ホームスクーリング研究会リポート No.16

子どもをどう理解するか

第4章 遊戯

「多くの親たちのように私も二、三年間は、わが子のために、寝るときのお話しを、読んでやらなければならなかった。そして私は、わが子を愛しているだけに、実を言うと、毎晩これを読んでやることは、私にとっては一つの苦痛でさえあった。というのは、そのなかに、私には残虐と感じられる恐ろしい話が一つあって、それをゾーイが大好きで、私は五十回も読まされたからであった。幸いなことに、これらの書物は、直接教訓を示すものは極めて少ない。しかし間接には多くのものが教訓を表している。そこに出てくる子どもはいかにも善良で純真で、その挿画にはそれらの子どもの顔がいかにも天使のように喜々としていることを示し、彼らがいかにもお行儀よく、従順で、親思いであることを示しているからである。こういうのは私にはたまらなくなる。」

ニイルは子どものための本の条件として、教訓的なものや残虐なものは避けたいと思っていたようです。児童文学の宝庫と言われるイギリスで、教訓的なものから「クマのプーさん」(1926年出版)のようなナンセンス童話へと流れが変化したのは、子どもを小さな大人と見ることから、子どもはおとなとは違う独自の存在であるというふうに子どもへの理解の変化があるわけですが、「今日の童話作家たちが子どものこわがる話を追放した業績は、認めるべきが至当であろう」とあるのは、このあたりのことを言っているのでしょう。

現在、私たちの子どもをとりまいている様々なメディアには、恐ろしい魔女は登場しないまでも残虐な暴力があふれています。高度情報化社会のなかでメディアにさらされている子ども達の状況を「子ども期の消滅」とニール・ポストマンは「子どもはもういない」(新樹社刊)(THE DISAPPEARANCE OF CHILDHOOD 1982)で指摘しています。また、子ども達の遊びの中で大きな位置を占めるテレビゲームに代表されるように、子どもは大きな商品市場としても商業主義に取り込まれています。「劇やパントマイムよりもよいのは、子ども部屋や庭での自由遊びである。子どもらは、自分の空想を劇化するコツを知っている。そのコツを失うようになり、そして大きくなると、それらの空想を、書物や劇や映画に表現する人々へ、金を払わなければならぬことになるのである。」と、子どもの遊びで一番大きな要素は創造性であることをニイルは強調しています。「スリルを喜ぶのは、遊び、空想、創造への無能を意味する。根源的には、それはわれわれの抑圧された憎悪と、破壊殺害の願望に触れるところのものである。」この見解が全面的に支持するかどうかはおくとして、テレビゲームの前で子どもたちは小さな大人になってしまっているような気がします。ゲームに夢中になっているようで、じつは退屈しているようにも見えます。子どもが子どもを生きることができる時間と空間がどんどん失われてきています。

大人の抑圧から子どもを解放して、子どもには自由な時間と空間が必要であり、子どもは無条件に愛されることを求める存在だと言うニイルの子ども観は、子どもの様々な事件が頻発する今日、さらに大きな意味を持つのではないでしょうか。


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