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世界の窓

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【 スイス・バーゼルレポート VOL.8】

井浦 幸雄氏



◆ 修学院離宮と秋の京都・97

10月の後半2週間ほど、休暇でスイスから日本に一時帰国した。知り合いにお会いしたり、楽しく過ごしたが、春に続き京都に2日ほど、足を伸ばした。新幹線の京都駅前の、新みやこホテルに泊まれたので、足の便が良かった。今回はあらたなにできた、京都駅ビルをお仲間とみたり、地下鉄・東西線にも乗車してみた。若干、天候が崩れるときもあったが、まずは暖かく、良い天気に恵まれた。

今回は、知り合いの人のご好意で、修学院離宮を拝観することができた。前もって、はがきを送り、指定の日に指定のメンバーで参加しなければならないという。外国から短期間訪問するものには、困難をともなう拝観である。当日は、地下鉄で、国際会議場まで行き、11時の参集時刻まで、時間のゆとりがあるので、徒歩で修学院離宮まで歩いた。このあたりは石川丈三の詩仙堂や、曼殊院門跡、赤山禅院などの、著名なところが点在している地域である。11時すこし前に、離宮に到着すると、すでに30人ほどの見学のお仲間が、控え室で離宮紹介のビデオを見ていた。外国人客が8人程度、日本の女性客が大部分であった。こういうところでも、女性上位であるらしい。

修学院離宮は京都御所、桂離宮とならび、宮内庁の管理するもので、通常の京都の観光地とはちがったたたずまいである。17世紀の前半、後水尾上皇が比叡山の南西麓につくられた山荘で、すばらしい庭園がよく知られている。われわれは案内の宮内庁のひとに導かれて、下茶屋、書院寿月観、中茶屋、楽只軒、などを拝観した。ハイライトは京都の市街が一望のもとにみられる高台にある上茶屋で、ここの隣雲亭からは人口の池・浴竜池はじめ、鞍馬・貴船・西山の連峰を望むことができた。この池の周りは多くの紅葉の木に覆われていたが、われわれが訪れたころ紅葉には若干早く、11月の後半が見頃ということであった。それにしても、こうした木造の離宮と、繊細な庭園を維持管理するには、造営に匹敵するまたはそれ以上のコストがかかるものといささか、同情の感を禁じ得なかった。隣雲亭のちょうど眼下、池のほとりに、高さ20mくらいの枝振りの良い黒松が立っていたが、松食い虫のためか、8割かた赤茶けて枯れており、この修復に膨大な資金がかかるのではないかと心配になった。

修学院離宮はちょうど徳川幕府の勃興期に天皇、上皇となられた後水尾帝・上皇の造営になるものである。公家諸法度の制定などにより、京都に対する徳川幕府の締め付けが、厳しくなる中、庭園、離宮に、宮廷の和歌と、みやびの世界が展開されていったものらしい。松の一本、一本にも、細やかな心配りがなされていた物のようである。

約、一時間半ほどで離宮拝観は終わったが、お仲間と近くの「平八茶屋」というところで、とろろご飯をたべた。また、今回の京都訪問では、「鴨川おどり」をみたが、平日の4時ころ開演というのに、観光客で満員の入りとなったいた。第一部は、秀頼と、千姫のはなし、第二部は、紅葉の京都と舞子さんのおどり、という出し物で、約2時間の公演であった。外国人のお客が半分か、3分の一くらいを占めていた。舞台の舞子さん、若い芸子さんも美しかったが、舞台左手の、じかたのお姉様かた、40-50歳くらいであろうか、背筋をぴんとのばして、正座し、三味、謡を担当していたのが、印象的だった。総勢、15人くらい、黒、ベージュの着物を着て、笛、鼓、小太鼓を扱っていた。どのような人生を送ってきた人たちなのであろうか。観客席にも、お座敷前の、先斗町のきれいところが、数多くつめかけていた。

今回も、京、錦市場に繰り出して、「高倉屋」という漬物屋さんでたっぷりと京漬物を買い込んだ。しば漬けや、ゆず大根、壬生漬け、といった類の物である。東京に帰ってから、日本酒でこの京漬物を味わってみた。ワインと、チーズの採りあわせのように、日本酒と醗酵した漬物の採りあわせが、絶妙であり、ほかになにもなくとも結構楽しめた。京・漬物は東京でも大量にでまわってはいるが、京都の老舗で、求めたものの方がおいしいような気がする。

当然のことかもしれないが、今回の訪問で京都はみやこの顔、と地方都市の顔を二つあわせもっているような気がした。また、当然ながら京都は日本の他の地域との、結びつきで生き延びようとしている。例の京都駅ビルも大津・高槻など周辺の顧客を引き付けようとすると共に、東京・大阪・名古屋からの観光客をも取り込もうとしているのが印象的だった。東京ー京都、のぞみ号で二時間半ほど、週末だけの往復も可能である。さらに今回驚いたことに、新幹線・座席指定券の自動券売機というのが、東京、名古屋、京都、大阪に設置されており、みどりの窓口にならばなくとも、指定券が買える。

日本はいつもめまぐるしく変化しているので、時々様子をみに行かないと取り残されてしまうような気がする。古い京都の町並みと、今回訪問した、修学院離宮はいつまでも変わらないでいて欲しいものである。


(97/11/11 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)



◆ 母親がいつも言っていたこと

母の言葉、それはいつも小言として聞いていたときは、うるさいなと思うものである。それが、自分が30、40、50歳台になり、その母親もこの世からなくなっていたりすると、ある時ふと思い出されたりするもののようだ。今日のこのライン随想は自分のはなしをしようというものではない。みなさん、こころにふと浮かんできた、母親のひとこと、ほかのかたと分かち合っていただけませんか。母親は子供にこびることはない。そのひとこと、ひとことは、自分の人生から学び取ってきたことを、子供のために、良かれと思い、伝えようとするもののようである。

英国の本で、“My Mother Always Used to Say" というのがあった。結婚についてとか、マナーについてとか、項目ごとに母親のひとことを分類してあったように記憶している。その中に、「何か人に良いことを言えないときには、口をつぐみなさい」と、書いてあった。ひとに、辛口の批評をすることはむつかしい。相手が自分の批判を受け入れるだけのこころの準備をしているかいなか、察するのは極めてむつかしい。打ち解けていない人から、批評・批判をされ戸惑った人も、多いに違いない。面識のない人が交流することの多い、コンピュータ通信では、よほど用心してかからないといけないことが多いと思う。たしかに、不特定多数と交信、交流するときには、「何かひとに良いことを言えないときには、黙るべきだ」というのが、正解のように思われるのだが、みなさんはどうお考えですか?

私の母親は、現在82歳、2男3女の母親で、神奈川県で兄貴の家族と上下階に住み、心身ともに壮健である。兄弟・姉妹では、母親より先に死ぬことのないよう気をつけようといつも言い合っている。母親の口癖は、「けっして人前で、自分の夫、妻、子の悪口、を言ったり、ぐちをこぼしてはならない」、というものである。たしかに、母親が他の人に、家族のことを悪く言ったり、愚痴をいっているのを聞いたことはない。どこでも問題を抱えていない家族などないわけであり、不平をいっていては、きりがないようだ。5人兄弟の末娘で、12歳までに両親を亡くしているので、親戚の家に預けられたりして、苦労をしたらしい。いくらつらいときでも、身体の不調を訴えたり、不平を言ったりしているのをきいたことはない。さらに、われわれ兄弟が育つ過程で、PTAの役員や町内会のお世話を嫌がらずに、こなしていた。80歳 を超える今も、PTAの役員の依頼はもうないが、老人会や近所のひとのお葬式のお世話などにいつも出かけている。

こうした母親の背をみて育っているので、われわれ兄弟は、すくなくとも私はいつも何かのグループのお世話役をいとわず手がけるようにしている。余計なことをする、体力にめぐまれていることも、これと無縁ではあるまい。「家のなかで、お茶碗やコップを磨いているだけでなく、外に出て、すこしでもみなさまのお役に立つことをしなさい」と、娘3人に言っていた。家で、お茶碗や、コップがいつもピカピカであったような記憶はあまり持っていない。

先日、友人との会食の時に、「My Mother Always Used to Say」のはなしをしたところ、その友人は母親ではなく、かれの祖母がいつも幼稚園まで送ってくれ、分かれ際に、毎回、「良いお友達をたくさん作りなさいね」と、言ってくれたそうである。毎日、いわれたので、頭の隅に残っていたが、しばらくしてその祖母がなくなるとすっかり忘れてしまっていたそうである。しかし、あるとき、ふと記憶がよみがえり、祖母のひとことを深くこころに刻んで、毎日生きるようにしているとの、はなしであった。

あるひとは、義理の母親、のひとこと、「もっと、生活にゆとりのない人たちは、このような私たちの行動をどのようにみるのでしょうね」といって、無駄をいましめていたことが、印象にのこっていると話してくれた。

それは、母親、祖母、義理の母、父親、祖父だけでなく、恩師や友人の場合もあるかもしれない。周囲のひとから、当然われわれはおおくのことを学ぶ。そのひとこと、ひとことを噛み締め自分の行動の指針にしているひとは多いに違いない。

あなたはどのような、母親のひとことが、こころに残っていますか?おさしつかえなければ、われわれ、お仲間と分かち合っていただけませんでしょうか。

ライン随想録のほかの記事に付いては、下記のURLをご参照下さい。

http://plaza4.mbn.or.jp/~yiura/rhein040.htm

(97/10/26 ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)