洛楽写真日記
第33回:待賢門院璋子と崇徳院の伝説
(050618実施)
 幼くして美貌と聡明さの際立っていた璋子(たまこ、1101〜1145)が生まれたのは、
長く続いた絢爛たる王朝と藤原氏の栄華に翳りがさし始め、武家社会へと変貌して
ゆく曲がり角の時代であった。時は賀茂川の水、双六の賽、山法師以外は思いの
ままになったという白河法皇(1053〜1129)がまだまだお盛んな頃だった。その頃
彼の寵愛していた祇園女御には子が出来ず、女御の強い希望で幼い璋子が養女
に迎えられたのであった。
 この幼子を法皇もまたこよなく溺愛し、長じて17歳になった時、権大納言の娘と
しては異例の扱いで自分の孫である15歳の鳥羽天皇の中宮にしてしまったので
ある。しかも驚くべきことに2年後、法皇が璋子を身籠らせて生まれたのが後の
天皇・悲運の崇徳である。鳥羽天皇は公然の秘密として嫌々ながら崇徳をわが
子として育てたが、璋子との間には6人もの子宝に恵まれ、そのうちの一人が
後の後白河天皇である。
 1123年に4歳の崇徳が即位し、鳥羽が上皇となってから1129年に白河が没する
頃までが彼女の絶頂期であり、1135年頃からは若い美福門院に上皇の寵愛が移
り、法金剛院の増改築に力を入れて1142年に出家、1145年に逝去した。
 従って1156年の保元の乱で上皇となっていた愛児崇徳と源義朝が後白河天皇と
平清盛に破れ、崇徳が讃岐に流され清盛の天下になっていったことは知らない。
平安時代風美人の待賢門院璋子像と、今回ご案内役の現代風美人二本松先生。

@藤原璋子
花園西陵

A法金剛院

B法金剛院本堂

C法金剛院の庭
画像を順次クリックしてください。
@:白河天皇陵や鳥羽天皇陵は遠く離れた鳥羽に有るが、璋子さんはJR花園駅
  近くのここに眠っている。
ABC:彼女が執着した法金剛院の当時の建物は全て現存しない。
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