「マウンド、降りろよ」
 トイレの中で、隣りに立った畠に突然そう詰め寄られたとき、廉は完全に凍りついた。
 
 あ、あ、あ、あ……あ……ッ……!
 
 なん、で。
 きゅう、に……
 
 廉の頭の中は、いつものごとく……いや、いつも以上に、ちょっとしたパニックを引き起こしていて……。

























ぜってー、負けねえ・・・!














 
 ……ずっと、口を聞いてもらえなかった。
 バッテリーを組んでいるのに。
 目を合わせるのは、マウンドに立ったときだけ。
 それも、仕方なくのような、泳いだ視線で……。
 最近は、サインすら、ろくに出してもらえなくなっていた。
 そうして、野球を離れた場所では、綺麗に無視された。
 
 そんな風に……。
 自分の存在はいつの間にか、消えてなくなっていた。
 このチームの中では、自分の居場所はもう……。
 マウンドしか、なかった。
 マウンドで、ひとりぼっちで。
 自分だけの、ピッチ。
 良く投げたって、悪く投げたって、わからない。
 どうして、こんな風になってしまったんだろう。
 
(オレが、三星(ここ)のエース、なんだ……)
 
 みんなが、自分をどんなに嫌っているのか、十分わかっている。
 何も、言わない。
 ただ、突き刺すような、冷たい視線。
 練習のときも、試合のときも。
 自分は、いつもひとりきりで野球をしていた。
 一人で投げ続けるしか、なかった。
 そして……
 最後には誰もいないグラウンドで、蹲って泣いた。
 誰も……。
 誰も、声をかけてくれなかった。
 当然だ。
 自分のせいで、負けたんだから。
 自分は駄目な投手だ。
 三星の足を引っ張っている。
 それが、わかる。
 わかりながら……。
 それでも……。
 エースの座を渡したくはなかった。
 だって、エースでなくなったら、もうオレ、は……。
 
 ――投げられなく、なる。

 それが、何よりも怖かった。
 投げることが、できなくなる。
 そんなの、嫌だ。嫌だ。嫌だよ……。
 嫌だよ、絶対に、嫌だ……!
 
 
「おい、聞こえたんだろ?」
 畠の声に、廉は我に返った。
 至近距離で、目が合う。
「……あっ……」
 身が竦んだ。
 畠の、目。
 怒っている。
 とても、とても怒っている。
 顔が、近づく。
 逃げなきゃ、と思った。
 でも、足が竦んで動かない。
 がたがた、と震えが走った。
 目を瞑って、顔を背ける。
 今にも体を掴まれるか、とドキドキした。
 一発きそうな勢いに、押された。
 
(殴られる……!)
 
「おいっ!」
 肩を、掴まれた。
 壁に、押しつけられる。
 がくり、と膝が折れそうだった。
 でも、目を開けることができなかった。
「どうなんだよ……!」
 怒気に満ちた声。
 
 畠くん……。
 前は、こんな恐い声で話さなかった、のに。
 前……は――
 
 そう、思って廉は自分に呆れた。
 前……?
 前、ってどれくらい、前のことを言ってるんだ……オレ?
 
 この中学に入学して、最初に野球部の練習を見に行って、そして……野球部に入って……。みんなと、出会った頃……。
 あの頃、みんなはまだ、笑っていた。
 オレに話しかけたり、冗談を言ったり……。帰りに一緒にアイスを買い食いしたり……。
 
(おまえ、コントロールいいなあ)
 
 初めて畠に向かって投げたときに、彼が最初に言った言葉。
 廉は、まだそれを覚えていた。
 それを聞いたときの、胸の高揚感。どきどき。
 褒められて、嬉しかった。
 嬉しくて、口元が自然に綻ぶ。
(うへ、うへへ……)
 気付くと、大きな声を上げて、笑っていた。
「オ、レ……エース……に、なれ、る、かな……」
「エース?あはは、いきなりだな!おまえ、見かけに寄らず大胆なこと言うよな。……ま、けど、おまえなら大丈夫だろ!」
「ほん、と……?」
「ああ、自信持てよ。オレがちゃんとリードしてやっからさ!」
「わ、あ……!」
「いいから、ほら!投げろよ」
 言われた通りに、球を投げたら、畠はしっかりと受け止めてくれた。
 安心感が、広がる。
 嬉しくて、その後もしばらくの間、笑いながら投げた。
 畠に、いい加減マジメな顔しろよ!と注意されるまで。
 顔が緩んで仕方なかった。
 
(だって、だって、オレ……エース……なれる、かも、って……!)
 
 背番号、1。
 一番は、誰でも嬉しい。
 でもそれが……最初で最後の、自分が心から上げた笑い声、になるとは思いもしなかった。
 
 
「エースは、叶に譲れよ」
 畠の冷たい声音に、心臓を掴まれたようだった。
「か、のう、くん……に……」
「あーそうだよ。おまえのせいで、あんないいピッチャーがずっと控えでしかいられねーって、ひでーと思わねーか」
 畠の声に、少し意地悪げな響きが混じる。
「おまえさあ……ほんと、うぜーんだよ。ずっとみんながおまえを無視してんの、いい加減空気わかれよな!」
「……………」
 体が震える。
「おまえは、エースなんかじゃ、ねーんだよ!」
「……………」
 蒼ざめた唇が、ほんの少しだけ、動いた。震えながら、小さな、小さな声で、呟く。
 畠は顔を歪めた。
「あー?……何だって?」
「……ら、な、い……」
 消え入りそうな、声。
 それでも、語尾がかろうじて残る。
 畠は信じられないといった風に、目を見開いた。
「三橋……」
「……ゆ、ずら、な、い、よ……オ、レ……」
 ぶるぶる震えながら、それでも……。
「オ、レ……ま、だ……エー、ス、で、い、た、い……」
 声は小さいが、はっきりとした、拒絶。
 畠の顔色が変わった。
「三橋いっ……てめえっ!」
 激しい怒鳴り声に、廉はますます身を縮めた。
(なぐ、られ、る……!)
 本能的に、それを感じた。
 とっさに顔を隠すために、腕を上げた。
 その二の腕を乱暴に掴まれる。
「う……あ……っ……」
「なあ――この腕、折ってやろーか?」
 聞き取れないほどの低い声。
 しかし、冗談やただの脅しだけで言っているとは思えないほど、不気味な、恐ろしく気迫のこもった声だった。
「……は、た、け、くん……」
「二度と投げらんねーよーに、さ」
 畠はゆっくりと、嬲るように続ける。
 同時に、掴まれた腕に強さが加わった。
 痛みに、顔を顰める。
 
(畠くんは、本気、だ……)
 
(オレが、エースをやめる、って言えば……)
 
 それで、済むこと、なのに。
 畠は、すぐに解放してくれるだろう。
 チームのみんなも、喜ぶ。
 チームの雰囲気も、きっと、変わる。
 みんな、もっと、やる気になる。
 野球を楽しめるように、なる。
 ただ、自分が一言言うだけで。
 それだけで、全てが、変わる。
 なの、に……。
 廉は、唇を噛み締めた。
 涙が目尻に滲む。
 閉ざされた目を、ぎゅっとさらに固く瞑ると、すうーっと、一筋湿った感覚が頬を濡らすのがほんのりと感じられた。
 
(オレは……オレは……)
 
 オレ、は……――
 
 ――なぜ、それが、言えないんだ?
 
「……い……」
 ぶるぶると微かに首を振る。
「……や、だよ……」
 
 ――オレが、このチームの……エース、なんだから……
 
「――三橋いいっ!」
「おい、何やってんだ!」
 怒声とともに、ばん、とトイレのドアが開いた。
「何やってんだよっ!」
 同時に――
 
(レンっ!)
 
 ……ふと、そんな声が聞こえたような気がした。
 
(――シュウ、ちゃん……)
 
 廉は、おそるおそる目を開けた。

 あんまりきつく閉じすぎて、しばらく目の前がぼおっと霞んでいた。
 でも、誰が扉の前に立っているのかははっきりとわかった。
 
 それは、紛れもなく、叶修悟の姿だった。
「畠っ!」
 その声に弾かれたように、畠の手が廉の腕から離れた。
 廉は、急に全身から力が抜け落ちた人のように、へなへなとその場にへたりこんだ。
「……叶……!」
 呆然とその名を呼ぶ畠に、
「馬鹿してんじゃねーよっ!」
 厳しい声が、さらに怒鳴りつける。
「三橋のことは、放っておいてやれ、って言ってっだろー?」
「――け、けど、なあっ……」
「いーから、三橋に手え出すなっ!」
 叶は、そう言うと、凄い眼で畠を睨みつけた。
 その迫力に押された畠は、何も言い返すことができぬまま、渋々廉の傍から離れた。
「オレは、おまえに投げさせたい……」
 畠のぼそりと呟く声を、廉はぼんやりとした頭で聞いた。
 
(おまえに、投げさせたい……)
 
 畠くんは、叶くんの方がずっといいピッチャーなんだ、って知っている……。
 叶くんに投げさせれば、きっと負けない。
 オレたちのチームは、勝てる……。
 
 
 その、通りなんだ。
 
 
 わかっている。
 でも、でも、でも……!
 
 
「三橋」
 声をかけられるまで、相手がすぐ傍まで近づいていたことに、気付かなかった。
 一気に緊張が高まる。
 
 叶くん、が……。傍に、いる。
 
「顔、上げろよ」
 言われても、怖くて、上げることができなかった。
 ふう、と頭上で軽い溜め息が聞こえる。
「……どうして、おまえは、そうなんだよ」
「……………」
「何で、何も言わねーの?」
 そんな風に言われても、それでも……。
 何も、言えなかった。
 何も、何も……。
 何て言えばいいのか、わからない。

「――負けねえから、な」

 言葉が降ってくる。
 あれ?
 首を、傾げた。
 
 負けねえ、から……。
 
 静かな口調の中に、挑むような、強い力がこもる。
 本気の声、だ。
 
 叶が、そんな風に声をかけたのは、初めてだ。
 一体、どうしたんだろう。
 廉は、不思議に思った。
 だって……
 違う。
 負ける、とか、負けない、とか。
 そんなんじゃなくて。
 
 自分と叶は同じ土俵にすら立っていないのだ。
 
 だって、オレは……。
 
 そもそも、力なんて、ない。
 マウンドに立てば、ぼこぼこに打たれてばっかで。
 
 ひいきで、レギュラーやらせてもらってる、だけなんだ、から。
 
「……オレは、いつかきっとおまえに勝ってやるよ。ぜってー負けねえ!」

 マウンドで、勝負できる日が、いつか……。
 
 来るのだろう、か。
 
 廉は目を瞬いた。
 叶の言葉の意味をゆっくりと考える。
 叶は、自分に勝つ、と言っている。
 叶が、このオレと勝負したい、と……。
 
 その意味の大きさに気付いたとき、廉はあっ、と声を上げると、慌てて立ち上がった。
「かっ、かっ、叶……く、んっ……!」
 言いかけたときに、ばたん、に扉が閉まった。
 叶の背中が消える。
 
(ぜってー、負けねーからな……)

「……オ……」
 
(オレ、も……)
 廉は大きく息を吸い込んだ。
 震えていた体が、少しずつ、少しずつ、元に戻っていく。
 力が、戻ってくる。
 この、感じ……。
 目を見開いた。
 瞬きを繰り返す。
(何だろう、コレ……?)
 信じられないけれど。
 自分も、今――同じ、こと、思った……。
(オレも、叶くん、に……)
 
 負けたく、ない、か、な……。
 
(オレも、負けたく、ない)
 廉はそんな風に思っている自分に気付いて、驚いた。
 負けたく、ない。
 こんなに負けてばっかりなのに。
 それでも、まだ自分の中に、そんな気持ちが残っていたなんて。
 
 廉はいつまでも叶の後ろ姿の残像と、それに負けたくない自分の気持ちを、不思議なほど強く、強く噛み締めていた……。
 

                                                  (Fin)


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