22. 染料の安全性

私たちの周りは、多くの化学物質で囲まれています。その中には、青酸カリの様な致死性の毒薬や、 苛性ソーダの様に人体に劇的な損傷をもたらす劇薬があります。 染料は、化学物質としてはそれらに比べると比較的安全な物質ですが、中には、蓄積や分解により発ガン性が現れたり、 アレルギーを引き起こしたりする物もあります。 新たに開発された染料の場合には、それぞれの国で定めた環境・安全面での様々な試験を行なった上で販売の許可を得るのですが、 古くから使用している染料にはそれがありませんでした。そのため、 1990年代になると、全ての染料に網をかけ適切に使用させるめ、欧州を中心に、幾つかの、法令による規制や、自主的な規制が生まれました。

中には、「エコテックス」の様に、新たなる付加価値として、あるいは、 新興国からの安価品に対する一種の防壁障壁として新ビジネスになるものまで現われました。 その中でも新しいものに、「Reach法」があります。同法は上の規制や法律を包括的に拡大したもので、2007年6月にEUで施行され、基本的には、 その領域内で生産又は輸入される年間1t 以上の全ての化学物質を登録制にし、 更には、その安全性を示すデーターの作成義務をメーカー側に負わせた法規となっています。 (もちろん、その安全性に問題があるデーターが出れば、その使用は制限されます。)こうした動きは、この地域にも波及し、中国でも、 (実効性は分かりませんが)中国版 Reach法とも言える「新規化学物質環境管理弁法」が2010年1月19日付けで公布され、2010年10月15日に施行されました。 また、韓国でも一昨年よりReach法と同様の法律を設定する準備に入っています。

発ガン性染料

発ガン性物質としては、アスベストの様に、鉱物として形を変えず特定の部位の生体組織を刺激し長期的な炎症を起こす事により発ガンを促したり、 タバコの煙に含まれるベンゾピレンの様に、DNAにくっつき損傷させる事により、本人のみならず、回りの人々のガンまで誘発するものなど、 様々なものが存在しています。染料の場合、発ガン性は、それが分解して出来る物質により与えられるとされています。 より具体的には、アゾ染料が還元分解し生成するアミン化合物の内、今までの歴史の中で、人体の発ガンを促進する事が立証されているのもの (MAKリスト クラスVA1)や、動物での実験により人体でも同じ事が起こと考えられるもの(MAKリスト クラスVA2)がこれに当たります。 現在までに、このカテゴリーに当てはまるアミンは、24種類見つかっており、 「特定芳香族アミン」もしくは単に「特定アミン」と呼ばれています。

特定芳香族アミン
1
4-アミノジフェニル 9
4,4'-ジアミノビフェニルメタン 17
4,4'-チオジアニリン
2
ベンジジン 10
3,3' -ジクロロベンジジン 18
o- トルイジン
3
4-クロロ-o-トルイジン 11
3,3' -ジメトキシベンジジン 19
2,4 -トルイレンジアミン
4
2-ナフチルアミン 12
3,3' -ジメチルベンジジン 20
2,4,5 -トリメチルアニリン
5
o- アミノアゾトルエン 13
3,3' -ジメチル- 4,4'-ジアミノジフェニルメタン 21
o- アニシジン 
6
2- アミノ-4-ニトロトルエン 14
p- クレシジン 22
2,4 -キシリジン 
7
p- クロロアニリン 15
4,4' -メチレン-ビス- (2-クロロアニリン) 23
2,6-キシリジン
8
2,4-ジアミノア ニソー ル 16
4,4' -オキシジアニリン 24
4- アミノアゾベンゼン
赤字 人に対する発ガン性が確認されているもの   黒字 動物実験で発ガン性が確認されているもの

エコテックス100では、 こうした特定芳香族アミンを生成する染料=発ガン性染料として、下の9つの染料を挙げています。














また、EPA(米国環境保護庁)では、これら以外に下の二つの染料をベンジジン由来の染料として発ガン指定をしています。








現実的には、日本国内において、これらの染料は、(1グラム単位の試薬としてであれば別ですが)繊維を染めるための染料としては販売されていません。 また、繊維用染料として製造しているメーカーもありません。 従って、訳の分からない長期在庫の染料を使えば別ですが、通常の染色をしている限り出会う事はありません。

アレルギー誘発性染料

発ガン性を持つ物質に曝されたからと言って、全ての人が直ちにガンを発症するものではないという事は誰でも知っています。 アレルギーの場合はそれよりも更に個人差が現れます。 従って、ある化学物質がアレルギーを引き起こすかどうか事前に予測するのは極めて難しいです。 それでも、アレルギーは、自己免疫反応の結果起こる事に間違いはありません。 通常そうした免疫反応は、摂取した異物に含まれるタンパク質に対して起こります。 タンパク質はアミノ酸の鎖状ポリマーですから、染料の場合にも、 構造中にあるアミノ基やアゾ基の還元で生成するアミノ基がアレルギーを起こす可能性が大きいのではと考えられます。 しかし、どの染料がどの様なアレルギーを引き起こすかについては、個人差が非常に大きいため有効な試験法はなく、 過去の症例を参考に他国と横並びの規制を行なうのがせいぜいではないかと思います。

ここでも具体例として、エコテックス100にアレルギー誘発性染料としてリストアップされている染料を見てみましょう。 特徴的なのはこれらがすべて分散染料だと言う事です。

現時点では、各国ともこれに倣っている様です。

発ガン性染料の項で現在の日本に対象となる染料は流通していないと書きましたが、上のアレルギー誘発染料にも同じ事が言えます。 しかし、この中に含まれないからと言って、絶対にアレルギーは起こさないかと言うとそれは言えません。 現実的に、染色を行なっている現場では、日々多くの染料や助剤を扱っています。 そのどれかが、気付かないうちにアレルゲンとして作用する事もあるかもしれません。 染料を含め多くの助剤が配合品である今日、どの物質がアレルゲンとして作用したか特定する事は非常に難しい事です。 私自身は、三十年余り染料を取り扱ってきた中で、一度もアレルギーらしき症状が出た事はありませんが、 反応染料の赤で、そうした症状が出た人がいる事を聞いた事があります。 (その後それが立証されたとは聞いていませんので、真偽は不明ですが、いずれにせよ、アレルギーとはそう言うものかもしれません。 一千万人に大丈夫でも、その人にとっては、確かにアレルギー物質と言うケースが無いとは言えないのです。)いずれにせよ、 染料を直接皮膚に付けないように努め、もし付いたら出来るだけ速やかに石鹸で洗って除去する事です。 それで、もしアレルギーらしい症状が出たら、シフトを外れしばらく様子を見るしかないでしょう。

日常の作業をより安全にするために

しかし、予測ができないからと言って、リスクがある化学物質を何かが起こるまで手をこまねいて使い続ける訳には行きません。 事前に想定できるリスクを出来るだけ知っておく事が必要です。そこで役に立つのが、MSDS (Material Safety Data Sheet:製品安全性データーシート) です。各染料・薬品のMSDSには、その有害性を示すための表示が入っています。 また、何らかの規制の対象になるものが配合されている場合には、どの様なリスクのあるものがどの程度含まれているのかも記入されています。 先ず、使用する品目のMSDSを精読し、どの様なリスクがあるのか確認しておきましょう。 リスクがないならそれに越した事はありませんが、もし、リスクがあれば、そのリスクへの対処法も徹底して理解しておく事が大切です。 理解できない部分があれば、メーカーに問い合わせ理解できるまで掘り下げて下さい。
食品の成分表示や注意表示を見れば分かりますが、 PL法やPRTRが施行された今、メーカーには、顧客に出来るだけ多くのリスク情報を提供する必要/義務があります。 染料では、MSDSがそれに当たります。 また、染料が入れられている容器にも、ラベル表示にその染料が持つリスクが書かれている筈です。 それらを読まずとも作業は出来ますが、何よりも自分自身を護るため一度は見ておいて下さい。

*変異原性物質 mutagen : 生物のDNAあるいは染色体に変化を引き起こす作用を有する物質。 スモン病を引き起こしたキノホルムや、発ガン性物質などがこれに当たる。

*指定化学物質 : 人や生態系への有害性(オゾン層破壊性を含む)があり、環境中に広く存在する 又は、将来的に広く存在する可能性があると認められる物質。

※ラベル表示の努力義務規定については、純物質は平成24年6月1日から、混合物は平成27年4月1日から適用。

日本における自主規制について

EU がエコテックスや Reach法で先行し、 中国や韓国でも同様の動きがある事を考えれば、日本のみが静観する訳には行きません。 何故ならそれらが多分に「貿易障壁」としての側面を持っているからです。 幸い日本では、流通している染料の出自ははっきりしていますし、流通における管理体制も整っています。 ですから、私の様に、現時点で明らかになっている発ガン染料もアレルギー誘発染料も市場に出回っていないと言い切れる訳です。
しかし、国内の消費者や海外の第三者に、それを何の裏付けなしに証明する事は簡単ではありません。 「無い」ものを「無い」と証明する事は、「有る」ものを「有る」と証明する事より難しいのです。 そうかと言って、染色されたもの全てから染料を抽出し使われている染料を同定したり、 実際に還元分解試験を行ない「特定芳香族アミン」が発生するかどうか試験するのも、かかるコストと時間を考えれば現実的ではありません。 今までの例から考えると、一旦法令化してしまえば、流れ的にはそうせざるを得なくなって行きます。 こうした法令化は、幾つもの国が集まるEUや、巨大過ぎて全てを制御する事が難しい中国の様な国では必要ですが、 日本の様に単一国家で、しかも、常識的なコンセンサスが得られる国ではより良い行き方がある筈です。

2012年3月日本繊維産業連盟から「繊維製品に係る有害物質の不使用に関する自主基準」と言う長い名前を付けた文書が発表されました。 この自主基準の目的は簡単に言えば、「繊維製品からの危険な化学物質の排除」です。 具体的には、発ガン性が認められる化学物質を発生する(可能性のある)アゾ染料(Appendix参照)を使用しないと言う事です。 これは、上の「使っていない事を証明する裏付け」を確実な文書で追う仕組みになっており、 以下のフローチャート(繊産連作成)に示されています。


























このフローチャートの通りにやると、随分、仕事と書類が増える様に思われますが、例えば、エコテックスのラベル一つのために、 馬鹿バカしい手間と莫大なコストを浪費する事を思えば、信頼できる染料製造メーカーや流通組織が整っている日本では、 現実的で有効なシステムの一つだと思います。

まとめ

先進国においては、ニ十世紀後半、環境面でのそれまでの様々な(苦い)経験によって、「化学物質」に対する広範な見直しが起こりました。 そして、その有害性を確認するため様々な分析技術も大きく発達しました。 しかし、これまでの多くの知見を持ってしても測り得ないリスクが存在するであろう事も事実です。 そこで「疑わしきは、排除する。」と言う流れが今では普通に起きる様になりました。
染料メーカーにとっても同じ流れです。「有害な化学物質を生成する染料は販売できない。」事が問題になる前に、 有害性が指摘された化学物質を原料としたり中間体に使用する事は、 そこに働く労働者の事を考えれば、 もはや出来ないのです。詰まるところ、他の化学物質で置き換えるか、もしそれが出来なければ、製造を止めるより他はありません。 事実、そうした理由で欧州や日本の染料メーカーから、多くの染料が姿を消しました。 その意味では、そうした動きが真っ先に進む先進国のメーカーの染料は極めて高い安全性を持つ染料でした。
しかし、中国やインドなどの新興国から、これまでの主要メーカー以外の現地メーカーが製造する染料が、直接日本に入って来る事も十分に有り得ます。 それらが、各々の国の規制基準を順守して作られた物である事を望みますが、その保証はありません。

<補足>
この章では、染料の安全性に的を絞って説明しました。実際には、染色現場で染料以外に多くの助剤が使われています。 もちろん、苛性ソーダの様な劇薬や過酸化水素の様な危険物の安全性は既知のものであり、それなりの取り扱いがされている事は疑うべくも有りません。 一般的に、助剤の有害性は染料に比べ、より直接的であるため、MSDSを読めば対処法が適切に記されています。 しかし、次々と新しい機能加工剤が登場する昨今では予期しないリスクが隠れている事もあります。 例えば、カーボンナノチューブは、近年注目されている導電性や電磁発熱性にも大きな可能性を持っています。 しかし、アスベストの様に中皮腫を起こす可能性も指摘されています (50nm付近の長さを持つチューブの発ガンリスクが最も大きいとされていますが、 それ以外の長さが全く安全と立証されている訳ではありません。) 。 あるいは、マイナスイオン加工剤の放射線が問題として取り上げられた事を記憶されている方も多いかもしれません。 従って、新規助剤については、単にMSDSだけでなく、メーカーに直接そのリスクを確認し、もしリスクがあるなら、 それなりの使用環境を整えてから使う注意が必要です。また、現場環境へのリスクを考えると、消防法やPL法への配慮も十分に行なう事も必要です。 現場では余り使う事はありませんが、試験室では、アセトンやDMF の様な溶剤を、容器の洗浄や染料の溶解分析に使う場合があります。 これらの溶剤の中には、引火性のあるものや、吸引により脳に障害を与える物もありますので、換気に十分な注意を払う必要があります。

Appendix 1   日本繊維産業連盟自 主規制  より  

















(注:日本繊維産業連盟では、各国の規制やエコテックスの資料を参照に、化学物質の命名法・類似性を考慮し、 上記22種を特定芳香族アミンとしている。)
































































Appendix 2   その他の参考資料

エコテックスについては、 『一般財団法人ニッセンケン品質評価センター』 が日本で唯一の認証機関です。同センターが出している資料へリンクしておきます。 https://oeko-tex-japan.com/about/standard100/
染料メーカーのダイスターからは、各年における自社の環境への取り組みがダウンロードできるページが設けられています。 
https://www.dystar.com/sustainability-reports/
こちらはハンツマンのページです。
https://www.huntsman.com/sustainability/our-programs
家庭で使用される繊維製品中の化学物質の管理について、独立行政法人 製品評価技術基盤機構 が設けているホームページがありますので紹介しておきます。 https://www.nite.go.jp/data/000103625.pdf