私の居合の恩師である居合道範士八段の倉橋常茂先生が
この6日(1986、6、6)、心不全のため国立南京都病院で
逝去された。行年93歳。まさに天寿を全うされた。

 先生は、明治25年8月23日、高知県香美郡佐岡村西後入
(香美市)の松村家に生まれ、のち同村大後入の倉橋家へ養子に入
られている。大正7年に京都の警察官となって西陣、下鴨署などに
勤務、昭和19年八坂消防署長(東山消防署)を最後に定年を迎え
た。戦後は奉仕活動に入り、郷土の青年が京都の大学に入学しても
安い下宿がないと、土佐育英協会の土佐塾創設にあたり、その建設
募金に奔走、昭和33年から25年間の長期にわたり同塾の寮監を
務め青少年の育成に尽力された。

 先生と私の出会いは、昭和36年の龍馬祭前日に土佐塾の塾生を
連れて霊山へ清掃奉仕にこられた際、龍馬の事跡をうかがった時で
ある。墓前で塾生らに「龍馬さんのような大先輩を持つ高知県民で
ある誇りを忘れないように」と激励されたのが印象的であった。こ
の翌年には、先生や京都高知県人会の宿願であった坂本龍馬、中岡
慎太郎銅像が円山公園に再建、溝渕高知県知事、龍馬の子孫、土居
晴夫氏らの来賓を迎え盛大に除幕式が行われた。

 こんな温和な先生が居合の達人であると友人から知らされて、居
合に興味をもっていた私はさっそく昭和49年に門下生となった。
その入門の時、先生から「居合は土佐が一番」と励まされた記憶が
ある。先生の居合は、無双直伝英信流17代大江正路先生の高弟で、
土佐藩主山内容堂の孫にあたる子爵山内豊健先生が昭和3年京都に
剣道修業にこられ、無双直伝英信流居合術研究会を結成した時、そ
の指導を10年間受けられている。豊健先生の入洛については、剣
道修業の目的もあったが、関東の居合に対抗するため、当時剣道界
の最高峰であった内藤高治範士は、高知から豊健先生を招き土佐英
信流を定着しようと居合講習会を開いた。しかし、従来から京都に
は大日本武徳会本部があり、剣道主導の考えが根強く結局豊健先生
の指導を受けた者は数名にとどまった。先生は、高知の伝統的ない
ごっそう精神で豊健先生の土佐英信流居合を守護、その継承に真剣
に取り組み、また同時に剣道も教士六段をを受け居合道との両道を
極められている。

 戦後は、占領軍政策による古武道が禁止される中で、特に真剣を
使う居合は竹刀剣道のめざましい復活に比べ、順調な発展は望めな
かったが、先生はいつの日か居合が見直される時が到来することを
念願、豊健先生の「豊」一字をいただき豊剣会を創設、普及に努め、
先生から指導を受けた門下生は数百人にのぼり、京都居合道界の重
鎮として活躍されていた。先生の居合は、豊健先生を指導された大
江先生がお殿様用の居合にアレンジしたと伝えられ、京都では現在
この居合を山内派と呼んでいる。

 どの武道もスポーツ化が進み、居合も演武から競技方式が採用さ
れているが、先生は常に古流の伝統居合を守られ、大阪で毎年開催
される大日本居合道八垣会大会においても高齢にかかわらず、曲が
った腰を真っすぐに伸ばし、淡々と演武される姿は、剣聖そのもの
であった。私も同大会に出場してが、高知の野田亨範士から「京都
の人は、もっと土佐の居合を大事にされるといい」とご教授をいた
だいた。先生の前で最後に居合をぬいたのは、昨年11月24日の
第12回京都居合道大会で、小学校6年の長男とともに出場した時
であった。この大会で私が五段の部で優勝、長男も段外の部で三位
に入賞、先生は長男の頭を何度もなでながら「よく頑張った」と褒
めていただき、大そう元気であったのに翌月倒れられた。今となっ
ては、土佐塾内に先生米寿のお祝いに高知県が建立した胸像にしか
お会いできないことを心さみしく思う。

              (京都 霊山歴史館 木村幸比古)

H28/1/1「剣窓」掲載の会長の記事

会長 着物姿で講演(2015.12.8 京都新聞)