何者になるのか

神戸の事件のあと、朝日新聞に、「私が私である場所」というグラフの記事が出た。犯人とされる少年と同じ、中学三年生の素顔を紹介する狙いもあったのだろうか。質問の最後に、「将来の夢」なる設問があって、それに少年や少女たち七人が答えている。列挙していくと、コンピューターグラフィックスのプログラマー、洋食店の店長、作家、スポーツ店の店長、関取、ファッションデザイナー、世の中のためになるような仕事がしたい、とある。なんとも具体的な答えが多いのだけれど、ひとつ気づくのは、ここにあげられたのはすべて「仕事」だということだ。どうやら子どもたちの夢は、「**になりたい」のではなくて、「**という仕事がしたい」ことのようだ。きわめて現実的だけれど、それははたして「夢」なのだろうか?

この記事の前説には、『中学三年生。義務教育を終える来春は、高校や社会へと巣立っていく。・・・・』とあって、つまり中学三年生が、ひとつの区切りであることを大前提にしていることがわかる。そのことを踏まえての、「将来の夢」。

「子どもの多様性を認めて」だの、「個性を伸ばす教育」だのとお題目を唱えても、一定の年齢を越えれば強制的に次のステップに進まなければいけない。子どもはひとりひとり違うのに、進む方向や次の階段を上がる時期はすべて決められていて、外れることを許されない、なんと息苦しいことか。

この国を、救いがたい「仕事中心主義」が覆っている、と思う。学校を卒業すれば、学校に行かなくなれば、なんらかの仕事につかなくてはいけない。学校は、将来どんな仕事につくかのための手段獲得の場としてや、効率よく仕事をこなすための訓練場としてある。「仕事」は「遊び」より価値があって、「遊び」は次の「仕事」のリフレッシュのためにある。

僕は、楽しいことだけをして暮らしていきたい、と思っている。そのために、少しばかりのしんどいことは我慢しよう、そう思って生きている。なかなか思うように行かないところがつらいんだけど、でも、基本はそうなんだ。ところが、世の中は苦しいことばかりあるのが現実で、その苦しさをやわらげてくれるために、ほんの少しの楽しみがある、なんて思っている人もいるみたいだ。そういう人達は、きっと「つらい仕事」が人生の中心になっていてるんだろう。なんて哀しいんだ。

子どもたちにわかってほしいのは、自分が「何者になるのか」と、「どんな仕事につくか」は、一切関係がない、ということなんだ。「何者になるのか」は、自分の中身をどうつくっていくのかであって、職業がなんなのかなんて関係ない。そんなものは、もっと自分を捜してから決めたって、ちっとも遅くない。だから、急いで現実的な職業なんか選ぶ必要はないし、いわゆる「いい仕事」につくために一生懸命勉強するなんて、本当に馬鹿馬鹿しい事なんだ。それは、結果的に、あとからやってくるもんなんだ。

この国の「仕事中心主義」がなくならないと、子どもたちの本当の「夢」なんて出てこないし、子どもたちの苦しみも終わることはない、と僕は思う。


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