洛楽写真日記
(050716実施)
第34回:鳥羽の離宮
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 平安時代以前には、今日、鳥羽離宮跡公園のある名神京都南インターの南側一帯は賀茂川と桂川の合流点で、風光明媚な湖沼地帯であったことがこの俯瞰図から分ります。平安遷都の時には左手に見える「鳥羽作道」を利用して、ここに陸揚げされた建設資材などが突き当たりにある羅生門まで運ばれていったという。
 早くから有力者が別荘を構えていたが、白河天皇が上皇になられた1086年頃に寄進を受け、その後鳥羽上皇がなくなる1156年頃までの間、院政の中心地として賑わった。
 西行も出家する前は北面の武士佐藤義清としてこのあたりに居を構えていたらしい。19歳(1136年)の時の和歌が残されている。
 
君が住む宿の坪をば菊ぞかざるひじりの宮といふべかるらむ


 かの待賢門院璋子さんも白河法皇や鳥羽上皇などに連れ立ってこのあたりの景色を眺めておられたことでしょう。

@鳥羽離宮跡公園

A白河天皇陵

B近衛天皇陵

C鳥羽天皇陵

D無名の塔

E羅生門復元模型

F羅生門跡
一寸紛らわしいのですが問題を整理すれば
72代白河天皇の子が73代堀河天皇。その子が74代鳥羽天皇で彼と待賢門院
璋子の子が75代崇徳と77代後白河、美福門院得子の子が76代近衛である。
 この地を愛した白河と鳥羽の御陵が近くにあるのは当然だが、鳥羽が美福門院
の為に作ったとされる御陵にはその子の近衛が入っており、美福門院は遠く高野
山に葬られている。都の西北花園の地に眠っている待賢門院の亡霊がこの辺りに
出没したのを美福門院は恐れたのであろうか。その待賢門院の供養の為かと思
われる無名の塔婆が残されていた。D
 Fは羅生門跡の現況。
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