2 昏(くら)い瞳の少年
イサス・ライヴァーが初めてザーレン・ルードとリース・クレインに出会ったのは四年前。ちょうど今と同じくらいの時節だったろう。
その夜も今日と同じように、月のない暗い夜だった。彼は当時十二才で既に身寄りもなく、ただ一人、街道筋の娼婦宿に棲みついていた。
「おまえとこうして歩くのも久し振りだなあ」
リースは丘を降りる道すがら、ふと傍らのイサスに声をかけた。その大柄な逞しい兵士としての外観とはあまりにそぐわぬほどに、彼の目の表情は柔らかい。
イサスはちらと彼を見返したが、敢えて何も答えなかった。そんなイサスの憮然とした様子を見て、リースは苦笑した。
「相変わらず愛想のない奴だな。返事くらいしたらどうだ」
「そっちこそ相変わらずのおしゃべりだな。黙って歩けよ」
イサスはリースを睨みつけると、故意に歩みを速めた。
「そう怒るな。俺はただおまえと久し振りに少し話したかっただけなんだから」
リースは慌ててイサスの歩調に合わせながら、なおも話し続けた。
「おまえと初めて会った夜のことを思い出してたんだよ。ザーレン様と俺が、宿の前で絡まれていたおまえを見た、あの最初の夜のことをな」
酔っ払った数人の騎兵を相手に一歩も引かなかった漆黒の髪の少年。
子供相手に何を…と思わず止めに入ろうとした彼らをも睨みつけたその凄まじい燃えるような眼差しに、リースは文字通りその場に釘付けとなってしまった。
それは、到底子供とは思えぬほどの気迫と意志に満ちた目だった。
たとえ一時とはいえ、大の大人を、それもアルゴン騎兵団を束ねる騎兵隊長でもあるリース・クレインをすくませてしまったほどに。
今でもあの時の何ともいえぬ衝撃と違和感ははっきりと覚えている。
それは傍らにいたザーレン・ルードも同様だったろう。口に出しては言わなくとも、あの瞬間からザーレンの興味はまっすぐこの狼の群れの頭目である少年へ向けられていたのだ。
――『黒い狼』。街道筋に頻繁に出没し、恐れられていた黒装束の盗賊団の頭目がこのわずか十二才の少年であったとはいったい誰に想像できただろう。
(――あの夜。初めてザーレンとリースに出会った……)
リースの言葉に、イサスも思わず記憶を呼び起こされていた。それは彼にとっても、忘れられぬ運命的な出会いだったのだ。
あの夜、辺鄙な街道筋の通りでよりにもよって、アルゴン州侯の庶子ザーレン・ルードの目に止まったことが、果たしてイサスにとって僥倖だったのかどうか。
だが、ともかくこの出会いによって彼の運命が劇的に変化したことは確かだった。
『ただの浮浪児』――などという形容は彼には似つかわしくない――というより、その恐るべき獣の本能さながらに、荒くれの野盗集団を率いて街道を荒らし回っていた少年は、そのままザーレンやその配下にあったリースのもとで剣の使い方から武術、馬術ひいては学芸全般に至るまであらゆることを教わり、それこそ一兵団を率いられるほどの技量を持つまでに成長した。
ザーレンにいわせれば、彼はすべての分野において稀にみる天才的な資質を備えた、実に優秀な生徒であった。
「驚いたな。こいつはいったいどこからきたものか。アルゴン騎兵団にもこれほど勘のいい兵士はそうそういるものではないが」
イサスの著しい進歩に半分呆れながらも、どこか満足気にそう言うのがいつの間にかザーレンの口癖となっていた。
同時に、その言葉通りに、ザーレンはイサスの出自にも非常な興味を示していた。
イサス自身は以前の記憶は(自分の名前以外)まったく失っており、街道宿にくるまでどこでどのように暮らしていたのか、両親の名前すらわからないというありさまであった。
ただ、彼が首にかけていた護符の袋の中身がザーレンの目を引いた。
それは、誰もがそれまで見たこともないような美しい不思議な輝きを帯びた緑の玉石だった。
しかもその石を包んでいた絹地の袋の内側には象形文字らしき不可思議な文字が縫い取られていたのである。
学識のある者が見た結果、古代フェール文字であることが判明し、ますます謎は深まったが、誰一人その謎を解き明かせる者はいなかった。
しかしイサスにとっては石の持つ意味などどうでもよかった。ただ、自分と未だ見ぬ両親とを結ぶ絆として、手放せない大切なものだという意識はあった。
ずっと肌身離さず首にかけていたのも、そんな漠然たる思いからだったろう。
何となく習性でそうしていたものが、妙なもので、いつしか少しでも身から離すと、不安を感じるようになった。
逆にこの石の感触を胸に感じている限り、何とはなしに自分は大丈夫だという安心感を得ることができたのである。
また、時にはなぜか底知れぬ心の高ぶりを感じることもあった。
石自体というよりも、石から発する力が自分の中の力を揺さぶるような感覚であるが、なぜそのようなことが起こるのかはまったくわからなかった。
ザーレンは面白がり、いろいろ調べようと試みたが、イサス自身はあまり熱心にはなれなかった。
不思議だとは思いつつも、深入りすることがどことなく怖かったからかもしれない。
しかし正直なところ、石の話題が出る度にザーレンの手に石が触れられることが、彼には一番嫌なことであったのだ。もっとも、彼がそれをザーレンに直接訴えることはなかったが。
自分でも馬鹿げたことだとはわかっていた。それでもそれは殆ど本能的な不快感といったもので、どうしても理性で拭い取れないものではあった。
そんな彼の思いをよそに、ザーレンはさらに石にこだわり続けた。
「聖都へ行けば、きっと何かわかる。王宮の図書館には何万という古代文書の蔵書があるからな。もともと聖都イシュナヴァートは、古代フェールにゆかりの深い聖地だ。古代文化を研究している名のある学者も数多い。……そうだ、ついでにおまえを立派な騎士に育て上げ、聖都へ上る、というのはどうだ。なかなか悪くない計画だと思うが」
ある日、ザーレンはイサスにそんなことを言った。
(冗談だろう。こんな石ひとつに、そこまでするか)
イサスは呆れて返事もできなかったが、一方でザーレンのその執拗なまでのこだわりに何か得体の知れぬ不安も感じていた。
「俺の勘だ。その石は普通の石ではない。きっと何かある。本当はおまえ自身が一番よく知っているはずだろうがな。だが、思い出せないのでは仕方ない」
ザーレンは双眸に底知れぬ光を瞬かせながら、じっとイサスを見やってそう言った。その視線に射抜かれる度に、イサスの心は落ち着かなくなるのだった。
ザーレンは不思議な人だ、とイサスは何度となく思った。何というか、掴み所がない。
アルゴン州侯の子として生まれながらも、母親が卑賤の出であったということで、周囲からは厳しい視線を浴びながら育ったせいかもしれない。
戯言めいた物言いが多く、驚くほど奔放である反面、その目が不意に暗い翳りを帯び、時に恐ろしく怜悧な表情を覗かせる瞬間がある。
その美しい貴公子然とした風貌には、人間の感情が全て取り除かれてしまったかのような、非情なまでの淡白さしか残されていない。
全く他の者を寄せつけないような雰囲気。突然、彼との間に遠い距離を感じる瞬間だった。
(この人は、自分が思っているのとは違う……実はまったく別の人間なのではないか――)
そんなとき、イサスの心はなぜかざわめき、忽ち疑念に似た思いが駆け巡るのだが、しかしそれでも、その後見せられる屈託のない笑顔にいつしかその不安も不思議と拭い去られてしまうのが常であった。
実のところ自分がザーレン・ルードをどこまで信じているのか、イサス自身にもよくわからない。
ただ、イサスにとっての、ザーレンとのこの四年間は特別な時間だった。
孤独で、常に周囲に対して身構え、人生そのものを拒絶していた少年。ザーレンは確かにそんな荒んだ少年の魂に、新たな息吹きを吹き込んだ。彼に新しい世界を開いてくれたのだ。
そしていつしか、彼はザーレンの不思議な魅力の下に完全に捉えられ、ごく自然に彼の中でザーレンの占める位置は大きくなっていた。少しずつ、ザーレン・ルードは彼にとって絶対的な存在になりつつあったのだ。
彼は、ザーレンが好きだった。ザーレンを守るためと思えばこそ、彼の命に従い、『黒い狼』を使って諜報もどきの行為もしてきたのだ。
しかし彼は、そのために次第に自分が目に見えない大きな罠の中に嵌り込もうとしているということには、まったく気付いていなかった。
その一方で、リース・クレインとの関係はザーレンとはやや異なっていた。
イサスにとってリースは気のいい兄貴といった存在だった。彼は優秀な騎兵でありながら、内実は気のやさしいごく普通の話し好きの青年で、イサスのことも弟のように可愛がっていた。
イサスを厳しく訓練しながらも、ザーレンからイサスとその『黒い狼』についての計画を打ち明けられたとき、彼は即座に反対した。彼は、少年を政争の道具に利用しようとするザーレンの意図を測りかねた。
「あまりに荷が重すぎはしませんか。まだ十五やそこらの子供に刺客の真似事など……単に金品を奪う盗賊行為とは訳が違う」
当時、ザーレンの周囲には敵が多かった。
アルゴン侯の長子であり、事実上の後継者である兄、ランス・ファロンその人は気性も穏やかでザーレンとは争うこともなかったが、問題はその周囲の取り巻き連中であった。
彼らは、兄よりも何事につけても秀で、父アルゴン侯からも殊にその寵を受けていたザーレンを警戒し、事あるごとに彼の失脚を目論んでいた。
その筆頭ともいえるのが、州侯の姉の子、すなわちザーレンにとっては従兄弟にあたるユアン・コークで、まだ若いが切れ者の策士と評判の人物であった。
ザーレンにとって、ユアン一派の動きを抑えることは非常に大きな意味を持っていた。彼が『黒い狼』を機動性に優れた手兵として用いようと考えたのはそのためであった。
「イサスはもはや子供ではない。おまえもわかっているはずだ。あいつは俺たちが仕込んだ優秀な、一人の兵士だ。十分に任を果たせる」
冷たく言い放つザーレンに、リースはそれ以上何も言えなかったが、内心は深く嘆息した。
――なぜ、この人にはわからないのか、と。確かにイサスは他の同年代の子供と比べると、その言動も思考も異常なほど大人びているし、時にこちらも驚くほどに冷静な判断を下し、的確に行動する。だが、それでも――
(ザーレン様が考えておられる以上に、彼の心はずっと純真だ。イサスの中にはおそらく何の計算も野心もないだろう。彼はただ、ザーレン・ルードを崇拝しきって、必死でその期待に応えようとしている。純粋にあなたを愛しているだけなのだ。そして……あなたから、愛を求めようとするがゆえに。……彼を突き動かしているのは、単に小さな子供が周囲の人間から無償の愛を求める、その本能的な欲求となんら変わりはない。つまるところ、彼もまた愛情に飢えた、頼りない子供の一人に過ぎないというのに……)
その純粋な心を、大人の汚れた打算と利己心で利用しようとする。……今のイサスにはあまりにも残酷な仕打ちかもしれない。
このようなことを思う自分が甘い人間なのかもしれないと半分己に言い聞かせながらも、リースはやはり心を痛めずにはおれなかった。
しかし、それでもザーレンの考えが変わらぬと知ったとき、彼はそれ以上説得するのを諦め、代わりに進んでイサスの補佐役を買って出ようとした。
止むを得ぬこととはいえ、イサスをただ一人危険の渦中に投げ込むわけにはいかなかった。
リースはそれほどまでに、この少年に深く気持ちを注ぐようになっていたのだ。
それ以来、リースはイサスの力強い相談役として、陰ながらずっと彼を支え続けてきた。また、イサスもリースには絶大なる信頼を寄せるようになっていた。
ザーレン・ルードと共に、リース・クレインの存在もまた、イサスの中ではなくてはならないものとなっていたのだ。
あるいはこのような信頼感が、却ってイサスに隙を与えてしまったのかも知れない。
いつもリースに助けてもらってきた。だから大丈夫だ。今度もうまくいく。
その安心感が裏目に出ることになろうとは、このときのイサスには思い及ぶべくもなかった。それはリースにとっても同様だっただろう。
しかし、そんな二人をよそに、運命は既にあらぬ方向へと大きく回転を始めていたのだった。
(...To
be continued)
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