洛楽写真日記
第43回:「伊勢物語」の京
(060916実施)
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 物語の主人公とみなされる在原業平は825年、桓武の子平城天皇の皇子阿保親王と
桓武の皇女伊登内親王との間に生まれた。桓武の曾孫世代である。長じて「体貌閑麗、
放縦拘わらず、略才学なし、善く倭歌を作る」といわれ、平城、嵯峨両帝の政権闘争が
繰り広げられる中で藤原一族ともつかず離れず、25歳で従五位、53歳で漸く右近衛
権中将となった。その頃、小野の地に失意の惟喬親王を見舞っている。880年56歳で没。
この業平が若い頃に恋仲となったのが後に文徳帝の子で惟喬親王の弟清和帝の后となる
藤原高子(たかいこ)である。
 文徳帝には藤原一族の期待を担って明子(あきらけいこ)が入内していたが、彼女が
皇子懐妊の願を掛け目出度く清和帝を出産したという言い伝えのあるのが新京極入り口
にある染殿地蔵院である。これが藤原氏が摂政関白を独占するきっかけとなった。
金蓮寺染殿地蔵院
 808年開基、本尊は50年に一度開帳する秘仏で2mの木造裸形の地蔵菩薩。
「染殿」は今も京都御苑の東北隅に残る染殿井が名残を留めている藤原
良房の居宅、染殿第に因んで明子が染殿皇后と呼ばれたことに起因する。
東洞院御池に残る業平邸跡の碑と、京都御苑内迎賓館裏手に残る染殿第跡
月やあらぬ
 昔、東の五条に大后の宮のおはしましける西の対に住む人ありけり。それを本意にはあらで心ざし
ふかかりける人、行きとぶらひけるを、む月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれけり。ありどころは
聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。
 又の年のむ月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひて、行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似る
べくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのとあくるに、泣く泣く帰りにけり。
わが通ひ路の
昔、男ありけり。東の五條わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏み
あけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、度かさなりければ、あるじ聞きつけて、その通い路に、
夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けどもえ逢はで帰りける。さてよめる、
 
人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。
二条の后にしのびてまゐりけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせ給ひけるとぞ。