洛楽写真日記
新撰組
第19回 池田屋事件:040117実施
立命館大学二本松教授のご指導で三回に分けて新撰組の足跡をたどる予定である。
1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航以来、幕府はアメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランスと順次条約を締結し、1859年(安政6)には神奈川、函館、長崎三港を開港した。もはや単純な攘夷論は通用しなくなっていたのだが、国内上下の意見はばらばらで、夷人の殺傷、日本人同士の斬り合い事件があとをたたず、幕府は対応に苦慮していた。
1862年(文久2)皇女和宮降嫁の年、出羽庄内藩出身の尊王攘夷志士清河八郎@の提案を幕府が取り上げ、「浪士隊」を編成し浪士の取締りをすることになった。翌年、将軍の先発隊として上洛し2月23日に壬生村新徳寺Bを本部とした。このとき、近藤勇Aのグループは向かいの八木邸Cに入り、その後、攘夷論の清河が江戸へ帰ったあとも前年末に京都守護職として着任していた会津藩主に願い出て許され「新撰組」と名乗って1865年(元治2)3月に西本願寺に移るまでここを本拠としていたのである。
孝明天皇は強い攘夷論者であったが朝廷内部にも、幕府側にも、有力な藩の中にも攘夷だけでは済まなくなっている事態を認識している人々が増えていた。1863年6月米仏軍の長州砲撃、7月英軍の薩摩砲撃のあと、事態は単純な尊王=攘夷、佐幕=開国という図式は完全に行き詰まっているとの認識で、朝廷内の急進的な攘夷派を退け、朝廷、幕府、雄藩が協力して事態の打開を図ろうとする公武合体派が実権を握る818クーデターが成功した。
その時,会津藩と連携して新撰組が活躍し、これが世に認められた最初であった。 その後も急進的な尊皇攘夷派の志士たちは潜伏して活動を続けていたが、そのうちの一人古高俊太郎が木屋町(D今のしる幸)に潜伏しているところを新撰組が捕縛し、壬生前川邸の蔵Eで拷問にかけた。志士たちが御所に火をかけ天皇を長州に移す計画があり、池田屋Fにて協議していることが判明し、新撰組が急襲して急進的尊皇攘夷派に大打撃を与え一躍その名を洛中に轟かせたのであった。
前後して倒れていった隊士達も多く、壬生の光縁寺Gに葬られている。
第24回 会津の士魂:040619実施
1862年(文久2年)会津藩主松平容保は時の将軍家茂から京都守護職を命ぜられ、幾度か固辞した後、三代将軍家光の異母弟である藩祖保科正之の残した「家訓」に殉じ、藩士千名共々全員が京都を死に場所とする覚悟で12月24日入京した。守護職邸は今の京都府庁、藩邸は京大病院、藩士たちは黒谷の金戒光明寺に本陣を構えた(上図)。京都の治安がたちまち良くなリ、孝明天皇の信頼が大変厚くなったと言われている。
金戒光明寺は徳川家康が都の守りとして知恩院と同じように作った城砦である。小高い場所で見晴らしが良く、守りやすく攻めにくい地形で、敷地が広く千名は収容できる(H、I、J)。 又、奥の会津藩士墓地には370余霊が祭られていて、毎年6月には会津藩主の末裔が参加して慰霊祭が行われているK。
1863年3月、京都守護職預かりとなった近藤、芹沢は黒谷で守護職松平容保に拝謁し、その後の身柄が保証されたが実際の活躍は前述のとおりその年の8月18日に起こった公武合体派の政変、7卿都落ちのときが最初で、晴れて「新撰組」と名乗るようになり、壬生と黒谷の間を情報が行き交い両者の緊密な関係が構築されていった。。
京都守護職屋敷跡は京都府庁になり、わずかに残る碑文が往時を偲ばせているL、M。ずっと後になるが1868年(慶応4)1月に戊辰戦争が始まり、9月には約1ヶ月の攻防戦の末鶴が城は落城し、松平容保は官軍の板垣退助に降伏した。会津藩士3000名は果敢に戦ったが民衆の協力を得られなかったのが敗因かと言われているN、O。
第27回 「誠」の旗の落日 鳥羽伏見の戦い 041016実施
話は前後するが、1866年7月将軍家茂が21歳で逝去し12月に慶喜が15代将軍になり、同じ月に孝明天皇が36歳で崩御、1867年(慶応3)1月、明治天皇が15歳で即位される。同年10月将軍慶喜はついに大政を奉還し家康以来の幕藩体制が崩壊した。 12月8日の夜京都守護職や所司代の部隊が御所から締め出され、王政復古派(岩倉具視、薩摩、長州など:神武創業に戻りあくまで天皇親政)の部隊が各門を固めた後、公武合体派(二条関白、土佐藩主、越前藩主など:天皇の下に徳川家がありその下に有力公家、藩主)との御前会議が小御所で開かれた。きわどい綱引きが続き、一時は公武合体派が優勢な場面もあった。しかし公武合体に理解のあった孝明天皇はなくなられ、明治天皇は王政復古派に握られており、会議から外された徳川家の復権はならずに翌日王政復古の号令が下されたのであった。
その後、公武合体派の強い巻き返しがあり、事態は一進一退を繰り返したが
武力で解決しようとの薩摩藩西郷吉之助の策略に会津藩と新撰組はまんまと
乗せられて伏見に布陣し、1868年1月3日、一発の砲声から戊辰戦争が開始さ
れたのである。それからは江戸開城、近藤勇斬首、彰義隊、東北諸藩との凄惨な戦いを経て翌1869年(明治2)5月五稜郭にて土方歳三の戦死後降伏して戊辰戦争は終結する。
伏見の攻防。左が官軍本陣 御香宮Q、右が幕府軍本陣 伏見奉行所P。死の商人グラバーから新式火砲を入手していた薩長軍は旧式火砲の幕軍を圧倒した。

H黒谷遠望 |

I金戒光明寺
本堂 |
J金戒光明寺
南門 |

K会津藩
殉難者墓地 |

L京都府庁 |

M片隅の碑 |

N会津鶴が城 |

O松平容保公
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幕府軍は現職の幕府老中が藩主である淀城まで後退し、再度伏見へ出撃しては後退を繰り返したが1月5日になって入城を拒否され、逆に追撃してきた官軍が入城し、後は大阪へ壊走するほか無かった。慶喜は大阪では挽回できないと見て船で江戸へ逃げて帰り、残された幕軍将兵もまたたく間に四散して第1ラウンドが終了したのであった。
Rは新撰組隊士たちや会津藩兵たちを遮った濠と石垣。無念の声が聞こえそうであった。Sは松風の騒ぐ中で往時を偲んでいるところ。