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世界の窓

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【 スイス・バーゼルレポート VOL.12】

井浦 幸雄氏

(98/12/29 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  サプライズ誕生パーティー

 

「みなさん、本当に本当にありがとう」。これが大勢の友人が”ハッピーバース デイ・トゥ・ユー”を歌い終わったときの、ステラの第一声である。紅潮して、 すこし涙ぐんで見えた。

妻の節子がバーゼルの「ネットワーク」と言うところでドイツ語を習っている が、このお仲間にステラがいる。ステラのご主人のイアンから、12月初旬節子の ところに電話がかかってきた。「妻のステラのために12月中旬の土曜日・夕方7 時半からサプライズ誕生パーティーを行いたい。ドイツ語のクラスのお仲間に連 絡をとってほしい。当日は分担として、ミックス・サラダを持ってきてほしい。 家に来ていただくための地図はFAXで送る」というものであった。

イアンとステラは南アフリカ出身の英国人、イアンはバーゼルの製薬会社「ノバ ルティス」の研究所に勤めている。ステラのサプライズ誕生パーティーのため に、10代の息子と娘、それに会社のお仲間、教会のお仲間、ステラの陶器絵付け のお仲間、それにドイツ語クラスのお仲間、約30人に声をかけたという。声を かけられたお仲間はイアンと相談しながら、当日の食事を自分で作って持ちよ り、ちょっとした誕生祝のプレゼントを用意して、その日に備える。

当日は夕方7時ごろドイツ語の先生ご夫婦を車におのせし、ちょうど7時40分ころ バーゼル郊外・プラッテルンのステラの家まで出かけていった。そっと入り口か ら入るとすでにお仲間30人ほどが、やや暗くした居間にあつまり、ワイン・ジ ュース・ビールなどを飲んでいた。サプライズ・パーティーと言うことで、イア ンはステラを車で往復30分くらいのライナックで予定されている(ことになって いる)フォンデュ・パーティーに連れ出していた。その途中、車の携帯電話に息 子から電話がかかってきて、「階段の途中から落ちて足をいためたので、至急家 に帰ってきてほしい」と言う。8時ごろ、心配しながらステラが自宅に帰ってき てみると、突然30人もの”Happy Birthday To You" の大合唱が沸き起こったわけである。

みなで乾杯をして、イアンがみなに感謝のスピーチをして、娘の歌のエンターテ インメントもあった。みなが持ちよりの「ラザー二ア」「ミックス・サラダ」 「チーズ」などの食事がだされ大パーティーとなった。30人もの人が座る椅子 も無いので、カーペットの上にじかに座り、コーヒーテーブルを囲んでたくさんの人が、食事をとっていた。ワイン、ビール、ジュースのような飲み物はご主人 のイアンが提供していた。

ステラがいろいろなお仲間にお礼のあいさつをして回り、プレゼントが手渡され、パーティーは大盛況となった。製薬関係のひとが多かったが、スイス人、 独、仏、英、米人が多く、またスイス人と結婚した美人のフィリッピン女性も参 加していた。

3ー4時間パーテイ?を楽しみ、またドイツ語の先生ご夫妻をのせて、余韻を残し ながらバーゼルに帰ってきた。

ご主人のイアンがあいさつで言っていたように、かなり直前のお誘いで多くのお 仲間が、クリスマス直前のため立てこんでいるほかのパーティーをキャンセルしてまで、集まってくれた。どうしてこうしたパーティーがうまくいったのであろうか?

ひとつには、いつもにこにこし、人付き合いも良く、尽くすタイプのステラの 「誕生パーティー」ならばぜひ言ってみようというお仲間がたくさんいたことで ある。

二つ目にはサプライズ・パーティーというわくわくするような楽しみが多くのひ とにアピールしたようで、これに自分も参加してみたいという気持ちが多くのひ とにあったのではないか。

三つ目に、イアン・ステラご夫妻とお仲間双方が余分のお金をそれほど使っていないという簡素なパーティーが多くの人の共感を呼んだこともあげられる。イア ンはみなと連絡をとりあって、飲み物を提供しただけで、自分の家をつかったた め、それほどお金をつかっていない。お仲間も持ちよりの食べ物と若干のプレゼ ントを送っただけで、一夫婦あたり2000ー3000円程度の負担ですんでいる。

結局、ひとが生活をたのしむためには、いかにたくさんのお金を使うかではなく、豊かなこころと友人をもつことが大事なのではないかと思う。やはり、この サプライズ・パーティーが成功したのは、イアンなり、ステラの毎日の生活がゆ たかであり、多くのお仲間の同感と協力を得やすい環境にあったためだとつくづく思う。たかが「パーティー」というが、その根には常々のひとの「生きざま」 が深く関係しているように思えてならない。 (以上)

 



(98/12/14 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  職業に貴賎なし

 

母親と6−7歳の男児のある親子連れが歩いていた。「ごらんなさい、よしおちゃん(男児の名)、あそこで道路の穴掘りをしている人がいるでしょう。 しっかり勉強をしないと、一生あのような肉体労働をしなければ、ならなく なるのですよ。…」

このようなことを言う母親は間違いであると思う。もっとも大事な労働の尊さ を子供に教えることを怠っている。「ごらんなさい、よしおちゃん、あそこで道路の工事をしているひとがいるでしょう。どのような仕事につこうと、額に汗して働く人は尊いのですよ」というのが正解ではないだろうか。

人間の社会ではさまざまな仕事がある。ダーティーな仕事もあれば、事務 などのいわゆるクリーンな仕事もある。「籠にのるひと、籠かつぐ人、そのたわらじを作る人、落ちたわらじをひろう人」、という言葉がある。ひとの生 き様にはいろいろあるが、すべてが大事な役割を果たしているもののようで ある。

スイスに来て、いわゆるブルーカラーの人々の質がかなり高いことに驚く。 いろいろ批判もあるようだが、早い時期から中程度の教育に甘んずることを 決め、ブルーカラーの職業につく人の層が厚いようである。自動車の整備、 電気製品の修理、郵便配送、駅の切符うり、などは意識も高く、少なくとも 表面的にはみな嬉々として仕事に取り組んでいるように見える。日本でもつい最近までは、このような人々が日本の基盤をささえ経済成長の礎(いしずえ)になっていたのである。

しかしながら日本では、同時に、おおくの人がよりよい職業につこうと、よい学校、よい教育を受けよう、受けさせようと狂奔してきた。受験戦争、塾がよ い、といった競争で子供の生活が捻じ曲げられ、多くのゆがみが生じてい のは多くの人が認めている。こうした過度の受験戦争でみなが幸せになっ ているのだろうか。希望した大学に入学できなかった人は一生、失意の内 にすごさなければならないのだろうか。

わたしは職業に貴賎はない、と硬く信じている。イタリア人のメッセンジャー が私のところに来て、母親から「頭をつかって仕事ができないようならば、足 をつかってお金を稼ぐようにしなさい」と何度も教えられたと話していた。こういうことをイタリア人の母親は教えるらしい。国の大統領でも、大会社の社長でも、道路の清掃人でも、所得の水準は多少違うかもしれないが、他の人々 に対するサービスをしているという点ではみな共通している。問題は、その サービスをどのように工夫して、質の高いものを提供するかのあるのではないだろうか。この点で、信長の「草履とり」をしていた藤吉郎(のちの秀吉)の話 しが面白い。いわゆる「草履とり」はたくさんいたに違いない。藤吉郎は毎朝 、殿様の草履を自分の懐であたためて、冬の寒い朝などに、殿の草履を「はき心地のよいもの」にするという、いわば「付加価値」の高いサービスを提供 していたのである。

結局、ひとが仕事をするとき、値段にくらべ、よりよい品物を提供する、よりよ いサービスを提供するということで、消費者は「得をした」という感じをもつもの である。これは消費者余剰という概念である。経営者も良いひとを雇っている ときには、この人には本来は月30万円くらいは出さなければならないのに、 月15万円だけの給料で嬉々としてよく働いてくれる。雇って「得をしたな」と感じているはずである。結局、消費者に、経営者に「得をしたな」と感じさせるよ うなサービスを提供することが大事なことのようである。

これはどの職業につこうと、工夫の仕方により、より良質の、価値の高い、商 品・サービスを提供することが、可能である。先ほどの、藤吉郎の例では、こ れといった仕事もなかった若者が、殿のおそば周りに起用していただいただけ で感激し、あれこれ知恵をしぼったものらしい。その後の藤吉郎の生き様をみると、持ち前の知恵と才覚、それに若干の幸運で、階段を駆け登っていったものであろう。

そうして考えてみると、どの職業でも工夫の仕方によっては、より優れたものに仕立て上げるだけの余地があるようである。自分の仕事をきらい、不平ばか り言っている人からは、工夫は生まれてきそうもない。結局、自分が本当に打 ち込んで、やれるだけの仕事を早く探し、これに生きがいを感ずる、ということ に尽きるような気がする。当然、所得、給料が高いにこしたことはないのであ が、これも時の運で、家族の生活がそこそこ営めれば、それ以上を期待するべ きではないように思う。

もうひとつ大事なことに、その社会が自分の必死の努力がむくわれる環境に なっているか否か、という点がある。フィリッピンのマニラに行ったときに、運転 手がマニラでは「ネポティズム(親族取り立て)」が瀰漫し、よい大学を出ても、 親族の引きがなければ、よい仕事につけない。これでは、まじめに勉強して、 学を出ようという気も萎えてしまうと話していた。日本の場合には、少なくとも、 れたという環境が、みなの努力を巧みに引き出したということはあったのかもしれない。しかし、これがあまりも行き過ぎて、だれでもが、「受験地獄」に「塾がよい」ということでは、むしろ弊害のほうが大きくなってしまうであろう。

結局、冒頭に話した親子の例のように、職業に貴賎はないということを、真に 徹底させ、まじめに努力さえしていれば、これが報われる社会を築いていくことがいつの世でも大切なことなのだろうとつくづく思う。

(以上)

 


(98/11/13 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆  教会の鐘の音に思う  

バーゼルでわたしの住んでいるテラスハウスから200メートルほどのところに聖霊教会(ハイリゲ・ガイスト・キルヒェ)がある。この教会の澄んだ鐘の音が15分ごと に、また毎時、時報を告げてくれる。最初当地に移り住んできたときには、窓を締め切っても入り込んでくるこの時報が気になっていたが、いまではもうすっかり慣れて 気にもならなくなった。この鐘の音を聞いていれば、時計なしでも過ごせるので便利 であると思う。とくに、夏時間・冬時間が切り替わる3月・10月最終日曜日にはこの鐘の音に耳を澄ませておくことが大事と思っている。どうもわれわれはバーゼルでこ の教会の管轄区に住んでいるらしい。この鐘の音は強弱が微妙に調節されており、隣の教会における鐘の音は聞こえないようになっているので、音が混ざることはないよ うである。

 スイス中どこに行っても、また中央ヨーロッパの多くの地域に行っても、どこでも異なった音色の鐘の音が聞こえてくる。旅行先などで早朝ふと目覚めて自分の家で聞 \いたものと違った鐘の音が聞こえてくると、はて、ここは何処だったのだろうと思い巡らすことがよくある。このような経験は多くの人がしているに違いない。  「シンデレラ」の話で、教会の鐘の音が大事な役割を果たしている。シンデレラが 王子様とのダンスに夢中になり、家に帰る約束であった真夜中の12時の教会の鐘がなると、乗ってきた馬車がかぼちゃに変わり、馬がネズミになってしまう話である。 ヨーロッパの各地で、鐘の音を朝晩聞き、遅くならないように家に帰らなければならないと、いつも教えられている人には、理解しやすい話しなのだろうとこのごろ良く思う。

 今年98年の夏、スイス・トウーンのとあるホテルに泊まったが、このホテルの裏手高台約50メートルの至近距離にこの地区の教会があった。この教会の鐘の音は実に大 きくて、二重窓をぴたりと締め切っても頭もわれんばかりに鳴り響くので閉口してしまった。でも夜10時になると、ぴたりと鳴り止み、翌朝6時には大音響で再開された。

 ヨーロッパの何処の都市・町・村に行っても、教会の威容に圧倒される。教会は毎日の、毎週の祈りの場であるとともに、洗礼、結婚式、葬式など、人生の節目節目で 大切な役割を果たしているに違いない。どこの都市、町・村でも住民の生活の軸に なっているもののようだ。人々は何代にもわたり、教会に寄付をし、労力を提供し、 自分たちの祈りの場を営々と築いていったものなのだろう。また、自分たちの教会を立派なものにして、よそから来る人々に自慢をしたいものだったに違いない。

 フランス・アルザス地方の中心都市、ストラスブールで大聖堂を見学したことがある。ここでは15世紀にこの部分を増築し、16世紀にはここを改造し、17世紀にはここノ変更を加えたと、過去400−500年にわたり営々と築いてきた経緯が詳細に解説して あった。費用ができると、息永く少しづつ建設していったもののようである。ドイツ ・ケルンの大聖堂のように戦災で徹底的に破壊し尽くされたものでも、戦後周辺の町並みも含め、綿密に再建されるといったケースも多い。きっと、教会・大聖堂の図 面、町並みの図面がかならず、安全な場所に複数箇所保管されていて、再建に役立て ているものなのだろう。

 イタリア・シエナの大聖堂を訪れたことがある。ここは一時ペストが大流行して町の人口がほぼ半減し、大聖堂の建設が200年間も300年間も先に送られたとの話しで あった。イタリア・ローマの法王の大本山、バチカンのセント・ピーター寺院、ミラノの大聖堂は息を呑むほどの大規模なもので、その建設に要したコストはいかばかりなものかと、いささか心配になった。

 わたしはこの方面の専門家ではないので、詳しくは知らないが、ストラスブール、 フライブルグ、バーゼルを含む、仏・独・スイスにまたがる中央ヨーロッパのこの地 区は、グーテンベルグが活版印刷を発明し、「バイブル」を印刷し始めたところである。それまで聖職者の独占物であった「バイブル」が活版印刷により、一般の人々に も広く行き渡るという効果をもたらしたものらしい。キリスト教の原点に戻るべきだ として、いわゆる「カソリック」に反発する人が次第に増え、ルッター、カルビン、 ツヴィングリなどを中心に、「プロテスタント」・宗教改革がはいぜんと発生した地域でもある。あるひとは、世界的な「インターネット」の普及はこのグーテンベルグ ・「活版印刷」以来の人類の大事件であると言っているが、今度はどのような宗教改革、社会改革を内包しているものなのだろうか。

 バーゼルの中心部・ライン川沿いに「パピルス博物館」があり、ここでは来場者に紙を漉く工程から、グーテンベルグ時代の活版印刷まで体験させてくれる。「バイブ ル」の活版印刷をはじめたことはこの地区に人々の誇りなのだとつくづく思う。  スイスの時計・オルゴール産業はもともと、フランスのプロテスタント・ユグノーがフランス国内の迫害に耐えかねて、スイス・ジュラ、ニューシャテル地区に逃げ込 んできて始めたものらしい。プロテスタントの勢力が比較的強いスイスではこうした フランスから逃げ込んできた人々を暖かく受け入れたものらしい。これがスイスのひとつの基幹産業に育っていった点が実に興味深い。

 宗教改革の洗礼を受けたスイスでは、プロテスタントの勢力が比較的強いようだが、それでもスイス全体ではカソリックの人口のほうが多いという。バーゼル市 (バーゼル・シュタット)、バーゼル郊外(バーゼル・ランド)という二つの準州が隣接しているが、バーゼル市はプロテスタント、バーゼル郊外はカソリックという住 み分けが出来ていたものらしい。バーゼル大聖堂(ミュンスター)はもともとカソリックの建物であったが、宗教改革後、プロテスタントの教会となり、その内装は簡 素そのものである。バーゼル郊外・オーバーヴィルのカソリック教会に音楽を聴きに行ったことがあるが、ここの内装がプロテスタント教会と同じように簡素そのものであったのに驚いた。スイスではカソリック教会もイタリア・フランスのものとは異な り、内装が簡素なものにとどまっているもののようである。

 アメリカで知り合った友人にBernard(バーナード)というドイツ人らしからぬ名前の人がいた。しばらく前、フランクフルト・マインに住む彼の家に訪ねていった が、彼の家系はもともと、フランス人のBernard(ベルナール)で、ユグノーへの迫害から、ジュネーブ、バーゼルを経て、スイス人となり、フランクフルト・マインにまで逃げ延びてドイツ人になったらしい。彼は趣味で、自分の歴代の祖先がどこに住ん でいたかをヨーロッパの地図に赤い頭のピンを立てて表示するものを作っていた。この赤いピンがジュネーブ、バーゼルを経て、ライン川を北上し、フランクフルト・マ インまで到達しているところが面白かった。ヨーロッパにはこういう人がたくさんいるらしい。

 バーゼルからアルザスを北上し、約40−50kmのところに、カイザースバーグ という小さな町がある。ここは日本の教科書にも良く出てくるアフリカの聖人・ 「ポール・シュバイツァー」の生家があるところである。彼の記念博物館に隣接し て、父親の経営していた「プロテスタント牧師館」がある。カソリックの支配的な地域でのプロテスタント牧師はどのような生活を送っていたものかと、このごろつくづ く思う。

 ヨーロッパでは、宗教に寛容な土地柄が能力のあるひとを、そこに惹き付けるという効果を持つようだ。オランダが次第に隆盛に向かっていったのは、カソリックで も、プロテスタントでも、ひとしく温かく迎えいれたことにあるらしい。オランダが宗教色を薄めた交易ということで、鎖国時代の日本との交流に成功していたことは日本人の記憶にあたらしい。わたしの住むバーゼルでは、カソリック、プロテスタント だけでなく、ユダヤ教の人々を歓迎し、第二次大戦後、「イスラエル建国」にための準備会議がここで開かれている。本年98年にも第二次大戦以来第2回目という「全世Eユダヤ人会議」がイスラエル建国ゆかりの地であるバーゼルで、厳重な警戒のもとで開催されている。

 ある人は、アメリカと対比する意味で、ヨーロッパの特色は「その言語と歴史」に あると言っていた。わたしはそれに加えて、複雑なモザイク状を示す「宗教」の側面がよきにつけ、悪しきにつけ、ヨーロッパの深い「ひだ」を形成しているように思えてならない。 (以上)

 


(98/11/01 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆ 日はまた必ず昇る  

ある新聞の報道によると、今日本で歯磨き粉・ねり歯磨きの消費が前年にくらべ て、かなり減少しているという。メーカーの幹部の話によると、景気が好調のと きにも、歯磨き粉の消費はそれほど増えない変わりに、景気が後退期になっても これまでは、それほど変化しなかったという。それが今回はかなり顕著に減少し ているらしい。歯磨き粉の消費をけちけちと減らすほど、今の日本人の消費マイ ンドが冷え切っているという話のようだ。山一證券と、拓銀が破綻した97年の11 月には、乗用車の販売台数がその前年の同じ月にくらべ、3?4割も激減したとい う。明日はわが身と、多くの人が自分の首筋をなでたに違いない。たしかに乗用 車の新車を買うどころではなかったのだろう。

失業率が最悪の数字を示し、あちこちでリストラの嵐が吹き荒れている状況では 人々が生活防衛にはしるのも理解できるし、消費も冷え切ったままというのもわ かるような気がする。それでは、日本の経済はこれから先どんどんまだ悪くなっ ていくのだろうか。そのような恐怖心が多くの人の胸によぎっているに違いな い。

しかしながら、わたしはそう思わない。ここしばらくが底で、日本の経済はまた 健全な成長を取り戻すものと期待を込めて確信している。

話は変わるが、1970年代の初め、米国ワシントンのIMF・国際通貨基金に勤務し ていた。ちょうど、そのとき第一次石油危機が発生し、騒然となった。原油価格 が一挙に4倍にもはねあがったのである。日本では主婦がパニックとなり、トイ レットペーパーの買占め騒ぎなどが報じられた。「ユキオ、これで日本の奇跡の 経済成長もとうとうおわりになったね」、と多くの外国人の仲間が、慰めとも、 はげましともいえないような声をかけてくれた。それから10数年経過し、2次、 3次にわたる石油危機を経て、日本を含む、石油消費国はその消費を抑制し、高 値原油の衝撃をたくみに吸収し、また経済成長を取り戻していった。

1995年阪神淡路大震災や、地下鉄サリン事件が起きたときも、世情はすっかり暗 くなり、先行きに対する不安感、恐怖心が広がっていった。とくに阪神大震災の ときには、国や、県・市の対応が後手後手にまわり、多くの人の失望感、焦燥感 をあおったことは、記憶にあたらしい。しかしながら、地元民を中心とする国民 の叡智と努力・協力によって、神戸を中心に震災の被災地は着実に復興の歩みを 取り戻してきている。

第2次大戦が終わった1945年当時、わたしは3才であったため、詳しいこと は知らない。後に年上の人に話を聞くと、アメリカ軍の進駐に多くの人は不安を 抱き、戦後の変化に恐れおののいたものようだ。結局は、あらたな社会の枠組み が設定され、落ち着きを取り戻すにつれ、日本の経済・社会は安定と繁栄の道を たどっていったのである。

1990年代末の現在の日本は、多くの人が認めているように、明治維新の直 後、第2次大戦直後の時期に匹敵するような大きな変革の時期を迎えているよう に思う。結局、政府・官庁・会社主導の変革ではなく、個々人の才覚で経済・社 会が変革する、またはできる時代になったという個人の時代のはじまりなのかも しれない。当然、個人の自由度は増すが、自己の責任が厳しく問われる時代の到 来ということになる。これは西欧・アメリカなどのいわゆる先進国がかなり早い 時期から到達していたところに、日本も追いついてきたことを意味する。単に普 通の先進国に社会レベルでもなってきたということなのかもしれない。

考えて見ると、第2次大戦後も、石油危機の時も、阪神大震災のあとも、政府に たよらず、個々人が自分の生活を守るため、歯をくいしばって懸命に働いてきた のである。政府や官庁は、結局頼りにならず、自分の身は、自分の生活は、結局 自分で守る以外にないということを、日本人はよく知っているはずだとと思う。

一橋大学の中谷巌教授はある雑誌への投稿で、「戦後の日本社会が、保護、介 入、平等主義を続けてきた結果、本格的なモラルハザード(倫理の欠如)症候群 に侵され始めたのであり、これこそ現在の日本経済が低迷している真の原因であ る」と分析されている。「役所、企業、大学など多くの組織を観察すると、真剣 にがんばってみてもたいした見返りがないケースが多い。……本気でがんばった 人が十分に報われる強力なインセンティブシステムを構築する事が不可欠だ。い わば戦後社会の総決算ともいうべきこの大事業が、経済再生計画のなかで中心的 位置を占めないかぎり、日本経済は動き出さないだろう。」、と述べておられる。

結局、日本のひとが大挙して外国で仕事をするようになり、またすでに始まって いるように、外資が大挙して日本で商売をするようになることにより、市場の淘 汰という形で、企業も個人も激しい国際レベルの競争の荒波にもまれはじめてい る。これが中谷先生の言われるアメとムチという「インセンティブシステム構 築」が現実のものになる最短の道なのかもしれない。外資を排除しようなどとい う意見には耳を貸すべきではないと思う。

日本の外で、長い間住み、仕事をしてきたわたしは、日本人だけが、ヨーロッパ やアメリカの人より能力的にも大きく劣ったり、安穏とばかりしているとは到底 思えない。適当な刺激が、インセンティブが与えられれば、日本のひとは個々人 でもグループでも決して引けをとらないほど働くものと信じている。

この未曾有の大不況で、自分の仕事を確保することが、また所得を維持すること がそうたやすいことではないと、若年層も年配の人も多くの人が感じ始めてきた のではないだろうか。結局は自分で、力をつけて自分の身を守る以外には手はな いとの、自覚が徐々に強まってきていると思う。日本人の多くが、「真の地獄」 をみて、背筋を凍らせること、これが日本再生の原動力になると信じている。

こうしたプロセスを経たあとで、わたしは「日はまた必ず昇る」と強く確信して いる。

(以上)

 


(98/10/11 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆ 小さな政府の勧め  

スイスに来て、すぐにこちらの運転免許を取得した。10cmx14cmくらいの大きさの紙製で、写真が貼ってあり、日本の免許を大使館で翻訳して提出すれ ば、眼の検査だけで、すぐに発行してくれる。更新の手続などまったく不要で、 永久に使用できるとのことを聞き驚いてしまった。

スイスでは所得税もかなり低い。連邦税・州税・市町村税の合計で、子供のいな い世帯主の総所得に対する税の比率は、所得が年5万フラン(約450万円)平 均7.03%(最高の州9.08%、最低の州3.69%)、所得年10万フラ ン(約900万円)で14.13%(16.79%、8.10%)、所得年20 万フラン(約1800万円)で23.30%(26.91%、15.08%)に 過ぎないという。

国民皆兵で、兵役期間中は企業・組織が兵役中のひとの給料を支給する。連邦な ど議会の議員も出身母体が給料を支給する。このようにいろいろな政府の出費を おさえる仕組みが、随所に組み込まれていることに驚かされる。 市街電車・トラムも自分で、切符を買い求めてのり、時折、検察が回ってくる以 外には、切符をコントロールするシステムはない。スイス高速道路用の通行券 (ビニエット)も一年分の券を郵便局・ガソリンスタンドで買い求め、自分でフロントグラスに貼っておく。

そういえば、ごみの分別収集、びん、缶、プラスチック容器の回収にしても、個人個人が仕分けをして、市町村のコスト負担をすくなくする工夫が随所になされている。

これは市民の側でも遵法意識が比較的高く、公的な立場からいろいろチェックする負担が少なくて済むという、側面もあるのだろう。飛行場における入出国も、 他の多くの国と異なり、スイスでは入出国カードに書き入れることを要求していない。

スイスが欧州共同体(EC)に加入しないのも、ブラッセルの大きな政府と大勢の 役人をきらうからとの説もある。

それにしても、日本においては、かなり改善が進みつつあるとは言え、生活のあ らゆる分野において、いまだ公的な関与が、いいかえれば世話の焼き過ぎが、多いような気がしてならない。パスポートも10年に一回更新ではなく、記載項目 に変更がない限り、一生使うことができるように変更できないだろうか。車検なども、自分のリスクで、かなり大幅に弾力化が出来るはずではないだろうか。日本人の意識はかなり高いので、公的な関与を薄めても問題がおきないところが随所にあるようだ。

日本において、農業、流通業、住宅建設、いろいろな場面で、規制・ルールが二重、三重に課せられているとの話は枚挙にいとまないので、ここでは繰り返さな い。いつかの時点で、すくなくとも経済的な諸規制についてはこれを全廃し、最 低限必要なものだけを再度構築しなおすというのが、賢明ではないだろうか。 今の日本の閉塞感もがんじがらめに縛られているとの、感覚からくるのかもしれない。単に減税をしたり、公共工事を発注したりするだけの、旧来型の景気刺激 策を繰り返すのでなく、諸規制を一気に取り払い、国民の英知を十分発揮させるような、環境造りがかなり効果的であるように思う。

キーワードは「小さな政府」と「鎖なしの伸びやかな日本」ということだろう か。携帯電話、新金融商品、外国からの新型スーパーマーケットの進出、などは 日本経済の活性化に大きく役立っているはずである。

いまどきは国内、外国と区別して、国内だけを豊かにすればよいという時代では ないだろう。アジアの人々、欧州・アメリカの人々が続々とビジネスチャンスを見つけて、日本にやってきて、日本の人とともに、どしどし仕事をはじめる。外 国の人が日本で成功し富めば、日本のひとに対する雇用も格段に増えるという側面にも注目したい。ボスが日本人でも、外国人でも暮し向きを良くしてくれれ ば、かまわないはずである。白い猫でも、黒い猫でもネズミをとってくれればよい猫のはずである。

この観点からも、あらゆる税金を日本人に対しても、日本で活動する外国人に対しても、香港、シンガポール、ロンドン、ニューヨークと競争できるような水準 まで引き下げていくことが極めて重要になってくる。それには、国・地方のサービスを再度洗いなおして、無駄を一切排除し、税金でまかなうことが出来る水準まで、コストを順次落としていく必要があろう。

そう言った観点から、郵便、郵貯、簡保などの郵政関連事業の民営化、財政投融 資の早急な全廃、諸規制のさらなる見なおし、と徹底的な削減を急ぐ必要がある。気分が一新する絶好のチャンスである21世紀初頭に日本が生まれ変わるチ ャンスがあるということをみながもう一度、深く考えてみることにしてはいかがであろうか。

(以上)

 


(98/10/04 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)

◆ こだわりのかつをけずり節と自家製ぬかづけ 

昨年97年の春、東京に一時帰国したとき、たまたま立ち寄った日本橋三越前の 「大和屋」(中央区日本橋室町)で、昔ながらのかつを節を目にした。わたしのところでは、すでに削ってある「けずり節パック」または、顆粒状の「だしの 元」をいつも使っているので、例のかつを節をいつも削るのはやや面倒かなと思った。店のおかみさんが「最近わかいひとがこだわり調理のため、かつを節を良 く買っていかれますよ」との声に励まされて、2本ほど買い求めてみた。昔ながらのけずり器は、「大和屋」から、三軒ほど神田側にある「刃物の木屋」で買い求めた。宅急便で、世田谷の東京自宅までとどけてくださいと言うと、削り器の 刃の出具合を微妙に調整してあるので、自分の手さげ荷物で大事に家まで持っていったほうがよいと薦めてくれた。

その後、スイスの家に帰り、けずり節を試みてみたが、粉状にばかりなって、薄い木屑のような形のよいけずり節にはなかなかなってくれない。次回97年の秋 に、再度東京に一時立ち寄った際に、削り節器のかんなの部分を持参し、「刃物 の木屋」で、削り方のお教えを乞うた。店のご主人は、名刺かはがきを1x5cmくらいに切って、かんなの刃のうしろにはさみ、木槌で細かにたたいて調整す るとよいと教えてくれた。自分でも、かんなの刃を砥石で良く研いで、鋭利にするように心がけた。例の「大和屋」でも、「家庭でつかうのなら2-3割安のきず もの・かつを節が、あじはかわらずお徳用ですよ」と薦めてくれた。

今度は薄く滑らかな、かんなくず状の上等な「かつを節けずり」が上手にできる ようになった。味噌汁、おすまし、だけでなく、うどん・そばのつゆ、冷やっ こ、おひたしに添えて良く、出来合いの「パック」とは比べ物にならない味とこくの良さですっかり病みつきになってしまった。今では2?3日使う分を時間のあるときにまとめて削るようにしている。

はなしは変わるが、東京・世田谷の自宅の近くにあるお米屋さんで前に友人からいただき重宝した簡易・漬物用の「ぬかよろこび」を置いていませんかと聞いて みた。お米屋さんのおかみさんは「簡易漬けもの」ではなく、本格的なぬか漬け に挑戦してみませんか、と薦めてくれた。近くの雑貨屋さんでたてよこ、15x 20cm、深さ15cmくらいのふたつきプラスチック容器をもとめ、米ぬか2 kg(約200円)を購入してきた。米ぬかの袋には「ぬか漬けの配合法」が書い てある。米ぬか500グラム(約一升)には塩80g(約6勺)、水3.5カップ (3.8合)を適量とするとしている。塩水を一度沸騰させ、これを冷ましてから、ぬかにあわせると良いという。お米やさんのおかみは、漬物でぬか床の水分 が増してきたら、スポンジで水分を抜き取ると良いという。自分の好みに合うよう、塩分を足したり、ぬかを足したり、赤唐辛子を加えたり、次第に調整すると良いという。休暇などで留守にするときはぬか床がいたまないように容器を冷蔵 庫にしまっておくのがコツのようだ。こちらで入手できる、きゅうり、にんじんなどをぬか漬けにしておいしくいただいている。こだわり派のひとは、親の家などから「古いぬか床の」種用ぬかを一つまみ、いただいてくるという。このぬか 漬けに加え、こちらで入手できる、「ごぼうの味噌漬け」、「白菜漬け」、自家 製の「赤しそ漬け」、「うす切りかぶの甘酢漬け」(かぶ200gに、米酢大さじ 3、砂糖大さじ2、塩小さじ1)も手製で作っている。

日本にいればスーパーで、いろいろな種類の「漬物を」すきな分量で購入することが出来るが外国ではこれもむつかしい。でも、お手製で削り節を作ったり、つ けものを造ったりすることは、手数がかかるにはかかるが、生活をゆたかにする ことになるような気がする。いそがしい現代の生活ではいつもいつも「こだわり調理」ばかりというわけにはいかないだろう。しかし、簡易調理と「こだわり」 を巧みにミックスさせ、工夫してみるのも楽しいように感ずるのですが、みなさまはいかがお考えでしょうか?

(以上)