洛楽写真日記
義経伝説
第32回 義経誕生の伝説を訪ねる:050416実施
(常盤地蔵)
@
A
牛若丸誕生井碑
牛若丸胞衣塚
B
(常盤御前
腹帯地蔵)
源義経産湯井遺祉碑
C
D
F 弁慶腰掛石
E  常盤化粧井
二本松先生のご案内で数回に分けて義経の足跡をたどります。
 その昔、大徳寺周辺は草茫々の荒地で、洛北七野(内野、北野、平野、
萩野、蓮台野、紫野、上野)といって朝廷の狩猟のための原野だった。
 大徳寺は淳和天皇(在位823〜840)の離宮紫野院として創建され、869年
に雲林院という寺になり、鎌倉時代になって1315年に臨済宗の寺となった。
従って義経の父義朝が没した1158年の平治の乱の頃は雲林院の時代である。
 義朝の別邸がこの付近にあって義経たちが生まれたらしい。嘘か真かの
議論は別に、今日までこの地で色々な伝承が守り伝えられている事実は
真面目に受け止めておくべきであろう。

左が牛若丸誕生井の碑(@)、右奥が牛若丸胞衣塚(A)。
光念寺(C)、常盤の守り本尊という腹帯地蔵(左下)がある。
腹帯地蔵               B源義経産湯井遺祉の碑           
他にもE常盤化粧井とかF弁慶腰掛石などと言い伝えられている
ものもあった。
第32−2回 鞍馬天狗を歩く:050521実施
遮那王と呼ばれた義経が修業した鞍馬寺を探訪する。
鞍馬寺仁王門・俗界から浄域への
結界である。
義経供養塔・彼の住まい跡とか。
鞍馬寺本殿金堂
木の根道・ここで兵法の稽古をした。
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僧正が谷不動堂・
この辺り杉の大樹が立ち並び、
森厳の気が満ちている。
第39回 一の谷を歩く:060415実施
義経シリーズも終盤である。ということは即ち華やかな貴族たちによる
王朝政治が終末を迎え、明治維新まで続く武家政治の時代に変わろ
うとしている大変革期ということなのだ。また、義経の栄光が頂点に近
づくと同時に転落の運命の始まりであったとは・・・
右手中央の建物の少し向こうが一の谷。左の急な斜面を駆け下りてくるとは、
夢想だにしなかった・・・
馬も四足 鹿も四足 鹿の越え行く この坂道 
           馬の越されぬ道理は無いと・・・
生田神社、神功皇后時代に起源があるとかで、生田の森の名残が社殿の後ろ
に見られる。平家軍の東の木戸口が設けられ、範頼率いる源氏軍は知盛・重衡
軍の奮闘により大苦戦に陥っていた。
 鵯越墓園から鉄拐山、鉢伏山方面。当時はビルなどは全く無く、鬱蒼たる
原生林の中を義経軍は進んでいった。
 一の谷の西の木戸口はかの忠度軍が守っていて、迂回してきた土肥実平
軍も大苦戦を強いられていた。
 義経軍が漸く一の谷背後の山に到着したのは約束の戦闘開始時刻より2
時間も遅れていた。しかし、乾坤一擲の逆落としに成功して平家軍を分断し、
その本陣に火を放って混乱させ、一気に源氏軍の敗勢を立て直したのであった。
 大勢の平家の武者たちが命を落としたが、生き残ったものは辛うじて海上に
逃れた。その後は屋島、壇ノ浦へと平家滅亡の道を歩むのみであった。
逆落としの図。馬の見開いた
目にご注目!
忠度の腕塚。
須磨寺に保存されている
「青葉の笛」
敦盛塚
一の谷の戦破れ 討たれし平家の公達あわれ
 暁寒き 須磨の嵐に 吹かれしはこれか 青葉の笛
源平合戦勇士の碑
両軍の勇士が呉越同舟して祀られている。むべなるかな・・・
父知盛の身代わりに矢面に立って戦死した知章の碑が一際
大きいのは、彼が平家一門の将来を担うべく期待されていて
その死を惜しまれたからかも知れない。
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