硝子の外 「……その硝子瓶の中に、本当に、夏目がいるのか……?」 田沼は、目を凝らして、透明な硝子の内側を食い入るように覗き込んだ。 「……くそっ、駄目だ……」 ――何も、見えない。 硝子に透けて見えるのは、向こう側に広がる緑の樹木の景色だけだった。 「……俺には、見えない……」 半ば絶望的な気分になりながら、田沼はがっくりと肩を落とした。 そこに夏目がいることを、疑う気持ちは微塵もない。 疑うなら、ニャンコ先生の存在自体を受け入れている自分は、既に妄想と幻覚の中にいると言わねばならなくなる。 確かに、夏目はこの中にいるのだろう。 夏目は今、どんな表情(かお)をしているのか。 この小さな瓶の内側から、自分をどんな目で見つめているのか。 (夏目……) 自分にも、妖(あやかし)を見る力があればよいのに。 ――などと言えば、夏目は自分を軽蔑するだろうか。 夏目が、これまでその力のためにどれだけ傷つき、苦しんできたか想像に難くない。 異形の世界に足を踏み入れるということが、どれほど恐ろしいことであるのか、自分はまだ本当にはわかっていない。他人と違うものが、常に見えてしまうということが、どんなに自分を他人から分け隔て、孤独にするものかということが……。 彼は、言うだろう。 見えなくてすむものなら、見えない方がいい、と。 だから、軽々しく『力が欲しい』などと言うべきではないのだろう。 でも…… それでも今、自分は彼と同じものを見たいと思うのだ。 それは、いけないことなのだろうか。 さわさわと、風が動く。 森の樹木が揺れ、さざめいた。 そこに潜むものたちが、じっと自分たちを見ているような気がする。 自分には、見えない世界。 それでも、気配だけは、嗅ぎ取ることができる。 密かに蠢くものたちの、息遣いや、匂い。 僅かな風のそよぎが、そのものたちの存在を、彼に知らしめる。 以前は、この自分の異形の気配を感じ取る敏感さが嫌だった。 しかし、今は少しでもそれがわかることがありがたい。 「――夏目は鬼の形相だぞ」 ニャンコ先生が面白そうに言うと、田沼は目を瞠った。 「……怒ってる?……夏目は俺に何か言ってるのか?」 「聞かなくてもわかるだろう」 「……って、言われても……」 透明な硝子をさらにじっと見据える。そこで自分たちを睨みつけている夏目の姿を思い描いてみた。 何となく、おかしみが湧いてきた。 あの、夏目が……。 友人にも、いつもどこか遠慮がちで、自分の思いや感情を直截に表に出せない夏目にしては、珍しい。 (――怒っているのか) 取り敢えず、泣いたり落ち込んだりはしていないということだ。 安堵した途端、田沼の胸からそれまで渦巻いていた不安や恐怖の波がすっと引いた。 (――たとえ、見えなくても、俺は夏目を助けたい) こんな自分でも、力になれるかもしれない。 初めて、他の誰かのために、何かしてみたいと強く思った。 「今、俺には夏目が見えないし、何を言っていても聞きようもないから……」 瓶をそっと持ち上げて、彼は見えない夏目に向かって微笑んだ。 「――手伝うのは、俺の勝手だよな」 その瞬間、戸惑う夏目の姿が浮かんで、消えた。 ――夏目。 ――夏目……。 田沼は、確かにその時、夏目の気配を感じた。 ほんの少しの間、見ないだけで、なぜか、とても懐かしく感じる。 「文句は聞かないからな。夏目……」 ――会いたい。 次に会った時には、不器用な自分でも、もっと上手く伝えられることもあるだろう。 おまえは、もう一人じゃない。 おまえには、おまえを大切に思う、仲間がいるんだ。 だから、おまえが何と言おうとも、俺はおまえを助けるんだ、と。 ――おまえは、一人じゃないよ、夏目……。 瓶を持つこの手の温もりが、夏目に伝わるだろうか。 夏目は、まだ怒っているだろうか。 馬鹿な奴だと呆れているだろうか。 「文句を言いたければ、その瓶から無事に出られてから言え」 そう言うと、田沼は大切なその瓶を両手の中にそっと抱えた。 (2013/01/27) |