なぜ今居合道か?    2006/5

現代の日本人の中に、刀に興味を持つ人が少なからず居ます。
彼らが日本刀や侍に心惹かれるのは何故でしょうか。
それは、サムライ精神が今も日本人の心の奥底で、宗教とも言える存在であること(新渡戸稲造著「武士道」より)と無関係ではないでしょう。
いわゆる「武士道」は、国民を戦争に導く自己犠牲の精神を鼓舞する為のプロパガンダとして、当時の軍部からゆがんで利用されました。 そのため「武士道」に対してある時期誤った印象を抱く人も多かったと思いますが、本来は自らを律するところに重点をおいた優れた道徳律といえます。
昨今、外国の人からもとても高い評価を得るようになったサムライスピリットです。そしてその武士道精神の象徴が日本刀です。
刀の武器としての役割は、戦国時代の後半には終わったといえます。それは戦国時代後半の戦死者の死因の、刀による傷は10%未満に過ぎないという調査結果もあります。
思えば槍や長刀、弓矢に比して殺人のための道具としての日本刀はいかにも効率の悪い代物です。ましてや鉄砲とは比べ物になりません。
では何故刀はその後の江戸期の武器の代表のような立場を与えられたのでしょうか。
それには江戸時代を形成した徳川政権の政策が大きく影響をしていると考えます。
世界の歴史上稀に見る平和な時代の実現が前提としてあります。その社会で、武士階級の身分の証としてまた切腹や打ち首などの刑罰、あるいはあだ討ちの手段として、江戸時代の日本で刀が果たしてきた役割を考えるとき、平和な社会のなかで刀は正義を行う道具として日本人の心に深く刻み込まれたのではないでしょうか。
また反面では江戸幕府の末期に刀によるテロが頻発したことも、身近な殺傷の道具として現代人に刀の印象を植え付けたかもしれません。
一方、刀は武器でありながら一国にも値する価値を付加された工芸品でもありました。 武家社会において恩償として与えられる領土には限りがありますが、優れた工芸品は再生産が可能です。為政者にとってはこの上ない褒章品ともなりました。
この美術品としての一面が今私たちが日本刀を所持することを許される法的根拠ともなりました。
以上のような刀の属性が、私たちの遺伝子に働きかけて、今日の私たちの刀を見る目を形成したように思うのです。
さてその日本刀は現代の社会においては極めて危険な道具です。刃渡り70p以上の鋭利な刃物に接するには、心の緊張と洗練された技術が必要です。充分な覚悟を持って扱わないと、自らを傷つける可能性が多分にあります。
そこで居合道です。
居合道は刀を正しく扱う作法と巧みに操る技術を身に付けて武士道精神を受け継ぐことを学び、優れた工芸品である日本刀と身近に接して作品を愛でる武道です。更に、正座の姿勢から立ち上がり、また美しく合理的に座る運動を通じて、現代人の弱点である足腰を鍛える効用があります。
多くの人々が居合道の魅力に接して、私達の仲間になっていただくことを願っております。


居合道 ―教えること教わること―
    2015/1  野々村耕二 

「四段の自分が教えるべきではない」居合道を修行中の人の言葉です。一方で、ある範士八段の先生は「自分は日々精進」とおっしゃいました。

先の四段の発言は謙遜から出た言葉にしてもあまりにも段位に拘った物言いであり、それまでの自らの修行の成果を全く否定しているように

聞こえます。
対して範士八段の先生の言葉は数十年の自らの修行の上になお今日新しい気付きに出会う可能性を示唆しています。

武道修行の本質が短い言葉に込められていて、彼の先生の修行に向き合う真摯な姿勢が窺われます。

私は武道の修行とは、毎回の稽古の積み重ねであり日々自らの身体を通じて段位に関わらず様々に気付きを得ていくものと心得ます。


そのような視点に立って見るとき、居合道の稽古の指導とは、自らの経験や知識に照らして、稽古する人の手助けをすることではないでしょうか。


居合道の指導者(先生)と言われる人の中には「○○先生はこのように言っていた」とか「教本にはこのように記述がされている」という話ばかり

する人もいます。
武道の修行において伝承は欠くべからざるものでありますが、伝承には検証を加えることが不可欠であり、検証を加えることによっ

て伝承の本質が見えるはずです。


ですから指導者とは自らの知識や伝聞を自らの修行によって確認し会得しつつある求道者であるべきです。

武道において

教える側からは、教えるとはその日までの自らの修行の成果を知らしめることであって伝聞を広めることのみではない。

教えられる側から見れば、教わるとは指導者(教えてくれる人)のその日までの修行の成果を学ぶことであって、決して科学的な価値観、世界観を持

って正解を得ることを求めるべきでは無い
と信じます。

但し誤解のないように付け加えておきますが、修行の成果とは武道の極意に近づく筈のものであり、武道の極意とは優れて科学的思考に基づいた

方法で修行を重ねた先に見えるものに違いないと私は考えています。