この国の公教育は、ジグソーパズルだ

ジグソーパズルというのは、実際それを作ってる現場を見たことがないので、あくまで想像なんであるが、パズルの模様を印刷した紙を厚紙に張り付け、それをプレスかなんかで、こう「ポンッ!」とあのジグソーパズルの形に切り抜くんだろう。

それでもって、「こうきょーいく」というのは、今のところ日本ではほぼ学校教育とイコールと思っても間違いない。

この国の公教育の中身は、少し乱暴に言い切ってしまえば、すべて文部省のお役人が決めている。ジグソーパズルの表面の、ディズニーやら猫の写真やら、風景写真やらの、あの印刷された模様が教育の内容、個々のピースがこどもたち。どんな模様を印刷するか、ピースをどんな形にするかは、その時々の政治状況を見ながら、政権党の意見も多少は聞きながら、やっぱり文部省の役人が決めているのだ。ここで肝心なのは、教育というものを彼ら役人は、ジグソーパズルのように上から眺めおろしていて、「大所高所」から見てはいるけれど、こどもたちの視点に立つことは絶対にないことだ。「日本の国のために教育はどうあるべきか」は考えても、「こどもたちが本当に幸せになるにはどういう教育がいいのか」なんてことは視野にない。

彼らは、ほとんどが東京大学を出た試験エリートだけに、記憶力だけは抜群にいいけど、本当の世界のことや人間のことなんかぜんぜん見えていない。だもんだからすぐに菊の御紋や日の丸の模様を印刷したがるし、定年後の天下り先なんかを考えて心も乱れるしで、パズルの模様がこのボーダーレスの世界にぜんぜんフィットしないものになっている。

それよりもっと大変なのは、一つ一つのピースがジグソーパズルみたいに形が異なって、違う場所には絶対はまらない、というんでは「国家」から見た場合困ってしまうということなんだ。同じ形の同じ大きさのピースがずらっと並んでいる、彼らの理想はそういうパズルだ。よーするに、国民というのは国を構成する一つの部品なんだから、どっかが壊れればひょい!とほかのところから持ってきたり、スペアパーツのように取り替えたりできないと困るのが、国を支配している連中の考えなんだ。近代教育は富国強兵のため、国家レベルで行われるようになったんで、つまり命令をよく聞き理解できる兵隊や労働者を作るために始まったのは、どこの国でも同じこと。

一人一人のこどもはすごく柔らかい粘土のようなもので、学校という入れ物の中に入れて上からぐいぐい押しつけて、平らにならす。印刷が終わったら同じ形のプレスにかけて、ハイ一人前の社会人できあがりー。ところが当たり前のことなんだけど、人間というのは一人一人違うんであって、プレスで同じ形に「ポンッ!」と切れたりはしない。大きさも堅さも、みんなみんな違う。一つの入れ物に入れて同じ厚みにならして、印刷しよう、同じ形に切ろう、なんて考えることが間違いだ。それを無理矢理やれるのは、その国が未成熟の証拠なんだ、と考えていい。

個人を殺してでも全体の中の一部になって生きていくのが幸せなんだ、と考える人が多い国は果たして正しいのか?経済的に裕福になるために、個性を消してひたすらシステムにとけ込むことを、こどもに要求する親は本当に幸せなのか?

この国に、公教育は本当に必要なのか?あなたのこどもは決まり切ったピースの一つになるべきなのか?


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