空が暗くなってきた。風が少し出てきたようだ。テントのフライシートが、黄色くはためいている。
高速をとばして、県をふたつまたぎ越し、名も知らないインターを出た。経験とは不思議なもので、最初に見つけた川の、河口に干潟があると、何となく勘でわかった。ヨシの群生する湿原に挟まれた川の、ぬかるんだ土手を、ゆっくり海に向けて下っていくと、少しだけ開けた灰色の砂浜、ゆったり広がる干潟とその先の海、対岸に荒れて沈む草原が目の前にあった。手早くテントを立て、火をおこして夕食を食べ始める。
「あなたの背中が小さく見えるって」いつものように、土曜日から鳥を見に出かける支度をする僕に、妻はそういった。いつから息子の目を見なくなったんだろう。いつから息子の声を、真剣に話しているその声を、聞かなくなったんだろう。
小さな頭には大きすぎる野球帽をかぶって、家の前でキャッチボールをした時の、ころんで膝をすりむき顔を真っ赤にして泣きじゃくった時の、息子の顔が浮かんでくる。それは、小さいけれど、ほかのどんなものにも代えられない、宝物のような記憶だ。いつからそんな息子の姿がフェイドアウトして、仕事仕事の毎日が始まったのか、残業残業で日付が変わってから家にたどり着く日々が始まっていったのか。
月が西に傾きかけていて、空の冥さが一段と深まっている。ピーッと、はかなげなシギの渡る声がする。黒く沈んだ海に、波頭の白さが浮かんで向かってくる。波の音はかすかで遠い。
洗面所の鏡の向こうから、疲れた中年男がこちらを見返している。どうしたことか、その顔は記憶の中の父の顔に、ますます似てきている。日曜日ごとに釣りに出かけていく父。父は何から逃げていたんだろう。生活という名の仕事に汲々とし、趣味の釣りだけを楽しみに生きてきた父。父の背中は、たしかに小さく見えていた。
からだの奥の柔らかい部分を、いきなり何か重いもので殴りつけられた。あのころの僕の視線と、今の息子の視線は同じなんだろうか。結局のところ僕は、あんなに嫌いだった父と、同じことを繰り返しているんだろうか。
小説家になりたかった。自然に分け入って、冒険を繰り返して、未知なるものに挑み、その成果を文章にして世に出す。ヘディンを、何度繰り返し読んだことだろう。
なりたい自分にはなれなかった。努力が足りなかったのか、運がなかったのか、それとも才能に恵まれなかったのか。その代わり、妻と息子の小さな家族を、手に入れた。僕の子どもの頃のような、ひえびえとした家庭じゃない、暖かい家庭を手に入れた、と思っていたんだ。
ありのままの自分を、そのままの姿で息子に見せること、自分が自分らしくある姿を、さらけ出すこと、それでわかってくれるはずと思いこんでいた僕が、間違っていたんだろうか。
スキットルからジャックダニエルを啜ると、ギンと突き抜ける味が、のどを滑り落ちていく。熱い固まりが胃の底にひろがる。
僕は息子に、背中しか見せていなかったんだろうか。そうありたいと願った自分にはなれなかったけれど、少しでもそこに近づけるように、精一杯努力している僕の姿を、背中からじゃなく、前から見せるべきだった。そして彼が、その僕の姿をどう見ているかを、もっと考えるべきだった。
同じように、息子なりの努力を、僕は見てこなかったかもしれない。彼には彼の、まだぼんやりとしているだろうが、なりたい自分があって、そのために息子が何をしているのか、していないのか、僕は何一つ知らないのに気づいた。
風が、冷たく強くなってきて、焚き火が消えかかっている。集めてきた流木を足して、パーカの前をきちんと止めた。炎が立ちあがり、熾火の向こうに息子の顔が、十五歳になって、背丈だけは伸びたがまだ華奢な体つきの、うっそりと伏し目がちな顔が見えた。
僕はちゃんと君を見ているよ、そして、君にもお父さんを見てほしいんだ。
空白の後で、そんな素直なメッセージが送れるだろうか。考えてもらちのあかないことは、考えないことにした。明日は夜明け前に起きて、干潟で餌をあさるシギを見よう。空に銀の粒をまき散らしたような、千鳥の舞を見よう。すべては帰ってからだ。
なんだか、新しい自分に出会ったようで、シュラフにもぐり込むと、暖かく幸せな眠りに落ちた。
了
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