気ままに読書・のんびり読書
     ―好きな本から話題の本までアプローチ

この本読んだ! 7月の楽しみ

7/31『悪者は夜やってくる』マーガレット・マーヒー 作、幾島幸子 訳、岩波書店、2000.05.24、188p 
 読み始めてしばらくすると、話がこんがらがってくる。主人公フォーンビーが物語を書くことになり、その物語の主人公になったスクウィジー・ムートという悪者が現実の世界に現れ、果ては自分で物語をコンピューターで打ち込みはじめる。そこに、フォーンビーの元気な妹と、ムートの過激な妹が現れ話はどんどんエスカレートして兄弟合戦の様相を呈してくる。 読み続けるうちに心配になるのは、物語の終わり方。それはフォーンビーも皆も同じだったようだ。目出度く話が終わったときはほっとするのを感じた。
 ここで注目するのは登場する大人の描き方。自分勝手で、何でも自分に都合のいいように解釈する。大人読者としては苦笑いである。でも、こんなにひどくはないと反論もあったりする。

7/29『かくれ山の冒険』富安陽子 作、PHP研究所、2000.10.25、194P
 富安陽子の描く異世界は、どこにでもありそうで話に引き込まれていく。今回の『かくれ山の冒険』は尚(なお)という男の子が主人公である。猫婦人によって、條ヤの止まっている異世界へと入りこまされる。條ヤの流れのない世界は、かくれ山といい、いろんな時代のいろんな時間とつながっているという。條ヤが止まっている世界はファンタジー作品で目にすることがある。しかし、ここでは「食べないから年を取らない」というルールに支配されている。猫婦人はねずみを食べた食感のとりこになってしまい、このルールから逸脱してしまう。それでも、ねずみを食べる欲求には勝てず、かくれ山に誘い込んだ子どもを猫に変えて、ねずみを捕らせるのである。
 尚は、ねずみにされてしまう前に女の子に助けられて、ねずみの穴へと逃げ込む。それから、一匹のねずみと共に、猫婦人の呪いを解くため天狗や鬼の宝を手に入れようと奔走する。剣を手にしてもふるえている。男の子が剣と関わるときはファンタジーの世界では英雄になることが多い。ところが、尚自身は引っ込み思案でこわくて仕方がない。そんな尚が最後に心の中で叫んだ言葉は「おかあさんたすけて」である。助けに飛び込んできたのはお母さんではなく、少女であったが、この少女タは、尚の母親であることが最後に解き明かされる。
 異世界の中で、母親や父親と交流し、その中から自分という存在を確かに見つめていくという設定は、最近出た『雨ふり花さいた』(末吉暁子)にも見られた。また、男の子が「お母さん!」と叫ぶ場面も女の子に比べると多いような気がする。成長の過程で、母親との関わりは格別なものがあるというのであろう。
 テーマは重いが、さらっと一息に読める展開は「あらこれでおわり?」とも受け止められるが、それが負担にならず読み進める読者もいるにちがいない。

7/26『メールの中のあいつ』赤羽じゅんこ 作、長谷川集平 絵、文研出版、2000.12.15、168P 
 メール友だちに自分を紹介したとき、「バスケ部のエースでクラスの人気者」と書き込んでしまった翔太。現実は不登校になりかけの、うじうじした「仙人」。「メールの中だけでいいんだ。ぼくは、ちがうぼくでいたいんだ。」という気持は誰でも持つだろう。特に本当の自分を表に出さなくてすむメールでのやりとりは、一つ間違えば、バーチャルな世界を創りあげてしまう。仮面を付けてやりとりをしていたはずなのに、相手が会いたいと送ってきたときから翔太に変化が起こりはじめる。
 「ぼく」はメールの中の「ぼく」を「あいつ」と感じている。「あいつ」なんだけど、それを相閧ノ正直に言えない。メールのやりとりの翌し穴がここにある。しかし、この翌し穴は別の意味では、本当の自分をさらけ出さなくてもいいという心の安らぎともいえる。気安さと偽りの両面があることをこれからのIT時代には認識しておくことも大切だろう。
 しかし、この物語の興味は、メールを素材にしたというだけではなく、自分を表現する手段として、メールと学級新聞という二つの媒体を用意したことにあるといえる。正直な気持の吐露として学級新聞を登場させているのだ。メールでうそをついていることを気にしていた翔太が新聞委員の仕事を通して本当の自分をさらけ出すことへの抵抗感をなくしていくのである。「そのままの自分」をメールや学級新聞でどう表現していくか。そして、生の人間関係の中でこそ、そのままの自分でいいんだというメッセージが聞こえてくる。

7/25
『えんの松原』
伊藤遊 作、太田大八 絵、福音館書店、2001年、405P
久々に伊藤遊の作品が出版されるとの情報を得て、いさんで手に入れ読み始めた。
 前作の『鬼の橋』は鬼、小野篁という歴史好きにはたまらない配役だったが、今回も怨霊、東宮皇子、夜烏と魅力たっぷりである。今回活躍する子どもは男の子なのに事情があって女の子の恰好をして、内裏で働いている「音羽」である。
 怨霊が皇子にとりついて命を奪おうとする、その時怨霊は「死んだものの魂を呼び寄せるのは、生きているものの思いの強さではないか。」と言い放つ。怨霊と生きているものは、お互いに思いを掛け合っているというとらえ方の中に、現在の世の中の冷たさ、きっと、怨霊がいいていけない無関心さにたいする疑問符が見える。音羽と皇子は怨霊のいない世の中について考えを巡らす。その世の中を「今よりもずっと恐ろしい世の中だ」と音羽は見通す。怨霊を抱きしめることで、皇子は自由になる。
 これを読んで、陰陽師の阿部晴明の話を思い出した。怨霊や鬼と対峙するとき、晴明は悲しみを身のうちに抱きしめていたように思えた。怨霊が現れ、陰陽師が活躍する彼の時代、えんの松原をそのままの姿で踏み込まなかった「おもしろい」時代であったのだろう。今、その時に何故かしら惹かれるのは、恐ろしいもの悲しいものにひかれる人の本能なのかもしれない。読み終わって、『鬼の橋』をもう一度読みたくなった。

7/24 『だんだら山のバク博士』富安陽子作、高谷まち子絵、理論ミ、1997、238p
 夢とうつつの境目に研究所がある夢研究家のバク博士。晃はこのバク博士の助手におさまり、ふとした弾みで鏡の中から逃げ出した「眠り鬼」を捕まえることになりました。食べればぶたになるというホットケーキの秘密に気づき、眠り鬼が化けたお母さんのとすり替えたというとっさの機転が良かった。眠り鬼がぶたにされてしまうのがおもしろい。
 晃がヒーローっぽくないというか、 危険に出会うとお尻の引けてしまう男の子であるのに共感がもてる。自分の得意なことで、不思議の世界での難問を見事かいけつするラストも温かさを感じる。