父親ということ
最近17歳のN君と話していて、彼の言ったことが妙に心に引っかかっている。彼は「親父の背中が小さく見える」、と言った。実は正直に言うと、僕も彼くらいの頃、いろんなことの積み重ねから、父親を同じように見ていたな。そして今、僕も思春期の子どもを持つ、当時の父と同じくらいの年齢になり、よく「父」とは一体どんなもんなんだろうかと、考え込むことが多くなったように思う。別に理想の父親とかになるつもりはないし、なれるはずもないけど、できればあの父のようにはなりたくないと、ある意味自分の父を反面教師にしながら生きてきたつもりなのに、今は迷っている自分がいるんだ。 なぜ父の背中が小さく見えていたのか。家族に生活の安定をもたらす、古典的にはそれが父親としての役割かもしれないし、それだけでも実に大変な困難を伴うものだ、ということがわかる年齢にはなった。しかし大人になりかけようとしている僕の目に父は、生活にあくせくしているだけの、ただのちっぽけな男としてしか映っていなかった。社会的な評価や、経済的な豊かさを重く見るような価値観は、僕にはなかった。僕は父の背中に、生きることへのなんの情熱も見ることはできなかったし、またそのことについて語り合う時間もなかった。 二十歳をすぎた頃に出会ったMさんという人物は、僕に大きな影響を与えた、まさに師と呼ぶにふさわしい人だった。「この人が僕の父だったら」などと考えた時もあったが、僕と同い年のMさんの息子は、父親の名前の重圧でつぶされそうな青春を送っていた。やはり父と師は違うのだ。だが、自分の生きていく方向をはっきりと持っていて、それに向かっていくMさんの姿が、僕にとても大きく見えていたのも事実だった。 その頃、そうありたいと思い、そうなりたいと思い描いてきた自分があった。振り返って、その方向に自分自身を鍛え、行動してきたかと問えば、どこか流れのままに流され、その結果としての今がある、としか答えようのない自分もやはりここにある。 「良き父」なんてものはなくて、実は「そうありたい自分」の先にこそ、はっきりとした「父親」像が結ばれるんじゃないか。今必要なのは、そうありたい自分をもう一度思いだし、行動することなのかもしれない。 だけど、もうひとつ忘れてはいけないことがある。父親とは、一人の男と、その子どもとの関係のことなんだから、子どもの側からの視点を抜きにしては、父親を考えることはできない。父親が考える自分自身や、生きていく方向と、子どもから見える父親像、生き方はまったく違うはず。子どもから見て、自分という父親はどう見えているのか、自分自身のことを思いだしてみても、父親はもっとそのことに注意を向けていいと思う。あるいは関係を逆から見ると、ある程度の年齢になれば子どもも、そうあるべき自分・生き方を模索する一人の人間だ。その子どもを、一人の年長者としての視点から見る父親があって、その見え方も当然子ども自身とは違うものになるはず。 親子とは、こういう相互的な関係において成り立っている。(実はこれは親子だけに限らず、社会そのものがある程度こういう関係性の上に成り立っている。)互いに互いを見る視点があって、批評があり、行動がある。そういう意味では、親子関係も、個人と個人としての水平の関係でないと、ちゃんとした見方はできないと思う。 父親としての自分を探し、自分としての自分を探すためには、迷い悩みながらも、親と子との豊かな関係性を築いて行くことが大切なんだろうと、このごろは考えている。 |