ホームスクーリング・ネットを始めた頃

「学校に行かない選択だってある」と、ひとこと世間に物申したくなったのは四年前の事です。その頃、ホームスクーリング(学校に行かずに、家庭や地域のリソースを利用して学ぶ方法)に魅力を感じ、少しでも共感者を増やしたいと、ジョン・ホルト著「学習の戦略」(吉柳克彦訳、一光社刊)の読書会を十人程のグループで続けていました。ジョン・ホルトというのは、70〜80年代アメリカでのホームスクーリング運動(脱学校化)の中心的指導者です。彼はこの書物の前書きで、学校で子どもたちに起こる事を「ほとんどの子は、自尊心を傷つけられ、おびえ、勇気をくじかれてしまう。子どもたちは、学ぶためにではなく、私たちが−学ばせようとして−しなさいと言うそのことから逃避するために、精神を使う」と述べています。

そしてその結果は「これらの戦略は、自己限定であり、自己破壊であり、人格も知性も台なしにする」と。つまり、ほんのわずかの子どもを除いて、ほとんどの子どもは、ただ学校を「通過する」ことにエネルギーを費し、学校では学べないのだと述べています。確かに、私自身の事を振り返ってみても、義務教育+αの学校教育の中で勉強したはずの事は、ほとんど忘れてしまったし、仮に覚えていても、もう時代遅れの知識であったりして、おおよそ役に立つものはありません。結局今の私につながっているのは、私自身が興味を持って自分で得た知識であり、しかもほとんどが学校の外で学んだものばかりです。(ここで言う学校とは、自動車教習所のようなある特定の技能を習得するための学校は含まれません。)まして、体罰・管理教育に象徴されるように力で子どもをコントロールし、受験圧力で競争に明け暮れさせる今の学校教育は、当然子どもたちの日常を、以前にも増してストレスの強いものにしています。

この事を知ってしまえば、いわゆる「不登校・登校拒否」(スクール・リフューズ)の子どもたちに対して、学校への適応指導のみが強調され、学校に戻す事が問題解決であるなどとは決して言えないのです。まず、子どもたちの主体的な学びの自由を保障すること−つまり、学校に行かない選択肢を用意する事が何よりも必要であり、子どもたちに当然保障されるべき権利なのです。そこで、さきの読書会に参加していたある女性(子どもがスクール・リフューズをしていた)がこんな事を言ったのです。「確かに無理やり子どもを学校に戻そうとしていたのか間違っていたのはよくわかったので、ホームスクーリングでいこうと思うのだけれど、子ども自身が、学校に行ってないから自分はダメだ、学校に行かないのは悪いことだと思い込んでいる。どうやって子どもの学校へのこだわりをほぐしてやればいいのだろう」この言葉を聞いた時に、あらためて私たちは(大人も子どもも含めて)「学校」というひとつの情報しか与えられていないことに気が付いたのです。

私たちの社会は、細部にわたるまで「学校化」されています。六歳の就学年令に合わせて集団に慣れさせなければいけない、規則正しい生活習慣をつけさせなければいけない、給食を嫌がらないように食べ物の好き嫌いをなくして時間内(二○分)に食べ終えるように食事を躾なければならない、皆に遅れないように字を覚えさせなければいけないetc、ただひたすら学校生活に間題なく順応できる事だけを目的に幼児期を過ごす事になっています。そこでは子ども一人一人の成長の違いや個性は全く問題にはされず、まず集団に適応すること、皆と同じであることが最重要の課題になってしまうのです。つまり、多くの親にとって子育ての第一の目標は学校適応という事になっています。おまけに子どもをとりまく文化状況も「サザエさん」「ドラえもん」に代表されるように、子どもは「学校に行っているもの」となっています。これでは「学校に行けない、行きたくなくなってしまった」子どもたちが、自分を肯定できる根拠はまず見つけられません。

そこで、自分も周囲も納得させるには「病気」になってしまうのが、最も合理的な方法だという訳です。一方、学校批判をする親は少なからず居るわけで、学校の抑圧的な状況から子どもを守るために大変なエネルギーを費しておられる方々の努力はとても貴重だと思います。でもそれだけでは子どもたちは救われないのです。まず「学び」の主体である子ども自身が、「学び」の場と方法を選べる権利を保障されなければならないのです。

「不登校、登校拒否」について多くの事が語られてきましたが、ほとんどが「学校の病理」か「子どもの成長課題」という脈絡でしかありませんでした。でも実は、「子どもの学びの選択」という視点がまず必要だったのではないでしょうか。最近やっと弁護士や研究者の方々から「親や国は普通教育を子どもに保障する義務があるが、子どもにはイヤなら学校に行く義務はない」という見解が出てくるようになりました。また子どもの権利条約では、情報へのアクセスという事が規定されています。これからは、子どもにはっきりとわかるようなかたちで、教育の選択肢を用意していく義務が大人の側にはあると思います。もっと言えば、「学校に行かない学び」のモデルが「学校」という情報と同じくらいの量で子どもたちに提供される必要があるのです。

娘のホームスクーリング宣言

私がホームスクーリング・ネット(H・S・N)を呼びかけた頃、娘は学校に通っていて小学校の二年生でした。入学までは幼稚園へは行かずにホームスクーリングで過ごしました。入学に際しては、彼女が「家にいるのはたいくつだから学校に行く」と言いましたので、彼女の選択を尊重しました。勿論私としてはホームスクーリングを選んで欲しかったのですけれど、親が誘導するのではなく、彼女自身が決めるという事を大切にしたかったのです。

子どもは子どもなりに周囲の社会をみています。そして子どもなりのやり方で情報を受け取っています。そこで、六歳になった子どもは学校に行くものだという事を、彼女なりに判断したのでしょう。先程も述べたように子どもが得られる情報は、全くかたよっているのです。入学してからも、学校に行くか行かないかは彼女の判断にまかせていましたので、選択的に学校とはおつきあいをしていました。やっぱりと言うべきか、三年生くらいになると、学校がどういうところか彼女なりに見通せるようになってきたようです。それで嫌いな水泳授業をきっかけに学校へは行かなくなったのですが、その時は学校をやめようとは思わなかったようです。彼女に言わせれば「友だちがいるから」だそうでした。そんな彼女の傍で、私はH・S・N活動を始めていたのでした。それは彼女にも「学校に行かずに学ぶ」というモデルを知ってもらいたかったからでした。

三年生の夏休み中に、ネットの活動で知り合ったSちゃん(当時十一歳)に何かピンと感じるものがあったのでしょう。夏休みが終って二学期の始業式の朝に(前日までは学校に行くつもりで、大急ぎで宿題をやっていたにもかかわらず)「私は家でやっていく事にするわ」とホームスクーリング宣言をしたのです。おそらく「学校に行かなければ友だちがいなくなってしまう」という不安が、唯一彼女の心を学校につないでいたのでしょうが、ネットでも友達が見つかるんだという事がわかったのです。そこで、彼女にとって学校はもう必要ではなくなってしまったのでしょう。

H・S・Nの活動

私たちのH・S・Nひめじは、九三年にスタートし、現在通信会員約50人、日常的な活動に参加しているのは姫路及び周辺に住む十家族の小さなネットです。私たちのネットでは、各家庭や親のもつリソース(資源)を提供し合う事を大切にしています。勿論、美術館や博物館・科学館・図書館・公園などの社会的リソースもよく利用します。親の情報交換や学習のために月一回の例会と読書会(今はJ‐ホルトの「教室の戦略」を読んでいます)をもっています。親ばかりではなく、ホームスクーリングに関心をもつ人達も参加している開かれた集まりです。子どもたちへのサポートとして現在は料理クラブ・手芸クラブ・木工クラブ・子ども英会話・パソコン教室・遊ぼう会などがあり、その他ハイキングやキャンプ、カラオケなどの呼びかけもあります。これらは毎月発行の通信でお知らせをしています。それを見て、子どもの興味に従って参加し、決して強制することはありません。これらの呼びかけには、親ばかりではなく、H・S・Nの協力者もリソースを提供してくれています。

例えばこんな事がありました。私は茶道を全く知らなかったのですが、ある時、娘と一緒にいただいたおうすがとてもおいしかったので、茶道の基本を形式ばらずに知りたいと思いました。丁度その頃、娘は日本の中世から近世にかけての風俗に興味を持っていましたので、通信で茶道の基本を教えて欲しいと呼びかけました。すると、経験のある人が教えてあげましょうと声をあげて下さって、お茶会を開き、形式ばらずに親子で茶道の基本を学ぶ事ができました。このようにネットを通して子どもたちの出会いや学びの機会を拡げる事ができます。勿論、親の方もこの機会をおおいに楽しんでいますし、新しい学びも体験しています。各家庭がそれぞれの生活のリズムや雰囲気を大切にしながら、ネットでの活動を義務的にではなくとり入れてホームスクーリングをすすめています。それにホームスクーラーは今のところあまりにも少数で、子どもは学校に行かなければならないと思い込んでいる人達にとり囲まれているので、お互いの存在が大きな励ましになっているのです。

ホームスクーリングの方法

ホームスクーリングのすすめ方には、大きく分けて二通りの方法があります。学校と同じように時間割をつくり、カリキュラムに従ってやっていく方法(=school at home)と、これとは反対に、子どもの興味や自主性にそってやっていく方法(=unschooling)です。ホームスクーリング(unschoolingな方法を強調してhome based educationとも言います)は、ヨーロッパ・アメリカ・オセアニアの各国で急速に拡まりつつあり、それらの国々では法的にも学校教育と同等に認められています。

アメリカでは実に多様なホームスクーラーが存在し、全米で約一○○万人とも言われ、年率二五%の割で増えているという事です。ホームスクーリングをサポートする個人や団体の活動、出版物もたくさんあり、フリースクールがホームスクーリングのサポートプログラムをもっているところもあります。

イギリスではE.O.(Education Otherwise)というホームスクーラーのネットワークがあります。一昨年、来日していたE.O.のメンバーの方にお話を伺う機会がありました。その方はロンドンにお住まいで、日本へは二人のお子さん(当時二歳と五歳)と一緒に目本文化を学ぶために六ケ月の滞在予定で来られていました。E.O.はイギリス全体で約二五○○人の会員がいるそうですが、地域別に小さなグループをつくっていて、それぞれが独自の活動をしているそうです。彼女達のグループは、ロンドンで家を一軒借りていて、子どもたちの活動や親たちのミーティングに使っているということでした。E.O.のニュースレターは二ヶ月に一回の割で発行され、編集や発行作業はメンバーの親たちが交替でやっているそうです。地域グループでもニュースレターを出していて、メンバ−の親達が自分の得意な分野を生かして開いている教室(クラブ)の案内や、イヴェント情報、子どもたちの絵や文、ホームスクーリングのすすめ方についての意見の交換などが主な内容となっています。E.O.は二○年前に五家族で始まったそうです。彼女の話によって、ネットの方法としては彼女達と同じような事を私達もやっていたのだとわかり、おおいに自信を持つ事ができました。E.O.でもunschooling派とschool at home派の意見の対立があり、よく議論になるそうです。彼女自身は、どちらでもその人に合ったやり方を選べばよいのであって、どちらかの意見が支配的になるのはよくないと言っておられました。確かに、ホームスクーリングは家庭や生活を基盤にした教青(home based education)なわけですから、それぞれの家庭の状況にみあった形で様々な方法があって当然なわけです。ネットで大切な事は、そういったお互いの違いを尊重し合うという事でしょう。

スクール・リフユーズとホームスクーリング

日本での場合、ホームスクーリングは情報としてもほとんど一般化されていない事もあり、現時点では、「不登校、登校拒否」(スクール・リフューズ)が、ホームスクーリングへのきっかけとなる場合がほとんどです。これは決して、学校に行かない状態がホームスクーリングと表現されるという事ではありません。

子どもも親も学校にこだわり、学校に戻らなければならないと思っている間は、ポームスクーリングとは呼べません。私たちのネットに参加している親子の経験からいっても、その間は前向きなエネルギーは出てこないようです。学校へのこだわりがふっ切れ、家庭で学んでいく事に積極的な意味が見出せるようになり、それ自体が学校に行く事とは別のもうひとつの方法−オルタナティブな教育の方法として親子で選び直した時に、はじめてホームスクーリングと呼べるのです。精神的に「学校」という檻の中に閉じ込められていては、ホームベイスド・エデュケーションはそれとして展開していかないのです。

ですから、私達のネットでは、スクール・リフユーズからホームスクーリングへの切り換えをサポートする事も大切な要素になっています。また子どもたちは学校で傷つけられていて、学びそのものを避ける傾向があります。そのために、子どもたちの興味が動き出すのをゆっくり待つという事がとても大事です。

ホームスクーリングの社会的認知

私たちは、ホームスクーリングが義務教育の方法の選択肢のひとつとして、社会的に認知される事を望んでいますし、それにむけて市教委への要望活動も始めました。具体的には、子どもたちの学校外での学びの保障を求めて、教育施設の無料使用を要求しています。今のところ「検討します」という回答しか引出せてはいませんが、こういった要求を一つ一つ具体化させていく事が、社会的認知につながり、大人にも子どもにも情報として見えるかたちで提供することになっていくと思っています。

私たちがホームスクーリングの社会的認知を求めるのは、学校に行けない子どもたちがいるからその救済のためにという事ではありません。(結果として、そういう事にもつながるとは思いますが…)本来、学校というシステムが、何のために誰のためにつくられたのかという事に目を向けるなら、子どもの成長、学びを親の自己責任のもとにひきうけるのは、親の当然の権利でもあるはずです。また、子どもと共に、生活者として学びを共有していくホームスクーリングは、日常生活そのものが生々とした、創造的な体験の連続となっていくのです。激増し続ける子どもたちの学校拒否は、今までの学校というシステムが制度疲労を起こして崩壊しかかっているという何よりの証拠ではないでしょうか。

「教育は学校でするものだ」「学校でなければ子どもは学ばない」とう学校信仰を、もうそろそろ捨ててもいい頃だと思うのですが……。

(くがい・とみこ)

月刊「むすぶ」'96.11より


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