負け犬







「負け犬」
 そう正面きって言われたとき、何も言い返せなかった。
 でも、悔しかった。
 はらわたが煮えくり返るようで、ただ熱くなる体を持て余した。
 何も言えなかった自分自身に腹が立つ。
 負け犬。
 確かに、負けた。
 でも、恥ずかしい負け方じゃ、ない。
 利央は、拳を握りしめた。
 和さんだって、準さんだって……みんな、みんな……
 全力、出してたんだ。
 なのに……。
 あんな言い方は、ないだろう。
 馬鹿にしたように笑って言い放ったときの兄の顔を思い出すと、また先程の悔しさと憤りが甦る。
(兄ちゃんの、馬鹿野郎……っ!)
 今度会ったら、一発殴ってやる。
 兄には勝てる筈もないとわかっていながら、利央はそう思わずにはいられなかった。
 あれから、田島にメールを送ろうと思った。
 しかし、兄との会話を思い返すと、メールを打ちかけた指先が、自然と止まってしまう。
 田島と仲良くメールのやり取りなどしている自分を見れば、兄はさらに侮蔑的な言葉を放つだろう。
(仇を討ってやる)
 兄は、そう言った。
 言いながら、その目は笑っていた。
 情けない弟を蔑むような、容赦のない目だった。
「ちっくしょう……何が仇討ちだよ、馬鹿にしやがって……!」
 仇なんて、いらねーよ。
 むしろ、負けろ、と思った。
(そうだ。負けちまえば、いいんだ!)
 意地の悪い気持ちで、利央は兄の傲慢な顔が屈辱に歪む瞬間を想像して、ひそかに笑った。





 全く……。
 ヘルメットを被りながら、呂佳は、やれやれと肩を竦めた。
 情けない面だった。
 弟のくしゃくしゃに歪んだ、あの今にも泣き出しそうな顔を思い出して、彼は眉を顰めた。
(そんな根性だから、おまえは美丞に誘わなかったんだよ)
 それを弟が一番気にしていることを、彼はよく知っていた。
 知っていたからこそ、わざとそう言った。
(なのに、あいつは……)
 何も言い返さず、ただめそめそした顔を見せただけの弟の姿が彼を無性に苛立たせた。
 これじゃあ、自分はただの悪役だな、と苦笑いするしかなかった。
 まあ、いいか。
 今さらいい兄貴ぶっても仕方ないしな、と彼はバイクに跨った。
 利央の奴には、まだ、来年があるんだ。
 これが最後の夏じゃない。
 ――最後の夏。
 ふと、脳裏をよぎる残像に、彼は一瞬動きを止めた。
(あのときの俺は、空白だったな)
 自分でも、あのときの気持ちが、わからない。
 思い出せない、のだ。
(あのときの、俺は……)
 ……何も、なかった。
 悔しさも、怒りも、悲しみも、何もかも……
 ぶっ飛んでしまっていた。
 あのとき、自分が見つめていた恐ろしく白いグラウンドの映像だけが、ただ茫漠と記憶の淵に残っている。
(そして俺は、あの後……)
 ――グラウンドへ戻らなかった。
 二度と、戻るつもりはなかった。

(負け犬)

 それは、つい先刻、自分が弟に投げつけた言葉だった。
 呂佳はちっと小さく舌を打った。
(くだらねえな)
 胸の内で吐き捨てると、彼はクラッチを握り、バイクを発進させた。
                                     (Fin... 2010/04/03)

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