洛楽写真日記
第44回:夕陽丘
(061021実施)
ドーンセンターの会議室で真下厚先生から「古代難波の歴史と文学」という講義を受け
万葉集のお話などを聞く。昼食後、大阪城天守閣を背景にパチリ。
7〜8世紀の難波
現在大阪城がたっている上町台地の北端付近に着目し、政治的施設を最初に作ったのは
5世紀初めの仁徳天皇で、「高津の宮」と呼ばれ、周囲は左図のような状況であった。
今の夕陽丘界隈は難波大郡と呼ばれて人々で賑っていたようである。住吉の津は
卑弥呼の時代(240年)から朝鮮半島や中国に向けて開かれたいた港であり、住吉明神は
神功皇后(300年前後)が三韓征伐の折に戦勝を祈願したという。凱旋して創建されたのが
坐摩(いかすり)神社である。くだら川や百済郡というのは百済から人々が移住してきた名残
でしょう。
崇佛派・蘇我氏と排佛派・物部氏の戦いのとき、聖徳太子は崇佛派の戦勝祈願をし、
成就の結果593年、上町台地に壮大な仏教伽藍を構築したのがこの四天王寺である。
1945年に空襲で焼失するまで9回も焼失、倒壊を繰り返し、1963年に鉄筋コンクリート
で再建された。
右の図は7〜8世紀、すなはち645年大化の改新の後、孝徳天皇のとき難波に遷都、
652年に難波長柄豊碕宮が完成するがその頃の様子である。その後、白村江の敗戦、
大津遷都、壬申の乱、藤原京遷都、平城京遷都を経て726年頃聖武天皇が難波宮を
再建した。
豊臣秀吉築造の大坂城天守閣と大坂城全景。
時代は飛ぶが戦国時代末期に石山本願寺が創建されたが信長と戦って破れ、その跡地に
1584年、秀吉が初代大坂城を築城、関が原合戦の後1615年の大阪夏の陣で消滅する。
1626年、三代将軍家光が二代目大坂城を作るが1665年、落雷によって天守閣は焼失し
1931年に関市長が三代目天守閣を再建したのでした。