誇りを持って生きること  娘へ

今日は、人間が生きていく上で、どうしても必要だと僕が思っていることを、書きたいと思う。

君は、在日コリアンの李君を覚えているだろうか。指紋押捺の拒否をして闘っていた、李君。彼は、昔日本が朝鮮を植民地にしたときに、国を追われるようにして日本にやってきた、お父さんとお母さんから生まれた、在日コリアン二世だ。日本に住んでいるコリアンは、日本人による就職や結婚などのひどい差別に苦しめられていて、そのためにコリアンとしての名前を名乗らず、通名という日本人ふうの名前で暮らしている人が多い。そして日本はそんな彼らに、外国人登録証という身分証明書を持たせ、指紋を押すことを強制した。だから、李君は、その差別に対して闘った。僕は、そんな彼と知りあって、少しでも日本人として力になりたかった。それから、僕はいろんな在日コリアンと話をしたり、彼らの話を聞いたりして、それまで僕がはっきりと意識していなかったことを、考えるようになった。

それは、「人間は誇りを持たずに生きていくことはできない」ということだった。彼ら在日コリアン二世三世は、この日本で生まれ、日本語を話し、この時代に生きている日本人と同じ生活感覚を持っているのに、国籍が朝鮮・韓国だというだけで、本当の名前を名乗るのにさえ勇気のいる、そんな生活を送らされている。差別に押し潰された彼らの中には、コリアンであることを自分の中で否定し、自分の民族、自分のルーツ、自分の家族を、否定しようとする人達もいる。それは、自分自身を否定することにさえつながってしまう。けれども、李君や、彼と同じように闘っている人達は、決してコリアンとしての自分を否定しない。彼らはコリアンとしての自分にこだわる。この日本という差別社会の中で、彼らが胸を張って生きていくには、コリアンとしての自分に誇りを持つこと、それが必要だし、そこから自分自身に対する誇りも生まれてくる。

自分に誇りを持つことが必要なんだということを、僕はそれまではっきりと意識して、考えたこともなかった。

なぜこんな事を長々と書いているのかと、君は不思議に思うかもしれない。それは、君が今している生活、「学校に行かないで育つ」という選択におおいに関係がある、と僕は思うからだ。

いま、「不登校」という言葉で語られる多くの子どもたちは、もっともっと自分に誇りを持つことが必要だと、僕は思う。学校に行かない、という選択は、決して病気でも怠けでもなく、ひとつの生き方なんだと、自分が選んだ生き方なんだと、誇りを持って答えてほしい。そして、身近にいる大人が、まずその生き方の選択を認めてほしい、助けてほしい。そうでなければ、子どもたちはこれから頭を上げて生きていけないじゃないか、胸を張って生きていけないじゃないか。

たしかに、この日本の学歴社会の中で、それなりの経済的豊かさを獲得する確率を上げようとするのなら、学校に行くことは必要だろう。けれども、人間にはもっといろんな生き方があっていいと思う。僕たちにできなかったような、もっともっと自由な生き方を、君たちにはしてほしいと思う。だったら、学校になんて行く必要は全然ない。君たちは、いま自由への、最初のパスポートを手にしていることを、誇りにしてほしい。

自分で考えて、自分で選んで、そのことに自分で責任を持って、そんな自分が好きで、そして自分を信じること、それが誇りを持って生きることだと、いまお父さんは思う。


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