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世界の窓

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【 スイス・バーゼルレポート VOL.1】

井浦 幸雄氏

◆ クイーン・エリザベス二世号航海記− その1

1997年7月27日ロンドン発、8月1日ニューヨーク着の予定で、約1500人のAFS International (交換留学生制度) のお仲間とともに、同制度発足後50周年の記念航海に参加することとなった。約1年半も前から、予定を立てていたもので、その出発がまじかに迫ってきた。 船に、ノートブックを持ち込んで、その行事とか国際的な交流の様子を記録しておこうと思う。乗船者はAFS制度の関係者だけの貸し切りとなり、1500人 のお仲間により、種々の交換・討議が行われる予定となっている。1500人の内訳は、30数カ国からなっており、ロンドン始発と言うことで、ヨーロッパ在 住のひとが多いが、南米、アジア、北米からロンドンに飛来し、ここから参加する人も数多くいる。ドイツ在住者が約200人ともっとも多いが、スイスも人口 の少ない国にしては、90人も参加している。USAは約60人、日本からも約10人が、参加している。日本人もわれわれのように、スイスに住んでいるも の、ドイツに住んでいるもの、USAに住んでいるものもかなりいて、国籍と居住地は一致していない。

AFS交換留学制度はアメリカのクエイカー教徒が銃をもって、戦争に参加できないので、その代わりに、救急車・アンビュランスのドライバーとし て、従軍していた人たちが、第二次大戦後、戦争の根源を絶つことを目的として、高校生レベルの交流を目的とした、留学制度をアメリカと他の国くにのひとび との間で作ったものである。1997年の今年は、同制度発足後50年に当たる。日本からは1953年に最初の交換学生が送られてから、もう44年になる。 わたしのところは、わたしが6期の交換学生で、1959−60年にミネソタ州、ミネアポリスへ、家内が1960−61年、ワシントン州、ベリンハムに一年 留学している。1960年代初の日本はまだ貧しかった。その ころのアメリカはベトナム戦争前で、上昇期にあり輝いて見えた。それから、アメリカも日本もいろいろ変わったが、高校生のころ受けたカルチャー・ショック はその後のわれわれの生活に微妙な影響を与えた。日本に帰り、大学に通い、就職をしたが、語学だけでなく、家内も含め海外で生活することをいとわない要員 として、国外勤務になんども駆り出された。1965年に大学を出て、もう32年になるが、そのうち三度にわたり、15年間が海外勤務であった。

若いときに国外で日本以外の文化と接すると、いわば日本人以外の人と、交流することに違和感がなくなる。これは多くのAFSの日本人のお仲間が 日本以外の国くににすんでいることからも分かる。日本にすんでいるAFSのお仲間もおおかれすくなかれ、国外と交流の多いところで、活躍しているようであ る。

この航海記では、AFSの狭いグループでの宣伝・交流ではなく、より普遍的なテーマに添って、平和の問題とか、異文化の交流の問題とか、いろい ろ考えてみたい。航海中の1500人のうちの、何人かの人々との印象に残った会話、意見交換についても記してみたい。また、21世紀に向けて、人類が何を すべきか、それぞれ指導的な立場にあるひとびとの考えを紹介してみたいと思う。

スイス出発まで、あと2日ほどあるので、メール・リストのかたがたがこういうことを聞いてきたほうが良いなどの、 サゼスチョンがあれば、お教え下さい。航海記の中に取り込んでいきたいと思います。(その1、以上)

(97/7/23  ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)


◆ 内なる国際化

井浦さんは国際機関の勤務が長く、国外に長く住んでいるので、もう「国際人」になっていますね、と良く言われる。これをいわれると、いつも戸惑 う。IMF(国際通貨基金)など、ワシントンが7年、BIS(国際決済銀行)のスイスがもう8年、国外で働いているが、いつも自分のことを平均的な日本人 と思っている。仕事では英語を話さなければならないし、パーティーなどで、フランス語・ドイツ語が必要になることも多い。しかし、日本についての知識、日 本人との絆が当然私の国際機関における強みであるといつも思う。周りを見渡しても、イギリス人、フランス人、ドイツ 人、はいても、国際人はあまりいない。強いていえば、国籍の異なる両親(たとえば英・仏人)のもとで、スイスで育ち、教育を受けた子供たちは、英語、フラ ンス語、ドイツ語、スイス・ドイツ語、がほぼネイティブと同様に話せ、どこにでも住めるので、いわゆる国際人に近いかなと思うが、いわばローカルのヨー ロッパ人ということだけかもしれない。

ただ、日本にだけ長くいた人にくらべ、外国での生活が気楽で、楽しみ方もうまいのではないかなと少し自負している。同じくスイス・バーゼルに住 んでいても、あまり国外に行きたがらない、ローカルのスイス人が多いことにも気づき始めた。同じ欧州共同体になっても、国境を越えて働いたり、結婚したり することもそれほど多くないことも分かってきた。日本だけでなく、多くの国・地域で、実は国際化がそれほど、進んでいないことも事実のようである。一つの 国、都市、会社、家庭でどれほど、異質のものを受け入れるようになってきたか、いわば「内なる国際化」が大切なもののようである。内なる国際化とは、日本 にいる日本人同士が、他地域の日本人とどう接するか、ということに集約的にあらわれる。たとえば、東京ないし、関東の人が、秋田の言葉、鹿児島の言葉に接 したときに、標準語で話すことを要求したり、あなどったりすることはないだろうか。異なった文化を暖かく受け入れる許容度はどうなのであろうか。

同一の郷里、卒業した学校、会社ごとのグループで排他的な行動をとることはないだろうか。どこの国でも多かれ少なかれ、同一のグループが寄り集 まるということはあるが、日本の場合この傾向がやや強いように思う。最近では変わってきたのかもしれないが、官庁記者クラブなどで、一定の資格を持ったも のだけが、記者会見の席に出席でき、他のものは排除されるということがあったように聞いているが、希望者はすべて参加できるというのが、フェアーな扱いで あろう。同一の学校の同窓会、会社のOB会で子弟の結婚を斡旋するようなことが、昔はあったようであるが、これも民 間の仲人クラブのように希望者がだれでも参加できるようなもののほうが、フェアーであろう。

実は、このアクセスの不平等ということが、情報の流れも含め、日本の社会、企業、組織が不透明、アンフェアーと呼ばれることの最大の理由になっ ているようである。ある国際空港の建設工事入札にアメリカとか外国の業者を入れさせろ、と要求してきたので、これを認めたが、結局韓国の業者が入札してき ただけで、アメリカの業者は一社たりとも来なかった、という不満を聞くことがあるが、これはそれで良いのであって、その気になれば参加できるということで 皆満足する。

これは日本だけでなく、中国も含めたアジアの国に共通するのかもしれないが、人治主義を好み、法治主義を好まないという傾向がある。日本には、 法体系を精緻なものにしたり、紛争の決着を裁判によるという傾向を好まない風潮がある。こと細かく法律にせず、裁量権を行政に与えることにより、事態の変 化に柔軟に対応しようという考えである。これは、行政に対する一般人の信頼が厚く、非日本人の参加が少ないときにはうまく機能してきた。しかし、この二つ の前提が崩れてきた現在、選択の余地は狭いように思う。アングロ・サクソン的な、精緻な法体系が日本にも必要になる ときがすぐそこまで来ているように思う。人が信頼し会い、裁判などには軽軽に訴えないという古きよき時代は国際化・グローバリゼーションの荒波の前に押し 流されてしまったように思う。

もうひとつ大切なことは、血統の国籍主義と居住地による国籍主義のふたつの流れがあるように思う。私は専門家でないので、詳しいことは分からな いが、たとえば米国とフランスでは、それぞれの国で生まれた人は自動的または容易に当該国国籍を取得できる。それに対し、日本、ドイツでは両親、または片 親が日本人、またはドイツ人でないとたとえ、それぞれの国で生まれたとしてもその国の国籍が取り難いことのようである。日本でも、明治以前には先進地域と しての、アジア大陸、朝鮮半島からの渡来人を暖かく、迎えてきた経緯があったように思う。国民のコンセンサスを得 ながら、希望者に新・日本人としての国籍をジェネラスに、柔軟に与えることが、日本を活性化することになり、また日本人を暖かく迎えてくれる多くの国の人 々に、応えることになるように思うのであるが、いかがなものだろうか。

それから、もう一つ興味あることに、国外で活躍・居住する日本人に対する日本人の見方が微妙なことである。たとえば、岸恵子がフランス人のチャ ンピ監督と結婚したときに、面白くなく感じた日本人が多かったように思う。岸恵子がチャンピ監督と別れて日本に帰ってきたときに大喜びをした日本人が多 かったように感じた。野茂が米・メージャー・リーグに移籍したときも、日本のマスコミの反応も意地が悪かったように思う。日本に規制が多く、仕事がしにく いことから、優秀な個人、企業が続々脱・日本を図ってしましい、日本が空洞化しまうのではないか、大変だという話を良 く聞く。この視点で欠けているのは、岸恵子が、野茂が、ハッピーか、生きがいを持って活躍しているか、ということに対する共感、同情であろう。個人がハッ ピーであれば、グループ、この場合には日本の芸能界、野球界に対する貢献など、さほど重要でない、といった考えが欠落している。脱・日本をはかった人、企 業はきっと、その国で、地域で貢献しているに違いない、日本だけの視点でなく、グローバルの視点からすれば、本人がハッピーでそこで活躍すれば、結局は皆 のためになるような気がする。

8年ほど前、わたしが国際決済銀行に来たとき、「これで日本も国際機関にいろいろ貢献ができるようになってうれしく思う。」と、ある幹部のひと に行ったら、「幸雄、そんなことより、自分の幸せをここで求めなさいよ」、と逆にさとされた。目から鱗が落ちたように感じたことを今でも、鮮明に覚えてい る。(以上)

(97/7/18  ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)


◆ ヨーロッパの人たちの休暇の取り方

この週末(6月28−29日)から、スイスの多くの小、中、高校は夏期休暇となり、8月中旬まで、バカンス・シーズンとなる。親も、同時に休暇 をとり、多くの職場では、半分から3分の2くらいの数のスタッフで通常の業務をこなさなければならない。はたらく人たちの当然の権利とはいえ、職場を管理 する立場の人に、苦労の多い時期でもある。

通常の人は、契約にもよるが、年、4−6週間の有給休暇をとり、このほか、約5日程度の病気休暇を得ている。夏に1−2週間、長い人は、3−4 週間の休みをとるケースが多い。大体、一年のうち、全部消化する人がほとんどであるし、管理する立場の人も全部消化できるような人員配置を常に心がけるよ うにしている。最近では、とくに金融機関では、事務の相互検証の観点からスタッフが2週間以上まとめて休むようにとの内規を作ったり、奨励しているところ が多い。

日本とヨーロッパの休暇の取り方も、最近では、それほどの差異も見られなくなってきたのかもしれないが、それにしても、日本では年次有給休暇を 返上したり、使い切れないで無駄にしたりする人が、まだまだ多くいるのかもしれない。国民の祝日が日本の場合、スイスの2倍近くあり、それで代替できてい ることもあるだろう。職場の人員配置で、とくに、中堅、幹部要員は休暇を取りにくいということもあるだろう。しかし、日本で年次有給休暇が十分取れないの は、もっともっと根深い要因が働いているように思えてならない。

若い日本の女性スタッフは有給休暇を上手に使い、海外旅行などを楽しんでいると聞いている。ほかのスタッフがなぜ、同様なことができないかとい うと、多くの職場で、休みの取り方、時間外労働のしかたに、昇進・昇格が微妙にからんでいると考えられているからであろう。有給休暇の返上、手当てなしの 事実上のサービス残業が、会社に対する自己犠牲、忠誠心と受け取られ、これを多くするひとが、昇進・昇格に際し上のひとから覚えがめでたいとされているの ではなかろうか。ヨーロッパの多くの普通の平均的なスタッフは、昇進・昇格のため自分の生活を犠牲にしたくないと 考えているようだ。また、休暇は長い期間をかけ、経営側から働くものが勝ち取ったものとの権利意識が極めて強い。
それを反対給付も無しに、自分のほうから返上するなど、言語道断と考えているようだ。日本の場合、ほとんど偉くなれることが保証されていない人までもが、 自分の生活の質を落として、休暇の返上などをしている。日本の管理形態が実に巧みで、だれでも昇進・昇格できるような、幻想をふりまいているためなのであ ろうか?

日本の場合、必ずしも、偉くなりたいとばかり考えていなくとも、休暇を利用していない人がいるかもしれない。個人の住宅環境が劣悪で、休暇を 取っていても、くつろがない、受入態勢のリゾート地も値段が高かったり、混雑したりしている。海外に旅行に行くにしても、高価である、といった受け皿の問 題があるかもしれない。確かに、ヨーロッパの場合、近場にそれぞれユニークな文化をもった国々があり、割安に楽しめる観光地がたくさんあるといった状況に ある。それにしても、日本の人たちは今でこそ、海外渡航1600万人の時代といって、熱心に旅行に行っているが、レジャ ー、バカンスに対する取り組みが今までは中途半端で、適切な受け皿を作り上げるような働きかけ、努力をしてこなかったのではないだろうか。旅行、休暇も人 生の重要な一こまで、仕事に取り組むと同じような、熱心さ、意欲をもって取り組まなくてはならないように思う。

フランスで約一ヶ月にも及ぶような長期のバカンスを多くの人が取るようになったのは、第二次大戦後の労働者過剰からワーク・シェアリングの観点 があったと聞いている。確かに、みなが長期の休暇を取ると、雇用は少し厚めにしておかないと回らない。日本の場合、能率を上げる観点から雇用をぎりぎりま でしぼり、休暇をみなが十分とらないことを前提にシステムが組まれているような気もする。豊かな生活をするには、若干生産性を落としてでも、幹部職員も含 めて、少なくとも全員が有給 休暇を年内に消化するくらいの人員配置が必要となってこよう。それには会社の中の無駄な作業は一切省き、資源を効率的なところにのみ振り向けるといった工 夫が必要になってこよう。会議を極力切りつめ、電子メールで置き換える、転勤などの単なるあいさつは一切止める、電話での交渉を増加させるなどが最低限必 要であろう。

受け皿としてのリゾートも日本は費用が高すぎるといった批判がある。ホテルは一泊か二泊が通常で、一週間単位の滞在を前提にしていない節があ る。これも多くの人がより長期の休みをとれば、情勢が変わってくるかもしれない。自分の家での休暇と一、二泊のホテル滞在と組み合わせる工夫もあってしか るべきであろう。

私の勤め先のヨーロッパ人の仲間に長期の休暇の過ごし方を訊ねると、その人のライフスタイルにより、当然異なってくるが、たとえば、7−8月に 3−4週間の休みを取った人は、家族連れで両親、兄弟、親類と近くのリゾートに行くか、両親のセカンド・ハウスに子供連れで、長期滞在し、ときどきホテル やレストランに食事に行くといった過ごし方をしている。両親も息子、娘夫婦に、孫たちがきてくれ、若干の出費があっても楽しいということだろう。2−3 年、3−4年に一度は、ヨーロッパ以外の地域に海外旅行に行く機会もあるが、若い夫婦で体力もある人でないとこれもまれであ ろう。家でペンキ塗りをしたり、庭仕事をしたりといった休暇の過ごし方をするひとも少なくない。

私ども夫婦の場合はアメリカ・ワシントンでの7年間は、車で近くのリゾートに良く出かけた。カナダはホテルも割安で見るところも多いので、楽し かった。アメリカ国内も東海岸の都市群をまわることで、いろいろ見るべきものが多かった。1989年にヨーロッパに来ていらい、仕事、休暇で、日本に帰る とき以外は、ヨーロッパの国々、スペイン、フランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、に地元スイスの各地を訪れた。東欧の国々もあらたな魅力がある。し かし、年配になってくると、長期の休暇であちこちにいくこともも次第に負担になる。今年の6月には自宅で休暇をとり、ゴルフや、家の手入れ、片づけもので 一週間過ごした。なかなか良いものだと思った。

仕事と並んで、休暇も人生そのものなので、自分のライフ・スタイルになじんだ、無理のないものになってくると思う。仕事の段取りと同様、休暇も かなり前から、準備をしておくことが、大切なようだ。自宅で過ごす休暇はともかく、予約が必要なところは事前に準備が必要であろう。仲間と休暇の調整が必 要な部署では、3−4か月から、場合によっては5−6か月先の調整が必要であろう。

最後に、病気休暇のしくみ、産休、軍事訓練の休暇について見てみたい。中央ヨーロッパの多くの国では、5日ほどの医者の証明書なしの休暇が認め られている。日本ではなじみがないが、朝起きたときに、どうも体調が悪い、風邪気味だ、とかいったときに、便利なようだ。もちろん、医者の証明書があれ ば、より長期の病気休暇が認められる。産休は一年程度が認められるし、軍事訓練の休暇はスイスではすべて雇用主負担の有給休暇の扱いとなる。

また、近隣の州、地域の学区では、夏休みなど学校の休暇の始まる時期、終わる時期を、3−4日から、一週間程度、意識的にずらし、道路の渋滞を さける、工夫をしている。また、スイス・オートモビル・クラブの月例ニュースレターを見ていると、夏場の道路の混みがちな曜日と時間が明記してある。とく に混雑が予想される、ドイツ・スイスからイタリア方面への通過道・ゴッタールトンネルでは、金曜日の午後と、土曜日の午前中は南向き、イタリア方面への通 行は避けるようにとの指示がなされている。混雑を避け、たのしい休暇を過ごすには工夫と事前の情報集めが不可欠のもののようである。(以上)


(97/6/28  ライン随想録・スイス・バーゼルレポートより)