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世界の窓

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【 スイス・バーゼルレポート VOL.13】

井浦 幸雄氏




(99/05/29 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)
 

◆   テクノ・ストレスを克服するには 

 

 最近、パソコンの普及が著しい。仕事で使うだけでなく、家でホビー的な使い方 をしている人もたくさんいるだろう。ただ、パソコンが調子が悪くなったり、壊 れたり、ネットにうまくつながらなかったり、苦労している人も多いのではない だろうか。わたしは1989年にスイスに来て以来、1995年頃までは英語環境だけの パソコンを使っていた。1996年ころから日本語環境のものを併用しはじめて、非 常に便利さが増してきた。でも、スイスで使う日本語環境のパソコンは専門の人 から電話などで簡単にサポートが得られないという悩みが付きまとう。日本で日 本語環境のパソコンを使う人と比べて、それなりに苦労もしてきた。

職場のお仲間、インターネットのグループで交流しているお仲間と話している と、多かれ少なかれ誰もがパソコンの不具合に悩まされ、ストレスを感じている 様子が窺われる。家でインターネット接続をしている人を例にとると、ハード・ ソフトの不具合、プロバイダーとの接続トラブル、OSなどのアップグレード時 のトラブル、などが挙げられよう。それでは、こうしたいわゆるテクノ・ストレ スを克服するにはどのような工夫が必要なのだろうか。

当然、個々人によりさまざまな違いがあるだろうが、近しい知人・友人で電話・ 来訪などでサポートをしてくれるひとが近くに居ると心強い。日本の人はパソコ ン・メーカー、販売店で電話サポートが多くなされているようで実にうらやまし い。国外に居住する人も、自分の得意な言語でサポートを受けられる環境を整え ておく必要があろう。後に触れる、パラレル(二重)システムが稼動していると、 一つのシステムが不調でもバックアップのシステムを使いオンラインの電子メー ルのやり取りでサポートを受けることが可能となる。

それから、職場でも家庭でも、パソコンのハード・ソフト、ネットワーキングは 常に不安定さを内包していることを覚悟して、はじめから100パーセント確実に 稼動をしてくれないことを肝に銘じておいた方がよさそうだ。パソコンの扱いに 馴れない人ほど、自分の購入した高価な新鋭機がトラブルを起こしたりすると悲 憤慷慨してパニックに陥ったりする。最初は割安の中古機を譲ってもらい、パソ コンとはこのようなものだと悟った上で、だましだまし使うことを覚えた方がよ いのかもしれない。それから、馴れない人がメーカーの甘言につられて、最先端 のハード、ソフトなどを手にするのは果たして賢明なのかと常に思う。たとえ ば、最高スピードのCPU(中央演算装置)などは必要なく、1―2ランク落とし た もので十分なようだ。ソフトも今Windows95を使い、閲覧ソフト・ブラウザーも 最新版でなくとも十分なようだ。馴れた人から割安のものを教えてもらい、自由 に扱えるようになって高級機種のほうに転換していく方が良いと思う。その方が ストレスを感じなくてすむのではないだろうか。

さらに、十分なバックアップ体制と、パラレル(二重)システムの設定を心がけた い。ハード・ソフト・ネットワーキングのすべての分野で、パラレルの設定を構 築しておくのである。デスク・パソコンとノートパソコンの組み合わせでも良い し、新規取得の最新システムと旧来のシステムの組み合わせでも良いだろう。バ ックアップには、最近、ハードディスクの容量が大きくなっているので、普通の ユーザーではこれで十分であろうが、MO,ZIPなどの高度容量バックアップ システムも最近では多く市販されている。かなり多くの人がプロバイダーが提供 している個人ホームページ用のサーバースペース(20MG、30MG程度)を ほとんど利用していないが、これにアクセスできるようになると、きわめて便利 だと思う。 プロバイダーも2種類ほど確保しておくと片方がダウンしても、別のものを使え るようになるし、慌てなくて良いと思う。当然、最初のうちはコスト的に見て、 パラレル(二重)にシステムを構築することには逡巡するひとが多いと思う。しか し、次第になれてくると、バックアップ体制の必要性、パラレル・システムの大 事さに気がつく。家族とか、お仲間でパラレル・システムを構築し、助け合うと いう図式も良いのではないかと思う。また、メールリストなどの運営では2―3人 の管理人団を構成し、一人がダウンしても、ほかの管理人がすぐに管理業務を継 続できるというシステムを作っておくのも大事と思う。

また、私の場合には、スイスと日本を頻繁に往復し、また旅行にも頻繁に出かけ るので、違った地域からインターネットに常時アクセスできるようなシステムを 構築している。ホテルからのプラグイン・アクセスが困難なため、携帯電話を使 ったネットアクセスを日本でも、スイスでもできるように設定している。こうし ていると、24時間以内に最低一回はネットにアクセスでき、電子メールを送受信 できるので、休暇中でも、日本でもスイスでも、連絡が取れるのできわめて便利 である。

以上いろいろ述べてきたが、あまり、便利になるとかえって疲労がつの、りテク ノ・ストレスを感ずるようになるので、システムが時々ダウンするときにそのま ま放置してゆっくり骨休めをするのが、かえって望ましいのかもしれないと思 うときも時々ある。 (了)



 

(99/03/31 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)
 

◆   ヨーロッパ小国の知恵に学ぶ 

 

 日本にいるときには良くわからなかったが、最近ヨーロッパの人口の少ない 国々のなかにはきらりと光るものを持っている国が多いような気がしている。オ ランダ、ベルギー、スイス、デンマーク、ノルウェーのような国である。日本で はヨーロッパの大国、ドイツ、フランス、英国、イタリアなどにすぐ目が行きが ちである。もちろん、ヨーロッパの大国重要度は否定しないが、これら小国の 人々の生き方にもっともっと着目すべきだと考えはじめている。

 ヨーロッパに比較的長く住んでいると、あまり日本では関心を払われていない ベルギー、オランダのような人口の少ない国々が近隣の国々からまずは尊敬の念 をもって受け入れられている様子がおぼろげながら浮かび上がってくる。アムス テルダムや、ブラッセル、ブルージュのような都市はヨーロッパ近代化の光とし て、英国、フランス、ドイツに先駆けて輝いたところのようだ。そこに住んでい る人々も市民社会を早くから形成させ、平等主義の下で、近代化のさきがけにな っていった。とくに、ブラッセルは欧州連合の拠点として、ヨーロッパ統合の核 になっているところが興味深い。欧州の高速道路を走っていると、欧州連合の象 徴である星型の輪のマークをつけて走っている車には、ベルギー車、オランダ車 が断然多い。ベルギー、オランダからみるとフランス、ドイツなどはまだまだネ ーション・ステートの後遺症を引きずっている国々と見えるのかもしれない。

 スイスもそうであるが、ヨーロッパの人口の少ない国々は自分の国の中だけで 閉鎖的な枠の中にとどまっていては、快適かつ豊かに生きることができないこと を肌で感じてよく知っているようだ。周囲の国々のひとに理解され、愛されて、 自由な貿易・人的な交流をすることが自分の生活水準を引き上げる道につながる ことを早くから気づいているようである。この点では、アメリカ合衆国、わが国 日本とは若干異なっていると言えよう。

 自由に貿易をし、人的な交流をし、そこで競争に勝ち抜いていくには、文化、 教育、物とサービスの輸出のあらゆる分野で皆にアピールできる独自性を持たな くてはならない。天然資源がほとんどない小さな国々がヨーロッパで生き残るた めに人々はこれまでいろいろ知恵をしぼって来たに相違ない。スイスでは古く は、頑健な体をもった傭兵を輸出し、いわゆる出稼ぎ大国の異名をとってきた。 他の国にはないアルプスを観光の目玉として、スイス・ホスピタリティーを織り 込んで、スキーなどの誘致に熱心に取り組んできた。最近では、時計産業に加 え、製薬業、バンキングが重要な稼ぎ頭となってきている。

 ベルギー、オランダは古くから西ヨーロッパの中核的な位置付けと良港を持 ち、物流の拠点としての重要さを握っている。それにアメリカ、日本からの投 資・出資をこころから歓迎し、全欧州への進出拠点として各国からの製造業・サ ービス業の参加を歓迎している。つまり、欧州統合と世界規模の交流の拠点とを 目指しているといえるだろう。外国人がベルギー、オランダで労働許可を取得す るのは他の国々とくらべはるかに容易と聞いている。

 日本では、未だネーション・ステートを念頭において、人口の多寡によって、 一流国とか二流国とか定義して、その中の何処に自分を位置付けるかなどと考え ているうちに、ベルギー、オランダなどの国は一皮も二皮もむけて、グローバル な競争の下でしっかりと自分を位置付けようと変化を遂げているようだ。

 数年前ベルギーに旅行したときに、ホテルの掲示板に「ベルギーはヨーロッパ のサンド・バッグだ」と書いてあった。ナポレオンと英国が戦ったワーテルロー の戦いは、フランスでも、英国でもなく、ベルギーが戦場となった。自分の国で いくら気をつけていても、大きな国の軍隊が次々とやってきてサンド・バッグの ように叩きのめしていくことの繰り返しであったという。ベルギーが他の国の動 向にも強い関心を払わなければならなかった理由が窺い知れる。

 ヨーロッパの小国は自分の存在感をしめし、世界にアピールし、主導権を握る ため、普遍的な考え方・理念を考案し、これを広く伝播しようとの努力を続けて きた。これは小国だけにとどまらず大国も中規模国もみな必死に取り組んできた ことのようであるが、とくに小国が生き残りをかけて熱心に取り組んできたもの のようだ。

 宗教と政治・経済の分離、市民社会と平等主義、省エネルギーと地球環境に配 慮した生活、自由貿易、社会福祉の理念などは、これら人口の少ない国々がとく に熱心に発信しつづけて来たものであろう。これらの理念は十分21世紀にも通用 する理念であると思う。

 わが国日本は21世紀にむけて、あらたに発信できるような理念・文化をどれだ け持ち合わせているだろうか。日本は米、独、仏、英、伊、のような大国の動向 にのみ目を奪われることなく、ヨーロッパの小国の生き方をじっくりかみ締める べきだと思う。それが日本の21世紀に生き延びる道につながるのではないかと今 考えはじめている。 (了)

 



(99/03/22 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆   スイス発・気球による初の世界一周

 

 1999年3月1日、Breitling Orbiter 3号は多くの見送りを得て、アルペンホル ンの奏でられる中、スイス・グリュエール近くのシャト・デーを世界一周の旅に 出発していった。当時、ローザンヌ在住であったスイス日本サイバーグループの 増本博さんがこの出発式に参加され貴重な映像を提供してくださった(巻末URL ご参照)。Breitling Orbiter プロジェクトは過去2回とも失敗し、このほか にもVirgin Atlantic ブランソン社長の気球など、これまでにいくつもの、世 界一周への挑戦失敗があった。このBreitling Orbiter 3号の挑戦もうまく行 けば良いのにと期待を込めてはいたが、誰も必ずしも成功への確信はなかったに 違いない。私も3月1日に、このプロジェクトの推進本部のホームページ(URL は巻末)に"成功を祈る"とメッセージを書きこんでおいた。

 Breitling Orbiter3号は、偏西風に乗って順調な飛行を続け、約3週間後の 3月20日、GMT12:00ごろアフリカ上空、マリまたはモーリタニアで、世界一周 を達成することが確実となった。世界初の快挙である。

 これまで、マゼランの世界一周、飛行機による世界一周、ヨットによる世界一 周などいろいろな記録があったが、この気球による世界一周は風任せの飛行でエ コロジー上にも極めて興味がある。このBreitling Orbiter プロジェクトは英 国・スイスのジョイントプロジェクトとも言うべきもので、気球製作は英国、ブ リストルのCameron Balloons社、精密時計・精密機器の世界的なメーカーであ るスイス・Breitling社が中核的なスポンサーである。Breitling社の同プロジェ クト・ディレクター、Stefano Albinati はプレスからどれほどの費用が掛か ったかと聞かれるといつも「このプロジェクトはわれわれの夢であった」とのみ 述べて、詳細をあきらかにしなかったと言う。パイロットは、スイス人、 Bertland Piccard と英国人 Brian Jones で、約1万メートルの上空で約7− 8度の寒さに3週間も耐えなければならない。

 今回確実視されている初の成功のかぎは、中国が上空通過を認めたことと、燃 料に灯油でなく、液体プロパンを使ったことによると言われている。Breitling  Orbiterの前2回に失敗は97年1月の地中海への墜落、98年2月のミャンマ ーでの墜落であったが、このときは中国の承認が得られず、回り道をしようとし て気流の不安定なミャンマーで不時着した。Piccardはこのため、3度目の挑戦 のため直接中国まで出向き、事前に上空通過の許可を取り付けている。燃料の液 体プロパンは灯油より重いが燃焼のための信頼度が確実に高いという。今回はこ の液体プロパンを前回より20パーセントも増大し、100Kg入りの容器を28 個も搭載している。

 気球には精密なエレクトロニクスの粋を集めた航路誘導装置、ジュネーブの本 部との交信のための人工衛星コミュニケーション装置を搭載し、この電源として 20個の太陽光発電装置を気球に貼り付けてあるという。風任せの気球飛行とは 言え、高度を保つための燃料、位置確認、交信のための各種機器の搭載・維持・ 管理が不可欠のようである。このプロジェクトは当初からInternet Home Page で詳細が発信され、世界中の人々との間でインターアクティブな交流がなされて いたことも興味深い。

 日ごろ、騒ぐことの少ないスイスのプレスもこのプロジェクトの成功にはかな り大きなスペースを割いて報道しており、地元では静かな興奮の輪が広がってい るようである。ここで面白いのは、公的な支援が全くないこと、スイスの分をわ きまえ、英国とのジョイント・プロジェクトとしていることである。それにも増 して、この気球プロジェクトには、太陽電池、偏西風まかせ、といった「環境に やさしい」と言った点が多くのひとの心を捉え、「夢」を膨らませるものらし い。これが「21世紀」を展望する大きなテーマになることに皆が気づき始めた のかもしれない。

 それにしても、気球内のパイロットのPiccard, Jones 両名は風邪ぎみで、 髭ぼうぼうであるという。食べ物も新鮮な食料は一週間で底をつき、乾燥食品の みでがんばっているらしい。トイレはあるが、シャワーはないという。早く、成 功の内に地上に降り立ち暖かいシャワーでも浴びさせてやりたいものである。

(了)

増本さんによるシャトーデー出発の光景。3月1日。
http://plaza6.mbn.or.jp/~denji_ken/home.html

Breitling Orbiter 3 Official Homepage http://www.breitling-orbiter.ch/breitling/breit98/eng/index.html  

 



(99/03/12 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆   老後の生き方について

 

3月8日、NHK福祉番組担当の田中敦晴さんから突然電子メールが入ってきた。こ の4月から始まる「シルバー人生塾」という番組で、「老いのヒント」「老後の 生きがい」という点で多くのかたから意見を寄せてほしいと言う。田中さんはス イスに10年も住んでいる私の「ライン随想録」をホームページでご覧になり、日 本の外に住んでいるものの視点から老後の生き方に感想を寄せてほしいと言うことのようだった。

わたしは今、50台後半、今のところ健康にも仕事にも恵まれ、毎日充実した生活 を送っている。ただ、老後の問題とくに日本とヨーロッパのコントラストには日 ごろいろいろ考えさせられるものがある。

現役で仕事に打ち込んでいるとき、子育てに懸命になっているときには、これが 直ちに社会貢献にもつながり、生きがいにもつながっていると言えるだろう。問題は仕事を終えたとき、子供が巣立っていったときに、そのむなしさとどう対応 していくかということのようだ。 結局、それはひとから教えられるものではなく、自分で努力して築きあげていく ものと思う。わたしの母親は84才、5人の子を育て健在である。子供が学齢期の ときには次々と小中学校のPTAのお世話役をしていた。これが終わると町内会の お世話、老人会の纏め役をしていたが、こちらも下火になると今度はお葬式のア ドバイザーのような仕事を見つけてきて重宝がられている。町の年配のお仲間が いつもわたしの母親のまわりに集まってきている。

比較的健康に恵まれている人、世話好きな人はこのような奉仕活動、ボランティ アーの仕事で貢献するのも良いだろう。また打ち込むことのできる趣味を持って いる人も幸せであろう。これに対し、健康がやや衰えてきた人、一人での生活が やや困難になってきた人をどう支えていくかは、難しい問題である。50年前はと もかく、現在のヨーロッパでは家族による介護はほとんどなく、公的な介護施設 にはいるのが当然と考えられ、これが自然にその老人にも家族にもうけいれられ るような状況になっている。長い間かけて、この公的な受入体制が充実してきたものであろう。最近進展が見られては来ているが、この点でまだまだ日本は社会 環境が過渡期にあるのかもしれない。

スイスでは「友人は3人いれば十分」と言う人が少なからずいるようだ。濃密な 人間関係を好む日本人に対し、個が確立し、家族の中でも常に若干の距離をおい た人間関係を作り上げていると、「一人暮らしの孤独」に対し耐えられるひとの 比率がヨーロッパでは多いのかもしれない。

急速に高齢化が進展している日本では親が80才台、90才台に成っていくと、子の 世代が60才台、70才台になり、こちらの体調が衰えてきているケースが続出して いるようだ。年配の人は、自分の体調が落ちてきても「安易に親族に甘えない」 「不平不満を決して言わない」ということが、ますます大事に成ってくるだろ う。親族に囲まれなくとも老人向けの公的な・私的な施設でほかのお仲間と仲良 くたくましく生きていく行き方を誰もが学んでいくべきだとこの頃つくづく思 う。

わたしの場合、40才台のはじめ頃からパソコン通信のお世話役を引き受けてき て。これがかなり社会貢献に役立っていると思う。現在もスイス日本サイバーグ ループ(約200人)、新欧日ネット(約120人)、賢い投資家グループ(約100 人)のお世話をするなどいろいろなグループの活動を支えている。大学時代のサ ークル、留学時代のサークル、職場時代のサークル、のグループ化にもお手伝い している。時折、今お目にかけているような「ライン随想録」を発信し約1000人 の方に読んでいただいている。この随想はホームページに掲載し、メールグループにお送りするとともに、またニュースレター(まぐまぐ、マッキー、ココデメ ール)でお送りしている。NHKの田中さんがこのテーマでわたしのことを見つけていただいたのも、ホームページをご覧になってのことである。「ライン随想 録」ホームページへのアクセスは過去2年ほどで、おかげさまにて18.000件をこ えたようであるが、毎日数件スイスに関することで照会があり、わたしにわから ないときには、約200人のお仲間に転送し、迅速に応援を仰ぐようにしている。 このスイス・グループは日本語グループと英語グループとからなり、集まるとき には当然合同で集合し、ここでは英語、日本語、ドイツ語、フランス語が交錯 し、極めて活発な意見交換が行われている。こうした交流グループは日本人・スイス人の若い人、年配の人々のこころを支え会うグループとしてますます発展していくものと確信している。

もうひとつの側面はパソコン通信・交流を通じて日本のベンチャー・ビジネス、 企業をいろいろな側面から応援できないものかと研究を重ねている。今、日本経 済活性化のひとつの試みとしてベンチャー企業に注目が集まっている。ベンチャ ー企業のなかでもコンピューター・通信の分野で大きく伸びるものが多いと思っ ている。東京に一時帰国したときなど、いくつかの若手グループと接触している が、どれも不況下と言うことで苦戦を強いられている。若い人を甘やかすことな く、厳しく教育し、伸びる芽を大きく伸ばしていくことが、われわれ年配のもの の責務ではないかと考え始めている。こうした活動でお金をもうけることは考え ていない。日本人のお仲間を支援する「志・こころざし」に根ざすものである。 こうしたことが老後を生きるわたしの「生きがい」につながっていけば望外の幸せであるとこの頃思い始めている。

(了)

 



(99/02/20 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  アメリカ人とヨーロッパ人

 

日本で「欧米」ではと言うことが多いが、「欧米」というのは極めて大き過ぎる くくり方だなとこの頃良く思う。タイトルに「アメリカ人とヨーロッパ人」としたが、「ヨーロッパ人」というのも大き過ぎるくくり方かなとも思う。一応、アメリカ合衆国に住む人、とユーロゾーン(ユーロランド)に住む人、よいうと分かりやすいだろうか。ヨーロッパ人とは別の言い方をすれば、西側ヨーロッパ、 独、仏、伊、ベネルックス、スペイン、ギリシャなどに住む人々ということになるのだろうか。もちろん、英国、アイルランドに住む人々もヨーロッパ人に加えても差し支えないだろう。こうした大きなくくりの話しはどうしても、「群盲、 象をなぜる」と言った類の話しになってしまう。

1970年代にワシントン勤務をしていたころ、夏休みに約3週間のヨーロッパ・パッケージ・ツアーに参加した。ロンドン、パリ、ルッツエルン、ローマ、 フィレンツェ、べネツィア、マドリッド、リスボンを駆け足で巡った。このときはわれわれ夫婦の始めてのヨーロッパ旅行であった。当時は30才台前半で、何もかもが珍しかった。その後ヨーロッパに来て10年も住むようになるとは、想 像もしていなかった。アメリカ人観光客約30人のグループに我々だけが日本人として参加したもので、彼らのヨーロッパに対する反応をかいま見る感じがして 興味つきなかった。アメリカ人の大部分を占めるヨーロッパ系アメリカ人(ツア ーグループのほぼ全員)にとっては、ヨーロッパはかれらの父母・祖先が住んでいたところ、当然こころのふるさととして大きな割合を占めている。

3週間行動をともにしてくれた添乗員のジョバンナは「ローマ人はわたしたちに法律を与えてくれたが、今のローマ人は一番法律をまもらない」と嘆いていた。 ツアーの一行にやや年配のOLがいたが、「フランス人には農民が多く、これらの人々のことをフレンチ・フロッグ(カエル)と言うのよ」と何度も教えてくれた。口がパクパク良く動くので、この人こそ「フレンチ・フロッグ」ではないか と想像したのを覚えている。

アメリカ人はヨーロッパは父祖の地ではあるが、経済的にはおちぶれて、家の値段、食料品の値段も高く、大学にいけない若い人も多く、今ではアメリカ、アメ リカ人のほうが優位に立っていると思っている。一方ヨーロッパ人はアメリカに は見るべき文化も無く、食べ物もまずく、ひとびとは浅薄で、単なる貧しい移民の国ではないかと思っている。当然、個々人により、地域により、家族により異なっているのだが、それぞれが相手に対し、羨望と軽蔑が微妙にからまっているのが、現実のようである。

ここで忘れてはならないのはヨーロッパの多くの国々のひとは、広範にアメリカ人と縁戚関係で結びついていることであろう。これは日米、日欧間をはるかに上 回るであろう。大体どこのヨーロッパの国でも二人に一人くらいは兄弟、姉妹、 いとこがアメリカに暮らしている。大学、大学院のレベルでアメリカ人とヨーロッパ人が相互の地域で教育を受けたり、またビジネス上のパートナーとして交流 している範囲は日本人の想像を超えるものがある。

アメリカ人とヨーロッパ人は今の世界で、政治面、経済面、社会・文化面でもひとつの主導的な軸を形成していると言えるだろうが、ここにはアングロサクソン (米・英)と欧州大陸主要国(フランス・ドイツ)との間で微妙な対立が見え隠れする。当然のことながら、米国・英国の間には独立戦争以来の激しい対立の歴史があり、共和国(リパブリック)としての政治形態上は米国はむしろフランス に近い。王制が残っている英国はむしろ、ベルギー・オランダと親しみを感じているのかもしれない。欧州大陸主要国のフランスとドイツの間には第一次・第二 次大戦時、またそれ以前にも激しく戦いつづけたと言う苦い過去がある。それでも、現在は欧州連合の軸の二大国として押しも押されぬ緊密な関係を築きあげて いる。現在のこの二カ国の結びつきの強さは遠くから展望している日本人の想像 を絶するものがある。軍事面でも独仏連合の軍隊がすでに発足していると聞く。 また、99年1月から発足した「ユーロ」はフランスとドイツの協力無くしては 実現しなかったと思う。良く知られていないが、フランス人のエリート層にはド イツ語を学んだひとの比率がかなり高い。

米国と英国の結びつきには表面的に見える以上に強固なものがある。それは政治・軍事面での強い結びつきに現れている。英国は暗号解読の技術蓄積の面で米 国をはるかにしのぐものを持っていると聞いている。アメリカとイギリスの指導的立場にある人々は教育、文化、情報の面で大陸諸国の人々とは一味ちがった強い結びつきを持っているように思えてならない。このアングロサクソンとフラン コ・ゲルマンの対立は経済、政治、文化、教育、情報などの各分野で、現在の世界に微妙なかげを投げかけているように思える。

英国が欧州連合に加盟したときに、ベルギー人の友人に「なぜ今になって英国は 欧州連合に加入したのかね」と聞いてみた。「多分英国はアメリカとの結びつきを保ちつつ、欧州としての顔ももちたい。両方の良いところをとりたいのではな いか。ケーキを手に持っていると同時に、食べてもしまいたいと考えているのではないか」とこのベルギー人は話していた。

もうひとつの側面として、アメリカ人とヨーロッパ人を分ける最大のちがいは 「歴史と言語」ではないか、と話している人がいた。一面の真理ではないかとこの頃考えるようになっている。アメリカにはわたしは累計で8年いたが、地域に より言語としての「アメリカ」にかなり違いがあり、東海岸、西海岸、中西部、 南部によりそのアクセント・方言にはかなり差異がある。しかし、カナダ・ケベックのフランス語、南カルフォルニアのスパニッシュを除けば広大な北アメリカ 大陸は英語・アメリカンの統一言語地域という世界でも例をみない特異な言語地域ということになる。それにここの大部分の住民は英語・アメリカン以外の言語 をほとんど理解しない。ヨーロッパでは英国でも教育を受けた人はかなり高い割合でフランス語、ドイツ語を理解する。ドイツ、フランスでも高い教育を受けた 人はみな英語をかなり上手に話す。独仏国境をながれるライン川流域は古くから フランス語、ドイツ語のバイリンガル地域である。

歴史については、当然アメリカは浅く、ヨーロッパは長く、複雑だというはなしになるのだが、アメリカ東海岸の独立戦争・勃発の地として知られる「レキシン トン、コンコード」地区に行って驚いた記憶がある。200年すこし前の独立戦 争・発端の歴史が一こま一こま、分刻みで記録されている。あたり一帯をなめる ように発掘して、当時発射された弾丸がすべて博物館に納められている。100 年ほど前の南北戦争の歴史も克明に記録され、関連の博物館が東部・南部の戦跡 に多く残されている。その精密さと少ない歴史を記録しようと言うアメリカ人の エネルギーには驚きを禁じえない。最近では変わっているのかも知れなしが、先 住民族としてのアメリカ・インディアンの歴史についてはそれほど関心が払われ ているようには思われなかった。

ヨーロッパにはその歴史に深さと多様性があるため、「歴史的なもの」への住民の関心が根強いように思う。また、人々の歴史感覚そのものがヨーロッパ人を形 成しているものと言っても過言ではあるまい。それに言語と歴史そのものが複雑 に入り混じっている。とくにアメリカの単一言語、単一文化に比較するとヨーロ ッパの各地域の多様性、複雑さには目を見張るものがある。とくにヨーロッパ中 央部に位置するスイスでは23の各州・各カントンごとにそれぞれ異なった歴史、文化、言語を持っていると言ってもそれほど大きな間違いではない。とくに スイス・ドイツ語はハイジャーマンとはかなり異なり、地域ごとにアクセント、 発音がかなり異なると言う。その人の話すスイスドイツ語でそのひとの出身の 村・町がぴたりと当てることができると言う。

そう言ったヨーロッパの多様性、歴史・言語の相違という側面と同時に汎ヨーロッパ的なもの、統一ヨーロッパ的なものへ向かう動きと言うものが、海の潮のご とく行ったり来たりしている。とくに若い世代はフランスでも、ドイツでも、イギリスでも、もぼ共通な関心と考えを持っているようにも覗われ、いわゆる「ユ ーロ・ビジョン」世代と言うものが育っている。年配の人々がそれぞれに過去の苦い歴史と思い出をひきずって他の国々の々とは若干の距離を置こうとしているのとはやや対照的である。

わたしの周囲では、フランス人とドイツ人、英国人とフランス人、イタリア人とドイツ人などのカップルがたくさんいる。特に驚くことではないようだ。それは アメリカでそれぞれの両親の出身国が異なる人々がカップルとなるのと同様のことである。日本でもアジアでも少し前まではおおらかな交流があったに違いない。

一つだけ言えることは、20世紀が終わりに近づき、21世紀が展望できる現在 となって、ヨーロッパ人の融合、統合、アメリカとヨーロッパの緊密化が一段と 進むようになったと見られることである。それに日本、中国、アジアとも結ん で、グローバリゼーションの波が大きく押し寄せてきている。これは個々人のち から、個々の国のちからでは止めることができないように感ぜられる。

航空機料金の低価格化、電話・情報伝達コストの低廉化、インターネットの普及 がこうしたグローバリゼーションを一気に進めようとしている。あと十年もする とわれわれはかなりの変化を遂げた、アメリカ人、ヨーロッパ人、日本人を見ることが、できるようになるのではないかと考えている。

(了)

 



(99/02/14 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  ペルシャの市場にて

 

わたしは中近東のバザールで、みやげ物などを見て歩き値段の交渉をするのが大好 きである。トルコのイスタンブール、イランのテヘラン、アフガニスタンのカブー ルなどには何処にいっても大きなバザールがある。調理器具、食材など何でも売っ ているが、われわれ一時的に滞在するものとして、関心があるものは、テヘランで はラピス・ラズーリという濃紺の貴石でつくったかざり、カブールでは羊の革製 品、イスタンブールでは貝の装飾をほどこした箱、イスラム絵画などが目を引い た。最高級のものを求めるので無ければ、かなり割安の値段で手に入るようであ る。東京のデパートのように固定価格の値段がついている訳ではないので、当然交 渉次第と言うことになる。われわれの場合、これらの国々に行ったときには調査団 の一員として一箇所に4−5週間滞在することが多かったので、暇のときを見つけて 何度も足を運ぶことになる。これがまた実に楽しかった。  

割安にこれらのお土産を買う「こつ」は、すぐに買わないこと。できれば現地の友 人と一緒にいってもらい交渉を手伝ってもらうほうが良い。もし現地のお仲間がい っしょでないときには、ひとりまたは複数の外国人同士で行く訳だが、できるだけ 背広にネクタイなどは着ないで、現地風なラフな格好がこのましい。ほとんど読み もしない現地新聞をさりげなく、小脇にはさみ、現地駐在員風をよそおう。タクシ ーなどに乗ってお目当ての店先までいってはいけない。かならず、その店の4−5 軒手前でおり、歩いて店に入る。金持ちとみられてはいけない。一回目はプライ ス・チェックだが、自分がほしいと思ったものの値段を真っ先に聞くことはしない で、他のものの値段を聞き、4番目か5番目にお目当ての品の値段を聞き、すぐに とんでもなく高いといった顔つきをする。  

甘いカモの日本人と見られて、紅茶を奥でぜひどうぞと勧められるが、さりげなく 断る。 “What’s your price?”と聞かれることが多いが、言い値の4分の1、5分の1くら いの値を唱えておき、第一回目は交渉を打ち切る。2回目、3回目と行き、プライ スチェックを何回も繰り返し、底値を探っておく。5−6回目に言い値と買値の差 がかなり縮まった段階で交渉打ち切りを宣言して、小走りに店の外に出る。5−6 回も交渉しているので、買う気があるとみて、店の人はかならず追ってくるので、 最終値を小声で2−3回繰り返す。だいたいここで、交渉が成立するが、かならず もう一つ同様のものを同じ値段でどうだと聞いてくるので、これはきっぱりと断 る。何度も足を運ぶのは大変なようだが、しだいにこれをゲームとして楽しむよう になってくる。店の相手も何度か通ううちに、こちらが地元にすんでいる人かなと 思うようになる。  

話しはかわるが、わたしは食材などを売っているスーパーマーケットに行くのが好 きである。どこの国でも、食料品店はどこでも情報の宝庫であると思う。スイス・ バーゼルでも市内のMigros, Coop に定期的に良く買い物にいくが、近隣の国のス ーパー、フランス・サンルイ(国境から1−2km)のロン・ポアン、ジアン・カ ジノ、ドイツ・バイムアムライン(国境沿い)のスーパー・ビッグなどには良く出 かけていく。それぞれの国のスーパーに特色があるが、食材などの品揃え、値段な どに気をつけてみると、いろいろ面白い発見がある。フランスは農業国だけあっ て、食肉、野菜、ワイン(赤)が豊富で割安だが、パッキングがスイスほど丁寧で ない。ドイツはハム・ソーセージの類が豊富で、スイスでは手に入りにくいイタリ ア、スペイン、ポルトガル産のワインの品揃えが多い。スイスのスーパーは品質こ そ悪くないが、その分だけ値段が割高である。それぞれの良さを比較しながら、購 入するようにしている。  

ペルシャの市場ではないが、日本国内でも関西圏は値段の交渉の余地がある店の比 率が高いと聞く。関西のひとが東京のデパートに来て、「おねーさん、もうすこ し、まかりまへんか」などと聞いているシーンもあるようだ。東京でも、若干の交 渉の余地があるところもすくなくないようだ。ほかの客に聞かれないように、電卓 に表示したり紙に書いて値段をわたすケースが多いようだ。わたしの以前住んでい た、世田谷の成城・祖師谷地区では成城学園前のスーパーのほうが祖師谷商店街に くらべて、1−2割、割高になっているようだった。祖師谷の方の商店では八百 屋、魚屋などでばら売りのもの、自分で処理を要するものの値段が安いようであっ た。  

日用品の値段を厳しく比較して安いものを購入しようとするより、金融資産の値上 がりにより大きく儲けるほうがより大切と今の日本では考えられているのだろう か?

(了)

 



(99/02/09 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  「我々が恐れるべきものは恐れる心それ自身だ」

 

これは1930年代、アメリカの大統領・フランクリン・D・ルーズベルトが行った著名な演説の一節である。大不況の折アメリカでは、恐怖が恐怖をよび、ス パイラル的に経済、社会が悪化していった。ルーズベルトは悪循環を断ち切るた めに、この言葉を語ったのであろう。 ”What we should fear is fear itself. ” この言葉は平成大不況のもとで萎縮している現在の日本にそのまま当てはまるであろう。でもここでは、経済の話しに深入りはしない。メンタル (心)の側面とパフォーマンス(結果)にはかなり微妙な関係があることには多くのかたが先刻ご存知のことだろう。

たとえば、テニス・ゴルフのようなスポーツ。結果を出そうとあせるとかえってうまく行かないことが多い。テニスでもごく簡単なボレーがあがると「これで楽 勝」と思い力が入ってネットにかけたりする。ゴルフでも1打、2打がうまく行 くと、これでパーは堅いと力んでしまい、3打目をチョロしたりすることがよくある。日本人はスポーツの選手に「がんばれ、がんばれ」と力を入れるよう声を かけるが、アメリカ人は”Take-it-easy” とリラックスするように声をかける。日本ではスポーツの時に、選手がガムを噛んだりすると不真面目だ、不見識 だと観客は怒るが、アメリカにおいてはガムは緊張を解きほぐす手段として多くのひとに受け入れられているようだ。オリンピックなどで、日本選手がメダルを いくつ取るかに、関心がいつも集まるが、その選手が自己最高の記録を更新する ような時には絶賛をあたえるのが正しいような気がする。

「恐れるべきものは恐れるこころそれ自身だ」、と言うことは人間の病気とその反応にもあてはまるのではないだろうか。昔から、「病(やまい)は気から」と 言われている。病気に対する心配そのものが大きなストレスとなり、これが体調 そのものをさらに悪化させてしまうということが良くあるだろう。心配によるス トレスが自律神経、ホルモンのバランスを崩しかえって病状を悪化させてしま う。エドガ−・アラン・ポーの「大渦巻き」で九死に一生を得た主人公が一夜に して髪の毛が真っ白になったことをご記憶のかたが多いだろう。「ガン」を宣告され自暴自棄となって死期が早まったり、前倒しの抗がん剤服用で体調がかえって悪化し、命をちぢめてしまうのはいかがなものかと思う。

パソコン利用でも、本来楽しかるべき通信・交流が機械の故障、誤作動の心配な どからストレスを感じている人も多いに違いない。初心者のひとが他の慣れた人に迷惑をかけるかもしれないことで心配でびくびくするようなケースも少なくないようである。

恐怖心がわれわれの生活を我々の体を覆い尽くしてしまわないようにするにはどうしたら良いのだろうか。これには常々、「心のゆとりを持つようにすること」 「気分転換をたくみに図るようにすること」「逆張り、衆にむれない態度をとる こと」といった精神構造をもつようトレーニングすることが大切ではないかと思う。

1930年代のアメリカでは株が暴落し失業者が町にあふれたために、それほど 実害の無かった一般の人々までが、財布の紐を堅くし、これが一層不況を深刻化 した。これを避けるためにルーズベルト大統領が異例の呼びかけを行ったのであろう。今の日本でも、仕事を持ち収入が安定している人々は、住宅金利も低くなっていることだし、住宅・マンションの取得をする良い機会と思う。みなの心に 不安と心配が広がっているような今の時期こそが、後になって住宅価格が底値で あったと思い出すに違いない。最近、失業した際の補償付きの住宅ローンが売り出されていると聞いているが時宜をえた優れた商品だと思う。

スポーツでのメンタル面での克服には「自分が全力を出しきれば結果は一切問わない」という強い意志が必要であろう。ゴルフでも、テニスでも、また他のスポ ーツでも、一打一球に一喜一憂しないことが大事と思う。わたしのような素人ゴルフは一ラウンドのうちに、かならず8つや10のミスショットが起こる。ひとつミスが出てもこれに怒ったり、悔やんだりせず、10予定されたミスの一つが たまたま出たものと割り切るようにしている。良いスコアがたまたま一部に出ても、これを続けることの難しさを常に思い起こすようにしている。若い人と一緒 にゴルフに行くと、ひとつのミスショットにくさって、ミスを続けたり、投げやりになったりする人が少なくない。ミスをしたときに、「遠くの山をみなさい」 とか「今日の天気はよいですな」などと話しかけて上手に気分を転換するように 勧めている。

病気などにより体調が落ちてくると、人々は気持ちが暗くなり悪いほう悪いほうを予想して往々にして悪循環におちいってしまう。気分を転換するといってもそ う簡単ではないだろう。きれいごとかもしれないが、病気への恐怖、死への恐怖 ということは健康なとき、正常なときにどれだけ燃焼し尽くして人生を送ってき たかということに関連しているのではなかろうか。自分で完全に燃焼し尽くして 人生に取り組んできたと考えている人は比較的余裕をもって人生の終末期を迎え ることができよう。遅かれ早かれ誰しもが、病気なりで死を迎えることになる。 自分の病気だけにこころのすべてを奪われないで、体調・体力に少しでも余裕が 残っていれば、社会のため他人のためお役にたつことはないか考えてみることも 大事なのではなかろうか。

わたしは過去15年間ほど、パソコン通信、コンピュータ通信を楽しんできた。 ここ数年年配の方々を含め多くの方々がこうした交流の輪に新規に参加していた だくようになっている。そのような初心のかたがたの心には、新しい取り組みに 対する「不安と恐怖」が交錯しているように思えてならない。機械の故障、誤作 動、他人に対するエチケット不足などが不安の根底にあるように思う。この点も わたしは実に「おおらかに」構えている。とくにインターネットの世界では異な った機種、異なった言語のコンピュータがグルーバルな網のもとで交信してい る。こうしたところでは、一部で文字化けを起こしたり、予想したものが届かな かったり、誤作動で二重に送信されたりすることはいたし方がないと思う。そう した一部の問題をおぎなってあまりあるほどのすばらしさをインターネットの世 界はもち合わせている。きわめて重要な情報交換は電話・FAX・手紙により補完 することが大事と思う。初心者のかたはリップサービスだけかもしれないが、正 常な交信ができないのではないかという「不安と恐怖」がいつもつきまとうと語 りかけてくる。できることならば、こうしたインターネット交信の世界では誰で もが「二重のハードとソフトのシステム」(いわゆるパラレルラン)を構築する のが良いと思っている。そうした安全ネットをつくったならば、あとは「おおら かに」構え、細かいことに「エチケット」を押しつけてくるいわゆる「教え魔」 には耳を貸さないようにすることが必要のようだ。

ここでも、「われわれが恐れるべきものは恐れる心それ自身だ」ということが当てはまると思う。

(了)    

 



(99/02/06 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  帰国子女

 

しばらく前、東京で信号が変わるのを待っていたときに、隣の二人連れの一人 が、「今日は丁度5月のアテネのような気候ですな」と言っていた。連れの人は 「はあ、そうですか」とか、生返事をしていたが、5月のアテネを知らない私と しては、このようなさわやかな気候を「5月のアテネのようだ」というのかと、 ふと思った。また、しばらく前、事あるごとに、「パリでは、パリでは」と言う知人がいて、パリに住んだことのない私としては辟易したことを記憶している。

昔、帰国子女を扱ったNHKのテレビ・ドラマを見たことがある。アメリカから帰 ってきた女の子が、「英語の時間には、わざとジャパニーズ・イングリッシュに変えて話すのよ」と、適応不全の男の子に話して聞かせるシーンがあった。そこ まで行く必要はないのかもしれないが、「発音の悪い日本人の英語の先生や、日本人生徒のお仲間の心情をおもんばかった心憎い演出」ということもできよう。

この点については、いろいろ異なった意見があることをわたしは良く承知してい る。ただ、外国で長い期間教育を受けたものが日本のお仲間に溶け込むためには 「郷に入っては郷に従え」というのが賢い生き方だなとこのごろつくづく思う。 たとえば、アメリカではクラスでも各人が積極的に意見を言い、発言をすること が高く評価される。自己主張は美徳とされ、先生も生徒も誰もがこれをを認めている。これが日本では、往々にして「出るくぎ」と受け取られてあまり強く自己 主張をすると一瞬にしてその場がしらけてしまう。価値観のことなる社会でうまく適応するには、その違いを巧みに理解し、それぞれの場で使い分けをすること が賢明な道だと思う。若い人はそれが十分に理解できずにあちこちで衝突してし まうのが実情のようである。

かと言って、わたしは事勿れ主義の日本の価値観がすべて正しいと思っているわけではない。誰もが自己主張を貫き、流暢な英語を話す人が正しく評価されるよ うに日本自体が変わるべきものと思っている。ただ、それがまだ十分に変わっていない以上、巧みに適応しないと日本の社会から日本のお仲間からはじき出されてしまう。はじき出されてしまうのがいやならば、上手に対応するのが賢明と思 っている。

日本の社会では外国のことをことさら吹聴する人はあまり評判が良くない。これを良く知っている私はひとが質問して水を向けてくるまでは、決して自分から外 国のことを話さないようにしている。それからいろいろ問題をはらんでいるとは いえ、日本はすばらしい国であると思うし、自分が日本人であることを誇りに思っていることを日本人のお仲間に声を大にして話すようにしている。自分の国、 自国民にプライドを持てない人は、(それを明示的に言うか言わないかは別とし ても)ほかの国のひとからはまず相手にされないと思っている。

「パリでは、パリでは、とことさら吹聴するひと」「外国のことを日本人の前で ことさら鼻にかける態度をとるひと」は、パリにおいて、また他の外国において、上手に適応していなかったケースが多いのではないかと、このところつくづ く思う。ひとの気持ちを巧みに読み、外国で柔軟に対応できるような人は、自国民の前であえて反発を買うような発言を繰り返すようなことはないと信じてい る。

わたしのように何回も外国と日本の間を行き来してある程度「ずる賢くなった人」と、純真な中学・高校生の帰国子女を同列に並べることはできないだろう。 ただ、日本の社会に十分適応できない状態のまま、日本に帰国子女を送りこむの は、大人・両親の怠慢であると思う。外国の価値観を持ちつづけ、外国で大学を 終え、就職するまでその暮らしを続けることを選択肢のひとつとして考えるべき と思う。そうせずに、中途で日本に帰ることを選択する場合には日本社会の厚い 壁を良く教えて聞かせるべきである。いろいろむつかしい人々との対応を迫られ る外国に比べれば、柔軟に日本の社会に溶け込むことは比較的容易であると思 う。それをしないで。親も含め外国に住んでいたことをひけらかすようでは日本 の社会にスムーズに受け入れられるわけがない。

外国に居るときも、日本に居るときも基本はひとつ。「相手の立場にたってものを考える」ということに尽きるのではないだろうか。これは帰国子女でも、国内 子女でも同じであろう。これができなければ、外国でも日本でも快適に生活する ことはできないと覚悟しておくべきであろう。 (了)

 



(99/01/28 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  自然治癒力

 

いまから25年以上も前の話しになるが、1970年代の初め、IMFの年次審査団の一員として、アフガニスタンの首都カブールに5回も6回も出かけた。一回行くと現地に4週間も5週間も滞在し、各種レポートを書くという大変な作業であった。アフガニスタンは典型的な発展途上国で、その平均寿命は35歳くらいであるというのに、70才台・80才台の健康に恵まれたお年寄りが町のあちこちにバザールにごろごろいる。ちょっとおかしいぞと思ったが、すぐにその訳がわかった。アフガニスタンでは、衛生状態が良くないため、乳幼児死亡率が極めて高く、これが大きく平均寿命を引き下げているらしい。

しかし、いったん15−16歳まで過酷な衛生状態の下で、生き延びたひとは強靭な自然治癒力を身につけているもののようで、医者に依存しなくとも70才台、80才台までも健康を維持しつつ生きていけるもののようである。昔は日本でもヨーロッパでも自然淘汰の下で、頑健な人々のみがやっと生き長らえられたもののようであった。今は違う。予防接種に、医者通い、入院に、手厚い医薬品の投与の下で、先進国では乳幼児死亡率がきわめて低いところに押さえられ、われわれの平均寿命もかなり長いものとなってきている。

わたしの住むスイス・バーゼルは世界有数の医薬品メーカー、ノバルティス社およびロッシュ社の二社がここに本拠を置いているところである。町のかなりの人口が直接製薬メーカーに勤務するか、間接的にその恩恵を受けている。ここでは製薬メーカーの研究所がたくさんあり、わたしのスイス人の友人、日本人それ以外の友人もこうした研究所に勤めている人が多い。こうした製薬の研究所に勤めている人と話しをすると、「一般のかたがたには医者の処方にあわせ、医薬品をとられるのが賢明でしょう」と勧めてはいるが、自分自身では絶対必要となるまでは医薬品は一切口にしない、とらないと話す人が多い。専門の研究をしているひとは、薬の副作用の恐ろしさを誰よりも熟知し、できうる限り避けるよう努めているらしい。

わたしの経験からしても、また友人の話しを聞いても、スイス人の医者は安易に投薬したりせずに、患者の「自然治癒力」できうるかぎり、引き出すよう努め、しばらく様子を見ながらお金をかけないで、治療するケースが多いようである。健康保険をカバーしている保険会社の医療サービスに対するチェックがかなり厳しいらしい。医者もそれを良く知っていて、できるだけ低コストで医療作業をするよう心がけているようである。

私は医療の専門家ではないので詳しいことは承知していないが、人間の体には病気を克服しようという強い力が常にはたらいているように思う。20−30才台の若いときにはその力がきわめて強く、加齢とともにその力が弱まってくるらしい。抗生物質を多く取りすぎると、しだいに効かなくなってくることが知られている。わたしは医薬品や医療体制にあまりからだが依存しすぎると、丁度「無菌室」に長く置いておかれるのと同様に、外の細菌に対する抵抗力がしだいに弱まってしまうのではないかと思っている。クリーンな日本の若い人に「雑菌抵抗力」の弱い人がおおいのではないだろうか?

バランスよく食事をとっていれば、いわゆる「ビタミン剤」などは必要ないだろう。風邪を引いたからといって、「咳止め」に「解熱剤」をつぎからつぎへと飲んでいては体が自然に治癒しようという工夫を妨げてしまうのではないだろうか。風邪をひくときには、体調・体力がおちているので、無理をせずに、ひとに移さないように、外出・出勤は避け、自宅で暖かくし、安静にしていることが望ましいように思う。会社のお仲間や、電車車内のお仲間も、風邪引き本人が無理をして出勤してきて、細菌を撒き散らすことを本当に望んでいるのだろうか。風邪はその性質にもよるが、一週間ほどはできうる限り医薬品なしでがんばり、長引くようであれば医師に相談するのが好ましいのではないだろうか。

結局、人間はいかに生きるかが大事であり、健康状態に恵まれているときに、人のため、世のためにどれだけ貢献できるかが問われているように思う。120才まで病院のお世話で、生き延びさせていただくよりも、たとえばモーツアルトのように30才半ばまででも、命を燃焼しつくせば、立派な人生であると考えることができるだろう。「神様が病気を治し、医者が金を取る(ベンジャミン・フランクリン)」ということのようであるが、一面の真理をついているようである。(了)

 



(99/01/11 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  緑の国・ニッポン

 

数年前、フランスのニースでアジア開銀総会があり、そこに参加する 機会があった。たしか太平洋に浮かぶ「西サモア」の代表であったと思 うが、「我々には美しいさんご礁ときれいな太平洋の海原(うなばら) がある。この美しい自然をそのまま維持することが大切で、開発とか経 済成長のためにこれを失うくらいならば、経済など成長しなくとも良い と考えている」と演説した。聴いていた人々は一瞬静まり返ったが、そ の直後拍手が沸きあがり、満場が大きな拍手で一杯になった。開発のた めの集まりに、堂々とこれに反対する考えを述べたものである。

 先進工業国に追いつき、追い越せ、この掛け声のもとにわが国日本は 経済成長の道をひた走り、その過程で大きな犠牲をはらい、大切なもの を失ってきた。「水俣病」がそれであり、「四日市公害」、「大気汚染」 、「水質汚濁」、「騒音公害」など、枚挙のいとまのないほどの問題が 生じたことを記憶されているかたも多いだろう。

 幕末・明治初期、当時の日本人が欧米列強の進出の前に愕然とし、 すみやかに国を富まして、軍備を増強し、なんとかして対等の立場に立 ちたいと考えたのも無理からぬものがある。また、第二次大戦の敗戦か ら一致協力して立ち上がり、早く経済をゆたかにするためには何をしな ければならないか、皆で考えたときに、少々の摩擦には目をつむり、 効率的な経済成長を遂げなければならないと考えたのも理解できなく はない。

 ただ、第二次大戦後の経済成長が始まったとき、スエーデンなど北欧 の国々は冷徹に日本の公害の行方を見据え、かなり早い時期 から経済成長と環境問題のバランスに強い警告を発していたことが今に なって思い出される。

 ヨーロッパの国々では、チェルノブイリの原発事故が近隣の諸国に 深刻な環境汚染を引き起こすという事実、またたとえば、スイ ス、ドイツ、フランスなどの上流地域におけるライン川の水質汚濁が 下流のオランダに大きな影響を与えることなど、国と国、また 民族と民族が近くに接して暮らしているため、他国の環境汚染に対し 極めて敏感である。今でこそ日本も中国大陸からの酸性雨の影 響を心配したり、ロシアのタンカーが転覆して、原油汚染が日本海 沿岸地域に広がったりするのを見て、他人事とはいえないと感ず るようになってきた。しかし、ごく最近までは島国日本が他国との間 で、環境汚染の面で係わり合いを持つことがあろうとは考えて いなかったのだろう。

 今は違う。オゾン層の破壊、CO2濃度上昇などで、地球温暖化 が進むと、南極の氷が溶け出して、海水面が上昇し、水面に没し てしまう島が出始めることが懸念されている。地球環境に十分配 慮しないと、人類はとりかえしのつかない事態を引き起こしてしま うのではという心配が人々のこころに広がり始めているのではな かろうか。

 資源を大切にし、環境に十分配慮するとなると、これからはそ う高い成長は望むべくもないのだろうか。また、少子化、長引く不 況の問題もこうした環境の観点からみると、無理をせず現状のま ま甘んじていていいのではないかという誘惑にかられる。

 ただ、こうした敗北主義から抜け出すには、低公害・環境配慮 の面で、今後日本産業、日本の社会・組織が世界の模範となるよう な技術・システムを構築していけるか否かにかかっている。丁度、 日本のメーカーが低公害の自動車を世界に先駆けて生産していっ たように、日本の技術が環境対策の面で進んでいることが立証さ れれば、グローバル市場で優位に立てるはずで、これが経済の伸び を支えることにもなろう。これは、「言うは易く、行うは難し」の 典型的な例のような気がする。ただ、日本は比較的狭い国土で、 過密な人口を抱えているため、これまでも公害・環境面で真剣な 対応を迫られてきたということを逆手にとって、ぜひとも工夫に工 夫を重ねていきたいものである。ごみを減らし、環境に配慮した 社会システムを作ることも日本人のもっとも得意とするところと胸 を張りたいと思う。

 このたび、広島市長選挙に立候補している、友人の前衆議院議員、 秋葉忠利氏は98年12月4日週の「アキバ・ウイークリー」 で、“これからの社会は「成長・開発」型から「成熟・安定」型 に移行していきます。そのひとつの象徴がごみです。広島とほぼ同 じ規模だった]戸Sなリサイクル社会でした。昨今ではこ のような社会をゼロ・エミッションの社会といいますが、この視 点から社会を見直す努力も必要です”と述べておられる。極めて 正鵠を得た洞察と思います。

 環境問題を真剣に考えると、ごみ発生の問題、その処理の問題、 リサイクルの問題など、複雑・多岐にからまる諸条件を一つ一つ 解きほぐしていかなければならなくなることに気づく。これは人の 生き方の問題、家庭のあり方、仕事の進め方、政府・地方公共団 体の役割、すべてにかかわる問題のようである。

 環境問題が国民の各層、とりわけ若者層に強い関心を呼んでいる ドイツでは「みどりの党」が躍進に躍進を重ね、現シュレーダー 政権の連立与党に参加していることは多くの方がご存知だろう。 「グリーン」の問題は単に“一部の活動家がWWFやグリーンピー スの寄付集めのために過激な行動に走っているものよ”と嘲笑して いればすむことではないようである。

 実は、われわれの日常の「一挙手一投足」すべてが環境問題 にかかわっているのである。新車を買うべきか否か、車をやめて電 車・汽車にすべきか、何を食べ、何を着るか、家は、旅行は、 …のすべてである。

 どなたか、「緑の党・ニッポン」を作ってくださる方は、 おられないのだろうか。今後、私は在外日本人が投票を許される比例区 でこの新政党にぜひ一票を投じたいものと思っている。

(以上)