『水底の棺』。このタイトルに出会って、まず最初に思い浮かんだイメージは明るいものではない。何かにとりつかれたというか、怨念がこもったというか、人間の情の濃さや暗さを想像した。というのも、かつて読んだ陰陽師安部晴明の物語の影響が強かったからだ。そこには、湖に石棺を沈めて呪いを封じ込めようとした人の身勝手さが色濃く描かれていたからだ。封じ込められたのは、身代わりにされた土蜘蛛一族の娘。その恨みが身代わりにした貴族を死に至らしめようとしたのだ。だからきっと、この棺には娘が生け贄として封じられ、それが何らかの現象を生み出していくのだろうと勝手に想像したわけだ。
 その期待通り、狭山池の補修工事を巡る数々の災難を沈めるには、小松が引き受けねばならなかった厳しさの仕上げとして、池がゆうを要求しそうであった。結局、池はゆうを直接要求することはなかったが、池の元を離れざるを得なかった小松からすれば、池がゆうを引き留めたことになる。池という自然がもつ、人間がどうしようもない力を思い知らされる。池に挑み続けることの厳しさが、第一章の前半で、小松を狭山の池から、そしてゆうからも遠ざける。
 そして、泥にまみれた池を離れた小松とともに、物語も池から離れて京の都に移ってしまう。ここからは、小松の目を通して見た歴史のうねりと、人の生き様が小松の人生の横糸となって織り込まれてくる。
 しかし、その横糸は何か目的を持って絡んでくるわけではなかった。まして、狭山の池の補修工事のことなどとはほど遠いものだ。寺に向かったり、盗人の手下になったり、高麗の焼き物の店を手伝ったり、大仏殿復興の工事に携わったり……。小松はどこに向かって駆けていこうとしているのだろうか。
 その答えは、第四章という、とてつもなく遠くにあった。小松は狭山の地へと戻るのである。その契機はゆうの死である。死に際してゆうが残した「在所で百姓をしたい」の言葉だ。この言葉の元を探れば、死産、ゆうとの再会、サスケとの再会、蓮空や恵海との出会い、老婆との出会い、サスケとの出会い、重源上人との出会い、人買いからの脱出と人と人とのつながりがたぐり寄せられる。すべての出会いが、小松を狭山池へともう一度誘ったのである。その間の狭山池の補修を直接描かず、運命とも言える重源、蓮空、恵海との出会い、父親の子を宿したゆうとの残酷な出会いをしなければならない小松、十数年にわたる年月を丁寧に語りかける。池を描かず、池から離れた小松を描くことで、いつもどこかに池を意識させられた。
 「棺」はやっと最後に登場する。そこから工事完成までは一気だ。「過去にとらわれずに前に進め」と背を押された小松には、残されたページで十分なのだろう。前に進むための「棺」の役割は、消極的な生け贄ではなく、積極的な役割を担うことであった。この、最初の予想を覆す結末が新鮮だった。(もっとも、史実に触発されてというのだから、読む前から知っていた読者にはこの感動はないのかもしれない。)
 すべてが収まっても小松は駆けるのをやめない。「自分の役目」が棺には終わらないことを知ったのだ。命の終焉である棺を踏み越えて、新たな門出を迎えた小松。一体どこまで駆けていくのだろうかと、力強さと少し羨望を覚えた。