現代児童文学としての『注文の多い料理店』―1983年以降のイラストレーションが語る作品世界―
 はじめに
 宮沢賢治が生前に出版した唯一の童話集である『イーハトブ童話注文の多い料理店』は、1924年12月1日、菊池武雄の挿画装幀で発行されました。資料@のように、この童話集には「序」および「どんぐりと山猫」から「鹿踊りのはじまり」まで「注文の多い料理店」を含む九作品が収められています。
 賢治没後五〇年、著作権の保存期間が過ぎた一九八三年以降、賢治童話が数多く出版されていますが、童話集と同じ「注文の多い料理店」を標題にした単行本は、管見で資料Cにまとめたように十六種類であり、他の作品に比べて最も多く出版されています。絵本やさし絵の多い童話集では、表紙・挿絵というイラストレーション(以下イラスト)も多種多様であり、表紙に何を描くか、紳士の服装はどうなるかという視点からながめると、描き出される作品世界もただ一つとはいえません。複数のイラストを持つことで、それぞれの『注文の多い料理店』の作品世界が語りかえるものも違っていると考えられます。
 では、複数のイラストをもつ『注文の多い料理店』はどのように受容されているのでしょうか。
 そこで、資料Bの賢治自身がつけた解説「放恣な階級へのやむにやまれぬ反感」は今の子どもにどう受け継がれているのか、子ども読者はどの『注文の多い料理店』の作品世界を支持するのかをイラストから分析し、そこから現代児童文学としての『注文の多い料理店』の受容について考察します。
 
子ども読者が支持するイラストレーションが語る作品世界 
 さて、子ども読者は「注文の多い料理店」のいろんな種類のイラストの何に惹かれ何を想像するのか。まず、子ども読者のイラストレへの反応を調べ何が魅力なのかを調べるため、絵本を中心に十冊の『注文の多い料理店』を選び、アンケート調査を実施しました。資料Dをご覧下さい。子ども読者の支持を得たそれぞれの単行本のイラストを「表紙に何が描かれているか」と「どこまで脱いだように描かれているか」の二点から、『注文の多い料理店』イラストが語る作品世界の分析を試みました。
 アンケートに用いた単行本の絵画者は、@飯野和好、Aスズキコージ、B島田睦子、C三浦幸子、D池田浩彰、E本橋英正、F小林敏也、G長谷川知子、H佐藤国男、I宮沢賢治です。
 【質問@】の結果をまとめたのがグラフ@です。三年生五年生ともEGが24%、52%と多く支持されました。
 では、G長谷川知子E本橋英正の表紙からどのようなストーリーを想像し支持しているのでしょうか。
 G長谷川知子に関しては、両学年とも「食べられた」と「食べられそうになった」と物語の結末が二分しています。この「食べられる」「食べられそう」という発想は、山猫(子ども読者は山猫ではなく猫と捉えていた)がカトラリーを手にし、目の前の皿に供された人間を配置したことから生まれていることは言うまでもありません。つまり、長谷川知子は食事をする山猫を描いたことで、『注文の多い料理店』は人間がいつもと違う「食」の立場に立たされることを最初から読者に示唆することになったといえます。同じように表紙に山猫を描いたC三浦幸子のイラストからは、この「食」の問題は感じ取れません。(OHPもどす)長谷川自身資料Fのように「今までの賢治童話についた絵と違う自分らしいもの」を描いたと述べています。それが、ナイフとフォークを持った迫力ある三毛猫を巨大化したような山猫、皿に盛られた小さな人間というイラストを創造したといえます。「食」の逆転という重大なテーマを、擬人化した山猫をあらわに描くことでユーモアを交えて語りかけてくる。それが子どもに受け入れられているといえます。
 一方、E本橋英正の表紙は楽しいイメージと怖いイメージの両方を子どもに与えている。「料理が評判」「かわいい店」「ねこが大活躍」といった明るい内容をイメージしたものと、「見るからに変な感じ」と怖さを感じたものがあります。この怖さは、料理店の前面に描かれた、紫の木から受けた印象でしょう。紫については、色彩心理学者の千々岩秀明が『色を心で視る』のなかで、「嫉妬」「怨恨」を連想させる色であると述べています。つまり、怖さはこの木の奇妙にねじれた枝が紫色であることに依っているといえます。料理店そのものは、看板、ドアと暖色系の色を使った温かい感じ、バックや瓦のオレンジ系の色は「笑い」「愛情」を連想させる色であることも、楽しいイメージの一因となっているでしょう。本橋の表紙は、暖色系と紫を配し、料理店と木を細かく描いたことで予想されるストーリーを画一化させず、楽しさと怖さとそれぞれのストーリーを読者が自由に想像できるといえます。まして、この表紙では料理店の中で本当は何が起こるかはしっかりと封印されたままになっている。
 では、朗読を聞くことで、支持されるイラストと作品世界の関係はどうなるでしょうか。資料3頁のグラフAがその結果です。【質問@】で多かったE本橋英正とG長谷川知子について分析してみます。
 朗読後もE本橋英正G長谷川知子を支持する理由として、表紙の印象から一転して、「犬が飛び込む」とか「扉に描いてあるのが同じ」「紙くずのようになった」「ふるえて何もできないでいる」というように作品世界を想像する鍵となる記述とイラストを結びつけたものになっています。また、新たにGを選んだ理由として「舌なめずり」を挙げた子は、「食」の立場の逆転を端的に表現したイラストをその理由にしています。
 また【質問@】に比べG長谷川知子は支持が減りました。朗読によって料理店という場の中で起こったことに惹かれた子どもはE本橋英正を選び、二人の紳士の様子に興味を持った子どもはD池田浩彰を、山猫に魅力を感じた子はC三浦幸子を選んでいます。このようにG長谷川知子から分散したことは、「食」の立場の逆転そのものよりも、立場の逆転に至るまでのプロセスや、土壇場での紳士の恐怖心や、山奥の料理店という異界の怖ろしさに子ども読者が反応していると考えられます。
 この恐怖心ということに子どもが惹かれていることは、朗読後に興味を持った子どもが増えたAスズキコージを選んだ理由からも裏付けられます。子ども達が「どれだけ怖かったか」「怖くて迫力があった」「ちょっと不気味」と感じた「注文の多い料理店」は、スズキコージのイラストとの相乗効果によってより怖さ不気味さが強調された作品世界として語りかけてくるのです。
 今回のアンケートによって、イラストにおいて、「食」の逆転をあからさまにするか、怖さを描き出すかで、現代児童文学としての「注文の多い料理店」は違った作品世界を見せてくることが明らかになったといえるのではないでしょうか。本来の作者が文のみで描き出した作品世界にイラストをつけることによって、つまり絵本や絵童話の形態をとることで作品はイラストの影響下にはいります。そして、子ども読者は、文によって想像した世界を増長してくれるイラストや感覚的に合ったイラストに惹かれます。そのことによって一層作品世界のイメージが深まるという相乗効果を生みだしています。長谷川知子のイラストは「食」の逆転をユーモアを交えて表現し、一方本橋英正やスズキコージは、普通の世界とは違った異世界の怖ろしさを語りかけてくるといえるでしょう。

イラストレーションによる独自の表現―パンツ姿の紳士
 それぞれの絵画者によって、描法は違っていても「表紙描かれたもの」「紳士の服装」「ラストの服装」について類別できます。そこで、作品世界を想像させる『注文の多い料理店』におけるイラストの類別をまとめたものが資料Eです。
 この中で、文には描かれていないイラストがあります。それが、二人の紳士のパンツ姿です。「注文の多い料理店」が子どもを引きつけるのは、扉に書かれた文字及び扉をくぐっていくという行為にあるでしょう。そこで、七つの扉の要求に応じて紳士はどこまで服を脱いでいくか、パンツ姿は何を語るのか問題とします。
 服装や装飾品に関する要求は、四つ目の扉以降「どうか帽子と外套と靴をおとりください」。その裏に「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、ことにとがったものは、みんなここにおいて下さい。」「壺の中のクリームのを顔や手足にすっかり塗って下さい」である。これらの要求に対して、二人の紳士はその通りにし、そのイラストはどの絵本・童話集でも文に即しています。そして、その恰好で「二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていました」のイラストが「パンツのみ」「シャツとズボン」の二種類に分かれています。
 パンツのみは、@飯野和好、Aスズキコージ、C三浦幸子、G長谷川知子、H佐藤国男であり、シャツとズボンは、B島田睦子、D池田浩彰E本橋英正である。
 なぜ、<パンツのみ>か<シャツとズボン>なのかを、「注文の多い料理店」の作品研究を手がかりにして『注文の多い料理店』がもつテーマとイラストとの関わりを脱ぐという行為から考えてみます。
 1983年までの作品研究には、資料Gにあげたものがあります。
 60年代から80年代は、高度成長からバブル景気へと日本的なものよりも西洋的なものを追求する日本へと大きく変わり、都市化によって、自然が破壊され、そこに伝わってきた様々な文化、習慣が失われてきたともいえます。こういった時代背景の中で「注文の多い料理店」は自然や民話を考える作品として捉えられ、一方で、宮沢賢治自身の作品解説にあるように、「都会文明と放恣な階級に対するやむにやまれない反感」であることを伝えたとする作品研究が入り交じっています。イラストは著作権の制限の中での視覚化ですが、資料Hをご覧下さい。これらの表紙は、長谷川知子や佐藤国男も見られる「食」の逆転を想像させる表紙ではありません。
 そして、80年代から90年代のに起こった、バブル景気、そして、バブルの崩壊といった社会背景の中で作品研究も違った視点でされるようになっていまする。資料Iをご覧下さい。また、童話集や作品集である『注文の多い料理店』に収められた「注文の多い料理店」の作品解説では、資料Jのようにブラックユーモア、スリラー的という捉え方と、都会文明への反感逆襲という二つの流れが指摘できます。
 このように作品研究の流れを見ていくと、現在児童文学として『注文の多い料理店』が一つの面だけでなく時代背景と共に複数の面を持つようになってきたことが明らかです。
 その中で、脱ぐという行為は何を意味するのでしょうか。
 賢治は服装に高い関心を持っていたようです。賢治にとって、靴を履き、外套をまとう階級は、農民にとっては対照的な存在を意味し、靴を履き外套をまとった人間は、金持ちの象徴です。その外套や靴を脱ぐことは、その地位から離脱していくことを意味します。「パンツになる」「シャツとズボンである」という二種類の結末は前者が徹底的な剥奪を意味し、後者は徹底的な剥奪を目的とはしていないと考えられます。徹底的な剥奪は、紳士の属している都会文明への批判である。そのことをパンツ姿になる飯野和好のイラストから分析します。資料Kをご覧下さい。
 新鮮な感覚で編集したとされる飯野和好の表紙は、気取った紳士が描かれています。表紙ではいかにも金持ちである二はの自信満々な様子ですが。この紳士がパンツ一枚でふるえている場面になること、まるで別人のようにに顔色も悪く、勢いの良さは微塵も見られません。立場が見事に入れ替わってしまったことをこのイラストは物語ります。二人の紳士は何もかもなくして再生の道を歩まねばならない。つまり、どんでん返しのおもしろさを語ると捉えることが出来ます。また、「食」から見ると、食べるためには裸の方が都合がいいのです。長谷川知子は表紙もラストもパンツのみの紳士になって、立場の逆転を最初から強調しているととれます。
 しかし、このパンツ姿は、もう一方で不自然さを語りかけてきます。何故、扉に書いていないシャツやズボンまで脱いでしまったかということである。だんだんと自らの状況に恐怖を覚えてきた紳士が、パンツ姿になってしまうことで、おもしろさを感じながらも子ども読者は文章と違うという疑問を持っています。それは、朗読後の選書においてD池田浩彰やE本橋英正を選んだ理由からもわかります。「話もぴったり」「イメージがにていた」ということは、パンツ姿へ同調しきれないことを意味します。そうなると、パンツ姿はどんでん返しの滑稽さを強調するのみのイラストと受け止められます。
 表紙において怖さを印象づけたスズキコージは、ラストの場面で、パンツ姿の紳士を描き、その硬直した表情、ダークトーンでまとめられたひっかき絵によって、笑いと同時に怖さを感じさせています。
 つまり、ラストでパンツになるイラストは、本文では所属している都会文明への批判を服を脱ぐことで表現しているにもかかわらず、言葉を自分本位に取り違えた二人の紳士の滑稽さ、裸になればふるえるしかない見せかけの気取りの破綻をおもしろく描いた作品世界を物語ることになると考えられます。
 一方のシャツとズボン姿はどうでしょうか。
 シャツとズボンを身につけているにも関わらず、ぶるぶる震えていることは、それほどこの二人が経験したことが恐ろしかったことを伝えてきます。それは、掟を破った罰、異界に足を踏み入れてしまった報いといった怖さを経験したからといえる。バブルに沸き立つ社会への批判は、自然と人間との関係は支配・被支配のものではないことをふるえる紳士の姿を借りて視覚化したといえます。資料Oの清水正が述べているように、どんでん返しにのみ目を奪われるのではなく、子ども読者が最初に感じた「怖さ」を語りかけてくるのがこれらのイラストが産み出す作品世界であるといえるでしょう。

島田睦子の絵本
  本文に即したイラストが描かれ、重版数40刷りと「注文の多い料理店」の中では最も多いにも関わらず、子ども読者の支持をあまり得ないイラストがあります。
 1984に偕成社より出版されたB島田睦子の絵本です。
 木版画で創作されたイラストは、構想より十年がかりで創りあげられた力作である。作業の細かさや色使いの妙は確かに芸術的です。表紙に描かれたモザイク画面の一つ一つから、山の中、クリーム、ご馳走、時計、素足、山猫の目、菜っぱの載った皿と作品世界が呼び起こすキーワードが配されてまする。また、表表紙と裏表紙が対照になっており、「注文の多い料理店」の標題が鏡文字になることで、「注文」の意味が普段とは反対になることを暗示するという示唆に富んだ表紙になっています。
 しかし、子ども読者はこのイラストをわかりにくいと判断しました。
 これは、絵本に対する子どもと大人の受け取り方の違いにもよっています。大人はストーリーから離れ、絵そのものの芸術性を楽しむことも出来ます。しかし、子どもはストーリーとイラストを切り離して楽しむことはあまりしません。
 重版を支えているのは子ども読者ではなく大人読者でしょう。子どもに行ったアンケート調査を小学校の国語教育担当者四〇人を対象に行ったところ、B島田睦子が四四パーセント、C三浦幸子が二〇パーセントと支持され、子ども読者が選んだE本橋英正は0パーセントであったことからも裏付けられます。
 このイラストに対する受け止め方の違いは、イラストが語る作品世界の受容の違いになるといえよう。島田睦子のイラストによって『注文の多い料理店』を読む読者は、そこに描かれたイラストから、本橋英正やスズキコージの描く怖さや、長谷川知子の描く滑稽さを読みとるのではない。何を読みとるかは島田の絵本の最後のページのイラストに凝縮されているといえます。ここでは、二人の紳士が都会に戻り、背広を着て仕事をし、レインコートを着て傘を差して人混みを歩く姿が描かれている。これだけとれば、料理店での体験以前と同じことであろう。しかし、二人の紳士の顔は木目さながらに皺の言った顔なのです。本橋英正もしわくちゃの顔を描いていますが、それは顔だけであり体も描かれていません。しわくちゃになって都会へ帰ることよりも、山奥の料理店での恐ろしい体験に重きを置いているといえます。先に述べましたが、子ども読者は無事に二人が帰ることと同時に、食べられてしまうことを想像してまる。子ども読者には、しわくちゃの顔で都会へ帰ることよりも、そこでの体験の方が重要だといえます。
 無事に返すことは、一見甘いようにも思えますが、島田の描く顔で都会に戻り、いつも通りに働かねばならないとしたら、そのことにより恐怖を覚えるのは大人でしょう。
 返すけれども貌は皺だらけ、これこそ、賢治が解説した「放恣な階級へのやむにやまれぬ反感」であるといえます。山の中で抹殺することなく、しわくちゃの顔で都会へ返すことで、より強烈な反感を二人に覚えさせることになっているからです。島田のイラストは、しわくちゃな顔をした人間が都会の中で増えているのではないか、という1980年代以降の物質社会への批判を感じ取らせるのです。 

  『注文の多い料理店』の受容
 以上述べてきたように、イラストレーションの語る『注文の多い料理店』の作品世界は時代の流れと共に、言葉遊びに通じるおもしろさ、立場の逆転のおもしろさや怖ろしさ、異世界の怖ろしさ、自然破壊への憤り、西洋文明への批判といったもともと賢治が織り込んでいた様々な面をそれぞれの「注文の多い料理店」標題の本がイラストの力を借りて読者に語りかけているといえます。
 『注文の多い料理店』の魅力は何か。
 この視点に立ち戻ったとき、、時代の流れに何の違和感もなく様々なイラストレーションを産み出す文章の魅力、資料Nでの高橋康雄が指摘する「今日に通じる比喩の力」だといえます。それは子ども読者が最初に感じる立場の逆転のおもしろさと、奥深い森の料理店で引き起こされることへの怖さ、大人が感じる社会批判とそれぞれの立場で作品を受容できる魅力だといえます。そして、今その比喩の力は、読者によってさまざまな作品世界を様々なイラストによって提示することに結びついています。
 『注文の多い料理店』は複数のイラストをもつことで、受容も違っている。そのなかで、児童期の子どものアニメイトされた生活の中で『注文の多い料理店』が何を語るかを考えるとき、イラストを通してみる世界が文章のみの世界より影響力があります。ことば遊びのおもしろさや、自分本位の解釈で都合よく事を進めようとする二人の紳士についてはどの『注文の多い料理店』でも同じようにイメージできる。しかし、全体の雰囲気や何に重きを置いて読むのかという作品の受容はイラストの影響を受けるでしょう。
 その中でも、アンケート調査でみられたように、子どもが怖いと感じる世界をイラストが物語ることが現代児童文学としての『注文の多い料理店』の意味ではないかと考えます。
 賢治自身による「糧に乏しい村の子どもたちが都会文明と放恣な階級に対する止むに止まれない反感」は農村と都会との対立という構図が子どもの世界から見えなくなった今、その批判を環境問題に置き換え、『注文の多い料理店』をエコロジー童話の嚆矢と受け止める書評もあります。エコロジーの旗手として山猫を破壊者として紳士を描くのでしょうか。それにしては、山猫の親分はいかにも自分勝手であるし、紳士は思慮が足りない。
 また、ここ数年、言葉のユーモアという面を強調し、最後のどんでん返しを楽しむという作品世界をイラストも描いているといえる。けれども「怖いけれども引き寄せられる」この感覚を伝えていくことも、『注文の多い料理店』のイラストレーションに求められることであり、不気味さ恐ろしさを作品世界として視覚化され続けることも現代児童文学としての『注文の多い料理店』における大切な世界だと考えます。
 また、子ども読者がイラストと共に受容する作品世界は、大人の受容するそれとは違う。言い換えれば、『注文の多い料理店』は子どもから大人まで楽しめる賢治童話であるが、イラストによってそれぞれの楽しみ方が違ってきます。
 これから先、『注文の多い料理店』は時代を超えて読み継がれていくでしょう。賢治が76年前に創りあげた作品世界は、社会批判、都会文明への反感、消費社会批判、環境問題への提言、自然破壊への警鐘等々、今日的な課題にそのテーマを置きかえて語りかけてくる。そうではあるが、『注文の多い料理店』のイラストを通して作品をどう受容するかにも今後視野を向け続けることも必要であると考えます。