを含んだ答えもままならない。

「た、ただね!さっきはなんと言うか…なんだか、知らない人みたいに思えて…」
「…知らない人?」

無意識に、殷雷が声をあげる。
「そう。なんだか大人っぽく見えて…格好良かったけど、ちょっと…ちょっとだけ、淋しかったかな?」
えへへ、と、下を向きながら笑う和穂を見て、殷雷の心臓は、不思議と落ち着いていった。

(…結局、案外こいつも同じ事考えてんのかもな)

届きそうで届かない、このもどかしい距離。

「…つまり、和穂お嬢さんは一緒に遊んでほしいと?」
「ち、違うってば!」


届かなくても淋しくても。今は、甘んじてこの距離を受け入れよう。
見知らぬ君を、もっともっと見つけるために。