第36回:尼崎と近松門左衛門 (051015実施 )
 千里金蘭大学片山剛先生のご案内で、近松晩年の精神的背景と尼崎の関わりを勉強した雨の一日でした。
 近松門左衛門(1653〜1724)は福井で武士の子として生まれたが父が浪人し、少年時代に京都へ移住した。公家の家に奉公している間30歳頃から宇治加賀掾や竹本義太夫とのつながりから浄瑠璃作家となり、そののち、坂田藤十郎との縁で40歳過ぎから歌舞伎作者としても活躍するようになった。50歳を過ぎてから大阪に移住し竹本座の座付き作者として沢山の浄瑠璃を書き72歳で没した。
 「士農工商」の時代にランク外の身分になり、役者や太夫の影の存在に甘んじていた近松の胸の奥底はどのようなものであったか・・・尼崎の須佐男神社での妙見信仰に救いを見出していたのでしょうか。
 ほぼ同時代に松尾芭蕉や井原西鶴が活躍していたのも不思議である。

道標

市街地図

S26版1/5万

近松公園

須佐男神社

広済寺

近松墓地

近松墓碑
 塚口駅から暫く、民家が立て込んでいる細い道を歩くが、途中に古い道標があり、昔からの道であることが分る。昭和26年版の地図によれば集落の周りは一面の田んぼであったようで、江戸時代の昔がしのばれる。市が整備した公園があったが雨の土曜日で人影は全くなかった。
 須佐男神社は隣接している広済寺同様当初は妙見宮であったとかで、創建時の発起人の一人が妙見信仰をしていた近松であった。ここで始めて近松と尼崎との接点があったことが理解できたのであった。

近松座像

句碑と片山先生
 近松記念館前にある坐像からは強い意思の持ち主であったことが窺えるが、公民館の壁にはめ込まれていた辞世の歌は

   のこれとは おもふもおろか うづみ火の
          けぬまあだなる くち木がきして


「それにしても作品が後世に残れなどと考えるのもおろかなことだ・・・」
と誠に謙虚なものなのであった。
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