居合道(武道)ー教えること教わることー
2014年1月 野々村耕二記す
「四段の自分が教えるべきではない」剣道連盟の居合道を修行中の人の言葉です。一方で 剣道連盟居合道の範士八段のY先生(故人)は「自分は日々精進」とおっしゃいました。
先の四段の発言は謙遜から出た言葉にしてもあまりにも段位に拘った物言いであり、それまでの自らの修行の成果を全く否定しているように聞こえます。対してY先生の言葉は数十年
の自らの修行の上になお今日新しい気付きに出会う可能性を示唆しています。
武道修行の本質が短い言葉に込められていて彼の先生の修行に向き合う真摯な姿勢が窺われます。
私は武道の修行とは毎回の稽古の積み重ねであり日々自らの身体を通じて段位に関わらず様々に気付きを得ていくものと心得ます。そのような視点に立って見るとき居合道(武道)の稽古の指導とは自らの経験や知識に照らして稽古する人の手助けをすることではないでしょうか。
全剣連居合の指導者(先生)と言われる人の中には「○○先生はこのように言っていた」とか「教本にはこのように記述がされている」という話ばかりする人がいます。
武道の修行において伝承は欠くべからざるものでありますが、伝承には検証を加えることが不可欠であり、検証を加えることによって伝承の本質が見えるはずです。
よって指導者とは自らの知識や伝聞を自らの修行によって確認し会得しつつある求道者であるべきと考えます。
武道の稽古において教える側からは、教えるとはその日までの自らの修行の成果を知らしめることであって伝聞を広めることではない。
教えられる側から見れば、教わるとは指導者(助言をくれる人)のその日までの修行の成果を学ぶことであって、決して科学的な価値観、世界観のもとに正解を得ることを求めるべきでは無い。
但し誤解のないように付け加えておきますが、修行の成果とは武道の極意に近づく筈のものであり、武道の極意とは優れて科学的思考に基づいた方法で修行を重ねた先に見えるものに違いないと私は考えています。
段位は決して居合道の実力や指導力を表わす指標ではありません 能力のない指導者の下で稽古を続けるのは危険なサプリメントを飲み続けるようなものです だからといって段位を付与した組織や団体に責任を求めてはいけません 指導者の能力を見極めるのは貴方です 盲目的な段位崇拝は愚かなことと知るべきです |