原風景

人がある程度の年齢になったときまででも、くっきりと覚えている風景や光景があります。それを、その人にとっての「原風景」といいます。

意識していようといまいと、頭の片隅に眠っていて、ひょんなときにふっと意識の端にのぼってきて、自分というものを再確認させられてしまう、そういうものだろうと、僕は思います。

僕にとってのそれは、荒涼とした焼け跡の風景だった、と書くと、いったいトシはいくつだ?と疑われてしまうので、ついでに書いておくと、僕は1950年生まれです。

崩れ落ちたがれきの山、地面に深く穿たれた爆弾の穴、穴の底には原色のどろどろした液体がたまっている。

そこは、戦争で爆撃された航空機工場の跡地で、1960年頃までどんな建物も再建されることなく、戦争の爪痕の無言のモニュメントとして残されていました。その周辺に住む子どもたちにとっては薄気味悪く、またしかし奇妙に魅力的な、冒険ごっこに好都合な広大な土地として、それはありました。

そして、僕はその爆撃跡地のそばにある、非差別部落の中の、ほとんどバラックといっても良い、あばらやに住んでいました。

九州の炭坑で働いていた父は、僕が生まれるとすぐ職を離れ、流れ流れてその地に落ち着きました。母と、兄との四人家族。僕が六歳のとき、ふたつ上の兄が、爆撃跡地で崩れてきたコンクリートの下敷きになり、死にました。子どもの僕にとって、そこは荒れ果て不吉な場所として記憶されました。

僕が十一歳のとき、放課後の校庭で遊んでいた仲の良かった友達と、少しいさかいがありました。彼は僕のことを、何か汚いものでも見るような目つきで見、「どうせお前らはアレやないか」と、はき捨てるようにいいました。僕は自分が何をいわれたのか、まったくわかりませんでしたが、なんだかすごく不安な気持ちになり、帰ると母に「アレ」とはなんのことなのかを問いただしました。行くあてもなく流れていた僕たち家族が、とりあえず住みかを見つけられたのが「部落」だったし、そんなくだらない差別的なことを子どもにわざわざ教えるまでもない、としてきた両親にとっても、そこに住んでいるだけで差別される現実は重いものでした。

暗い話になってしまいました。とにかく、僕にとっての原風景は、兄が死に、差別を突きつけてきた、その街のあの焼け跡なのです。それは少し苦い味を思い出させる原風景です。

さて、僕の娘にとっての原風景って、いったい何なのだろう?と考えることがあります。しかし、原風景なんてものはもっとずっと後にならないと、意識化することができないものなんですよね。だから、彼女の原風景は彼女の中にあるし、親の僕などの預かり知らぬところで、つくられるものなのかもしれません。

だけど、できるなら僕の原風景のような苦いものでなく、朝のベッドから見る澄み渡った青空とか、夕食の暖かくておいしそうなにおいのある食卓とか、そういうものになってくれることを願わずにはいられないし、そのためにできるだけのことはしたい、そういつも僕は考えています。


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